二話
「……いつまでバカな遊びをやってるの」
ひどく呆れた声がしたので、神山は目を瞑ったままやりすごそうとした。
つまらない授業を頬杖をついて聞き流していたが、ただ目を閉じるだけのつもりが、いつの間にか居眠りをしていたようだった。ざわざわと人の話し声や物音が耳に入ってきて、授業がすでに終わってしまっていることを知った。
「ねぇ、聞いてんの? 寝たふりしてないでよ」
「――いっ――!」
触れられた感覚よりも痛みのほうが先に伝わったような気がした。小さな痛みとはいえ、ふいの刺激は目を開けずにはいられなかった。
「お前なぁ……!」
神山は怒気を露わに言った。己に向かって突き出された人差し指が、頬――頬骨のあたりを押した犯人に違いなかった。頬杖をついていたほうの反対の頬には痣があったのだった。
呆れ顔でもう一度頬をつこうとした磯崎の手を払いのけ、神山は顔をしかめた。
「痛いんだからやめろよ」
「そうだよ、痛いんだからやめなさいよ」
磯崎が言わんとしている苦言から避けるように神山は彼女から視線を外し、溜め息をついた。神山は時折仲間と共に治安の悪いエリアをわざと制服のまま歩き回り、絡まれたら喧嘩をするという不品行な遊びをしていた。
「聞いてますかー?」
覗き込んだ磯崎につられて彼女の二つに結んだ髪が揺れた。それを神山はむんずとつかんで、毛先で彼女の顔をばさばさと叩いた。
「うわぁ! ちょっとぉ、もう! 髪が乱れちゃったらどうすんの。鬱陶しいし、やめてよ」
急いで手鏡を取り出して髪をチェックする磯崎に、ふんと鼻を鳴らして返事をした神山は席を立って伸びをした。
「どこ行くの」
「めし。食うだろ?」
「食べるけど」
「中庭でいいか」
「空いてるかな。出遅れたから場所とられてるかも」
言いながら二人は連れ立って教室を出、廊下を歩いた。
「大丈夫だろ。時間がくればベンチも空く」
「それは、サボる宣言かな」
階を下りて一階につくと、廊下の窓ガラスには木漏れ日がさし緑の葉が鮮やかな絵画のような風景が透過されていた。その中庭に面した廊下を少し歩くと、中庭への出入り口があった。足を一歩踏み入れると途端に地面の柔らかさと、優しい草花の色と、学生が談笑するのどかな雰囲気に、神山は無意識にほっと息をついた。
いつも座るベンチへの行きがけに近くの自動販売機で昼食を購入しようとした神山たちの前に先客がいた。
「――船木」
「あ、神山くん」
呼びかけられた男子学生は自動販売機の取り出し口からパンを一つ取り、はにかんだような笑顔を向けた。
「ちゃんと入金してもらえたか?」
「うん、いくらかは……」
「めし、それだけか」
「あ、うん。お昼はこれくらいで充分だから」
と、小さなパンを両手で隠すように持ち、ますます恥じ入るように船木は俯いた。その横から押し入った神山はざっと自動販売機の商品のディスプレイに目を通した。
「パンのほうが好きだったよな」
そう訊くやいなや購入ボタンを押し、会計パネルに学生証のカードをかざした。神山が取り出したのは、レタスやトマト、ふわふわの卵焼きにハム、キュウリやツナがたっぷりはさまれた厚いサンドイッチのセットだった。
「ほら、これも食べろ。成長期にそんなパン一個だけじゃダメだろ」
突き出されたサンドイッチを思わず受け取ってしまった船木は慌てて首を振った。
「そんな、僕は大丈夫だよ。神山くんにはこの前ももらったばかりで……」
「いいから。ボタンを押し間違えたんだ、欲しかったやつじゃないから良かったらもらってくれ。な?」
「でも……」
困ったように手元のサンドイッチと神山を見比べる船木に、もらっとけば、と助け船を出したのは磯崎だった。
「くれるっていうんだから、もらっとけばいいじゃん。ていうか、素直にもらっておかないと、このお節介男はしつこいから押し問答が長くなってお昼休みなくなっちゃうよ」
おい、と抗議する神山をよそに、促すように磯崎は船木に頷いてみせた。
「じゃ、じゃあ……ありがとう、神山くん。いただきます。本当にありがとう」
船木は遠慮がちに、けれども真に嬉しそうな笑顔で礼を言い、何度も何度も振り返っては頭を下げて中庭の奥へと消えていった。
それを見送るともなく見送りながら神山は自分の昼食を買い、一方の磯崎はスカートのポケットから学生証を取り出した。
「ああいうお節介はほどほどにしときなよ」
磯崎は厚いサンドイッチの画像を見つめながら言った。
「何がだ」
「同い年なのに物を買って与えたりしてたら、相手にみじめな思いをさせちゃったり、逆に傲慢な態度をとられちゃったりするんじゃない?」
「たった二、三回のことだろ。そんな風にはならないさ」
ふうん、と納得したようなしていないような返事をして、神山くんが優越感を得るためにやってないだけマシだけどさ、と磯崎はぶつぶつと不満げにひとりごちた。
「おい、まだ決まらんのか」
せかした神山に磯崎は、眉間にしわを寄せ、口をへの字に曲げた顔を向けた。
「……私には?」
「は?」
「私にはおごってくれないの」
「なんでお前におごらなきゃいけないんだよ」
「船木くんにはおごったのに、私にはおごってくれないんだ。ずるい。しかもしっかり好みまで知ってて。私なんて彼女なのに」
あのなぁ、と神山は溜め息を禁じえなかった。
「船木の親はネグレクト気味で、食費すら渡してない時もあるんだぞ。おまけに少し前までその金もイジメで巻き上げられてたしな。目についたもんは見過ごせないだろ」
「ふうん。でもイジメは神山くんが船木くんに構うようになってから止んだし、家庭の問題は先生とかそういうセンターの人に相談すればいいんじゃない? なにも神山くんが世話を焼く必要なんてないよ」
「別にそうだろうが、見知った以上無視もできないし、途中で突き放すわけにもいかないだろ」
「ダメ。無視して。突き放して」
「お前なぁ……」
「ああいうタイプはダメなんだもん」
「お前の好き嫌いかよ」
「そうじゃないけど、神山くんは近づかないで」
不機嫌な顔で地面を睨み続ける磯崎に、神山も眉根を寄せて深く息を吐いた。
「いきなりなんでそんなにつっかかってくんだよ」
「だって……」
「だって、何」
「……だって、……だって神山くん、ああいうタイプの子、好きでしょ」
「はあ⁉」
この言い分には大いに顔を歪めずにはいられなかった。
「あいつ男だぞ、なにバカなことを言ってんだよ」
「男だろうが女だろうが関係ない。好きって言葉は語弊があるけど、構わずにはいられないんだよね?」
「なにを……」
「私もイジメられてたからで――みんなのイジメに加わらなかっただけのことだけど――そういうことがあったから私を助けてくれたんだよね。構うようになってくれたんだよね」
「ちょっと待て、磯崎……」
「神山くんは私のこと好きじゃないんだよ。かわいそうな子を助けて、それで神山くんも助かってる。誰かに必要とされたいのかな」
地面を睨みつけ、不機嫌な表情そのままに、いつの間にか磯崎の目には涙が溜まっていた。
「それでも……私は神山くんが好きだよ。本当の意味で好かれてなくても、他のかわいそうな子を構っても。理由はどうあれ無視できない神山くんが好きなんだよ、矛盾してるけど――ううん、矛盾しちゃうんだ、神山くんのそういうところに自分が惚れたから。他の人も惚れちゃうんじゃないかって、私だけを特別助けてくれたんじゃないんだって勝手に思って不安で頭がいっぱいになっても」
『別れたいって一言言ってくれれば、私ちゃんと別れたよ?』
――別れたいと思ったことなど一度もない。
『神山くんは私のこと好きじゃないんだよ』
――好きでもないやつとなんか一緒にいたいとも思わない。
「辛いから、苦しいから、離れよう諦めようと決めてもダメなの。どうしても神山くんのことが頭から離れなくて、愛しく思えてきて、ずっと一緒にいたくなるの……」
「……磯崎」
「嘘でもいいから無視するって、突き放すって言ってよ、バカぁ!」
――だが……。あの頃からすでに磯崎は俺の本質を見抜いていたのかもしれない。
「――のかな、神山さん」
自分に話しかけているのだと気がついて、神山は目を開け、ちらりと横目で声がした方を見た。
腕を組み壁にもたれかかっていた神山の隣に同じようにしていつの間にか男がいた。二十代半ばから後半、神山と近い年齢だろう。肩に毛先が届くほどの髪を後ろで一つに結んでいた。
「何か?」
神山が聞き返すと男は顎をしゃくって話題の先を示した。そこには一人の幼い子供を取り囲むようにして四人の男たちがその子供の相手をしていた。時に変な顔をしてあやしたり、時におもちゃを使って遊んだり。
「あなたはあの輪に入らなくていいのかな、と聞いたんですよ」
「そのセリフ、そっくりそのままお返しする」
ふふ、と男は鼻で笑った。
「そうだね、俺は選ばれたくないですからね、このまま傍観することにしますよ」
「なら何でここにいるんだ」
「それこそ、お返ししますよ。子供の相手をするでもなく壁際につっ立ってるだけで。それでは評価されませんよ。先日までの体力や知能などのテストで良い点をとっていたとしても、それだけで選ばれることはないでしょうし」
神山は小さく溜め息をついた。それを同意したゆえのものだととった男は慰めるように言った。
「まあそう気を落とさなくてもあと三日はありますから、その間にアプローチしたらどうですか」
三つかそこらになろうという子供を相手に、大の大人の男がかがみこみご機嫌をとって気に入られようと必死であやす姿を自分にあてはめてみた神山は、苦虫を噛みつぶしたような顔をして再び溜め息をついた。
「子供は苦手、かな? 苦手そうに見える」
男は含み笑いながら言った。
「得意そうには見られないだろうな」
眉間にしわを寄せた仏頂面をよくし、腕組をするのが癖とあっては、人々からの印象は主に「怖そう」などの悪いものだった。だがその印象はあながち大きく違えているわけでもなかった。怖いかどうかは自分ではわからないけれど、優しい性質の人間ではないと思う。少なくとも子供を可愛いと愛で、遊び相手にすすんでなろうという心は持ち合わせていない。
「苦手でも我慢しないと。選ばれたい、というか選ばれなければならないのかな? 神山さんって、血縁者? あのカミヤマさんのところからの候補者ですよね。カミヤマさん、真面目で厳しい方ですからプレッシャーはかなりのものでしょう、短気でよく怒りますしね。ほら、うちのところの上司と仲が良いじゃないですか、よくうちのを叱り飛ばしてて」
はあ、と気のないような相槌を神山は打つしかなかった。
自分の父親がどのような人物なのか実のところよく理解していないし、理解するほど共に過ごしてもいない。ややもすると幼少期からの父親の自分に対する接し方に疑問と不満を抱いてきた神山は、今更理解したいとも思わなかった。
私生活でさえそのような感じなので、職場での父親など知るよしもない。どのように他者と仲良くしているのか、どのように叱り飛ばしているのか、想像もつかない。
いつも眉根を少し寄せた不機嫌な顔、その顔を崩さず淡々と話す低い声、瞬間瞬間にしか合わない目、――笑いかけられたことも叱られたことも神山にはなかった。
(けど、そう、あいつは……)
拒絶するかのように向き合ってはくれなかった父親だが、幼い頃の記憶にはその欠片はあった。
(おふくろにだけは……)
父親の背中を見上げるかたちで、表情は見えたり見えなかったり。けれども母親といる時の父親はどこか違っていた。子供ながらになんとなく柔らかくなった雰囲気と、口調の穏やかさを感じとっていたのは、憶えていた。
だがそれだけの材料で父親がどのように他者と接しているのかを想像するのはやはり難しかった。
もともと父親が家に帰ってくる日は多くはなく、母親が死んでからはめっきり減った。神山自身も就職先が決まったと同時に家を出、それきり帰っていなかった。外で父親と会うこともなく、連絡も互いにとらない。疎遠な関係はますます疎遠になった。
それなのに、と神山は思った。それなのになぜ今更……。
父親からの突然の連絡。相変わらず淡々と話す低い声に呼び出され、職場の玄関先に乗り付けられた車に乗り込んだ。ただの迎えの車かと思ったが、中には呼び出した張本人がいて、少しばかり驚いた。
車の後部座席、運転席の斜後ろに神山は腰を下ろした。
「……用件は何だ」
車が発進しても前方ばかりを睨みつけてなかなか口を開かない父親に焦れた神山の方が先に口火を切った。それでも話そうとしないので険も露わに言った。
「こっちは仕事を抜け出して来ているんだ。用が無いなら返してくれないか。用があるならさっさとしてくれ」
そうして促しても反応が返ってこず、窓にはいつの間にか神山の見知らぬ街並みが映し出されていた。
おい、と再び声をかけようとした時、車が急に止まった。それは高いビルとビルの間、車一台がやっとの細い路地だった。
訝しんでいると、瞬間、全身がぞわりとした。次には軽く浮遊感――ちょうどエレベーターに乗っているような感覚で――車が真下に下降していた。落下のような不安定さは感じられないので地面ごと切り取られたように降っているのだろう。視界は暗転し、トンネルの中のように窓の外は小さなオレンジの灯りだけがあり、等間隔で上に流れていた。
動揺した神山が何事かと騒いだが父親からの説明は無く、また父親の落ち着き様から見てこの道を通るのは予定のうちだったようだ。
いくらもしないうちに浮遊感は終わり、暗い道はそのままに、車は再び走り出した。
神山はこんな道があることを知らなかった。噂ですら聞いたことが無かった。まさしく裏道といわれる場所を通っていったいどこへ行こうというのか。そしてなぜ父親はこんな道を知っていて、さも堂々と使っているのか。
不安が沸き起こり始めた時、ぼそりと声がした。
「……お前に、頼みたいことがある」
頼み、と神山が聞き返すと、父親は頷くかわりに眉間のしわを深くして俯いてしまった。どこか頼むのを躊躇っているように見えた。
「お前にしか、頼めない。……大事な子供を、看視して欲しい」
「監視?」
「看視――つねにそばで見守って、身の回りの世話をしてもらいたい」
「お断りだ」
神山は即答した。
「ベビーシッターに頼んだらどうだ。なんで俺が。俺にガキの世話なんかできると思うか」
「信頼できる者にしか、あの子供のそばに近づいて欲しくない。大事な子供だ」
「……あんたの子供か?」
「その質問に答えるのは難しい。何をもって親とするのか、親の定義をまず決めなければならない。現行法では適さない。生物学的にもあの子供の親を定めるのには議論が必要だろう」
神山は怪訝な顔をして父親を凝視した。
「それは、どういう子供なんだ」
「詳細はお前が看視役にならねば教えられない」
「あんたは……いったい何をやっている」
「それも看視役にならねば教えられない」
「交換条件か」
「違う。機密だからだ」
神山は大きく息を吐いてシートの背もたれに身体を預けた。父親が秘密の組織で働いている、なんて子供の夢物語じゃあるまいし――自分で自分の考えを嘲笑した。
「帰る。降ろしてくれ。車を止めろ」
「無理だ。この道は緊急時以外、駐停車禁止で、外へ出ることも同様だ」
「なら問題ない。今にも俺が切れそうで緊急時だ。外の道へ出ろ」
額を手で押さえた父親が今度は溜め息を零した。
「……お前にしか頼めない」
再三の言葉に神山は声を荒げた。
「よく言う! お前にしか、だって? あんたが俺の何を知っててそんなこと言える! 信頼できる者? ただ親と子である以外なんの関係も構築してこなかったあんたにそんなこと言われたくない、無責任な発言だ」
幼い頃から存在を拒否し、無視し続けた父親。神山に残るのは父親の後ろ姿ばかり。
「お前の経歴や素行、性格は調査済みだ」
「――そういうことじゃねえよ!」
「お前が適任だと私は思っている。選抜テストにもお前は受かるだろう。看視とはいえ、けして楽な役回りではない。こと今回の看視は特に難儀な役回りになるだろう。己を滅し、対象を守らねばならない」
「それはなにか? 大変な仕事だから誰も引き受けたがらなくて、息子の俺にしか他にいなくて、信頼してるだのなんだのうまいこと言えば引き受けてくれそうだからか」
怒りのあまりかえって神山の口元は半笑いの形をしていた。
「俺は息子だからといってあんたを助けるほど、あんたを父親だとは思っていないが?」
「……私とお前の関係をあてにして頼んでいるわけではない。お前にしか頼めないから頼んでいる。私の知る中でお前以上の適任者はいない。本当は巻き込みたくなかったが、大事な子供を――それを優先させなければ。お前が私を父親だと思っていないのなら好都合だ、呵責は少ない方がいい」
言って零した父親の溜め息は、疲れ切った者のそれと似ていた。
突然何を思ったか、父親が振り返った。シートのせいで真正面からとはいかないが、しっかりと神山を見据えていた。目と目が合い、暗がりに小さなオレンジが点滅するなかでは、はっきりとはわからなくも互いが互いの顔を認識した。その間たった一、二秒だったが、神山の心臓は大きく跳ねた。
まともに父親と目が合い、顔を見たのはいつぶりだろうか――そもそも過去あっただろうか。思っていたよりも顔は老け込んでいて、そんなに年を取ったのかと驚くと同時に、どこか父親が小さくなったような、弱くなったような印象を受けた。陰影のせいかもしれないけれど。
父親は顔を前に戻して静かに言った。
「お前は、真理の子供だ。お節介で、口は悪いが根が優しい――真理の子供……」
「……あんたの、子供でもあるんじゃないのか」
「そう思わない方がいい。私には、似てくれるなよ」