プロローグ
「おい人間、それを寄越せ」
少女は目をぱちくりさせた。
自分の膝の上に、ちょこんと前脚を乗せた黒猫が、なんとしゃべったのだ。
「え?」
少女は驚いて両手に持っていたおにぎりを落としかけた。
ところが今年就学したばかりの齢七歳と思えないほど、彼女は妙に冷静だった。
ー猫がしゃべるなんて、あり得ない。
実は近くに誰かが隠れていて、猫が話してるように見せかけて、自分をからかっているんじゃないのか。
そう思った少女は、辺りを見渡す。
しかし彼女が今居る場所は、入り組んだ山の奥地、偶然見つけた小さな祠の前である。
周りは背の高い草が生い茂り、かなり近づかないとそこに祠があるなんて、まず気づかない。
雨風に晒された祠は、壁の木板がところどころ酷く傷んでいるし、屋根は大きな穴が開いている。
そして申し訳ない適度で置かれたお供え用の小さな皿には、泥の混じった雨水が溜まっていた。
到底、参拝者が来るとは思えない、とても荒れ果てた状態なのだ。
ー本当に、近くに人が居たらどれだけ良かったことか。
立ち上がって辺りに見渡すが、誰かが身を潜められそうな木や岩はまったくなく…。
急に心細くなってきた少女は、ここへ辿り着いたまでの経緯を思い返してみた。
少女は学校の行事で、地元の山にハイキングに来ていた。
道は整備されていて、人の手が入った山だ。
ただ一歩でも脇道に逸れたら、山に慣れた地元民でも時折迷うほど、複雑に入り組んでいた。
そんな山なのだから、教師は勝手な行動は絶対するなと口を酸っぱくして注意をしていた。
それでも親同伴のハイキングで対策はかなり緩かった。
親が不参加だった少女は先頭を歩く教師の目を盗んで、列から抜け出し、獣道に入ってしまった。
迷ったと思った時にはもう手遅れで、来た道には既に戻れなくなっていた。
それでも無我夢中で歩いて、やっと見つけたのがこの小さな祠だったのだ。
「おい、聞いておるのか?それを寄越せと言っておるのだぞ」
少女が手に持っているおにぎりをじっと凝視していた黒猫が、ついに痺れを切らした。
苛立って、ビシッ、ビシッと長い尻尾を地面を叩つけている。
いつまでも経っても、おにぎりを渡さない少女に大層ご立腹の様子だった。
(夢?そっか、夢見てるんだ)
周りに人の姿はいないし、目の前の猫が話しているなら、そうに決まってる。
山で迷ったのも、猫が話しているのも、すべて夢。
実に勝手の良い話だが、子供というのは『とても気まぐれ』なのだ。
「夢でもだめだよ。人間のご飯は猫には良くないんだから」
近所のおばさんが言っていた。
人の食べ物は猫にとって中毒になることがある。
だから無闇に食べ物を与えてはいけない、と。
「はっ!私をそこいらの野良猫と一緒にするな」
馬鹿にされたと思った黒猫は、苛立った声を上げた。
「我は神なんだぞ、この祠に祀られておる」
「ふーん」
少女は胡乱な目で黒猫を見た。
「何だ、その目は!!今はこんな朽ち果てた形姿まで落ちぶれてしまったが!大昔はそれはそれは大層立派な社が建っておったのだぞ!!」
「ふーん…そっか」
「!!」
少女の反応の薄さに、憤った黒猫は背中の毛を逆立てた。
「まぁ、神様も?お腹が空くと怒りっぽくなるよね」
今まさに黒猫(神)に威嚇されている状況に関わらず、少女は何処までもマイペースだった。
お供え用に置かれた皿に溜まった水を捨て、まだ手を付けていないもう一つのおにぎりを供える。
(神様なら塩おにぎりをあげても大丈夫だよね…まぁ、そもそもこれは夢だけど)
「うむ、良い心がけだ…では早速頂くか」
「うん」
黒猫と少女は横一列に座ると、仲良くおにぎりを頬張った。
「まぁ、それなりに美味かった」
おにぎりを完食した黒猫は、満足した様子で前脚をペロペロと舐めた。
「よかった!これ私が自分で作ったおにぎりなんだよ」
「そ、そうなのか?…ま、まぁ、及第点というところだがな」
黒猫はそっぽを向きながら、ぼそっと呟いた。
ひょっとして、この黒猫は『ツンデレ』というやつなのだろうか。
皮肉ぽく言ってるようだが、全然嫌味に聞こえない。
少女は思わず、くすっと笑った。
「…笑うでない。まぁ、そのなんだ…供え物を献上した褒美をやろう。私の力を少し分け与えてやる」
黒猫は少女の膝へ飛び乗ると、彼女の額に前足を置いた。
ぷにぷにした冷たい肉球の感触が心地よい。
「我は縁の神でな…こうやってお主と会ったのも、浅からぬ縁ゆえだろう」
そう告げた黒猫の姿が、徐々に薄くなってゆく。
「お前が会いたいと想う者を強く思い浮かべると良い。さすればその者の元に必ず戻れよう」
すべて言い終えると、黒猫の姿は完全に消えて見えなくなった。
また独りぼっちになってしまった少女は、途端に寂しくなった。
これは夢。
そう思って片頬を指で摘んでみるが、夢は覚めなかった。
(やっぱり、夢じゃないんだよね…)
分かってた。
少女は無理にそう思い込もうとして、ただ強がっていただけ。
頬を摘んだ痛みのせいか、寂しさのせいか、じわりと両目に涙が溜まっていった。
(お母さん…)
涙を拭おうとした時、少女は自分の薬指に赤い糸が結んであることに気づいた。
黒猫がさっきほど言っていたことを思い出すと、少女は弾かれたように立ち上がった。
そして赤い糸の先に向かって、走り出した。
「緒美!」
「!?お母さんー!!」
少女は泣きながら、母親の胸へ飛び込んだ。
応援よろしくお願いします!!
気に入って頂けたらブックマーク、☆で作品を評価してくださると執筆の励みになります。