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休日前のアメリカンドッグ

 オシハライ ハ イカガサレマスカ。

 

 機械音みたいな声の店員に電子マネーの名前を告げて、私はスマホをレジに押し付ける。

 軽やかな音とともに、私の銀行口座から千円と少しが落ちていった。

 カウンターに上げたカゴの中には焼き鳥、アメリカンドッグ、プリンにポテトチップス。罪悪感増し増しのビールとハイボール。

 ……そして、ほんの罪悪感冷ましのカップサラダ。

 まるで今から友達と家で飲み会でもするような、陽気な買い物である。

 袋詰をする店員も、まさか目前の客が今からこれを幽霊と飲み食いするとは思っちゃいないだろう。

 袋を受け取り振り返ると、幽霊さんが不思議そうに首をかしげている。

 彼女が見つめているのは、私が鞄にしまい込んだスマホ。

「電子……マネー? その四角いのでお金……?」

「知らない? 幽霊さん、どんだけ箱入り娘なのよ……」

「あ。駄目。待ってください」

 ため息を付いてコンビニを出ようとすれば、幽霊さんがふっと私の手をひいた……いや、私の体を包み込んだ。

「OLさん……」

 幽霊さんの白い腕が私の肩を抱きしめて、白い頬が顔にふれる。

 人に抱きしめられるなんて、もう10数年以上経験ない。

 そんな久々の経験がこんな冷たい腕なんて誰が想像しただろう。

「な……幽霊さ」

 幽霊さんの細い腕が、長い髪が、体にまとわりつく。

「つめた……っ」

 煙みたいな体のくせに、触れるとちゃんと女の子らしい曲線の感触があるのが不思議だった。ただし体温は氷のように冷たい。

 この感触は……冷たい綿あめだ。柔らかくて、甘い。

「幽……」

 息を吸えば肺が冷えて、口の中が冷たくなる。ひゅ、と喉が鳴れば、まるで氷を噛んだときのような息が口から漏れる。

「あぶないです」

 幽霊さんが白い手をまっすぐに伸ばす。まるで踊るように軽やかに。

 その手は、自動ドアに向かっている。外は夏らしい熱気だというのに、私の体だけが異様に冷たい。

「このひと、あたしのだから。触らないで」

 吐き捨てるような幽霊さんの声に、皮膚が総毛立ち……髪がチリチリと音を立てる。

 目がちかちかとして、まっすぐ前を見ていられない。それでも目を見開けば、自動ドアがぐにゃりと歪む。

 ……そして、目の前で小さな光が激しく散った。

 その光はまるで小さな爆発だ。白い煙が、ふわりと店の天井に上がっていく。


「……やったあ。あたしの方が力が強いみたい」


 次の瞬間、皮膚に温度が戻ってきた。耳にはコンビニのざわめきと、音楽が。口には冷たい感触が。

「通りすがりの幽霊がいたんです。OLさん、腕掴まれたでしょ。取り憑かれるところでしたよ」

 幽霊さんの目線を追ってみれば、コンビニの天井に人の顔のようなシミがある。それはまるで嗚咽を零すように口を開いては閉じている。

「……あれ、どうなってんの……」

 私は崩れそうになる体をコピー機で支える。指が画面に触れて、明るい電子音が響いた。

「悪霊ですよ。えいって追い払ったら、天井にぶつかって一体化しちゃいました」

 幽霊さんは唇に拳を当てて、きょとん。というふうに首をかしげてみせる。しかしその大きな目は、すっかり冷え切っている。

「あそこで、あのままずーっと住み続けるんじゃないですかねえ?」

 幽霊さんが追い払ったという悪霊は、悔しそうに苦しそうに天井に張り付いている。ぽかりと空いた目は、真っ黒でまるで闇のようだ。

 目は口ほどに物を言う……しかし、目が無いだけで、こんなにも恐ろしい。

「何かを後悔してる。って顔してますね。まあ幽霊なんて何か後悔してるから成るようなものですけど」

 幽霊さんは悔し涙を零す悪霊を茶化すように、天井すれすれを飛んで笑う。

「駄目ですよ。このOLさんは私が先に目をつけたんだから」

「へ……変な言い方しないでよ」

 幽霊さん曰く『触れられかけた』という私の腕には、くっきりと手の形が残っている。

 赤黒い……指の跡。

「コンビニって幽霊多いんですね。人が集まるからかなあ。前から結構多いなって思ってたんです。特に悪さをしないから、無視してましたけど」

 しかし幽霊さんは呑気に背伸びなどしてみせる。そして振り返って私に言うのだ。

「あたしがいてよかったですね。OLさんも気をつけてくださいね。憑かれやすいみたいだから」

「……幽霊が……よくいうよ……」

 私の身に起きたことなど、生きた人間は誰も気づいていない。

 店員も客も、配送員も。誰も気づかない。ただ入り口で呆然と立ちつくす私のことを面倒そうな顔で見ていくだけだ。

 店内には呑気な音楽が流れ、時刻は15時過ぎ。店内にいるのは小さな子供と母親、通りすがりのサラリーマン。そんなものだ。夜のコンビニより、ずっと穏やかな時間が流れている。

「あれも幽霊?」

 コンビニの隅っこに、ジャージ姿の男がぼうっと立っているのを見て、私は思わず幽霊さんにささやきかける。

 真っ青な顔、震える腕。ジャージにボロボロのスリッパ。まったく生きている感じがしない。

「やだなあ。あれは人間ですよぉ。OLさん、人間と幽霊の区別つかなくなったらまずいですよ」

 幽霊さんはすっかり興味を失った顔で、ふわふわと自動ドアをすり抜けていく。

 外に出れば、吸い込む息さえ熱い熱波が私を襲う。コンビニの究極の冷房と幽霊のせいで冷やされた体にじわじわと熱が戻っていく感じがした。

 生きているとは、『温かい』ということである。人間、やっぱり体を冷やしてはいけないのだ。

「ねえねえ。早く帰りましょ。あたし、お腹すいちゃった」

「内臓なんてもう無いくせに」

「気持ちの問題ですよ。胃はないですけど、お腹は空くんですっ」

 コンビニからアパートまでは、まっすぐ一本道。

 平日の昼間は車も人も少ない。

 日差しを避ける場所一つない道を、私と幽霊さんは歩く……正確には幽霊さんは飛んでいる。

 敷き直したばかりのアスファルトに落ちる黒い影は、私のものだけだ。

 そっと、宙に浮かぶ彼女の白い腕に手を伸ばしてみても、動いたのは私の手だけ。彼女の影はグレーにさえ映りはしない。

「生きてたとき、あたしも外を歩いて日傘をさしてみたいな~って思ってたんですよね。きっと外に出るなら日傘を持たなきゃ、日焼け気にしなくちゃって。でも実際は差すのって面倒でしょ? だからこんなふうに日焼け気にしなくていい今って最高」

 幽霊さんは夏の日差しの下、汗一つ流さずふわふわ遊ぶ。


 ……彼女の感じる世界は、どんなものなのだろう。私はふと、そう思う。


 汗も流せない。暑くもない。温度もない。そんな世界。私から離れると、真っ暗な闇に投げ込まれる。そんな人生。

「……あたし、性善説を信じてるんです」

「難しい言葉しってんね」

「本が好きだったので。OLさんが寝たあと、本読ませてもらってます。もう全部読んじゃって、今は電化製品のマニュアル読んでるところ」

 くるくると、彼女は空中で回転する。そんなふうにすると、水族館のイルカみたいだった。彼女の体からあふれる綿あめみたいな白いモヤがくるくると、夏の日差しに溶けていく。

「性善説……良いことをしたら見返りがあるって。あたし、信じてます」

「そういう意味だったかなあ、それ」

「きっとそうですよ。詳しくは知らないですけど……だから、OLさんを助けてあげたら一ついいこと。これが重なっていくと、きっとOLさんはあたしのために、彼氏のカード番号調べてくれるって」

「なんやかんやで前向きだよね幽霊さんて……」

 アパートのセキュリティを抜けて館内に入ると、一気に額から汗が吹き出した。閉じられた空間は外よりいっそう蒸し暑い。

「昼あがりシフトってさあ、真っ昼間に帰ることになるから嫌なのよね」

 ここに越してきてもう8年になる。ブラック企業から逃げ出して、大急ぎで家を決めた日はたしか真っ暗な夜のことだった。

 ひどく冷え込む冬の夜、私は一人ぼっちでこのアパートに転がり込んだのだ。 

 あれから8年。まさか幽霊と帰宅する日が来るなんて、思いもしなかった。

 小さな鍵を取り出して、鍵穴に差し込み、回す。もう数千回はやった行為。しかし手が震えて、鍵が滑る。

 ……腕に、まだ、あの黒い跡が残っていた。

(今更、幽霊を怖がるなんて……)

 幽霊さんに気づかれないように、息を吸い込み、鍵を回す。

 案外、先程の件は恐怖となって私の中に染み付いているらしい。

「幽霊さんってさあ……後悔したことって、あるの?」

「ん~。生きてる間に勇気を出して外に出ておけばよかったなって、それくらいです。OLさんは?」

「……幽霊さんと出会ったこと。あのとき、トイレ我慢しておけばよかった」

 私は誤魔化すように愚痴りながらアパートの扉を押す。


 中にこもっていた黒い空気が、地面を這うように蠢いた。

 

 それは人の顔にも見える、黒い影。その影は一斉に、私を見つめる。私を笑う。私を手招く。

 しかし、それは、幽霊さんが一歩室内に進んだ瞬間、全て、消え失せた。

 ……これは幽霊ではない。

 私の重苦しい……溜め込んだ、後悔とか過去の思い出だとか、そんなくだらないものだ。

 それが時々、こんなふうに顔を出す。それは幽霊よりも、ずっと恐ろしいものだった。

「早くご飯にしましょうよー」

 すっかり綺麗になった部屋の真ん中を陣取って、幽霊さんは呑気にいう。

 私は机にポテトチップス、アメリカンドッグ、焼き鳥を並べてプリン2つは冷やしておくことにする。

 開けた冷蔵庫の中は生活感のない空虚さ。8年前からここに生活感なんてものはない。

 2つ並んだプリンだけが、初めてこの家に誕生した『生活感』だ。

「わ。アメリカンドッグって美味しい! アメリカンドッグが甘いからハイボールによくあいますね」

「まって! アメリカンドッグ一本しか無いんだから先食べないでよ、味なくなっちゃうじゃない」

 頬を抑えて幸せそうに空中回転する幽霊さんを叱りつけ、私は味が薄くなったアメリカンドッグをかじった。

 かさかさに乾いた甘い生地に、ウインナーのしょっぱい味わい。ケチャップとマスタードが唇に張り付いて、ひりりと痛い。

 アメリカンドッグに飽きれば、むっちりとした焼き鳥を一口。

 甘いアメリカンドッグも、しょっぱい焼き鳥も一気にビールで流し込む。発泡酒特有の、酸っぱくて軽い泡が私の胃をきりりと痛くする。

(後悔……か)

 ふと、コンビニの天井に張り付いた幽霊のことを思い出した。

 恐ろしい空虚な瞳の中に、後悔の念が染み付いていた。そもそも何かを悔やんでいるからこそ、幽霊になるのだと幽霊さんも言っていた。

(私も、そうか)

 ……私はいつか本気で後悔する日がやってくるだろう。

 適当な生き方、信念を持たない勤務態度、希薄な人間関係。

 私は実家を飛び出したとき、その『いつか』が来ることを、ただ怯えていた。

 しかし、まだ後悔は訪れていない。

 後悔から逃げて生きてきたら、幽霊と出会ってしまった。

 幽霊さんに出会った賑やかさのおかげで、しばらくは死ぬことや薄暗いことを考えずに済む。

 それが不思議と嬉しい。しかし同時に焦りとなって、私の心を傷つけていく。

(私も死んだら幽霊になるのかな)

 ……私の人生は、ゆるやかに自殺に向かうための積み重ねである。

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