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波に揺蕩う帆船  作者: 小々野秋紀
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一話

 それ、一生は夢の内の夢、誰か百年の齢を保たん。万事は皆空し、いづれか常住の思ひをなさん。松は千年を経ると(いへど)も、終に朽つる時は槿(きん)(くわ)一日の栄にはしかじ。花も紅葉も一盛り、風吹かぬ間の命なるに、何はの事も葦垣の間近きほどに問はれねば、人の辛きが身の憂きと思ひなせ。憎み(ねた)む事浅ましき御事なり。


                    (「磯崎」『室町物語草子集』より)



 そう、夢のようだと思う。

 目が覚めていてさえ、時々、ふとした瞬間そのような感覚がさあっと全身を吹き抜ける。

 夢のようだ、というのもポジティブな意味ではなく、起きて生きていてもどこか魂――というものが存在すればだが――が浮遊して俯瞰(ふかん)している、もしくは目の前の物や出来事は夢幻のような儚い、何の意味もなさないもののように捉えてしまう、という感覚による例えだ。

 夢の中に自分はいない。確たる自分が、核たる自分が、そこにはいない。

 現は迷い、惑い、そして結局何かに流され行く。

 波間波間の熱い思いも、冷たい感情も、息の詰まる苦しさも、心に細い筋の傷痕を残す切なさも、持ち合わせているというのに――。



「――あっ、起きた」

 (とぼ)けたような声がして、次にはにやにやと笑いながら覗き込むように見てくる磯崎の顔が近づいてきた。

「おはよー」

「なんだよ……じろじろ見るな……」

 神山は鬱陶しそうに言って、顔を隠すように寝返りを打った。磯崎はベッドの上だというのに人の身体の上を飛び越え、またも顔を覗き込もうとしてきた。

「おい……!」

 ふふふ、と磯崎は笑った。

「いいじゃん、神山くんの寝顔、あんまり見られないんだから。寝るのが遅いのに起きるのが早いんだもん」

「お前が寝すぎなだけだろ」

「えー、そうかなぁ」

「というか、だから、じろじろ見るなって」

「いいじゃんいいじゃーん。好きな人が幸せそうに寝てるのを見て、私も幸せに浸ってるのー」

「よく言う」

 神山はいきなり両手をのばして磯崎の薄茶色の柔らかい内巻きボブをぐしゃぐしゃにしてやった。

「うわー! ちょっとお! もー最悪っ!」

 文句を叫びながらベッドから飛び降りて鏡の前へ走っていった。磯崎の撃退法だ。

「髪整えたばっかりなんだからね、やめてよ」

「朝っぱらから嫌がらせをしてくるからだ」

「嫌がらせじゃないしー。最悪ぅ、帆波くん最悪ぅ」

「おい……」

 眉間にしわを寄せ、神山は半身を起こした。

「何ですか、帆波くん。帆波くんってば。おーい帆波くん。ほーなーみーくーん」

 手櫛で髪を整え直した磯崎が振り返ってわざとらしく神山の名前を連呼した。

「お前なぁ……」

「なによ、いいじゃん名前で呼んだって。気にするほど女の子っぽい名前じゃないし。それにほら、もう付き合って長いんだし、私のことも下の名前で呼んでくれたっていいでしょ」

「年数は関係ない。嫌なものは嫌だ」

 そっけなく返されて磯崎は口を尖らせた。

「えー、私だってヤだー。いつまでも磯崎じゃつまんなーい」

「名前を呼ぶのにつまらないも楽しいもないだろ」

「ある。私は今最高につまんない!」

 駄々っ子が要求を通そうとするように磯崎は神山を睨みつけた。

「磯崎」

 ――磯崎……。

「真理子」

 ――今まで夢でさえ会うことはなかったのに。

「磯崎」

 ――ついぞ名前で呼んでやることもなかった。

「真理子!」

――なぜ、今更こんな夢を……。

「磯崎、ぶうたれてないで、おいで」

 神山はベッドから手を差し伸べた。磯崎は仏頂面でしばらく睨みつけていたが、やがて乱暴に神山の胸に飛び込んだ。ぐえっ、と神山は短い悲鳴をあげた。

 ――夢……?

「おいでとか言うな。ふん、なにを偉そうに。この憎たらしい男め」

 言って、神山の両頬をつまみあげた。

「やめんか。――まったく。はいはい、悪かった」

謝りながらも軽く笑い、神山は磯崎の柔らかな髪を優しく撫でた。

――これは夢、なのか。

頬を撫で、首を撫で、腰を撫で。

――これは……。

――これは、俺の、記憶……?



衝撃のすぐ後に痛みを感じて、反射的に閉じた目を神山は再び開いた。

頬から口元にかけての痛みと、目前に立ちふさがる黒いスーツ姿の男のつくった握り拳を見て自分は殴られたのだと理解した。

口の中に鉄に似た血の味が広がった。その味にも殴られたことにも不快を感じずにはいられず、血混じりの唾を床に吐き棄てた。

「あなたも勝重も、本当に犬を飼うのがお上手だ。いや、羊と言ったほうがいいか」

 神山の皮肉は、スーツの男を通り越し、その後ろの男に発せられた。男は、スーツの男に守られるようにして一人掛けのソファにゆったりと座っていた。金髪の若作りの男、――ジンボ。

 どこで見つけてくるのか、服装はいつも派手な色や柄で、今日もまたスパンコールが肩から斜めに裾に向かって飾られたレモン色のシャツ、ゼブラ柄のズボンときていた。上から白衣を被ろうと隠せない。年の頃は二十代後半に見えるが、その実、侑祁(ゆうき)の生みの親――というべきか創みの親というべきかは神山には判断しかねるが――であるからして、若くとも四十から五十、噂では六十を過ぎる神山の父親と同年代だとも聞く。

 神山は手中に収めた小型の銃をジンボに向けて構えなおした。

「貴様まだ……っ!」

「いいよ、(しん)くん」

 再び殴りかかろうとしたスーツの男をジンボが制した。

「いつもの戯れさ。――ね」

 笑いかけられても神山はジンボの顔をじっと見据えたまま微動だにしなかった。なのにジンボはくつくつと笑った。

「撃つつもりもないのに、きみはいつまでそうやってポーズを取り続けるんだい」

「さて、どうでしょうか。ポーズかどうかなんて」

「僕を殺したらきみの要求は通らない。というか、成立しないだろう?」

「死なないところを撃ちますよ」

「同じことさ。僕が生きていてそんな仕打ちをしたきみを許すはずがないだろう? 結局要求は通らず仕舞い。脅し方が(つたな)いよ、帆波くん」

 神山は軽く唇を噛んだ。

「あなたは今、ご自分に銃口が向いているのを軽く見ている」

 困った子だ、とでもいうように半ば呆れた笑いを顔に浮かべてジンボは息を吐いた。

この男に銃での脅しが効かないことなどわかっていたはずなのに。短慮が過ぎた。周りから短気だの怒りっぽいだのさんざん言われてきたが、今回ばかりは神山も自覚した。

しかしながら、ここで引き下がるつもりもなかった。確かに銃を出してしまったことは配慮に欠けたが、怒りのもとを解消しなければ気が済まないし、このままではジンボにまたも気に障る言動を何度も繰り返しされてしまう。

「――それで、どちらになさる。親切に二択にして差し上げたのだが」

 そうだなぁ、とゆったり呟いてジンボは顎に手をあてた。

「アダムの前に姿を現さないか、アダムを傷つけないように振る舞うか、かぁ」

 少しの間考え込むようにしてのちジンボはやんわりと答えた。

「やっぱりどちらをのむこともできないなぁ。姿を現さないようにといってもアダムは僕の研究対象だよ? カンダみたいにデータだけを相手にするなら構わないだろうけれど、僕のは彼と直に接しないことには始まらない。それを諦めてまでのんであげようと譲歩するほど魅力的な要求でもなければ、屈するほど恐ろしい脅迫でもない」

 くすりと小さくジンボが笑ったので、神山は恥をかかされた気分で思わず睨みつけた。

「もう一方の、傷つけないように振る舞う? ――さて、僕には傷つけた覚えがないのだけれど。アダムが傷ついたと訴えているのなら、そうなのだろう。でも僕は、故意ではないのだよ。感じ方や考え方が異なる人間同士の交流の中で、傷ついたと思うこともあるだろうさ。それは仕方のないことだとは思わないかい? だからといって、ああ言われて嫌だった、こうされて嫌だったと訴えることを否定しているわけじゃない。その訴えに対して反省なり拒絶なりを決めるのは、訴えられた人自身にあるんじゃないのかな。そうやって脅して態度を改めさせて、相手が望む言動をとるよう強制させるのは、はたしてどうなのだろう」

 嘆息し、ジンボは頭を振った。

「故意ではないのに、傷ついた傷ついたと指弾されるように言われたら、何やら悪者扱いされているようだし――実際されているのかな、姿を現すなって言われたし。逆にそれでこちらが傷つくやもなのに、それはお構いなしなのかな」

「知らん」

 神山はきっぱりと言い放った。

「そんな屁理屈じみた理論、俺の知ったことではない。俺はただ、あいつを傷つけないようあなたに言っているだけだ。そう、強制、命令、その類だ。道徳を問うているわけではないんでな」

 尊大な言い様にジンボは噴き出して笑った。

「勝手な――自分勝手な男だ。さすが(よう)の息子だよ」

 どのへんに洋――父親を連想させたのか神山には不明だが、その脳裏に父親の顔が浮かんだ。

「……侑祁は、あなたを慕っている」

 神山は軽く目を伏せ、ぽつりと言った。

「慕っているからこその恐れも持っている。思慕と恐怖に挟まれてもがき苦しんでいるんだ」

 そう、と打ったジンボの相槌は口調こそ柔らかいものの素っ気なかった。

「それに加えてあなたの言動はしばしばあいつを傷つける。慕っている分、深く傷つく」

「だからそれは僕にはどうしようもないと思うんだけどな」

 ジンボは困ったように笑って反駁(はんばく)した。そして、でも、と呟き神山に横顔を見せた。思案するように宙を見つめ、独白した。

「ずいぶんと、ヒト、だねぇ……」

 神山は目を見開いた。じわじわと頭に血がのぼっていくのを感じた。

 ジンボには何を言っても無駄だったのか。研究対象としてしか考えられないのか、接することができないのか、――胸が波立ってきた。

 黙する神山にジンボは溜め息をついた。

「きみもアダムも、僕に何を求めてるの?」

(今更そんなことを訊くのか)

「僕はもともとこういう人間だろう? きみたちと出会ってからも変わらない」

(それでもあいつは思慕するようになってしまったんだよ)

(お前の人間性を知ってもなお)

(だから苦しんでるって、どうにかしろって)

(そう言ってんだろうが……!)

「まさか帆波くんまで僕をアダムの父親扱いするつもりじゃないよね。昔アダムにはきちんと否定しておいたのだけれど」

(昔から余計なことを言ってくれたものだ)

「僕は親とかそういった面でアダムに関与するつもりはないよ。興味もないしね。だから彼を育てるのにきみや佐伯杢(さえきもく)をつけるのに賛成したんだ」

(だったら消えろ。姿を現すな)

「――でも、なるほどね」

 独り合点するように言って、おもむろにジンボはソファから立ち上がった。神山に近づこうとしたので、神山とジンボの間で控えていたスーツの男が止めようとしたが、反対にジンボに手で制止を命じられてしまった。

 神山の眉間には深くしわが刻まれていて怒りも露わだったが、硬直したように構えられたままの銃をジンボがそっと手で触れ、ごく軽い力で下に向けると、狙いを自身からはずすことができた。

 やんわりと微笑んでジンボはゆっくりとさらに神山に寄った。拳一つ半高い神山の背丈のおかげで、その耳元へと言葉を届かせようとしたジンボの首は自然と反れた。

「――感情移入がすぎるようだね」

 神山は横目でじろりと見やる。後頭部しか映らないが。

「アダムのために一生懸命働いてくれるのは喜ばしいことだ。でも、いきすぎは良くないな。看視と世話だけをしていればいいんだよ。誰がきみに、きみ個人の考えや感情をもとに行動することを許可したんだい?」

(どこが俺個人のなんだ)

(同情や共感がそうだとでもいうのか)

(どちらにしろあいつのためだろ)

(身の安全を守り、快適な生活を送れるよう面倒を見ろと命じたのはお前らだろうが)

「必要以上に愛情だの愛着だのを持たないような男をアダムにつけたつもりだったんだけど」

(お前らの見立て通りだよ)

(だから俺はあいつに何ひとつまともなことをしてやれない)

(救ってやれないんだよ)

「――失敗したかなぁ」

 ジンボの吐息が首筋にかかるのと同時に神山はチクリと痛みを感じた。

 驚いてとっさに飛び退くが、遅かった。ジンボの手には注射器。小さく、けれどもじんじんと痺れるように痛む首筋に神山は手をあてた。残る、何かを流し込まれた感覚。

「てめぇ……何をした。ふざけやがっ……!」

 悪態をつこうとした途端、強烈なめまいと吐き気に襲われてふらつくも、倒れ込むのは堪えた。

 再び銃口をジンボに――ジンボがいるだろう場所に向けた。目が霞んで狙いが定まらない。それどころか、萎え始めた足と、踏みとどまろうとする力とが拮抗し、膝がガクガクと震えては何度もたたらを踏んだ。

(――このやろう……っ!)

 薄れゆく意識の中で、ぼんやりと人の形をした影に向かって引き金を引いた。

 しかし一瞬の差で、スーツの男に手元を蹴られ、発射した弾は影を大きく逸れた。顔、腹と続けざまに殴られた神山は崩れ落ちるように床に倒れ、気を失った。

 ――なんとも間抜けな結果だ。

 ――本当に、俺は、どうしようもない……。

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