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繁忙盆直前の喧嘩別れ

 世の中の人が休みになれば、コールセンターは忙しくなる。

 つまり、盆といえばコールセンターにおける繁忙期である。


「やられた……」


 客対応で、ちょっと遅れた昼休憩。

 休憩後にロッカーに荷物を放り込んだあと、社員証を鞄に入れっぱなしだったことに気がついたのはロッカールームを出て数分後のこと。

 慌てて戻り、ロッカーを覗き込む。そして、私は絶望することとなる。


「……一瞬で盗んでく? ずっとロッカー見張ってんの? あの女……」


 基本、私は鞄には何も入れないようにしている。

 化粧ポーチやスマホは社内持ち込み可能な透明バッグに入れてあるので、通勤カバンに入っているものといえば空気だけ。もちろん、社内流行中の泥棒対策のためである。

 しかし今日は一個だけ、たった一個だけ荷物を鞄に入れてしまった。

「いつもOLさん鞄空っぽなのに、珍しいですねー」

 幽霊さんは呑気に私の周囲を飛び回り、私は彼女を睨みつける。

「今日外食だったから、鞄持って出たの。で、うっかり鞄に社員証を入れっぱなしに……幽霊さんが外食したいっていうからだよ」

「あたしのせいですかあ? 偶然じゃないですか」

 小さな偶然を泥棒は狙った。鞄に突っ込んでいたはずの、社員証だけ見事に消えてしまっている。

(あんなの盗ってどうすんだ)

 最近噂の『ロッカー泥棒』が狙ったのは、四角いケースに青いネックストラップ。

 ケースの中に入っているのは社員証……そして一枚のメモだけだ。

「社員証だから、申請すれば良いだけだし……いいよ」

 社員証の下に隠した小さな白いメモを思うと、私の心の深いところが一瞬だけずきりと痛む。しかし私はあえてその痛みを無視した。

 事務室で社員証盗難を説明すれば、眼鏡をかけた男性がてきぱきと仮カードを作り上げる。

 社員証はよく盗まれるんです……なんて呑気なものだ。

「お盆って、幽霊増えて嫌になっちゃう。もう、道が狭いったら」

 事務よりさらに呑気な幽霊さんは、まるで虫を追い払うように手の甲で宙を払っていた。

「あんたも幽霊でしょ」

「空気淀んでるせいか、もっともっと居ますよ。そのへんの席に座ってる害のない幽霊は気にしませんけど……悪霊もちょこちょこいるし……あ、OLさんはあたしが唾つけてるから大丈夫」

「嫌な言い方しないで」

 本日指定の席に座って、私は眉を寄せる。

 お盆シーズン、コールセンターは大繁忙期だ。

 普段は架けてこない客、お盆で暇になった客、一斉に電話を架けてくる。だからコールセンターは満員御礼のフル稼働。

 100名入るこの部屋は、隅から隅までオペレーターで詰まっている。

 私は、新品の硬いネックストラップを指先で弄った。気持ちがずっしりと重く、濁っていた。

「ああ。今日は厄日だわ。ただでさえ、嫌な気持ちになってんのに」

 ……忙しい中、奪われた社員証。そして。

「呪いの手紙」

 私はポケットから紙を引っ張り出し、机の上に放り投げる。くしゃくしゃに丸められたそれには、神経質に細かい文字が刻まれてる。

 手書きではなく、パソコンで打ち込まれたもの。

 内容はよくある『呪いの手紙』で、異なるのは『この後、何名に回すこと』……などの指示がないことだ。

 つまり、手紙の主は私だけを呪っている。

 この手紙は朝、知らない間に私の鞄にねじ込まれていた。

 手紙曰く、

 

 お前は全員から嫌われ疎まれている。早くこの職場をやめろ。そうでないと呪われる。お前を心配して言っているのだ、きっとよくないことが起きる……。

 

 巧妙なのは、死や殺す、などの分かりやすい脅迫の言葉が入っていないことだろう。むしろ私を気遣うような文章まで差し込んである。

 さらに名前も入っていない。これでは脅しにもならない。

 管理部門に持っていったところで、鼻で笑われシュレッダークズにされるだけだ。

「それは問題ないですよ」

 しかし幽霊さんといえば平然とした顔で、紙をそっと撫でる。文字がまるで蕩けるように灰色になり、混じり合い……煙のようにふわりと消えた。

「ほら消えた。良かったですね」

「消えただけなの?」

 その消え方があまりに不穏なので、私は恐る恐る、幽霊さんの顔を覗き込む。

 彼女は可愛らしく顎に手を置き、小さく首を傾けた。 


「……呪い返しになるのかも?」


 彼女がそう呟いた瞬間、外から破裂音のような凶悪な音が響き渡る。

 同時に、前方の席からざわりとどよめきが起こった。

 それはクレーマーが湧いた程度のどよめきではない。

 窓際に駆け寄った管理部の人間が悲鳴を上げたのだ。続いて複数人が窓に駆け寄る。

 会話中のオペレーターもそちらを気にして、半腰で立ち上がる。社内のどよめきは、伝播するようにどんどん大きなものとなる。 

「ちょっと、田中さん!」

 音と共に速攻で窓際に駆け寄っていった隣席の女性が、駆け戻るなり興奮気味に私に言う。

「目の前の国道で事故よ、事故! あの赤い車、ネズミ主任の車じゃない!?」

 遠くの席で、赤マニキュア女がまるで絹を切り裂くような悲鳴を上げた。



「OLさん仕事は?」

「幽霊さん、ちょっとこっち来な」

 社内は今や、蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。リーダーやスーパーバイザーたちが席を回って落ち着かせようとするが、焼け石に水。

 リーダー格である赤マニキュアは窓に張り付いて悲鳴を上げ続けているため、彼女の部下たちも右往左往。

 誰も電話を取らないせいで、コール音がセンターに響き渡る。

 ヘッドセットを投げ捨てた私は一人、部屋を飛び出しトイレに駆け込んだ。

 ……もちろん、幽霊さんも一緒に。

「やめなって……言ったよね?」

「何をです?」

 個室に引きこもり、私は幽霊さんを真正面から睨みつける。

 しかし幽霊さんといえば、しらばっくれるように、つん。と顔を背けてみせる。

「お仕事しましょうよ、OLさん」 

 ……そういえば、この個室で初めて私は幽霊さんと出会った。

 ここに浮かんでいる彼女を見て、逃げ出したのだ。あれからもう、一ヶ月近く経つ。

 コンビニご飯を好んで食べる幽霊さんにほだされて、すっかり忘れていた。彼女は……幽霊なのだ。

 幽霊さんは以前、言っていた。『悪意のある言葉は凶悪な力を持つ』と。

 返せば、そのまま相手は呪いに食われる。

 それは文字でも同じことではないのか。

「あの呪いの手紙、誰が私の机に置いたのか……幽霊さん、分かってたんでしょ」

 バカみたいな呪いの文面を私は思い出す。神経質な小さな文字でみっちり詰まったあの手紙。

 きっとあれはネズミか、赤マニキュアの仕業だ。

「分かって、呪い返ししたんでしょ」

 しかし幽霊さんといえば、爪などいじって不貞腐れ顔。その横っ面を張り飛ばせないことを悔やみながら、私は彼女を睨みつける。

「そういう、悪霊みたいなことしてたら……いつか地獄に落ちるよ」

「あたし、地獄にいってもいいんです。OLさんが幸せなら」

 幽霊さんは不意に真面目な顔をして、私を見つめる。

 そういえば彼女はいつも真剣だ。いつも真剣に、人間に向かい合う。

「何いって……」

「だってあたしのこと、真剣に怒ってくれたの、褒めてくれたの、OLさんだけだから」

 氷を持ってきてくれたときと同じだ。彼女は真摯な目を私に向ける。

「生きてた頃の記憶なんてほとんどないけど、彼氏は優しかった……と思います。前、取り憑いてたお婆ちゃんも優しくて、あたしの言うこと、否定なんてしなかった。他の人は怯えるばっかり。あたしのこと、誰も真剣に取り合ってくれなかった」

 彼女には善悪の区別がない。悪への戸惑いもない。

「だから、あたしOLさんのために、一日一個、良いことをしたいんです」

 幽霊さんは目を閉じて、息を吸うような素振りを見せた。

「社員証のありかも、分かりかけてて……たぶん、部屋の隅っこあたり。悪霊が憑いてる人のとこ」

 彼女の意識は今、コールセンターを飛び回っているのだろう。私は思わず、彼女の腕を掴む。しかし彼女の肉体にふれることはできない。冷たい宙を掴んだだけだ。

「あ。社員証……これかな。OLさんって社員証の名前と写真のとこ、紙貼って隠してますよね。これですね……それと、その下にもう一枚、紙?」

「やめて」

「社員証の下、なにか……紙みたいな」

「ちょっと」

「紙ですね。メモかな」

「駄目」

 私は必死に彼女の腕を、見えない足を、髪を掴む。手がどんどん冷えて白くなる。指先に霜がついて、滴が散る。

 それでも、幽霊さんは止まらない。

「見ないで、お願い」

 彼女は、文字があれば読んでしまうのである。

「えっと……これは梶……じゃないな、えっと。分かった! 犀川……」

 幽霊さんがつぶやくその声は、圧倒的な懐かしさを持って私の中に流れ込んできた。


「美優」


 みゆ。その、静かな音。


「……名前」

 花がほころぶように幽霊さんが微笑んだ。

「これ、もしかしてOLさんの、名前」

「……父親の不倫相手の名前でもあるけどね」

 私はかじかむ手のひらを握りしめ、そのまま壁を殴った。じん、と痛みが腕を走る。

 それは、二度と思い出したくない名前だ。

 私はこれまでずっと、名前を忘れるように努力してきた。名前から、できるだけ離れて生きてきた。

 このコールセンターでは防犯上の理由から、偽名を用いることができる。

 つまり、このセンターにおける『本名』は意味をなさない。

 そのおかげで、私はここ何年も自分の名前から離れて生きることができたのだ。

「不倫……相手」

 私の顔色を見て、幽霊さんの表情がこわばる。

「……小学校の時、自分の名前の由来を聞くって授業があってね」

 冷たい手を強く強く握って私はうつむく。

「聞いたの、お母さんに。私の名前の由来」 

 何も知らなかった私は、母に無邪気に自分の名の由来を聞いた。

 母は優しく微笑んで、紙に名前を書いてくれたのだ。

 

『美しく優しい子になりますように。そう願ってね、お父さんが考えてくれたのよ』


 母の声が今も耳の奥にこびりついている。

 お母さん、その言葉を聞いて感動したの……と、母親は目を輝かせながら語った。

 母は、いつまでも少女らしさを残す人だった。相手が誠実な男だったら、きっと幸せになれたのだろう。

 その少女らしさは、父の不倫という現実を前に崩れ去った。

 不倫相手の名前は美優。

 父が私に付けた名前。

 壊れかけていた母は、その事実を知って完全に壊れてしまった。


 信じていたのに。


 それが最後に母から投げ捨てられた言葉だ。床に倒れていた彼女は、濁った目で私を見つめていた。

 私が母に、報告しなければ。

 私があの日、花火に行かなければ。

 きっと、母をこんなに傷つけることはなかった。

 言葉には確かに、力がある。

 その言葉は未だに私の心をえぐり続けるし、母の書いた優しい文字は今でも私の執着の要因となっている。

 ……私の中の母は今でもメモを書いてくれた時の母なのだ。

「みないで」

 私は震える声をぐっと抑えた。

 動揺と怒りと情けなさが私を襲う。メモなんて捨ててしまえばよかったのだ。名前のことも、気にしなければよかった。隠すから、こんな目に合うのだ。

 どうせ私の人生は落下していくだけ。何にも期待などしてはいけない。

 そう考え続けて生きてきたというのに、幽霊さんに出会って少しだけ気が緩んでいた。

「勝手なことしないで。死んでるくせに」

 私の震える声に、幽霊さんの表情が固まった。初めて見せる表情だ。

 悲しそうな……泣き出す直前のような。

「OLさ」

「どうせ、あんたなんか死んで……何もできないくせに! 人のことあら捜ししないでよ!」

 怒鳴り散らすように吐き捨てた私の言葉も、呪いの言葉に違いない。

 幽霊さんは目を細め、やがて顔を背ける。いつもはうるさい幽霊さんが、静かにトイレの扉に吸い込まれて消えていく。

 言葉の余韻が消える頃、慌てて扉を開けたが、そこには気配もない。

 部屋に戻れば、オペレーターたちの声が飛び交い、すでに日常業務に戻っている。

 ……ただ、幽霊さんがいない。それだけだ。



 呆然としたまま仕事を終えても、やはり幽霊さんは帰ってこなかった。

 残暑で蒸し暑い夜の道から冷たいコンビニへ。

 こんな静かにコンビニに入るのは久しぶりだった。

 買い物をしていても、幽霊さんの声は聞こえない。いつもなら、あれを買ってこれを買ってと煩いはずなのに。

 家に戻っても、何の気配もない。風呂にもトイレにも、部屋にも天井にも。

(……傷つけた?)

 ふわふわとまるで雲の上を歩いているような感覚で、私は机の前に腰を落とす。

(あんな……脳天気なのに、傷つく? あんな言葉で?)

 震える手で私はビールのプルトップをねじり開け、アルコールを吸い込む。そして床に寝転がった。

 目を閉じると、幽霊さんの顔がぼんやりと浮かんだ。私の名前を呼ぶときの、あの柔らかい声音も。

(……美優……)

 体にこびりついた名前を、私は苦々しく思い出す。 

 私の名前のせいで、母はこわれた。親子の関係はそこで終わりを告げ、私は壊れた母と数年間、過ごすこととなる。

 その関係さえ終わったのは、私の大学卒業の朝。

 彼女はその日、自殺を図った。溜め込んだ睡眠薬を一気に飲む、という古典的な方法で。

 卒業式をサボった不真面目な私のおかげで未遂に終わったが、彼女は病院の白い病室の中、ずっと壊れ続けている。

 母と最後に顔を合わせたのは、数年前のことだ。

 この頃になると、母の意識は完全に混濁していた。

 まあ可愛いお嬢さんね。なんて、よそ行きの笑顔で私を見てそう言ったのだ。 

 それ以降、私は毎月母の口座にいくらか送金することで、勝手に罪滅ぼしをした気分になっている。

(美しくて優しい……)

 ぬるい畳に頬を押し当てて、私はぼんやりと自分の指先を見る。

(優しい子……)

 久々に母のことを考えた。普段は考えないようにしている。

(優しい子じゃない……全部、捨てるつもりだった)

 電気を付けずにいると、この部屋は暗い。闇の中、これまではなかった道具が増えている。

 小皿、箸、炊飯器。

 ……私はこれまで、モノを持たずに生きてきた。

 そのほうが、いつか死んでしまっても都合が良いと思ったからだ。

 何一つ持たず、死んで行きたかった。

 しかし、この指先も、爪の形も、幽霊さんが綺麗といったこの顔も、全て母と父の遺伝子からできている。これだけは、捨てたくても捨てられなかった。

 命を捨てるのは最後だ。それまでの間はモノを減らしていこう。そう考えていた。

 モノを持つ人生というのは束縛の人生である。

 ……だから私はコンビニが好きだった。

 24時間いつでも買えてすぐ消費できる。人間関係もそうあるべきだと、そう思っていた……思っていたはずなのに。

(私から離れたら暗くなるって……世界が何も見えなくなるって言ったくせに)

 私は畳の上に寝転がったまま。気がつけば、幽霊さんのことばかり考えている。

(あんなに怖がりなのに。泣きそうな顔をしてた、怖くて……怯えて)

 北極にいったというあの時、彼女は不安そうに戻って来た。

 はじめて私と目があった時、彼女は嬉しそうだった。

 ……そんな幽霊さんが、今、たった一人でどこかに消えた。

(真っ暗な中でいるの、かわいそう……)

 それははじめて、私が他人に対して人に抱いた憐憫の情だ。

 そして人生で初めて人に感じた執着だった。

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