退勤花火と屋台飯
曇り空の20時30分。
会社を退勤してすぐ、私は後悔することとなる。
「あー……しまった」
駅までの一本道に、人が溢れかえっていた。
混雑なんて関係ないはずの幽霊さんも、不機嫌そうな顔で人を避けている。
「人、すごいですね」
「今日が最終日だから、21時までやるんだって。毎年混むから、この時期は早上がりシフトにしてたのに忘れてたなあ」
いつもは人通りの少ない道が一方通行に規制され、あちこちで警備員が誘導灯を振っている。
人が多いせいで湿度も熱気も増し増しで、むき出しの腕が溶けてしまいそうだった。
「……あっつい」
人目をはばからずいちゃつくカップルに、子供をなだめる親子連れ、仕事帰りに一杯引っ掛けてきたと思われるサラリーマン集団。
みんな目指すのは、駅の向こうにある河川敷。
真っ黒に揺れる人々の頭の向こう、どん、どん、どん。と激しい地鳴りが聞こえる。
時折、曇り空に光が乱反射し、白い煙が天に流れる。
「なにが最後なんです?」
「花火大会」
「花火!?」
私の油断しきった一言に、幽霊さんの目がぱぁっと輝いた。
どうやって駅に抜けるか。そんなことに頭を悩ましていた私は、幽霊さんの顔を見てぐったり肩を落とす。
「花火たってねえ、そんな大したことないの。普通のやつ。別に音楽や映像と組み合わせたり、そういう近代的なものでもないし、屋台も平凡なものばかりで」
「屋台!?」
私の言葉はドツボばかりだ。私の言葉を聞くたびに、幽霊さんの瞳が明るく輝いて、おやつを前にした子犬のような顔になる。
「はなび……やたい……」
幽霊さんはすでに心ここにあらず。
そんな姿を見せられると、私は折れざるを得ないのだ。
……甘い話だが。
「見に行く?」
ああ、私はこの悪霊にとても甘すぎる。
「OLさん! 焼きそばですよ!」
花火会場についた瞬間、幽霊さんのテンションが一気に上昇した。
「たこ焼きとか、かき氷とか!」
「うるさいよ。そりゃ屋台なんだから、焼きそばやたこ焼きくらい、あるでしょうよ」
夏祭りに来るのは10数年ぶりだ。幼い頃から人混みは苦手だったが、大人になってからは、ますます足が遠のいた。
(祭の風景は、昔のまんまか)
真っ暗な河川敷にひしめき合う、赤や青黄色の派手な垂れ幕、もくもく上がる白い煙。
店員は愛想のいい若いお兄さんか、愛想の悪いおじさんか。時折、訳ありげな女性の店員もいる。
皆、煙と湿気に巻かれながら、様々な食物を作っている。
黒い鉄板の上で小気味よくかき混ぜられる焼きそばに、巨大なたこ焼き、生クリームまみれのクレープに、焦げ跡も神々しい巨大な焼き鳥。
そんな屋台に、人々が群がっている。
コンビニとは違う無秩序と混沌がここにはあった。
「すごーい。あたし、本で見ました! 本のまま! かき氷のとこ、北極って書いてますよ! すごーい北極の氷なんですか?」
「そんなことあるわけ無いでしょ。そんなかき氷なら食べてみたいけどさ……ただの水道水に決まってる」
人混みをかき分けて私は進む。スマホを耳に押し当て、誰かと話すふりをしながら。
そもそも周囲の人たちは、屋台の光に夢中でこちらを見ることもしないわけだが。
「全部は買わないからね」
どん。と空が揺れる。わあ、と歓声が上がり、私の言葉はかき消された。
つられて見上げれば、灰色の空に大きな花火が上がるところだった。
ふわりと香るのは火薬と、熱気の香りだ。
ひゅるひゅると人魂のような白い塊が、夜のグレーの闇を切り裂いて登っていく。2つ、3つ。それは空にたどり着くと、パッと花開いて散っていく。
空気が揺れるたびに、赤や青の火花が空中を舞う。
きらきら輝きながら落ちてくるのは花火の成れの果てだ。
(花火ね……小学校ぶりかな……)
ぼうっと、私は空を見上げる。肌に張り付く汗の感じだとか、息苦しい人混みの感覚、色々な香りが混じり合うこの祭りの空気は独特だ。
花火大会に私を連れ出したのは父である。
ずっと娘と触れ合うことをしなかった父は、花火大会まで連れ出しておきながら無言だった。私の腕を掴んだまま、真っ直ぐに人混みを歩いていた。
焼きそばを食べたい。キラキラ輝く赤いかき氷を食べてみたい……そんな私の言葉は、すべて人混みにかき消された。
『祭に娘を連れて行った』、その事実だけがほしい……そんな歩き方だった。
結局、花火が始まる前に河川敷を一周した私達親子は、人波を逆走して駐車場へ戻ることとなる。
そして私は、花火の音を車の後部座席で聞いたのだ。
エアコンで冷やされた車の運転席には父が、助手席には見知らぬきれいな「お姉さん」がいた。
子供心にもわかる異常な空気。花火はフロントガラスを突き抜けて、二人の切ない横顔を複雑な色で染めていた。
……そんな、くだらない過去を思い出すから祭は嫌なのだ。
(あー嫌なこと思い出しちゃった)
じっとりと湿った腕をなでて、私はため息をつく。
しかし、その心の声を聞きつけたように、幽霊さんの明るい声が響く。
「楽しいですね、OLさん」
はっと顔を上げれば彼女は私の隣に立っている。
もっと高く浮かべば花火がきれいに見えるだろうに、彼女は私と同じ視線に立って空を見上げていた。
明るく無邪気な顔だ。花火は彼女の肌を輝かせはしない。光は彼女の体をすり抜けて、地面に色を落とす。
それでも心底楽しそうに彼女は空を見るのだ。
「死んではじめて、こんな楽しいところに来ました。音がすごいし、花火ってすっごくきれい」
屋台の向こう、河川の上で花火が開く。落ちる、広がる。
火薬の匂いと汗の匂いと、人々の歓声に……体を包む熱帯夜の湿度。
「きれいですねえ」
うっとりと幽霊さんはつぶやく。
その横顔にうっすら見惚れていた私は慌てて首を振って、隣に突っ立っていたカップルを押しのけて屋台に直進した。
今はちょうど花火のグランドフィナーレ。派手に打ち上がる花火に惹かれて、皆が空を見上げている。
そのすきに、私は屋台のお兄ちゃんに声をかけた。
「焼きそばと……ビールと……赤い……かき氷ください」
手に乗ったそれは、幼いころに叶わなかった夢の断片である。
「そういえば、OLさんって何歳なんです?」
「人生に行き詰まりを感じ始めた28」
花火が終われば人々はあっさりと駅へと後退を始める。
私はそんな人の列を避けて、河川敷の階段に腰を下ろした。斜めになった芝生広場には、酔っぱらいや若者が多数、居座っている。
帰宅客の音を聞きながら、私はかき氷を噛み締めていた。
溶けかけた甘い液体を噛みしめると、不思議と滋養があるような気がする。
じゃくじゃくと硬い氷の食感だ。粒が大きく、噛みしめると歯にしみる。時々ごりっとした、大きな粒も混じっている。
真っ赤なだけ。飾り気のない、ただのかき氷。北極の氷なんかじゃない、この辺の、ただの水道水。
こんなものを小さな頃、食べたくって仕方がなかった。
「……幽霊さんは、いくつ?」
「19」
「うそ」
かき氷のプラカップを落としかけ、慌てて掴み直した。
「お酒飲ませちゃったじゃない」
「法律って幽霊にも適応します? それに生きてればとうに成人してますよ。実はOLさんより年上かも」
「でもお酒はもうやめなね」
「えー。美味しいなって思い始めたのに」
腕を伸ばして首をかしげる幽霊さんは確かに、幼い。
ふわふわの髪も、白い肌も柔らかそうな頬も……いわれてみれば10代のものだ。
「最悪。10代に取り憑かれるなんて」
「そういえばOLさんは、なんであの仕事を選んだんです?」
かき氷を横から突きながら幽霊さんが言う。
彼女が氷に触れると、味は無くなるが氷は溶けない。近くに座るだけで、冷たい風が彼女から漂ってくる。
(……エアコンみたいで便利)
なるほど彼女は幽霊だった。こんな利点もあったのだ。
「仕事ねえ……コールセンターの非正規で、でも残業もほとんどなしがいいところ」
一時間ほど前に退勤したばかりの会社の方角を仰ぎながら、私はつぶやく。
あれだけ煩く鳴り響いていた電話もしん、と静まり返っているはずである。
朝になれば大勢の人間が行き交う。恨みの言葉も呪いの言葉も、行き交う、言い合う、飛び交う。
あの空間に、多くの人生が詰まっている。
「仕事は3日出勤一日休み。もう分かってると思うけど、私って友だちや恋人がいるわけじゃないからそのシフトでも問題なし。将来のこと考えるなら安定した仕事に転職するべきなんだろうけど」
コールセンターでは、よほどの失敗をしでかさない限り突然クビになることはない……そう教えてくれたのは新人研修をしてくれた大先輩だ。
離職率が高いので、センターが存在する限りクビにはならない。契約社員とはいえ、下手な正社員よりも安定した職だ。
私も定年まで勤め上げるつもりだ……そう胸を張っていた年配の大先輩は、とっとと好条件のコールセンターに転職していった。
「腰が重くって……ん?」
冷え切った焼きそばに口をつける……そして私は幽霊さんをにらみつける。
「幽霊さんまたつまみ食いしたでしょ」
焼きそばの端っこ、それはただ味のないもさもさとした塊になっている。
人参の切れっ端も、ぶちぶち千切れる焼きそばの麺も、焦げた玉ねぎも硬い豚肉も。すっかり味を失っていた。
「先いってよ、取り分けてあげるのに」
焼きそばを半分にかっきりと割って、半分をプラケースの蓋に乗せる。それを幽霊さんは目を細めて見つめている。
「あたし、今わかりました」
彼女が指と口を動かすと、蓋に乗った焼きそばはどんどん色を失っていく。不思議なことだが、彼女は食事ができるのだ。食べ物の『生気』を吸い取っているというべきか。
「何がわかったの」
その体に栄養を取り入れる意味など無いはずだ。彼女は死んでいる。餓死の心配も病気の心配もない。
なら、彼女はなんのために食べているのだろう。
「生きていた時、ずっと寂しくって、だから恋人にべったりだったんです。その人と、離れるのがつらくて、仕事に行く恋人に泣いてすがったこともあるんです」
空にはまだ花火の香りが残っていた。白い煙が夏の夜空にたゆたっている。
「恋人は優しいから、仕事休んでくれて一日中、あたしに付き添ってくれて、慰めてくれて、ずっとそばにいてくれて」
「独り身の私に対する嫌味?」
「でも、絶対にあたしのこと叱ってくれなかった。対等じゃなかったんです。だから、ずっと寂しかったし、ずっと満たされなかった。あたし……きっと……こんなふうにできる友達が、欲しかったんだなって」
ふっと、幽霊さんの肩が私の右肩にふれる。冷たくて質量のある……不思議な感触。不思議な重さ。
「0103353010」
ふと、幽霊さんが耳に数字を吹き込む。それは脳にするすると流れてきた。
……幽霊さんの恋人の、クレジットカード番号。
「やめてって」
「それはそれとして、言わなきゃ忘れそうで」
私が睨みつけても、幽霊さんはへらへら笑う。
「それにOLさん、かわいい。嫌がっても絶対離れないし」
「突き放さない理由を教えてあげようか」
食べ終わったゴミをまとめて、私はそれをゴミ箱に押し込む。祭のあとは、残骸まみれだ。
人はすっかり駅に吸い込まれた。ちょこちょこと残る人たちはまだまだ帰る気がないのか、花火の消えた空ばかり見上げている。
「あんたがいると涼しいから。それだけ」
歩き始めると幽霊さんが横にすり寄ってくる。確かに彼女がそばにいると、涼しいのだ。嫌になるほどに。
「きっと生きてた時に会えてたら……良いお友達になれましたね。OLさん、あたしのこと大好きになりましたよ」
「なるわけない」
いつでも前向きな幽霊さんに首を振り、私はさっさと駅へと足を向ける。私の隣を、女の子の二人組が楽しそうに通り過ぎていく。
楽しいことがあったのか、二人で笑い転げて駆けていく。まるで丸い玉が転がるような、そんな雰囲気で。
それを少し羨ましそうな目で見つめる幽霊さんを無視して、私は改札をくぐった。
……彼女がもし生きている間に出会えたとしても、周波数など合うはずもない。
今は巻き込まれてこんな状況に置かれているが、生きていればきっとお互いに一番苦手なタイプだったはずだ。
そんなふうに言い聞かせて、私は電車に滑り込む。幽霊さんも負けじと私の隣にぴたりと寄り添う。
それでも地下鉄の窓に映るのは、やはり私の顔だけだった。