10連勤目の絆され2
地獄の10連勤目。連続勤務最終日、という最後の頑張りどころ。
……しかし幽霊さんは相変わらず私の後ろにぴたりとついたまま、あとを追ってきた。
「あのねえ。何度言われても、カード番号は調べられないから」
「じゃあ、ここでみてます。後ろにいるくらい、いいですよね。もしかしたらいつか、彼氏の番号からかかってくるかもしれないし」
今日の席は奇しくも4番。呪われた数字だ。
「かかって来ても、買った商品なんて調べないからね」
私はヘッドセットをつけて、仕事をするふりをしながら幽霊さんに反論する。
幸い、まだ左右の人は出勤していない。
時刻は定時の5分前である、9時25分。
ぼつぼつと人が入りつつあるコールセンターには「おはようございまーす」が飛び交い、いつもと変わらない陰鬱とした明るさがあった。
「あのさあ。視線が気になるから離れててほしいんだけど。せめて、トイレとか」
「離れると世界が暗くなっちゃうんです。ひどい。あんなところにまた、戻れっていうんですか?」
「できれば成仏してほしい」
「4番さん、うるさい」
思わず大きくなった声を聞きつけて、後ろの席の人が神経質そうに席を叩く。
私は亀のように首をすくめて、自分のPCに向かい合った。仕事のふりを、また続ける。
いや、「ふり」ではない。仕事ははじまっている。
客の声を聞くうちに、気持ちがどんどんと落ち着いた。やはり日常を続けるのが一番の薬である。
「OLさんはなんで番号で名前呼ばれるんです?」
「職員が100人以上いるから覚えられないんでしょ」
「OLさんは田中さんじゃないんですか? だってそう名乗ってるじゃないですか」
幽霊さんは相変わらずうるさい女だった。
昨日、彼女に抱いた恐怖はすっかり消え失せ、今では彼女が私の体をすり抜けても何も思わなくなっていた。
「お寺でもいけば悪霊退散してくれるかなあ……」
「効きませんよ、あんなの。前のお婆ちゃんがさんざんやったけど、無理でしたもん」
くだらない話をしているうちに周囲はがやがやと賑やかになっていく。周囲を見れば100席は全て埋まり、皆必死に電話を受けていた。
どこかの席ではオペレーターが困ったように手を上げて、 スーパーバイザーが駆けていく。
別の席では無駄話をするオペレーターが叱られ、遠くの席では主任と女が人前にもはばからず相変わらずいちゃついていた。
私は通りすがりのチーフから「田中さん、これよろしく」と書類を投げつけられ、ため息をつく。
……いつもの日常、いつもの毎日。ただ、後ろに幽霊さんがいること以外は。
「それ、なんです? 書類って?」
その非日常な幽霊さんは私の肩越しに書類を覗き込んでいた。
「ストレスチェックの用紙。これを月に一度、提出するって義務があるの」
「へえ。たくさん文字があっていいですね。ストレスを感じてますか? 夜眠れますか? ご飯は食べてますか?」
幽霊さんといえば、じっと活字を見つめて目を輝かせている。子供みたいに。
(こうしてみれば、ただの可愛いだけの子なのにな)
私はインクの減ったボールペンでぐりぐりと、適当にチェックしていく。名前の項目に書く文字は数字7桁、いわゆる管理番号だ。
「名前、書かないんです?」
「鈴木って呼ぶ人もいるけど。要はなんでもいいの、識別できれば」
……もちろん、仕事では本名で呼ぶのが当たり前だ。上司はちゃんと私の本名を知っているし、給与明細には管理番号とともにその名前が刻まれている。首から吊るしている社員証になって、顔写真とともに名前はちゃんと刻まれている。
しかし、こちらが隠せば、名前など誰も突っ込んでは来ない。
このコールセンターには、人に『一歩踏み込まない』そんな都会的な冷たさがある。その空気が心地いい。
「失礼な人たちですね。人のこと、バカにしてます。名前を呼ばないなんて」
「名前、教えないよ」
「いいですよーだ。あたしだって教えてあげないんだから」
幽霊さんは相変わらず暇そうに爪をいじり、くるりと回る。かと思えば、灰色の天井に触れるなど、自由気ままだ。
私は数人分のクレームを倒し、ぐったりと椅子の背もたれに背を預ける。
クレーム対応が得意、といっても毎日毎日10日も、悪意ある言葉を聞き続けるのはさすがに疲労する。
周囲を見れば100名みっちり詰まったこの場所は、薄暗い雲海がたなびいているように見えた。遠くにある窓の向こうは、まばゆいばかりの青空だ。
そうだ、今は夏だ。日差しが白く、空は青い。車のクラクションの音に、風の音。
シフト制のせいで曜日感覚はすでにない。
しかし広い部屋の中、波のようにたゆたゆと広がる人の声は不思議と心地がいい。
都会のビル、季節感を忘れて密やかに人の集まるコールセンター。
……なるほど、こういう場所なら幽霊は集まりやすいのかもしれない。
「ね、OLさん」
やがて外の空気は朝から昼へと移り変わり怠惰な空気が流れる頃、幽霊さんがモニターを覗き込み、にこりと微笑んだ。
「あたしって、かわいいじゃないですか」
相変わらず腹の立つ一言を付け加えると、彼女は机の上に転がるマニュアルをじっと見つめた。
何をどうしたのかわからないが、手も触れずにマニュアルがぺろぺろとめくれていく。
くだらないことを書いてあるマニュアルを、幽霊さんは楽しそうに読んでいる。
「あたし、小さな時から親の職場に良く連れて行ってもらったんです」
彼女の幼い頃はきっと、天使のように可愛かったのだろうな。と、私は不意に思った。
この遠慮のなさは、人に嫌われたことのないそれである。
「座ってるとお菓子とかほめ言葉いっぱいくれるんです。で、あたし本を読むのが大好きだったから、会社にある本とか書類をいっぱい読んでました。そうしたら皆、かわいいね、賢いねって褒めてくれるんです」
「幽霊さん、友達居なかったタイプでしょ」
「い……居ますよ」
「誰よ」
ストレスチェックシートに就業マニュアル。幽霊さんは文字の虫のように、じっと文字を目で追いかけ、首をかしげる。
「友達……えっと……ほら、OLさんとか」
「あのねえ」
私は画面を眺めながら呆れ顔になる。
時刻は昼を回った。今日は連勤最終日なので勤務は昼休みなしで14時までだ。どこへ行こうか、いつもならわくわくと胸を高鳴らせるところである。
……しかし、今日に限ってこんなお邪魔虫がいる。
また一人クレーム客をなだめすかして、私は切電のボタンを押した。
「私、友達じゃないから」
「……あたし、親に外に出るなって言われて育ったんです」
しょんぼりと、幽霊さんがつぶやく。
「かわいいけど、かわいいだけだ。バカだし体も弱いから、外に出たら死んじゃうぞって……まあ、親の言うことは正解だったわけですけど」
声に力がない。悲しそうに眉が下がる。
「そのうち、彼氏ができて、そんな人生おかしいって。連れ出してくれて一緒に住んだんですけど、やっぱり働くなって……お前はかわいいだけで働く才能はないからって。それからはずっと彼氏の部屋から一歩も出ずに」
太い眉毛が、子犬のように下がっていく。
ああだめだ。その顔は、だめだ。
「一人でちゃんと外に出たのは、あの、死んだ日だけなんです。だから、死んだとき、すごく悲しかった。外はこんなに広くて、色々なものがあって……自動販売機にも触ってみたかったし、コンビニにもスーパーにも行ってみたかった。って思って……今は、OLさんと一緒にいると、世界がいっぱい見られて楽しいんです」
そんな顔は、反則だ。
私はぎりぎりと歯を噛みしめる。ただの悪霊だというのに、こんな顔をされるとかき乱される。
かわいそうに……などと、心にもないことを思ってしまう。
私はヘッドセットをとって、指で机を弾く。机に置かれたストレスチェックシートには、ストレスマックスの箇所に、真っ黒な丸をつける。
「幽霊さん」
時刻は14時を示していた。
昼あがりの人たちが、続々と帰り支度をはじめ、昼からの人たちがゆるゆると入り口に集まりつつある。早くこの席を……あたらしい4番さんに明け渡さなくてはならない。
「……どこか、行きたい?」
甘やかしてるなあ。と私の心の奥から声が聞こえる。それを取っ払い、私はとっとと立ち上がった。
「え?」
「もう上がりだから。どっか行きたい所ある?」
太い彼女の眉が、ぱぁっと明るく上がる。大きな目がきらきらと輝く……死んでいるくせに。
「コンビニ!」
「何食べたいの」
「焼き鳥!……あっと、えっと、それと……ホットドッグと、それと……プリン!」
ぴん、と手を上げた彼女を見て、私は思わず笑ってしまう。
「食べすぎ」
「あの、あの。えっと、いいんですか? 好きなもの買っていいいんですか?」
「給料日だから。それに明日休みだし」
席を立てば彼女はふわふわとついてくる。紅潮した頬を見て私はふと、悪くないな。などと思ってしまう。
こんな相手、これまでの人生で一度もなかった。
「一個だけだからね」
虫でも噛み締めたような私の声を聞いても、幽霊さんはくじけない。
まるで乙女のような顔で微笑む彼女は、やはり悔しくなるほど可愛らしかった。