9-4 掠れた記憶
コンコンコン。三回、ノックが響く。
「入るよ~」
「……どうぞ」
部屋に響いた声に、特になにも考えず返事を返す。
「ただいま~」
「……おかえり?」
「うん、ただいま」
ぎこちない私と、当たり前の風景のように返事をするヒナ。今この部屋には、どこかズレたこの二人しかいない。
「お腹空いたでしょ?酒場でお粥貰ってきたよ」
「ありがとう……」
お粥の入った器を受けとる。
実のところ、かなり空腹だった。
この部屋に帰ってきて少し落ち着いたのかはわからないけど、帰ってきたタイミングからずっとお腹が減ってた。
「……おいしい」
正直味はよく分からない。けど、丁寧に、ちゃんと食べる人のことを考えて作られた物ってことはなんとなく分かる。
「良かった。二週間何も食べられてなかったからゆっくりね」
「うん」
ヒナの話を聞きながらお粥を胃袋に流し込んでいく。
……そういえば、覚えてないけど二週間の間起きてることはあったんだよね?
何も食べられないくらい、意識もないくらいの状態になるって何があったんだろ……
……やっぱり、思い出せないってちょっと気持ち悪いな。
「……あ」
食べ終わり、スプーンを置こうとした時手を滑らせて落としてしまった。
どうにも触ったり触られたときの感覚が鈍い。全身が痺れてるような、ゴムで覆われているような、なんとも言えない感触だ。
「……ん?」
落としたスプーンを、拾おうとした時だった。
窓の外の雪が動いてる。風で流されてるとか、舞い上がってるとか、そういうのじゃない。
すでに地面に落ちた雪がひとりでに動いて、丸まって、大きく──
「あ~!また出来てるじゃん!ちょっと窓開けるよ」
「う、うん……」
そう言うとヒナは窓を開け、その雪の塊を焼いて溶かしてしまう。
「これね、最近増えてきたんだよ。雪だけじゃなくて水とか土も勝手に動き出すんだってさ。変な魔力の流れがあるから願望機関連だと思うけど……あ、ごめんごめん気にしないで」
「うん……」
願望機、その言葉がどこか引っ掛かる。
大事なことだったような、そうじゃないような。
忘れようとしても胸の奥に残る。後味が悪い。夢に見そうだ。
「……」
「どうしたの?お腹いっぱい?」
「え、あ、うん……ごちそうさま」
「じゃあ食器返してくるね」
「ありがとう……」
器をスプーンを返しにまたヒナは出ていってしまった。
そしてまた、部屋が静かになる。
外に出る気にはなれなかった。なんとなく体が怠いし、それより気になることもあった。
なんで私の味覚や触覚は鈍かったり、無かったりするんだろう?
そもそも最初から無かったなら違和感もないはずだし、おいしいや痛いといった感覚という概念すら無いはずだ。
けど知識、概念としては私のなかに存在してる。つまり記憶を失う前の私にはそう言った感覚は正常にあったはずなんだ。
記憶を失ったことで無くした?
それとも記憶を失う前にその感覚を失う何かがあった?
後者ならかなり重大な事件じゃないか?ならヒナは知ってる?
……分からない。何もかも、推測するにしてもその材料は忘れてるし、まだ上手く距離感も掴めてない。
何かをするにしても何からはじめて良いか分からない。
何をするにしてもそのスキルがない。
「……どうするべきかなぁ」
いつの間にか、独白が零れ落ちていた。
積極的に思い出したいかと聞かれると、多分そうじゃない。
まわりの人間は自分のことを知ってるのに、自分自身が知らないというのが気持ち悪くて、心配をかけたくないから忘れていたくないだけだ。
けど、そうじゃない気もする。
私には、何かやらなきゃいけないことが──
「入るよ~」
女の子──ヒナの声が響く。
それと同時に扉が開き、ヒナと、もう一人入ってくる。
「起きたって来て戻ってきたが……もう大丈夫なのか?」
「ええっと……ベイン?」
「お、よく分かったな。記憶がないって聞いてたからもしかしたらと思ったが、良かった」
掠れた記憶を頼りに名前を呼ぶ。
思い出せない仲間の姿が、そこにはあった。