9 月岡芳年の浮世絵
それから三人は、新河岸川をさかのぼって、氷川神社があるところまで歩いて来た。氷川神社は、年に一度の川越祭りで有名である。今日も連休ということで参拝客で賑わっている。三人は参拝を済ませると、胡麻博士の講義が始まった。
「川越の秋の夜を鮮やかに彩る、川越祭りは、松平信綱公がはじめるよう奨励したものなのだよ」
信綱という言葉が引っかかる。あの漢字カードの意味はなんなのだろう、と百合菜は考える。しかし、その答えはなかなか見つかりそうもない。
「この後、どうしますか? 捜査はやめて、ここで解散にしますか?」
と祐介は、胡麻博士と百合菜を気の毒に思ったらしく、こんなことを尋ねてきた。捜査に付き合わせていることを申し訳なく思っているようだ。
「何を言っているのだね。今、事件解決を祈願したところだよ。大沢先生の仇を取るのだ。えっ!」
と胡麻博士は、震えた声で呟くように言うと、感極まった様子で、青空にも届きそうな鳥居を見上げた。
それから、源田と坂野という大沢教授の教え子は、捜査が難航しているせいで、この付近のビジネスホテルに宿泊しているということだったので、羽黒祐介は、この二人に会いに行こうと言い出したのだった。
はじめは板野からだった。川越のビジネスホテルの五階に彼は宿泊していた。三人が、部屋のドアをノックすると、彼はこころよく室内に入れてくれた。
板野は、三十歳ぐらいの美男子だった。もちろん、羽黒祐介とは比べものにならないが、それでもモデルになれそうな美しさがあった。しかし、広い額と太い眉、尖った顎、一文字に締められた口元から、昭和三十年代の俳優という印象を与えた。
彼はビジネスホテルにはじめから用意されていた紅茶のパックを使って、三人に熱い紅茶をふるまった。
「先生が、亡くなったことはまことに残念です」
と彼はソファーに座ると、いかにも悔しそうな顔をした。それを見て、百合菜は嘘くさいな、と思った。昔の俳優のような顔だから、だろうか。
「学生の頃、先生のゼミに入っていたのですが、ずいぶんお世話になりました。卒業論文は、天海僧正について調べていたのですが、その際もアドバイスを沢山くださって……」
と板野は、さも善良な学生であったような口ぶりである。しかし、百合菜たちはこの板野がとてつもない不良学生だったことを知っている。
祐介は、手帳をいじりながら、その話を切り出すタイミングを見計らっていたが、百合菜はそれを見ていて、焦ったくなり、彼の足をコツンと蹴った。
祐介は、わかったよ、と小さく呟くと、手帳をポンとテーブルの上に放り出して、鞄の中からあるものを取り出しつつ、板野に尋ねた。
「ところで、大沢先生の奥さんとはどんな関係でしたか?」
「何ですって……」
板野は、じろりと祐介を睨む。その目つきは、先ほどまでの善良な教え子とはまったく異なるものだった。恐るべき猟犬である。
「実は、奥さんの鞄の中から、あなたの写真がはめ込まれたペンダントが見つかったそうなのです。それがこれなのですが、これは奥さんが肌身離さず、持っていたものだそうです。どうも、あなたたちには男女の秘密があったようですね」
祐介が取り出した金色のペンダントの蓋を開くと、そこには写真が入っていて、若い頃の板野が爽やかにはにかんでいる。
「なるほど。確かに、あなたは名探偵だ。おっしゃる通り、わたしと先生の奥さんは非常に危険な関係でした。それはそれは激しく燃え上がっている危険な関係でしたよ。しかしね、わたしたちが禁断のラブロマンスに明け暮れていたからといって、それが何なのですか?」
と板野は言うと、不機嫌そうに煙草に火をつけた。大沢が亡くなった今、何を隠すことがあるのかと言わんばかりに堂々と語り出した。百合菜は、突然の男の豹変に、うわっ、と思った。
「いえ、事実であることが確認できてよかったです。その関係はいつからですか?」
「学生の頃からですよ。もう十年になるかなぁ。実は先生の奥さんは、資産目当てで先生と結婚したにすぎないんですよ。しかし、気持ちはいつだって、わたしの方に向いていたのです。そしてわたしも奥さんのことを深く愛していた。ゆくゆくはわたしと結婚する予定だったのだ!」
百合菜は、目の前で熱く愛を語り出した男をどうにかしてほしいと思った。
「あなたたちのことは、大沢先生は気付いていたのですか?」
「気付いていたかって? はははっ。あのタコがそんなことに気がつくわけがないだろう……」
百合菜は思わず、飲んでいた紅茶を床に噴き出した。
「おやっ、これはもしや、大沢先生から譲ってもらった骨董品ですか?」
と祐介は立ち上がると、熱している男を冷ますためなのか、テレビドラマの主人公の刑事のように、勿体ぶった調子で下らないことを喋りながら、部屋の中のものを物色するように歩いた。そして、テーブルの上に置かれた一枚の浮世絵と重箱のような美しい漆器を観察し始めた。
「浮世絵と、これは重箱?」
「それは、丼重です。うな重とか、天丼をよそる器ですよ。入れ物箱に入っていた説明書によれば、天久という都内の天ぷら屋さんのもので、江戸時代に天丼の器として実際に使用されていた丼重のようですね……」
骨董品と聞くや否や、胡麻博士が立ち上がり、勢いよく近づいていった。口にハンカチを当て、息を吹きかけぬよう注意しながら、鑑定を始めた。
「いやはや! これはいずれも、なかなかの名品ですな。こちらの浮世絵は、月岡芳年の作で有名な、「大日本名将鑑」の一枚、神武天皇ですなぁ」
岩場の上に、神武天皇が立ち、手を振りあげて、後光がさしているなんとも神々しい浮世絵だ。
百合菜は、月岡芳年の浮世絵と聞いて、興奮しながらテーブルに近づいていった。月岡芳年は、主に明治時代の浮世絵師で、荒々しいタッチの武者絵や、残酷な恐ろしい絵を描いたことでも知られる。
百合菜は、浮世絵の鑑定ができるわけではないが、摺もなかなか鮮やかで、名品であることがよく分かった。