三話
――あああ……。
泣き声がした。
――うあああ……ああ――。
泣き叫ぶ、といったほうが近いかもしれなかった。
高い声――子供の声だ。まだ幼い。
夢とも現とも判然としない意識の中で、その泣き声だけがはっきりとした音で耳をつんざき、頭の中で響いた。
覚醒していない手足はひたすら重く、泣き声から逃れようと身をよじりたくとも動けなかった。
容赦なく子供は泣き続け、その叫び声は耳を襲い続けた。
――誰か、止めるやつはいないのか……。
――何を……そんなに泣いているんだ……。
「別れたいって一言言ってくれれば、私ちゃんと別れたよ」
磯崎の言葉に神山は目を開けた。かける言葉を考えあぐね目を瞑ってしまったことに後悔を覚えた。
寂しげに言ったのか、批判的に言ったのか、はたまた冗談まじりに言ったのかさえ、判別がつかないほど彼女の声のトーンは推し量りづらいものがあった。きちんと顔を見、表情や身振りから判断する必要があったのに、それを逃してしまった。
「別れたいだなんて、思ったことはない」
磯崎の真意はいずれにせよ、神山の答えは変わらなかった。変わらなかったけれど――変わらなかったからこそ、その答えを磯崎は予想していたかのように動揺もせず喜びもせず沈黙していた。
部屋には神山と磯崎のただ二人きり。どこにあるのかも、誰のかとも知れない部屋――大きめの机が一つと、その前方に脚の低いテーブルを挟んで両側に並んだ革張りのソファが四つ――書斎と応接室が合わさった部屋のようだった。
看視役の選抜テストを終え、外出も外部との連絡も許されない軟禁状態で、テストのあいだ寝泊まりに用意された小部屋でテスト結果を待つこと七日。その七日目の晩に神山のもとへ父親が直接合格の報を告げに訪れた。
そして今後、今までの人間関係が断たれること、戸籍が抹消されること、看視役として必要な訓練と教育を受けることなどが説明された。
神山が了承し、父親が椅子から腰を上げて退室する時、ふと立ち止まって顔を伏せた。神山の方を振り返ろうとし、途中で止め、再び顔を伏せた。
怪訝に思って眉根を寄せた神山に、父親は背中を向けたままぼそりと訊いた。
「何か質問は……言いたいことはないか。要望でもいい」
「いや、何も……」
「磯崎真理子には会いたいか」
唐突な質問に神山は一瞬意味がわからなかった。理解した時、頭は混乱とショックを受けた。
まさか父親がそんなことを訊いてくるなんて。俺を気遣うことがあるなんて――。仕事に支障をきたさないため、未練となりそうなものをあらかじめ消していこうという打算的な理由からとも考えられたが、それならばなぜ顔を伏せあんなに言い出しづらそうにしていたのか。
「あ、ああ……、できるなら」
半ば呆然と神山は返事をした。
(会いたい)
(会いたいに決まっている)
――なのに。
父親に訊かれるまで念頭になかった。今までの人間関係が断たれると説明されてもすんなりと受け入れてしまっていた。
そうして今思い至るにあたっても「最後の逢瀬」と認識してしまっている。抗う心がない。けっして愛しく思う感情を失くしたわけでも薄れたわけでもないというのに。ただ単に、もう二度と会えなくなるという実感がわかないだけなのか……。
ショックな気持ちを抱えたまま、父親が用意した部屋の前まで目隠しで連れて行かれ、中で待っていた磯崎と相まみえたのはそれから二日後のことだった。
薄い茶色の髪を肩に届くか届かないかの長さの柔らかい内巻きボブにし、服は新しく買ってきたのだと言ってわざわざ見せるためだけに外で待ち合わせた時のワンピースだった。淡い水色のそのワンピースにはゆったりとした丸みのある白いカーディガンを合わせていたから、神山はいつも空を連想せずにはいられなかった。
磯崎はソファには座らず、部屋のなかほどに立って待っていた。数歩移動したかと思うと、近くなった机の縁を指先でなぞったりリズミカルに軽く叩いたりして遊んでいた。
離れていたのはたった一ヶ月程度とはいえ恋人なのだ、とても久しく思うし、懐かしくも思う。だからこそ胸が痛くてしかたがなかった。
――俺はどうしようもないバカだ。
どうして今回の仕事に就く前に磯崎のことを考えなかったのか。
久しく思う、懐かしく思う、姿を見て今もまたふつふつと愛しさがこみあげてきた。なのに、なのに、どうして――。
まともに磯崎の顔が見られなかった。かける言葉も思い浮かばず、俯いてしまった。そうして彼女の真意をつかみ損ねた。
――別れたいって一言言ってくれれば、私ちゃんと別れたよ。
しばしののち、沈黙を破ったのはまたしても磯崎の方だった。
「今生の別れになるって聞いた。いきなり神山くんに連絡がつかなくなって探し回ってたら、神山くんのお父さんを名乗る人がうちを訪ねてきたの。洋さんって名前で、背は神山くんより少しだけ低いくらい。痩せてるというより細身って言う方が適切な印象かな。白髪まじりの髪で、顔はにこりとも笑わない強面、神山くんと同じく眉間にしわを寄せてた」
おそらく本人で間違いないだろうと神山が頷いたので、磯崎は続けた。
「お父さんの仕事を手伝うんだってね。とても大切な役職で、神山くんにしか頼めないって。それはどんな仕事ですかって私が訊いたら、子供の看視って答えたの。何それって思った。確かに子供を世話して育てるのは大切なことだよ、でも、神山くんにしか頼めないなんて言うほどの仕事かな? むしろ神山くんが子供の世話をするなんて想像もつかないし、向いてないと思うけど。しかもそれで連絡がつかなくなるって何? この都市から姿を消すってどういうこと? たかが子供の世話でしょ?」
責められるように訊かれても、神山も同様に知らなかった。なぜ子供の看視で今までの人間関係を断ち、戸籍までをも抹消する必要があるのか。今後説明されるのだろうが、知っていても答えていいものなのかは不明だった。
「でもね、それがなぜなのかはわからないけど、とても重要な子なんだろうね。お父さんが子供の看視って答えた時、お供の人が制止したくらいだもん。それにこのセキュリティでしょ。ここに来るまでの目隠しとかボディチェックとか、いったい何。想像力をたくましくしちゃうんだけど。政府の裏組織とか、世界を揺るがすような実験や研究をしている秘密の組織とか、実はその子供は宇宙人とか。私このあと口封じで殺されたりしないかなぁ」
磯崎は冗談めかしてふふっと軽く笑った。それから、机の縁をなぞって遊ばせていた指をぴたりと止め、しばしそれをじっと見つめていたかと思うと、すっと視線を神山に移した。
「それで、神山くん」
呼ばれて神山も真っすぐに見つめ返した。
「仕事、就くんでしょ。別れたいとは思っていなくても、結果的には別れることになる。そうでしょ? それをわかったうえで仕事に就くんだよね?」
「それは、そうだが……」
「別れたいと思ってなくても、別れたくないとは思ってくれなかったんだ?」
「磯崎……」
「だいたいお父さんのこと嫌いじゃなかったっけ。あんなやつ父親じゃないとか言ってたじゃん。なのにお父さんに頼まれて一緒に仕事するの? 私と別れてまで? 意味わかんない」
ふと神山の視界に入った磯崎の手は、机の上で固く握り拳をつくっていた。
「どうせ神山くんのことだから、何かかわいそうに思うことがあったんでしょ、お父さんやその子供に、助けになってあげたいと思うことがあったんでしょ。別にそう思うことは悪いことじゃないと思うよ。でも、私は? それでお別れされちゃう私は、何? どうすればいいの? 私の気持ちなんて無視? なんで考えてくれなかったの、なんで俺も別れたくないって言ってくれないの。部屋に入ってくる時から申し訳なさそうな顔して! やめてよ! ひとりで勝手に終わりにしないでよ!」
神山を睨みつける目からは涙が溢れた。
「――嫌い。お父さんも世話する子供も嫌い。神山くんも嫌い。大っ嫌い」
「……すまない……」
肩をすぼめ、小さくなって涙を拭う磯崎に、神山は宥める言葉を見出せなかった。言い訳する気もなければ、考えを改める気も起きなかった。ただ心のそこから申し訳なく思う――思うのがまた不思議でならなかった。
(磯崎への気持ちは変わらない。変わらないのに……)
(なぜだ)
(変わっていないのならば、別れなど受け入れられないはずだ)
(それなのに、俺は――。申し訳なく思うだけか?)
磯崎の泣き顔など見たくない。抱きしめて慰めるすべもあることを神山とて知っていた。けれど、身体はそうは動かなかった。
「磯崎、すまない……。恨んでくれていい」
鼻水をすすり、磯崎はキッと潤んだ目で睨みつけた。
「これだけ言ってもそういう返事しかできないわけ? 恨むよ、恨むに決まってんじゃん、こんな別れ方しといて。でもさぁ、私はいつまで恨み続ければいいの。恨んでるあいだずっと神山くんのこと考えて囚われてるってことでしょ? 一方の神山くんはもう一生会わない私に恨まれてようが痛くも痒くもないわけで、自分だけさっさと違うところに心を移して。バカみたいじゃん、私だけ」
神山は眉根を寄せて俯いた。
言い返してこないのを悟ってか、磯崎は大きな溜め息をついてから少し落ち着かせたような口調で続けた。
「……だからね、わかった。神山くんのお父さんも世話する子供も憎くて憎くてしかたがないけど、憎まない努力をする。神山くんを恨まない努力をする。忘れる努力をする。きっと簡単なことじゃないけど、そうしないとずっと辛いままだろうから。解決することもないだろうし、本人に直接恨み辛みを吐いてスッキリすることもできないだろうし、今後会えないわけだからね。ほんと……」
そこまで言って急に磯崎は言葉を詰まらせた。怪訝に思って神山が顔をあげると、彼女はカーディガンの袖口を手まで引っ張り下げて目元を覆い、天井を仰いでいた。
「……ほんと、辛いなぁ……」
彼女の口元は笑っていたが、声は震えていた。
「もう会えないの、想像しただけで怖いなぁ。やっぱり急に会いたくなっても、連絡つかないんだよね? 友達とか会社とかツテを使っても無理なんでしょ? ほんとのほんとに金輪際、今後一生、会いたくなっても会えなくなるんだね」
「磯崎……」
「怖いなぁ、この部屋を出たらそれきりパッタリ、終わりだよ」
――最低な男だ。
――磯崎に別れの辛さを全部背負わせて。
――泣かないで欲しいと思いながら、その涙を止める行動をとらなかった。
――薄情だ。
――どうしようもなく、どうしようもない男だ、俺は。
――あああ……。
泣き声がした。
――うあああ……ああ――。
泣き叫ぶ、といったほうが近いかもしれなかった。
高い声――子供の声だ。まだ幼い。
夢とも現とも判然としない意識の中で、その泣き声だけがはっきりとした音で耳をつんざき、頭の中で響いた。
覚醒していない手足はひたすら重く、泣き声から逃れようと身をよじりたくとも動けなかった。
容赦なく子供は泣き続け、その叫び声は耳を襲い続けた。
――誰か、止めるやつはいないのか……。
――何を……そんなに泣いているんだ……。
神山は眉間にしわを寄せ、ぎゅっと目を瞑った。そうしてそれを開く前にひとつ大きく深呼吸をし、掛け布団を払いのけて、身体を起こした。
起こしてからまたひと呼吸おき、目を開けた。部屋の中は暗い。足元に点々と配された小さなオレンジの灯りのおかげで物が判別できないほどではなかった。床に簡素な寝具を敷き、同じように雑魚寝をしている近くの男二人の寝顔までは見てとれた。
子供はまだ火のついたように泣いていた。
(うるさい……)
神山は一番近くにいた男の肩を揺すった。
「おい……、ガキが泣いてるぞ」
男はまるで起きる様子がなかった。
(よくこんなうるさいなか寝てられるな……)
くそ、と悪態をついてから立ち上がって別の男のところへ移動し、揺すり起こした。
「起きろ、ガキが泣いてる」
男は片目をうっすらと開けた。
「……何?」
「ガキが泣いている。あやしたらどうだ」
「なんで……、自分でやればいいだろ」
「世話した分、評価されるかもしれんぞ。昼間もさんざんしてただろうが」
「子供は泣くのが仕事だろ。ほっとけばそのうち疲れて泣き止むさ。それか今回はお前に手柄を譲るよ」
鬱陶しそうに言って、男は神山に背を向けて布団をかけ直し、再び寝息をたて出した。
神山は部屋を見回し、この騒音のなか寝続けている男たちを起こすのは諦めた。次には、天井を見上げ、監視カメラだろうドーム型の機器に向かって呼びかけてみた。
「おい、ガキが泣いてるぞ、どうにかしてくれ。見ているんだろ。俺じゃあ、あやせん」
しかし、反応はなかった。
(くそっ! なんで俺が……!)
神山は渋々子供のもとへと向かった。
子供はベッドの上にいた。この部屋はこの子供の部屋であって、そのために設えたベッドに彼一人だけが寝ていてもなんら不思議ではない。たとえベッドが、自分たちが使っている薄い敷布団の三倍の厚さのマットレスであっても。肌触りが滑らかなシーツであっても。
溜め息を吐き、神山は程よい硬さのベッドの縁に腰を下ろした。身体を半分だけ子供の方に向け、声をかけた。
「どうした。なんでそんなに泣いてるんだ」
子供は掛け布団を下の方に押しのけてぺたんと座り、半ばうずくまる姿勢で泣いていた。涙はぼたぼたと垂れてシーツにしみを作っていた。
「そんな泣き叫んでいたら喉が痛くなるぞ。何があった。理由を話してくれないか。話してくれなきゃわからんだろう。対処ができない」
こちらを見ようともしない子供に、おい、聞いてるのか、と呼びかけるが応えがなかった。
名前は何だったかと一瞬間思案し、
「アダム……、アダムどうしたんだ。怖い夢でも見たのか?」
訊くと、涙に濡れてくしゃくしゃになった顔を向けた。泣き叫ぶのは止めたが、まだ大きくしゃくりあげていて小さな身体が痙攣しているように見えた。
すると、いっそう顔をくしゃりと歪めたかと思うやいなや、神山の腰元に突然抱きつき、再び泣き始めた。
抱きつかれた神山は硬直した。もとより抱きしめ返してあげ、頭をなでたり、背中をぽんぽんと優しく叩いて慰めてあげるすべを持ち合わせていない。そういう性質の男だ。かといって、すがりつくように抱きついてきた子供をはねのけるほど冷酷な男でもない。
頭では慰めた方がいいとは思っているけれど、手は宙をさまようばかりだった。
――何も変わらない。
――あの頃から何も。
――今も、俺は……。
「――あっ、起きた」
惚けたような声がした。それはよく聞き知ったもので、少しばかり安堵が含まれているように聞こえたのは長年そばにいた神山だけだろう。
声の主の表情はわからない。神山は目を薄く開けただけで視界はぼやけている。まぶたが重い。何度か瞬いてみるがいっこうに大きく開かない。
意識がだんだんと戻ってきたのはいいけれど、ガンガンと痺れを伴うような頭痛と全身を襲う酷い倦怠感までもが意識の表層に上がってきてしまうのはいただけない。
「神山、大丈夫?」
返事はできない。喉や胸元は重苦しく、唇にも力が入らない。そもそも喋る気力が湧かない。声の主はおそらく顔を覗き込んで見ている。薄く開いた目にそれらしき影がある。他人に寝顔を見られるのを好まない神山は早く声を発したかったし、身体を動かしたかった。
身体が揺れる――ベッドに寝ているのだろう――のと同時に視界の影が姿を消す。
ぼんやりとしたまま四、五分が経った頃には、ぱっちりとまではいかないがいくぶん目も開き、眼球を横に動かすと影の正体――侑祁がベッド脇に持ってきた椅子に座っていた。
侑祁の姿を左に確認し、動くようになった首でそのまま天井、右へと順に辺りを見渡す。どうやら自分の部屋のようだと神山は理解した。
頭痛は少しも治まらないが、徐々に倦怠感は身体から抜けていき、腕、足先から脚、胴体へと感覚と力が戻ってきた。
神山の回復を見取ってか侑祁は改めて声をかける。
「大丈夫? まだ寝てなよ」
「いや……いい。もう大丈夫だ、動ける」
神山は身体を起こす。緩慢な動きだったがそれでも頭が振られたせいか少しばかり頭痛が増し、手で額を押さえた。
「寝てなって。そんな無理して起きることないよ、僕はここにいるんだから」
侑祁は呆れたように笑ってから、状況を簡単に説明した。過労で倒れたところをジンボが助け、部屋まで連れてきてくれた、と。
「過労……」
神山はその診断を小さく口の中で転がし、胸中では、何が過労だ、と憤慨した。意識がはっきりしてきた神山はなぜ今ベッドにいるはめになったのかを思い出した。
痛みは既に感じないが、注射針を刺された首筋に手をあてる。いったい何の薬剤を注ぎ込まれたのか、不明だ。だがきっとろくなものではあるまい。
眠っていた時に見ていたあの夢々――今も断片的に覚えている――、そう、夢というにはいささかいつも見るような突飛で非現実的なものとは趣が異なっていた。あれは、記憶だ。過去、神山が経験した……。
この激しい頭痛の原因が予想され、神山は一抹の不安を覚えたが、目覚めることができたし、意識があり思考する能力も失ってはいない。四肢もきちんと動かせるので、大息するのみで不安や心配を済ますことにした。身体の検査やジンボに抗議する面倒と天秤にかけた結果だ。
「ごめん……僕のせいだよね」
考え込んでいた神山は、はっと我に返って侑祁の方を見る。いきなりの謝罪の言葉に心当たりが浮かばなかった。
「顔や身体に――ごめん勝手に見た――痣があったし」
「倒れた時にでもできたんだろ」
「ジンボが……、ジンボが神山を運んできた帰り際にちょっと悪い顔してたから。無邪気な悪さっていうのかな、あの人は。性質が悪いよね」
なるほど、と神山は侑祁の謝罪の訳を得心した。
「あの人は邪心だらけだろ。俺はただ過労で倒れた、それだけだ」
侑祁は少し困ったようにくすりと笑う。
「そういうことにしといてもよかったんだけどさ、自分が原因だとわかってて知らんぷりもできないでしょ。謝らせてよ」
「そうだな。お前が色々と面倒をかけてくれたおかげで過労の診断が下された訳だしな」
「そっちじゃないよ。そっちは別に悪いとは思ってないし。僕が看視と世話を頼んだ訳じゃないからね。カミサマたちに謝ってもらいなよ。そんなに惚けなくても、僕が言いたいことわかってるでしょ」
わかっている。わかっているからこそ、神山は謝らせたくないし、聞きたくもないのだ。
「お前が俺にかけた面倒事以外で、お前に何の事で謝られるのか皆目見当がつかない。だから謝る必要はない。それでも謝りたいのなら、ただの自己満足だ、他所で懺悔してくれ」
「また、そういう言い方をする……」
侑祁は苦笑する。それから、椅子からベッドの縁へ腰を下ろし、対面するかたちに座り直した。
「僕がジンボのことでまた落ち込んじゃったから、文句を言いに行ってくれたんでしょ?」
訊かれても、神山は首を捻って否定する。ふふっと、侑祁は小さく噴き出した。
「いつも怒ったり怒鳴ったりするくせに、肝心なところでは、ぶっきらぼうだけど、妙に優しいよね、神山は」
そう言ってふいに重ねられた手に、神山は驚いて一瞬間硬直した。
「ありがとうね」
見ると、彼には珍しく照れくさそうに、やんわりと笑う。
重ねられた手からほんのりと温もりが伝わってくる。
筋張っているわけではないが、細くて白いその手は女のそれのようだ。しかし彼にいつまでも幼い印象を持っている神山にとってそれは、いつの間にこんなに大きくなったのかと驚嘆に値するものだった。けれどもやはり、自身の無骨で彼よりひとまわり大きい手と比べると、なんとも頼りない。
じんわりと手の甲から内側へ、温かさが広がっていく。
神山はその温かさを知らないわけではなかった。磯崎から分け与えられていた。記憶にはないが母親からも与えられていただろう。
その一方、自分がそれを他人に与えるとなると、ほとんどしてこなかった。磯崎と別れる時も、侑祁にも、幾度となくその機が訪れていたにも関わらず……。
なぜだかその機に直面すると身体が動かなくなる。温かさを与えることに躊躇する。理由は不明だが、そういう反応しかとれなかった。
(……どうしようもないやつだ)
神山の鼓動が徐々に速くなる。重ねられていない方の手にまで熱がこもり、手汗で少しばかり湿り気を帯びる。口を真一文に結び、顔は強張りを見せている。
(何を……今更……!)
それはひどくぎこちない動きだった。汗ばんだ手を侑祁の頭に置くと、一回、二回とすべらせながら軽く叩いた。
(本当に、今更だ……こんなこと……!)
侑祁はきょとんとしたが、すぐに意図を察し、先程よりも大いに照れくさそうに笑う。
その笑顔を見て、我知らず目頭が熱くなる。
神山はそれを、響き続ける頭痛のせいにした。
(了)
引用文献
大島健彦他校注・訳「磯崎」『室町物語草子 新編日本古典文学全集63』小学館、2002年9月20日