六話 旅立ち
墨汁を垂らしたような漆黒の水面に脚を浸しながら、緒美は辺りを見渡す。
月明かりもなく、ただ闇が広がる静寂の世界。
「ここは…」
「死界と生界を繋ぐ海だ」
猫神の声がした。
キョロキョロと見回したが、姿は見えない。
「ここだ」
ちょこんと脚に温かな何かが触れた。
目を凝らして足元をよく見ると、闇よりも濃い黒色で猫のシルエットがある。
闇に同化していたので、緒美は全然気づかなかった。
「こっちだ」
猫神は水面の上を歩き始めた。
「え…どこですか…?」
すぐに猫神の姿を見失う。
「老婆の糸を辿れ」
「あ、なるほど!」
意識を集中させると、暗闇に赤い糸が淡く光って見えた。
境界の海は膝丈まである深さで、猫神のように水面上を歩けない緒美は水の抵抗を感じながら、ザブザブと水音を立てて、糸の先に向かって進む。
しばらくするとぼんやりと白い人影が見えた。
「しげさん!」
緒美は大きな声で呼んだ。
「緒美さん…?」
艶のある若い声。
近づくと暗闇に青年の姿が白く浮き彫りになって見えていた。
白いシャツに茶色のズボン、首には手拭いを巻いている。
一瞬、緒美は戸惑った。
「…本当に、しげさんですよね?」
「そうじゃよ」
聞き返す緒美に茂は不思議そうな顔をした。
しかし自身の血豆だらけの若返った手のひらを見つめると、悟ったように呟いた。
「…あぁ、儂は死んだんじゃな」
緒美は言葉が見つからなかった。
「それならなぜ、緒美さんが此処に居るんじゃ?」
茂は緒美に問いかけた。
緒美は信じてくれるかは、別として事情を話した。
茂は腕を組みながら真剣に耳を傾けた。
「……だから豊子さんの命が危ないんです」
そう締めくくると茂は息をついた。
「そうか…緒美さんには迷惑を掛けてしまったな」
「迷惑とかは全然思ってないです!…ただ…」
「緒美さんは、本当に優しいのぅ」
茂は柔らかな顔で微笑んだ。
「昔の豊子とよく似とる」
「豊子さんに?」
「ああ…豊子は資産家のお嬢様で、儂は…この通り農家の倅でな。本来なら住む世界が違っておった」
茂は当時を思い返して、ぽつりぽつりと話した。
「なのに…豊子は気にした風もなく、不愛想な儂に声をかけてきてな。いつもニコニコと笑顔で、それは楽しそうに自分の話をしておった」
茂が豊子を語る時の表情は、いつもの仏頂面ではなく、目尻が下がってとても穏やかだ。
「…ああ、つまらん話をしてしまったな」
茂は照れたように頭を掻いた。
「豊子には儂の分まで長生きして欲しい。今まであいつには我慢ばかりさせてしまった。儂と結婚してからは美味い飯も、好きな服も、満足に与えてはやれなかった…だから今からでも、うんと好きなことをさせてやりたいんじゃよ」
茂の言葉に、緒美は静かに頷いた。
「あいつはまだ此処に来るのは早い…もっと長生きして…たくさん土産話を持って来て貰わんと、儂の酒の肴がすぐ無くなるでな」
茂は笑った。
「…さてと」
そう言って茂は節くれだった自分の指先をじっと見つめる。
「そろそろこの糸を切るとするか。なーに、心配するな。こんなもの無くとも儂はお前がこちらに来たら必ず迎えに行く。先に行って、気長にお前を待っておるから」
茂は豊子を思い浮かべながら、独り呟いた。
そして人差し指の糸の結び目をゆっくりと外す。
解けた糸は、すぅ……と闇に溶け込んで消えた。
「緒美さん」
茂は緒美に声をかけた。
「…はい」
緒美は涙を溜めながら、震える声で返事をする。
「豊子にこう言ってほしい」
緒美に言付けを頼むと、茂は死界へ一人旅立った。
◇◇◇◇ ◇◇◇◇
「忽那様」
自分を呼びかける声に、緒美は目を覚ました。
少し顔を上げると心配そうに緒美をのぞき込んでいる黒羽根と目があった。
「黒羽根…さん?」
緒美が寝ぼけた目をしながら、名前を呼ぶと黒羽根は慌てて顔を引っ込めた。
そして、胸ポケットからハンカチを取り出す。
「どうぞ」
「え…ああ」
頬に触れて、緒美は自分が泣いたことに気づいた。
「…ありがとうございます」
気恥ずかしくなりつつ、緒美はそれを素直に受け取ると頬を拭った。
「残念ですが、茂様は先ほどお亡くなりになりました」
「…そうですか」
黒羽根の言葉に緒美は静かに頷いた。
その時「うっ…」と豊子が小さく声を出した。
弾かれたように2人は豊子の顔を覗き込む。
「豊子さん」
緒美は声をかけると、豊子の瞼がゆっくりと開く。
「緒美さん…?」
「よかった…!」
緒美は泣きじゃくる子供のように、豊子の身体に縋りついた。
しばらくして黒羽根の口から茂の死が伝えられた。
「そう」
豊子はそれだけ言って、生気のない瞳で窓の外を見た。
「豊子さん」
緒美に声をかけられると、豊子はゆっくり向き返った。
「茂さんから伝言です」
「?」
「『儂の命日にはお前が握った塩おむすびを必ず供えてくれ』…そう言ってました」
緒美がそう言うと、豊子の頬から一筋の涙が流れた。
「ええ…必ず用意しますね」
豊子は目尻を下げて、微笑んだ。
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