退勤後の絆され1
私の人生は、ゆるやかな自殺だ。
……そう思っている。
地方の県庁所在地に生まれた私は、都会でもなく田舎でもない空気の中で育ってきた。
やがて地元の無名大学を卒業したあと、金ピカ新卒の私は東京へ。
新卒の私を引き抜いたのは、業界内でも有名なブラック企業だった。
わかりやすい新入社員の罠に落ちたものの、私は賢く半年でそこから逃げ出すことに成功する。
こんな賢い私だというのに、押された烙印は「入社半年で仕事をやめた落第者」だ。
おかげで次の仕事は見つからず、ようやく転がり込んだのが金融会社のコールセンターの契約社員。
別に電話が好きだったわけではない。
未経験OK、年齢学歴性別不問。その文字だけをみて飛びついた。家からアクセスがいいのもよかった。
100名のオペレーターを有するこの会社は、繁忙期以外は基本的に3日働けば1日休みのシフト制。給与は、生きていくには支障のない程度。
恋人も友人もなく、人生の目標もない私からすればこの生活に特に不服はない。
業務がクレーム対応のせいか、新人が50名入っても一ヶ月後に残るのは数名という、なかなかの離職率。
この仕事、長く続けられる人間は二つだけ。電話接客が天職である人、もしくは怒りに鈍感な人。
私は後者だ。
人間の怒りはさほど長続きしない。怒髪天を衝く怒りでも、数分に一度鎮火する瞬間がある。
そこでうまく消化してあげれば、彼らは驚くほどあっさりと怒りを放棄する。
恐怖も、それと同じだ。
恐怖は意外と長続きしない。
私の牙城は駅徒歩5分の安アパート。
壁も薄ければ隙間風も多い。利点といえば、案外セキュリティがしっかりしているのと、家賃のやすさ。何よりも、保証人不要の心強さ。
部屋は畳敷きの6畳に、フローリングのキッチン2畳。
部屋には折りたたみ机と薄い座椅子にテレビとベッドマットが転がるだけ。
洋服はカーテンレールに吊るせばクローゼットいらずだし、本だの文具だのはスーツケースに突っ込んでおけば事足りる。
だからこんな狭くても案外快適だ。
私は部屋に滑り込むと玄関のチェーンをしっかりはめて、カーテンを締める。
そして机にビールと焼き鳥を放り投げた。
ついでに冷凍庫に眠っていた冷凍ブロッコリーをレンジで温め、マヨネーズを乱雑にかける。
上に少しだけ七味をかけるのが好きだ。
味噌ダレがあればもっといい。でも今日は仕事終わり。『冷蔵庫をあける』『レンジ』『マヨネーズ+七味』これ以外の動作をしたくない。
侘しいながらも彩り豊かな晩御飯を眺め、私は座椅子に腰を落とす。
……同時に、かわいい声が私の耳に届いた。
「もう全然驚いてくれないんだもん。もしかして、慣れちゃいました?」
振り返るまでもない。
あの、女だ。
「あたし、幽霊苦手なんですよね。だから怖いポーズとかできなくって」
のんきな声に、私はいやいや顔を上げた。ちょうど目の前のカーテン、そこに女の顔が浮かんでいる。
工事現場みたいな灰色の遮光カーテンを通り抜ける女の顔は、シュールすぎる。
「だって、かわいいじゃないですか、あたし」
すっかり友達のような顔で、彼女はちゃっかり私の横に滑り込んだ。
……そうだった。幽霊相手に鍵もセキュリティもカーテンも、なんの意味もない。
「あたしって、怖いポーズとか似合わないと思うんですよね」
招かれなければ入って来ないはずでは……と考えて、私は首を振る。違う、それは吸血鬼だ。
彼女はただの幽霊。招こうが招くまいが、どこからでも入ってくる。
「先に名前、教えてください。ね? お姉さん」
小首をかしげながら、彼女はご機嫌だ。
「ただの……しがないOL」
私といえば、焼き鳥を細長い袋から取り出し、ビールのプルトップを片手で開けて、幽霊と目を合わせないように呟く。
「名前は言わないからね」
「OLさんは7番さんっていうんですか? それとも田中さん?」
私は黙って焼き鳥に噛み付いた。
コンビニの焼き鳥は、案外柔らかくて濃厚な味がする。噛みしめるとじゅわりとタレが広がって、もちもちと柔らかい。少し冷たくなっても、じゅうぶん美味しい。
むちむちとした肉を食べられるのは生きた証だ。
生きている証を求めるように私はひたすら肉を食う。
甘い、辛い、しょっぱい。その奥にある、濃厚な肉の味。あんなホットコーナーに放置されてなお、肉の味は残っている。この味が、私の活力となる。
「無視しないでくださいっ」
「いやだ。幽霊に名前なんて教えたら死ぬんでしょ」
「えー……そんなのただのオカルトじゃないですか……」
お前の存在が十分オカルトだ。と言いたい気持ちをぐっと堪えて私はビールを喉の奥に流し込む。
しゅわしゅわとした発泡酒は、いつもどおりの酸っぱい味で私は不思議と安堵した。
「じゃあ、じゃあ、あたしも教えてあげませんっ」
演技臭くぷいっと顔を背ける幽霊を見て、私は途端、面倒くさくなる。
「別にいい。興味ないし」
「……じゃあ……幽霊さん。って呼んで良いですよ」
じっと、彼女は私の顔を見つめ少し寂しそうに言った。
恐る恐る彼女の顔を見れば、なるほどやはりかわいい顔をしている。
まるでファッション雑誌から抜け出してきたような、小さな顔、真っ白な肌。
真っ白な光源にさらされて、あざといポーズをとるのが似合う、そんな分かりやすいアイドル顔。
死んでるはずなのにチークがまぶされたような薄桃色の頬。
眉の形は柔らかく、少し尖った唇は柔らかそうだ。首なんて折れそうに細い。
その首にかかる髪は柔らかい栗色で、ふわふわとウエーブしながら腰のあたりにまで広がっている。
これを人形のような顔、というのか。
そんな顔で彼女は首をかしげる。
「じゃあ、そろそろお願いごと言って良いですか?」
「いや」
喋っている間に、私の中から恐怖心がすん、と消えていく。
テレビをつければ、ちょうどお笑いの時間。ちょうどボケが面白いことを言ったらしく、派手なテロップが揺れ、どっと笑い声が湧き上がる。
それに合わせてお隣さんから、壁を蹴る音が響いた。
「じゃあ、じゃあどうしましょう。あ。先に仲良くなるために、コイバナでもしましょうか」
「興味ない」
「悲しい人生ですか?」
音量を下げながら、私は首を振る。
「興味ないし、そもそも幽霊って信じてないし、何より疲れてるし、もう怖くなくなっちゃったし、出ていってくれないかな」
「わあ。初めていっぱいお話してくれましたね。じゃあ、あたしも話し始めちゃいますね」
幽霊さんとやらは、一切動じない。こんなに動じない女を見たのは初めてだ。
私は焼き鳥を口にくわえたまま、呆然と彼女の顔を見る。
「あたし……記憶は曖昧なんですけど、死んじゃったんです」
「見れば分かるよ」
「んもう。黙って聞いててください」
息を吸う必要など一ミリもないくせに、彼女はすう。と息を吸い込む。そんな動作さえ、可憐に見えた。
「彼氏のマンションで一緒に暮らしてたんですけど、足を滑らしてベランダから落ちちゃったんです」
テレビでは売れないバンドマンの半生がドラマ仕立てで流れ始めた。リモコンを無駄にかえると、続いて夜のニュースだ。
3日続いた工場の火事がようやく止まった、けが人なし。
夏祭りの新名物登場、インターネットで大人気。
25年前に起きた事件の真犯人、緊急逮捕。名前は某芸能人と同姓同名……そんなニュースが淡々と読み上げられている。
今日も世の中は平和だ……私以外は。
「その理由っていうのが……同棲してた彼氏が、カードで女性の店の……服を買ってたんです。なんで分かるかって? 全部チェックしてますから」
「話の骨折って良い? それってさ、あなたへのプレゼントじゃなかったの?」
「……って、思うでしょ? でもその店、調べたらワンピースで有名なお店で」
幽霊さんは拳を握りしめてぶんぶんと振ってみせる。
「でもあたし、ワンピース嫌いなんです。ワンピース着てかわいこぶる女って大嫌いで」
私は焼き鳥の甘いタレをかみしめながら思う。
……彼女はきっと生前、あらゆる女から嫌われていたタイプである。
「だからきっと彼の浮気なんですね。女の勘ってやつです。もちろん問いつめたけど認めてくれなくて……言わないなら死んでやるってベランダに足をかけたら……その日はたまたま大雨で」
幽霊さんは切ない顔をして、カーテンを見つめる。
「まさか滑って落ちたの?」
「はい」
「バカじゃないの!?」
私は思わず声をあげていた。その声に、隣の神経質な住人が再び壁を蹴る。
「いや……本当に馬鹿でしょ」
「はい。馬鹿です。バカでした。まあ実はあんまり喧嘩のシーンは覚えてないんですけど、落ちる瞬間だけ、覚えてるんです。ずるりと足が滑って……雨の、冷たい雨が……体にふって、硬い地面、自分の血だけあったかくて……ああ、自分の体は温かったんだなあって。わかります? 死ぬときって案外、痛くないです。脳がそういう命令を出しているんですって。痛くて哀しい気持ちを、全部忘れさせてくれるんですって。体ってすごいですね。でもわかるんです。命が地面に吸われていくんです。水たまりに、腕が浸かって冷たくて、見上げたら雨粒が目の前にあって……マンション中の電気がついて、それで」
雨など降っていないはずだが、なぜか雨の音が聞こえた。そんな気がする……いや、気の所為ではない。
ぽつりと、室内に雨が降る。
まるで、彼女の涙のように。
ぽつり、ぽつり。
私のビールも雨の中に浮かぶ。
床には赤い血混じりの水たまりが広がる。布団の上にも、テーブルの上にも、赤い血が広がる。
それは失われていく命の暖かさだ。
熱く、腕に、足に、絡んでくる。
天井を見上げれば大きな雨粒。闇に沈んだマンションの影。あちこちの電気がつく、悲鳴が聞こえる。救急車とパトカーの音が混じり合う……。
「ちゃんと話聞いてあげるから、部屋の中で死に際を再現するのやめてくんない?」
どん、と机を殴れば音も幻覚もすべてが消えた。
はっと顔を上げれば、幽霊さんは私の顔を覗き込んで微笑む。
「あたし、恋に生きて死んだ女なんです」
気づけば、部屋はいつもどおり。彼女はぺこりと深く頭をさげた。綺麗な後頭部に小さなつむじが2つ。
「というわけで、よろしくおねがいします」
「は?」
「彼のカード調べてほしくて……もしかしたら店名はあたしの見間違いかもしれないし。それなら彼氏に悪いことしたなって……まあ本当にワンピースなら浮気確定だからのろい殺しますけど」
「……は?」
「もし……あたしの勘違いだったら……きっと満足して成仏できると思うんです」
そして幽霊さんは拳を握り込む。
私は思わず前のめりとなった。彼女の肩をつかもうとして、その手はすかりと宙を握った。
「カード番号調べろって?」
「です。番号覚えてます。0103353010」
「やめて」
ぶん。と私は首を振る。ビールを思わず机に叩きつけ、泡が宙に舞った。
「私記憶力いいから数字覚えちゃうの。やめて。そういうのやめて」
無理無理、そんな道理が通るわけがない。
あまりのことに、私の中から完全に恐怖心がかき消える。
「あのね、私たちみたいな仕事の人間はね、個人情報ってのを最初のOJTで徹底的に叩き込まれるの。それに、遅延してる人ならともかく、正常顧客の番号なんて調べたらすぐチーフが飛んでくるわ」
私は呆れ顔で、幽霊さんの顔を見る。
彼女はどんな思いでカードセンターのトイレに籠っていたのだろう。私みたいな人間を引っ掛けるためか。だとすれば可愛そうなことである。
私だって仕事に対して、プライドを持っている……ミジンコ程度ではあるが。
「それより、その彼氏っての見に行けばいいじゃない。もし別の女とくっついてたら浮気だから呪うでもなんでもすれば」
「OLさんは、幽霊の世界ってどうなってるかわかりますか?」
幽霊さんは腕を広げて自由に宙を舞う。
まるで人魚を下から眺めているようだ……私はふと、そんなことを思った。
白くてきれいなものが、真っ白な蛍光灯の下、ふわふわと飛んでいるのである。
スカートのように白い靄が、ふんわりと宙を覆う。
栗色の柔らかそうな髪の毛が広がって、細い腕が泳ぐように宙をかく。
古い蛍光灯の淡い明かりの中、茶色い天井の間近。そんな日常感あふれる風景の中、彼女の綺麗な体が真っ直ぐに浮かんでいる。
(……人魚姫みたいだな)
幼い頃、人魚姫の物語が世界で一番大嫌いだった。
愛して愛して報われないなんて、バカにしすぎている。王子は馬鹿だが、人魚姫は世界で一番の大馬鹿者だ。愛してもくれない男のために、命を落とすなんて。
……そんなことを、ふと思い出した。
「地球ができてから、これまで。いっぱい人間も動物も死んでるわけでしょ。もしそれが全部幽霊なら空間ミチミチですよね。恨みをもった人間だけでも相当な数ですよね」
しかし幽霊さんは私の気持ちなど気づきもせず、相変わらずのんきに飛んでいる。
「……あたし、今、見えてるのOLさんの周辺だけなんです」
空中で寝転がって幽霊さんはそういった。
「世界が……狭いっていうか、OLさんの周囲しか見えないっていうか」
「どういうこと?」
「普段は真っ暗な……なにもないところに浮かんでるんです。うっすらと風景が見える程度の。もちろん他の幽霊も人間も見えません。時々は見えるけど……お互い、ガラスの器の中に入ってる。と思ってもらえたらいいかな……幽霊は見えるんですけど、人間や風景は全然見えないんです」
「じゃあなんで私のこと」
「周波数っていうのか、そういうのがぴたりと合う人間がたまにいるんです。前、周波数があった人は危篤のおばあちゃんでした。せっかく話があったのにすぐ亡くなっちゃって……それからずっと周波数のあう人を捜してました」
最高の笑顔で彼女は私を見つめてふわふわりと寄り添ってくる。
冷たいくせに、あたたかい。不思議な感覚だ……この感覚を私はどこかで知っている気がした。
真っ白で冷たいくせに、なぜか温かい……。
「OLさん、一番周波数がぴったりなんです。あなたの近くにいるだけで、周囲がぜんぶ、見渡せるくらい」
ぺろりと赤い舌を出して幽霊さんは笑う。
「おかげで、ご飯も食べられるようになりましたし」
「あっ」
私は焼き鳥を噛み締めて叫ぶ。
「味がない!」
ブロッコリーもだ。マヨネーズの味も七味の味もしない。ただすかすかと……味のないガムを噛み締めているような、そんな食感。
かつて焼き鳥だったもの……は、食感だけを残してただ無の味となっていた。
味というのは、思ったより重要なのだ。知りたくもなかったそんなことを、私は思い知らされる。
「コンビニの焼き鳥っておいしいんですね」
幽霊さんは満足そうに言う。私はただ、無となったその焼鳥を噛みしめるだけだ。
「あたし、コンビニのご飯食べたこと無いんですよね。こんな美味しいって知ってたら、生きてる間に食べたかったな」
「コンビニに……行ったこと無い?」
私は味のない焼き鳥を飲み込んで、彼女を見上げる。
「あなた、この時代の人?」
「彼氏に溺愛されてて、外出を許してもらえなかったんです。実家でも親に外出禁止されてて……あたし可愛いから」
「ああ、そう」
心配して損した。と私は余った焼鳥とブロッコリーをビールで流し込む。
喉を流れていく、ぬるい炭酸と無の味を感じながら私は拳を握り込む。
早く彼女を追い出す算段を立てなければならない。
いけすかない性格の、顔だけがいい幽霊。食事を横取りする……いいところなんて一つもない。
「……だからずっと……一人で」
しかし幽霊さんの小さな声を聞いて、私は思わずビールを飲む手を止めてしまった。
「一人で……ずっと寂しかったんです」
彼女は少しだけ寂しそうな顔で、宙を見上げていた。
顎を少し上に向けて完璧な角度で。
彼女にだけ、そこには雨の風景が見えるのだろう。自分が死んだ……自分の意志で初めて外に出た、そのときの風景が。
そんな気がした。
(……ああ)
その白さと冷たさをみて、私は不意に思う。
(……コンビニだ)
彼女と触れ合った瞬間に感じた冷たさと白さと少しの暖かさ。
(コンビニの、温度だ)
それは、夜のコンビニ。その色だ、その温度だ。
知らない人々が無言で並ぶコンビニ、通りすがるときに感じる、知らない人たちの体温、知らない音楽……あの真っ白な蛍光灯でさらされた、コンビニの空気だ。
「カードのこと、きっとやる気にしてみせますから」
アンニュイさを振り払って幽霊さんはにこりと微笑んだ
「それまで取り憑いてていいですか?」
「むりです」
私の中に一瞬浮かんだ物珍しいセンチメンタルさを振り払って、さっさとソファベッドを整えた。
10日近く干していない布団はぺしゃんこ。しっとり湿っている。
(疲れてるだけなんだ)
寝よう。と私は思う。
そうだ。全部夢だ。疲れが見せた夢なのだ。
9連勤目の私の脳は、ほんの数秒で眠りに落ちた。
「おはようございます」
しかし夢は翌朝、現実にまで続いていた。
「OLさんって結構、寝言……いうんですね」
まるで新婚の翌日みたいな恥ずかしそうな笑顔で、幽霊さんは私の顔を覗き込む。
私はぼさぼさの頭を抑えて、小さく呻く。
部屋にはぼんやりと、焼鳥の香りだけが残っている。悪夢は地続きだ。終わっちゃいない。
「大丈夫です。誰にも言いませんから」
彼女の白い体を朝日がすり抜け、古い畳に注ぐのを私は絶望した顔で眺めていた。