連勤最後の呪いの言葉
「銀行強盗に通り魔にぃ」
今日も今日とて、相変わらず幽霊さんは呑気に浮かんでいる。
「コンビニの連続強盗未遂が頻発……コンビニってお客さん多いのに、強盗なんて成功するんですか?」
彼女は空中に寝転がったまま、壁の新聞をじっくり読んでいるのである。
「悪いこと一つしたら、もーっと悪いことが一つ起きます。だから悪いことなんて、しないほうがいいんですよ。ね、OLさん」
したり顔で説教する幽霊さんは、今日も腹が立つくらい可愛い顔をしている。
私の働くコールセンターには、妙な習慣がいくつかある。
そのうちの一つが、『壁貼り新聞』だ。
客からニュースについて質問されたことなど一度もないが、ネズミ顔の主任が毎日ちまちまと数社の新聞を壁に貼っていくのである。
オペレーターからすれば、それはただのオブジェ、ただの壁紙。しかしそんなものを、幽霊さんは楽しそうに読む。
彼女は家電のマニュアルからチラシまで余さず読む。とんだ文字中毒である。
「あ。これちょっとミステリーですよ。海の底から白骨の遺体が出てきてえ、すでに別の事件で捕まってた犯人が緊急再逮捕……世の中、怖い事件が続きますねえ」
「あのねえ。わざわざ新聞、声に出して読まなくていいんだけど」
「ニュース知りたいかなって」
「スマホで見てるから結構です」
今日の私は38番。ちょうど壁新聞のお隣だ。幽霊さんはそれをいいことに、私の上でとぐろを巻いている。
足が存在しないので、スカートがめくれようが開こうが平然としたものだ。
「だーって。OLさんがお仕事終わるまで、暇なんですもーん」
「トイレでも籠もってきてよ。前みたいに」
つん、と私は無視してヘッドセットの位置を調整する。
今はまだ夕方になったばかりだ。遅い昼ごはんを食べた後の仕事は、どこか気持ちがゆるくなる。
今日の客対応はすでに20人を超えた。クレーマーにクレーマー、そしてクレーマー。
脅し文句と泣き落しはどれも似たようなものばかりなので、そろそろ耳にタコだ。
「どうしてOLさんはこんな……怒られる仕事選んだんですか?」
「さあね」
コールセンターのいいところは、仕事中に幽霊と話をしていても目立たないことだ。
狭い席で足を組み、私はマウスの上で指を弾く。
隣の37番さんは必死にクレームに言い返している。その大きな声のせいで、私の声はかき消える。
「……お電話有難うございます」
かちり、と電話がつながる。いつもの流れ、いつもの音。
「お待たせいたしました。●●コーポレーション、鈴木がお電話をお受けいたします」
……そして耳元に響くのは、いつものクレームだった。
電話の長さは20分と少々。予想外に早く終わり、私はため息とともに節電のボタンを押す。
隣の37番さんが同情的な横目をよこすので、私も気持ちばかりの会釈をする。
耳元で発破作業でも行われているような、そんなひどい怒鳴り声だった。
息をつく間もない罵詈雑言は、却ってお見事ですらあった。
あれだけスラスラと罵詈雑言が浮かぶのは、ちょっとした才能だ。
「ひっどい」
ふ、と頬が冷たくなる。振り返るまでもない、幽霊さんが私の肩口から顔を出したのだ。
「あんなに悪口……ひどい」
幽霊さんは画面を見つめ、口をとがらせていた。
「別に。よくあるクレームだから」
私はできるだけ客観的になるように心がけながら、会話の履歴を書き連ねる。
そうだ、いつもよくあるいつものクレーム。
運が悪ければ一日のうち、2度は当たる、口汚いクレーム。
入社当時の8年前は心折れたものだが、もうすっかり慣れてしまった。
……慣れてしまっていいものか、わからないが。
(支払いはできないと頑なな姿勢……再架電の許可を得られず……再度のご案内を差し上げたところ、突然声を荒げられ……)
単調なグレーの画面、私の打ち込む文字だけが黒に染まっていた。
電話を受ければ、必ずこのような履歴を残す。これがあることで、次に電話を受けたどこかの番号さんは、この客の良し悪しを知るのである。
(突然、死ねと仰られ……)
書き連ねた言葉の冷たさに、私は慌てて文字を消す。当たり障りない言葉を書き込み、『再受電』のボタンを押した。
そうしてしまえば、さようなら。だ。
私に向かって死ねといったあの老女の記録は、数万件のデータの海に消えていき、運が良ければもう二度と会うことはない。
ほっと、息を吐いた瞬間。
「……あの人、もう寿命長くないかも」
私は幽霊さんの冷たい声で固まることになる。
そっと振り返ると、彼女はやっぱり宙に浮かんでいる。暇なOLのように爪をいじりながら、ぷかぷかと。
つまらなさそうな顔をして、子供みたいに唇を尖らせている。
「あたし、死期が見えるんです……というか……わかると言うか」
「え?」
「OLさんに死ねって、言ってたでしょ、あの人。ひっどいですよねえ」
先程の電話の主の声が、頭の中にさっと蘇った。
声の主は老女だ。カードの明細は、高額な宝石類。それも何種類も。いわゆる、悪徳商法のカモと呼ばれる存在。
近づいてきた悪いやつらに高額な商品を買わされて、捨てられる。
何度騙されたのだろう。
何度後悔したのだろう。
しかし老女の思いは、声からは読み取れない。
言葉尻も分からないほどの怒鳴り声と死ねと叫ぶ言葉の鋭さは、きっと寂しさと恐怖の裏返しだ。
「言葉って怖いんですよ。言葉は本人にそのつもりがなくても、口にした瞬間に取り返しがつかなくなるんです」
幽霊さんは淡々と、画面を見つめたまま言う。
しかし、先程の女性の個人情報ページはもうとうに消えてしまっている。
今見えているのは、受信中。と書かれた灰色の画面だけ。
「……呪いの言葉も同じで」
幽霊さんはつん、とモニターを突く。指はたやすくモニターを突き抜けた。
「相手を傷つける言葉は電話越しでも有効で、呪いの言葉になって聞いた人を不幸に陥れるんです……つまり、あのお婆ちゃんのひどい言葉は呪いになってOLさんに降りかかる……でも、そんなことはさせません」
「なに……を」
「返しておきました、呪いの言葉」
幽霊さんは恐ろしいほど可愛い笑顔で、私を見つめる。
「自分で死ねといったから、あの人は死ぬんです」
にこりと、魅惑的に微笑む。
「人を呪わば穴二つ……ですよね」
その言葉を聞きこえる前に、私は受信モードの停止ボタンをクリックしていた。
データと書かれたボタンを押せば、目の前にズラリと無機質なボックスが現れる。
(名前名前、名前、確かあの人……ああ駄目だ、名前は忘れた。そうだ、カード番号、確か)
何度も客の名前を呼んだはずなのに、すっかり抜け落ちている。しかし画面の片隅にあった16桁のカード番号、それだけは覚えていた。
私は、記憶力だけはいいのである。
(175……2……)
震える指は何度もミスタッチをした。手をおさえながら、なんとかキーを押す。失敗。押す……弾かれる。
私がこんな状況でもなお100名を有するコールセンターは平然としていた。お隣も後ろも真向かいも、自分の客に対応することに忙しい。
私が冷や汗を握りしめ、何度もミスタッチをしていることに気づかない。
「えー放っておけばいいのに」
「黙って」
頭の中に数字がぐるぐると回り始めた。一瞬だけ見た数字の羅列。数字を覚えるのは得意だ。
大丈夫、大丈夫。きっと思い出せる。
「OLさんって実はいいひと?」
「いいから」
「あたしだったら、あんなひどいこといわれたら……助けようなんておもわないです」
数字の最後は確か……1。祈るように打ち込み、検索のボタンを押せば……つい数分前に見た、同じ客の名前がそこにあった。
それを見た途端、私の体から長い溜息が漏れる。
(出ろ……出て……お願い)
恐る恐る架電を押せば、コール音が無機質に鳴り響く。
こんなにコール音を長く感じたのは8年間働いて、初めてのこと。
3コール、4コール。
……やがて、4と5コールのちょうど間で受話器を取る音が響く。
「さ……斎藤様でいらっしゃいますか? 私……」
電話の向こう、はっはっは。と聞こえるのは人の息遣だ。先程の老女の息遣いだ。
「先程の、コールセンターの……鈴木です」
それに気づき、私はほっとため息をつく。
先程まで息をつく間もなく怒鳴っていた人間とは思えないほど、電話の向こうは静寂である。
何があるのか、何をしているのか、全身の感覚を研ぎ澄ませて、私は耳だけで電話の向こうを探る。
「死ぬことは……あの……無いと思います」
小さな……軽い音を聞きつけ、私は思わず、そうつぶやいていた。
「死んじゃ、いけないって……思います」
電話線の空虚な向こう、小さく息を呑む声が聞こえる。
しん、と静まり返った音の中で、つばを飲む音と息をこらえる小さな音。
そして唸るような絞り出すような……小さな声。
「……なんで」
その声は、先程まで怒鳴り声を上げていた老女のものとは思えないほど、疲弊して、どろどろで、重苦しく聞こえた。
私はしばらく目を閉じて、心のなかでその声を何度もリフレインする。
コールセンターをしていて、怒鳴り声には慣れた。鳴き真似にも、嫌味にも、すっかり慣れた。
しかし疲弊した声、これだけは駄目だ。
そんな声を聞くたびに思うのだ。
私達、督促コールセンターのオペレーターは、いつも闇を覗き込み、闇に覗かれ、闇に一番、近いところにいる。
「……わからないけど、死んでもきっと……いいことなんて、無いと思うから。幽霊になると、真っ暗な世界で……ずっと過ごすことになって……」
時刻は夜をまわり、センターは俄然活気を帯びてきた。
クレームに泣き出す子、客の喧嘩を買うオペレーター。声が大きく響き、丁寧語も溶けてくる。
広い室内だが座ってしまえばオペレーターの頭しか見えない。黒や茶色、赤い髪……いろんな頭がゆらゆら揺れて蛍光灯の白い光がその上に注ぐ。
その中で私だけ、意を決するように言葉を紡いでいた。
「し……死んだら誰にも会えなくて、話もできなくて……すごく、寂しいと……そう、思います」
カラン、と電話の向こうで何かが落ちる音がした。
先程、聞こえた音だ。
それはきっと……薬の……瓶の蓋、ガラス瓶に触れるアルミの軽い蓋の音。
それが床に落ちて転がって、何かに当たる音が聞こえる。ぱら、ぱら、ぱら、と響くのは何か小さな……薬のようなものが床を散っていく音。
その音を聞いて、私は胸をぐっと掴む。心臓が跳ね上がるように動いている。
嫌な音だ。床に散らばる錠剤の音は、独特なのだ。ぴん、ぴん、と床をはねて壁に当たり、転がっていく。どこまでも、いつまでも。
電話越しにも、はっきりと聞こえる。
「……死なないで」
電話の向こうの声がかすかに揺れた。死ぬ、とも死なない。とも答えない。ただ、彼女は静かに受話器を置いた。
それは先程よりも、ずっと静かな切電である。
やがて、つー、つー、と無機質な音だけが私の耳に残された。
「優しいんだ。OLさん」
「……幽霊さん、やめな、そういうことするの」
私は震える指で再び受電、のボタンを押す。先程の客の情報は、再びネットワークの向こうへと投げ飛ばされて行ってしまった。
……これでよかったんだろうか。野良猫に餌をあたえるような真似だ。何も解決していない。何も解決しないのなら、手を出さないほうが良かった……そんな後悔が、胸を焦がす。
「幽霊さん、こんなことしてたら……もし……成仏したとき、地獄に落ちるよ」
私は真っ直ぐに、幽霊さんの顔を見る。
思えば、彼女の顔をまっすぐ見つめるのは初めてのこと。
琥珀のような、鳶色のような、色素の薄い瞳が驚くように丸く広がる。
「幽霊さんは悪いこと、しないんでしょ?」
「OLさん、もしかして心配してくれるんですか?」
しかし震える私に反して、幽霊さんは呑気なものだ。彼女は口を手で覆い隠すと、その場に似合わないような赤面を見せた。
「……嬉しい……よかった、呪い返しして」
もじもじと恥ずかしそうに顔を伏せる彼女を見て、私は確信するのである。
……ああ、やはり彼女は悪霊だ。