余命10年の父 後編
前編から続く
母はそのまま付き添い、私は幼い息子の世話があるから一旦自宅に戻った。
心がどこにあるかわからない、何を考えていいかわからない、茫然とした緩慢な時間が続く。
夜が来るのが怖かった。深夜の音楽番組を点けて、眠れぬ夜に気を紛らわせていた。
そんな中で、何も知らず笑ったり泣いたり怒ったりはしゃいだり。無邪気な息子の姿に、どれだけ救われたかわからない。
危篤の知らせを聴いて兄も急ぎ帰郷してきた。朝からつきっきりの母を一旦迎えに病院へと向かい、母を連れて戻った。
母は「看護婦さんに、帰っちゃうんですか?って言われたよ」と、淡々と言った。
「今帰ったら死に目に会えないかもしれません」という意味だった。
やむを得なかった。幼い孫が家に残されてる、私は交代に向かう。母に戻って貰わなければ、私は父の看護に行けない。
母が戻り入れ違いに、私は病院に向かった。
夜の道は長かった。工事中の国道は明りも少なく、心細かった。それ以上に「お父さん今行くから。お願いだからまだ、逝かないで」とそれだけを念じながら、車を走らせた。
到着して受付で告げられた。
「集中治療室に居ます」
入室したら、父は人工呼吸器を喉に送管されて、目は閉じていただろうか、覚えてない。ただ、荒く息をしていた。意識は、たぶんなかったと思う。
わたしは、父に話しかけた。
「お父さん、きたよ。ここにいるよ」
「ごめんね、お母さんと交代で」
その後は、ただ父の手を握り、じっとその苦しそうな呼吸音をきき、胸が大きく小さく上がり下がりするのを見守っていた。
あんまり呼吸が苦しそうで、可哀想で、「もういいよ」って正直、思った。
このスイッチを、いま切ってあげた方がいいんじゃないか。その方が、楽なんじゃないか。それくらい、苦しそうだった。
もういいよ、逝っても。これ以上苦しまないで逝かせてあげたい。そう、思ってしまった。
母を呼びに。電話をかけにいかないと…とはその時は全く、考えられなかった。
今ここを離れたら、その間に父は逝ってしまうかもしれない。そう思うと、ベッドのそばを離れられなかった。だから、じっとその姿を見つめ続け、ただひたすらに祈っていた。
きっとこの想いは届く、父にはしっかりと届いているはずだと信じ「お父さんありがとう、がんばったよね、ホントに頑張ったよね。もう、楽になっていいよ。ほんとに、ありがとうね。」一心に、祈り続けた。
最後の一息を、看取った。
ナースコールで医師を呼び「今、呼吸が止まりました」と知らせた。
先生と看護師が来てくれて、臨終を告げられた。
わたしはその様子を見てから、病室を出て母に電話を入れた。
「お父さん、今、逝ったよ。看取ったから」って。
真夜中だったが、家族全員が病院に集まった。
姿を見せた母に「ごめんね。そばを離れられなくて、電話できなかったよ…」と謝った。
母は静かに微笑みながら「いいんだよ。瑠七がそばにいてくれたから、お父さん喜んでいるよ。ありがとうね」と言ってくれた。
葬儀屋が手配してやって来た車は、明け方3時ごろだったろうか、まだ真っ暗闇の中を自宅に向けて病院を出発した。
わたしは一人、その後に続いた。家族が乗る車は、その後ろを走った。
ハンドルを握りながら、只ボーっと、父の亡骸を乗せた車の後を追った。
大通りの交差点に差し掛かって、前の車はスッと通過した。私も、そのあとにつづいた。
そのとき。
突然、左後方から大きなサイレンと声が聴こえてきて、ハッとなった。
「その赤い車、止まりなさい。左端に寄せて、止まりなさい!」
パトカーだった。
「えっ、わたし?なんで今? なんで?」
「お父さんの車が、行っちゃう!」
自分の事だ、と気づいたものの、よびとめられた意味が、解らなかった。
停止した私の車の窓ガラスをたたいて開けさせ、おまわりさんは言った。
「だめでしょ!今赤信号だったでしょう。見てなかったの?」
私はその時初めて、気付いた。ああ、そうか。赤信号だったのか…。
信号を確かに見ていたのに、全く意識なく見落としていた。
真夜中の交差点で、信号無視していたのだった。
事態を知って正気に戻った私は思わず言った。
「前の車が…、父が、臨終で…」そこまで言ったら、どっと涙が零れだしてそれ以上言葉にならなかった。口をふさぎ、嗚咽してしまった。
「前の車が、そうなの?」
私は泣きながら、頷いた。
「今、病院から、家に…」
窓からそんな私の様子を見ていたお巡りさんは、少し間をおいて、静かにこういった。
「赤信号だったでしょう…。お父さん、あなたが事故に逢ったら うんと悲しむでしょう。…本当に、気をつけて戻りなさいね」
それだけ告げて、おまわりさんはパトカーに戻っていった。
わたしはお巡りさんの去り際、「はい…すみませんでした…」と小さく返すのが、精いっぱいだった。
これまでのドライバー人生の中で、おまわりさんに停められたのはあの時、一度きりだ。
葬儀が終わり、遺品整理で見つけた父の日記を見て、やっと理解した。
父は、全てわかっていた。とうに覚悟をしていた。最後に力を振り絞り庭の温室を片付けたのは、自分の葬式の為だった。
遺影も、数か月前に既に自分で用意していた。子供部屋の本棚の前に背広を着て座り、母にシャッターを切らせたのだそうだ。その時は、母にも「他人を撮るばかりだったから自分の写真がない。一枚くらいちゃんと背広の写真を撮っとかなきゃなあ」って笑って言っただけだったらしい。
亡くなる10年ほど前にB型肝炎が判明した時、既に医師に余命宣告を受けていたことも、のちになって母から聞いた。放置すれば余命10年です、と。発覚当時はまだ、不治の病だった。
それからずっと彼は一人向き合い続けていたんだと、その覚悟の深さをその時初めて知った。
罹患が分かってからタバコをぴたりと止め、濃い味が大好きだったのを低塩分低糖質高タンパクな食事にがらりと変え、肝臓に良いと言われる黒酢、クロレラ、薬草…いろんなことを根気強く試み、少しでも健康で長く、と常に心がけ節制した生活を送っていた父。その生活の裏に、余命との闘いを常に心に秘めていたのだった。
そして急速な体調悪化を自覚しはじめてからは、出来る限り長く、出来る限り最後まで、自宅で過ごしたいと考えていたのだ。だからギリギリまで痛みに耐えて普通に暮らし、最後、戻らない覚悟をして、完全看護だからという理由で、遠い病院へ入院していったのだった。
入院してから、がん告知を避け私達が父の前で努めて明るくふるまう様子、反面悲しみを必死に堪えながら看病に通うさま。そんな家族を見てどんな思いで居たのだろう。私たちに合わせて、知らないふり、気付かないふりを最後までしていた父。
それを思うと切なくて、申し訳なくて、もっと何かできたんじゃないか、もっと伝えたいことが、言い残したいことがあったんじゃないか、と今でもやりきれない思いは痛みと共に胸をよぎる。
あの父だから「それでいいんだ。仕方ない。いい人生だった」と言ってくれることだろう。それは、わかっている。
これを書きながら未だに涙が抑えられなくなる私を、「相変わらず泣き虫だな!」と空の上から呆れてみているのだろうな 笑。
また、命日を迎えた。わたしは、その時の父の歳と今年、並んだ。
それでも「今でも貴方は私の光」。憧れたその背中は、永遠にヒーローのままだ。
母は父の分も長生きしてくれた。父も母も、その兄弟姉妹たちと空の上穏やかに過ごしていることだろう。
父のできなかったことを沢山しよう、見られなかった未来を見よう。
私の知る父の 忘れ得ぬ記憶を、少しでも多く孫たる息子たちや縁ある人達に伝えられたら、嬉しい。
父の生きた証を、書き残したかった。あの姿が、想いが、どうか誰かの心にとどまってちょっとでも何かの力になってくれたなら…そう願って、やまない。
そしていつか、会えた時。
「そうか。お前もまあまあ、がんばったな」と笑って貰えたらいいなと願って、今を生きている。