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9連勤目の遭遇2

 空気が凍った、そんな気がした。


「ああ~。やっと、こっちを見てくれましたね」


 まるで強い力に引きずられるように、私の視線は『そちら』に吸い寄せられる。

 正確には右斜45度。首が不自然にそちらへ傾く。必死に戻そうとしても、見えない力に引きずられている、そんな気がする。

 目を閉じようとしても、瞼を無理矢理開かされているようだ。閉じられない。

 いつかB級映画で見たことがある。銀の器具で無理やり瞼を開かされた被害者の図。

 今、私は、まさにその状態だ。

「さっき、逃げられちゃったから……お話まだ途中だったのに」

 だったのにぃ。と、語尾が甘く跳ね上がる。こんな状況でもちょっとイラッとする、可愛い声。

 年齢は、20歳前半、もしくは10代。

 グラビアアイドルのように整った顔立ち、華奢な肩に細い腰……しかしその腰から下は透けている。いや、全身がうっすらと透けている。彼女の体の向こうに、オフィスが透けて見える。

 つまり彼女は半透明なのだ。

「……どちら……さまでしょうか……」

 私はヘッドセットを再び耳につけて、呟く。

「なにか……ご用……でしょうか」

 額から汗が噴き出し、手が震える。しかし、誰一人、この状況に気づいてくれない。

 今、社内は定時ラッシュだ。応対を終えたオペレーターはわき目もふらず電源を落として、タイムカード片手に入り口にダッシュしている。

 客に捕まった哀れなオペレーターはぐったりとした顔で机に座り込んでいる。

 周囲からすれば、私もその一員に見えるに違いない。

 お隣の厚化粧のおばさんは、私の席を覗き込み「がんば!」とガッツポーズ。透けた女を通過して去っていった。

 この異常なものが『見えて』いるのは、私だけのようである。

「えっと、あたし幽霊なんですけど、一つだけお願いがあって……お話しようと思っていたのに逃げちゃうなんてひどいですぅ」


 それは……その透けている『もの』は、私が数10分前にトイレで遭遇した物体である。

 トイレの三番目の扉を開けると、それが浮いていたのだ。

 白い顔、透けた体。冷たい空気。

 尿意は一瞬で引っ込んで、私はすぐさまトイレから飛び出した。

 ……幽霊なんていない。10連勤シフト9連勤目の疲れが見せた幻影なんだ。明後日の休みはゆっくりしよう。マンガ喫茶でもいってリラックスすれば、そんな幻なんて見なくて済む。

 そこまで考えて追い払ったはずの幻が、今この席まで追いかけてきた。

 しかも、幽霊などと自称する。

「幽霊……?」

「じゃあじゃあ、幽霊だっていう何か証拠みせます。そしたらお願いを聞いてくれますかぁ?」

 逃げたくても、真後ろに張り付かれているので、動くに動けない。少しでも動いて彼女に触れるのは、恐ろしい。

 触るなんて絶対に嫌だ。勘弁願いたい。幽霊に触れるくらいなら、虫を握りつぶすほうがいくらかマシだ。

(どうするどうするどうする)

 ヘッドセットを押さえたまま、何とか逃げる方法を考える。

 電話対応であれば、蓄積した8年の知識と経験でいくらでも乗り越えられる。

 しかし、対面は無理だ。対面の接客業なんて、研修さえ受けてない。

 ましてや、透けた人間と会話するすべなど経験がない。

「えっと……たとえばぁ……あそこにいたおじさんと、向こうにいた女の人」

 しかし幽霊は、私のおびえる顔など気にもせず、宙に浮いたまま2箇所を指し示す。

 100名のオペレーターが同時に着席できる、このコールセンターは広い。

 薄い灰色のパーティションで区切られた小さな席がびっしり100席。

 同じモニター、同じパソコン、同じキーボードにマウスが並ぶその様子はまるでコピーアンドペーストを繰り返したみたいな均一性。

 満員時にはその席すべてがぎっちり埋まる。

 しかし現在、定時をすぎて今は10数名だけが陰気そうに背中を丸めているだけだ。

 彼女が指し示したのは、手前にある主任の席と逆側にある98番と書かれた席。

「不倫してます」

「知ってる」

 私は思わずあっさりと返してしまった。

 主任は先ほど私に嫌みをいったネズミ顔の小男だ。98番に座っていたのは、赤いマニキュアを好む派手な女。

 名前は知らないが、顔だけは知っている。彼女の素行が悪いことも知っている。最近、ネズミ主任に色目を使っていることも、周知の事実。

 しかし二人はしっぽを掴ませない。ネズミ主任を降格させたい部長連中は、不倫をネタにするために、証拠集めに躍起だ……という噂はある。

 一日中クレームを聞き続けるコールセンターには、噂話がとかく多いものである。

「じゃあ、そこの……裏の喫煙所、覗いてみてくださいよ」

 幽霊と名乗る透けた女は、私にそっと耳打ちをして姿を消した。

 ぞくりと、冷たい空気だけがヘッドセットから耳へ滲んだ。

 冷たい手のひらを握りしめ、私は周囲を探る。

 数名のオペレーターが必死に仕事をこなしているのと、役職づきの社員がそれをイライラと見つめている。いつもの風景だけが広がっている。

 もう声も聞こえないし、姿も見えない。

 やはり疲労が見せたただの幻覚。頼まれたって連勤なんざするもんじゃない。

(今が夏でよかった)

 全身、ミントのシャワーでも浴びたみたいに冷たい。汗が背中から溢れて背中がすうすうと冷たい。

 震える手で再びヘッドセットを外し、モニターをみないように目を伏せる。

 いつもは一回で押せるタイムカードを三回失敗し、首にぶら下がる重い社員証を外す。

 厚い扉を押して廊下に出れば、目の前にはトイレ、右に進めばロッカールーム。左手は……。

(喫煙所……喫煙所ね……)

 思わず足を止めてしまったのは、なぜだろう。

 目の前にあるのは、大きなタバコのマーク。曇りガラスのしきりが付いた半個室。

 昨今は喫煙者も減ってきた。法律も愛煙家に厳しくなりつつあって、そろそろ喫煙所を取り払うか……なんて噂もある。

 先ほどの透ける人の言葉が引っかかったわけでもないが、私はなぜか、そのとき、不意に、曇りガラスの仕切りの向こうが……気になってしまったのである。


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