9-16 記憶の齟齬
「どこ、ここ……」
夢じゃないのはわかってる。妙に見覚えがあるのも、その名前が自然と口から出たことから記憶を失う前来たことがある場所なのもなんとなくわかっている。
ただ、それでもこう聞かずにはいられなかった。
ここは、どこなんだと。
「……どうしよ」
遭難……とはまた違う気がするけど、遭難した場合はあまり動かないことが推奨されてた気がする。
動き回ると捜索隊が探さなきゃいけない範囲が広がって発見確率がさがることが理由だったはずだ。
それに、ここが本当に迷宮なら魔物がいるはずだ。
あまり動き回って見つかりでもしたら今の私じゃひとたまりも──いや、そもそもあまり動かない方がいいっていうのは捜索隊がいる前提で、ある程度どこにいるかアテがあることが前提の話だ。
なら捜索隊かいるかもわからない今ここに留まることに固執する必要はないのかもしれない。
そもそも──
「グルルルゥ……」
低い唸り声が、聞こえてくる。
どこからともなく、この薄暗くて無機質で冷たい空間に、殺意に満ちた音が響く。
「っ……《空間把握》」
最悪……不慣れだけど仕方ない。頭痛くらいは許容するしかない。
「ぐ……」
痛い……やっぱり慣れないな、これ。
でもその代わりに声の主の居場所が分かった。さっさと離れよう。
「……」
これで対応はあってるのか、動いてるのはバレてないのか、これからどうしようか、いろんな不安が渦巻いては頭痛を際立たせる。
というか気がついたときからあったけど《空間把握》を使った弊害とは別でずっと頭痛がある。
何か大きなものが頭の中にずっとあるような、そんな得たいの知れない頭痛がずっとある。
「──っ、近づいてきてる……」
まずい……さっきの魔物がこっちに近づいてきてる。
まっすぐ、こっちに──
「グルルルゥ……」
「……黒迷犬?」
黒い一匹の犬が、私の前に立っていた。
こいつがいるってことはここは第一層……なら無事に脱出できる可能性も──……待って、なんで私はこいつの名前がわかった?なんで第一層ってわかった?
……思い出しかけてる?さっきの迷宮ってわかった事といい全部じゃないけど記憶が──いや、それよりも今はこの黒迷犬を倒すことが──倒す?なんで倒す発想になった?今の私じゃこいつに勝てるはず──それより刀を──刀?刀って鞄の中の──
「ぐ、うぅっ……!」
思考が纏まらない。違う人間が二人頭の中にいるみたいに別々の思考が迸っては噛み合わず無数に分裂していく。
「グウウゥゥ、アァァッ!」
「うる、さいっ!【《魔弾銃撃・氷結鋭弾》】!」
咄嗟に攻撃用の魔術を放つ。
しかし、これまで経験したことのない手応えだった。
「ち、がう……これじゃない……!」
構築されたのは銃弾ではなく、一振の剣だった。
知らない。こんな魔術知らない……!
「っ!」
ガキン、鈍い音が響く。いつの間にか犬が私に飛びかかってきていた。
しかしそれも謎の障壁によって阻まれた。
私の着てるコートから魔力が出てる。
知らない場所、知らない記憶、知らない人格、知らない魔術、知らない服。
「嫌……もう嫌っ!」
知らない私と私との齟齬が、合わない波長が、頭痛を加速させる。
その間も犬は私に飛び掛り、知らない機能によって伏せがれている。
「っ!」
走り出した。怖い、嫌だ、もう逃げ出したい。
そんな思いが、形になった。形になってしまった。
竦む足で走り出す。ガキンと鈍い音を響かせながら薄暗い迷宮の中を走っていく。
右も左もわからなくなりながら、がむしゃらに走っていく。
いろんなことを考えてたけど、もうそんなこと知らない。
嫌だ。もうこんなところにいたくない。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ──」
抵抗を試みては失敗し、何本も知らない剣を作っては壊される。
頭の中にある痛みと不快感は消えず、痛みは増すばかりで知らない記憶が増えていく。
見たことの無い情報が流れ込んできては、私との齟齬が広がっていく。
「うぅ……あぁっ……!」
痛い。知らない。見たこともない。聞いたこともない。そんな記憶が、逆流してくる。
逆流?違うこれはもとの記憶を取り戻してるだけだ。
違う。知らない記憶が私を押し潰してきてるんだ。早く何とかしないと私が消える。
でもこれは──
取り留めもない、纏まりもない、誰のものかも分からない思考が無数に分裂しては駆け回り、脳みその容量を食い潰していく。
目の前の危機なんて目にも入らない。逃げることも忘れてうずくまって動けなくなる。
知らない私との思考が、噛み合わない記憶が、昔の私と今の私との大きな齟齬が、大きな摩擦を生んでは互いに傷つけあっている。
「グルルルゥゥ……」
「うる、さい!」
力任せに魔術を放つ。けど、それも知らない魔術だ。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い──
「──レイ、なにやってるんだ」
「誰──マルク?」
知らないはずの人間の名前だ。なのに、自然と口から出た。
誰だ?この人はいったい──でも、これだけはわかる。
この人は大事な人だ。
それを認識した瞬間、私じゃない私との差が埋まった気がした。
「あ──」
「任せろ」
引き連れてきていた黒迷犬を一瞬で倒してしまった。
今はその背中が、どこか懐かしかった。