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退勤と夏の幻


「あっ……君は」


 喫煙室を覗いた瞬間、私は少しだけ後悔した。

 目の前に、濃厚なキスシーンが広がっていたのである。

「君っあの、7番の……」

「田中さんっ」

 男と女が同時に跳びあがり、同時に叫ぶ。何度もいうが、私の名前は7番でも田中でもない。

「違いますけど、いや……いいです」

 私はぼうっとする頭をおさえた。

 貧相な男と香水臭い女が蛇のように絡み合う、濃厚なキスシーンなど毒以外何ものでもない。

 男の腰に情熱的に添えられた、白い指先には赤いマニキュア。

 赤マニキュアの指に挟まれた細いタバコから上がる薄い煙は、まるでドラマのような非現実感。

 男の頭がうすらハゲじゃなければ、もう少しドラマチックだっただろう。

 9連勤目、それも10時間近い仕事を終えたそのときに、見るものじゃない。

 顔を上げれば喫煙所の窓には、きれいな夜景が映っている。

 光り輝く無数のビル群に、合間に見える色とりどりの花火が映りこむ。

 赤に青に黄色に、ぱっと開いた流れる火の花。

(花火かあ……)

 そういえば、今日から町の花火大会が始まるのだった。今日から一週間、この街は花火客で大いに賑わう。

 帰りの時間がかぶると電車が混むので、早めに帰ろうと思っていたのに。

「いや、君、これはっ勘違いで」

「ええ、ちょっとぶつかって」

 二人は蛇のように絡んだ体を離そうと必死にうごめく。女のスカートのジッパーが半分以上下がっているのを見て、私の疲労度は一気に増した。

 暑苦しくて、いやになる。

「あ、大丈夫です」

 私は透けた人を見た恐怖心よりも、目の前のキスシーンよりも、体の疲労を覚えて首を振る。

「興味ないんで」

 ぎゃあぎゃあ言い訳を叫ぶ二人に背を向け、私はふらつきながらロッカールームに向かった。

 どうせ100人を越える督促系コールセンター、入れ替わりも激しいクレジットカードのクレーム部署。

 彼らは私の名前さえ覚えていない。

 こんな疲労感がひどいのは、きっと連勤のせいである。透ける人を見てしまったのも、ただの疲れのせいだろう。

(帰ろう)

 そして酒を飲んで、コンビニの焼き鳥でも食べて寝てしまえばいい。

 

 ……と、思っていた。


 バカみたいに混み合う電車に押しつぶされて、精神疲労もマックスだ。

 ふらつくように立ち寄ったのは、家から徒歩1分の位置にあるコンビニエンスストア。

 眩しい店内にかけられた時計が示すのは9時半ちょっと過ぎ。

 効き過ぎたエアコンで体をしっかりと冷やせば、疲れも少しだけ癒えてきた。

 思うにあの会社、エアコンの節電がすぎるのである。

 都会の真夏に28度厳守はばからしい。これは、きっと蒸し暑さと連勤の疲れがみせた幻だ。透ける人も、濃厚なキスシーンも。

(あと1日……あと1日働けば休みだ……)

 ビールを一つ掴んでレジに並ぶことももう慣れた。レジで「あと、焼き鳥一本、あっためてください」と、注文するのも、なんの恥もない。

 どうせ、こんな時間にコンビニに立ち寄る人間は、疲れ果てたサラリーマンとOLだけだ。彼らはみんな、酒と塩分に飢えている。

 夜のコンビニは店内の白さと相まって、不思議な寂しい静けさがある。

(あの店員、何度言っても、ビールと焼き鳥一緒の袋にいれるんだから)

 マスク姿の店員に腹をたてつつつ、ぶらりと外に出ようとしたその時。


「信じてくれました?」


 かわいい顔立ちの透ける人が、自動ドアの扉に映る。

「これで私のお願い聞いてくれますよね」

 アイドルみたいにかわいいお顔が、まるでおねだりでもするように、にこりと笑って私の肩にするりと手をのばした。

 そして、男だったらうっかり陥落しそうになる愛らしい笑顔で小首を傾げる。

 拳を小さく握って、口元に押し当て目を細める。

 こんなあざといポーズ、生きた人間でも見たこともない。

「……あのぉ。もう遅いですし……このあと、おうち、おじゃましていいですか?」

 たぶん、それは夏の見せた幻なのだ。きっと、そうなのだ。

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