三連勤後の焼き鳥丼
「……もう、限界です……」
幽霊さんが低く呻いたのは、昼休憩の終わる3分前。
「お昼ごはんも! まさかコンビニのお弁当だなんて……ちゃんと、御飯作ってくださいっ」
私が会社のトイレで歯を磨いている時のことだった。
「あたし、生きてる時は料理、得意だったんです。家にずっといたから!」
「あんまり記憶ないって言ってたじゃない」
「料理を作ってる様子は覚えてるんですーだ」
幽霊さんはぷりぷりと、頬をふくらませる。私と言えば、歯を磨き終えて渋々化粧ポーチを取り出したところだ。
あれ以来、幽霊さんがうるさいので、会社で化粧直しをすることが増えた。
きちんと言うことを聞いているというのに、この押しかけ同居人はやっぱりうるさいのである。
「そりゃあ、コンビニご飯は美味しいです。最初は珍しくって気にならなかったけど……最近のOLさんはお肉ばっかり選ぶから不健康ですっ! せめて鶏肉にしてくださいっ」
今日のランチを思い浮かべながら私は思わず苦笑した。確かに今日はスタミナ肉丼。昨日は牛丼、その前はトンカツカレーだった。
「幽霊さんが肉好きって言ったんじゃん」
「あたしは死んでるから肉ばっかりでも良いんです! OLさん生きてるのに」
「……ねえ。今、トイレでする話だっけ、それ」
私は呆れ顔で、言う。もう昼休みも終わる。早く席に戻らないとどやされる。特に最近は、ネズミ主任が口うるさいのである。
「あたし、怒りが持続しないんです。すぐ忘れちゃうから、怒った時に怒っておかないと……あ。チーク、適当にしないで、ちゃんと筆の方向考えて」
文句を言いながらも、彼女の目は鋭く私の動きを見ている。
鏡の前をふわふわ飛び回りながら、上下左右、私の顔をじっくり見つめて、やがて蕩けるような笑顔で笑った。
「よし。これならオッケーです。綺麗」
そして、この押しかけ同居人はどこか私に甘いのである。
「田中さん」
化粧直しという人生の中で最も無駄な3分間を終えて席に戻ると、早速隣人が声をかけてきた。
名前は忘れたが、よく隣に座るフレンドリーな中年女性。今日の数字は39番さん。
彼女は大きな目をきらきらさせて、私の顔を覗き込む。
そして、くふくふと独特な笑い方で笑うのだ。
「最近すっごく綺麗になったって噂あるけどぉ。恋でもした?」
「とんでもない。まもなく三十路にかかるので、化粧直しでもしようかと」
「気をつけてね、あのネズミがあなたを狙ってるって……これも噂」
「まさか」
怖気を奮って思わず半腰になる。
視線を感じた気がして顔をあげれば、対角線上にいるネズミ顔がこちらをみていた……そんな気がした。
大急ぎで顔をそむけるが、目線の端っこに赤マニュキュアの女が映り込む。
なるほど、彼女は確実に私を睨んでいる。
……勘弁してほしい。ただでさえでも急に増えた扶養家族で手一杯なのだ。これ以上の心労は、私のモットーに反するではないか。
「ほら、見てた見てた。今の見たぁ? 赤マニキュアが嫉妬してるわよぉ」
「とんでもない」
気のせいですよ。の言葉は、受信音にかき消される。
仕事に没頭したい私の上で、幽霊さんだけが冷たい空気を発しながらふよふよと浮かんでいた。
「色々……疲れちゃった」
結局、クレーマーに引っかかり、仕事は30分の残業である。
ネズミ主任が私をどうこう……というのは気のせいでも、赤マニキュアの女が私を敵視しているのは確実だった。
私が客をなだめすかしている間に、不自然に後ろを3度も横切ったのだ。ご丁寧に、そのつど私の椅子を蹴っていく。
「あーっもう! いらいらする」
「幽霊さんがいらいらする必要ないでしょ」
幽霊さんといえば、仕事の途中からずっとご機嫌斜めだ。
赤マニキュアを蹴りつけるのだ。と意気揚々飛び回るのを、何度も止めた。
どうせ蹴られたところで、冷たい風が吹く程度だろうが。
「陰湿なの嫌いなんです。あたしの好みでOLさんを綺麗にしたのに、それを狙うなんて最低」
「子供か」
会社を抜けて夜の道。改札をくぐって電車のエリアに入れば、私は幽霊さんに声をかけない。幽霊さんも声を出さない。
それが幽霊さんと決めたルールの一つだ。
(……やっぱり映らないんだ)
程よく混み合う電車の中、ガラスには幽霊さんの顔は映らない。
右側に白くて柔らかい影は見えているのに、この人を目にできるのは……少なくとも今この場所では……私一人だけなのである。
電車を降りて改札を出て振り返れば、幽霊さんが浮かんでいた。それを見て、私はホッと息を吐く。
「そういう顔してると悪霊っぽいよ」
「あたし悪霊じゃないですもん」
ぷ。と幽霊さんは膨れてみせる。
「幽霊にも色々あるんです。あたしみたいな良い幽霊でしょ。それに人や場所に縛られちゃう地縛霊……で、悪霊」
「どれも悪霊でしょ」
「悪霊は全部を恨んで恨んで、世界を恨んで自分も恨んで、近づく人を憎んで、とにかく仲間にしようとするヤツのことですよ。たとえば、前のコンビニで見かけたような」
ふ、と幽霊さんが動きを止める。ちょうど件のコンビニの光が見えてきたのだ。
一番最寄りのコンビニは、今日も冷たくも温かい空気でそこにある。
以前に現れた悪霊は消えていた。きっとどこか別の場所で、今日も誰かを恨んでいるのだろう。
「悪霊の成り方なんて、わからないけど……あ! イライラするのはおなかすいてるせいかも!」
幽霊さんはぱあっと顔を輝かせ、私の周囲をぶんぶんと飛び回る。
「ご飯作って下さい。でなきゃ悪霊になっちゃうかもです」
「もう悪霊みたいなもんじゃない」
呆れながらコンビニに吸い込まれた私は、白い光に照らされた『半額コーナー』で足を止める。
「……じゃあ久々に料理でもするか」
そこには小さな焼鳥の缶詰が一つ、行き場のない顔で転がっていた。
「えー……またコンビニ」
「嫌なら良いのよ、食べなくても」
私が買ったのは焼き鳥のタレ缶詰、パック詰めのネギ、塩おむすび……そして温泉卵。
幽霊さんの恨みがましい視線を無視して、私は久々にキッチンに立つ。
いわゆるひとり暮らし用のキッチンなので、料理をする人間のことを何一つ考えていないサイズ感だ。だから私は包丁なんて使わない。洗い物も極力出さない。
耐熱皿に焼き鳥を汁ごと移し、ネギも混ぜ込む。冷蔵庫に余っていた卵を溶いてそこに流し込むとレンジで数分、温める。
いい感じに温まり、ゆるゆると卵が固まれば完成だ。そこに塩むすびを落とし、さらにその上から温泉卵を、一つ割る。
「はい。焼き鳥卵とじ丼」
それを見て、幽霊さんが絶望めいた顔をした。
「野菜、ネギだけじゃないですかぁ」
「完全栄養食の卵が二種類入って、炭水化物とタンパク質入ってるんだから、これで栄養はとれてんのよ」
幽霊さんのために小皿に料理を取り分けると、彼女は渋々という風にテーブルの前に降りてくる。皿を手に取り、彼女は目を閉じる。
彼女の食事は、いつ見ても不思議だ。目を閉じて、まるで命を吸い取るように食事をするのだ。
「む……おいしい」
「でしょ?」
不承不承、内心葛藤していそうな幽霊さんを見て、私は鼻を鳴らす。
そして、ようやく食事を口にする。とろりとした温かい卵と冷たい温泉卵の組み合わせが不思議と美味しい。
同じもののはずなのに、卵は温かいときと冷たいときで味を変える。
それに焼き鳥だって、缶詰になると一気に味わいを変えるのだ。
ホットコーナーにある焼き鳥はもちもちと柔らかいのに、缶詰になるとホロホロと不思議な触感となる。
ホロホロ鶏肉に、甘いタレ。塩むすびのしょっぱさに、ネギの香り。
たまに作るこのメニューは、確か母親から教えてもらったのだ。もちろん、母が作っていたのはきちんと焼き鳥やタレから手作りするやり方だったが。
「……親の……子殺しですかあ」
付けたテレビから不穏なニュースが流れて、幽霊さんが眉を寄せる。
テレビではニュースの真っ最中。先日も確かニュースになっていた。
それは25年前に起きた死亡事故。
事故と処理された事件が殺人事件として蘇り、重要参考人はすでに海の藻屑となっていた……これで本来ならば事件は解決。被疑者不明のまま、なんちゃら。というやつだ。
しかしその後、真犯人が見つかったのである。それも被害者の父親、というセンセーショナルなニュースで、最近は新聞もネットニュースもそれに関する話題でもちきりだ。
「……私んとこも、一歩間違えたらそうだったかもね」
焼き鳥丼をかきこんで、私はため息をつく。
今日はどうも疲れが溜まっている。顔に貼り付けた化粧が、夏の湿度で皮膚の奥にまで染み込んでいるようだ。
「……何があったんです?」
「クソ親父が不倫して大騒ぎして、家族をおいて逃げたから。今だったら父親と刺し違えてたかもね」
「ああ、あの電話」
幽霊さんも食事が終わり、皿の上には灰のような残り滓だけが見える、
ふ、と息を吹きかければそれは空気に離散した。
こんな風に記憶も過去も消えてしまえばいい。私は本気でそう思う。
「小学校の時ね。うちの母親と結婚するより前から女と付き合ってて」
……違う。実際、父からすれば母が浮気相手で相手が本命だったのである。
私という重荷が母の腹にできたせいで、父は泣く泣く母と家庭を持つことになった。
そして裏で本命と付き合い続けた。
「……結局私が小学生の時、母にばれて」
私は箸を弾きながら、言う。
ばれた、のではない。ばらしたのだ。私が母に言ったのだ。花火大会の帰り。生ぬるい車から飛び降りて、母の元に向かったのだ。
幼さゆえの正義感だった。母に褒めてもらえると、なぜかそう思っていた。
「あのクソ親父、責任取らずに逃げ出して、それっきり」
すぐさま家庭内裁判となった。
私は祖母と二人きり、仏間に閉じ込められた。冷めた店屋物を食べて、息を潜めて風呂に入り、なんとか眠って目が覚めれば、家に父の姿はなかった。
父のスーツも、父が大事にしていた釣り竿も消えていたので、逃げたことはすぐに分かった。
「お母さん、怒りませんでした?」
恐る恐る、といったふうに幽霊さんが私に尋ねる。そんな気の使い方もできるのだな、と私はお思わず苦笑する。
「怒るって言うより」
それから父は一度も家に戻ってこなかった。誕生日一日あとの電話以外、私は父を知らない。
そして、母も父に会っていない。
きっと父は、本命の彼女と幸せに暮らしている。
「……絶望かな」
私の耳に残っているのは廊下に弾ける薬の粒の音。からからと床を転がっていく薬瓶の蓋の音、赤く唸るサイレンに、私の足元に伸びる影。
床に倒れる、濁った目。緩んだ口元。
夏の暑い日、私はいつもこの記憶が蘇る。何度消しても、何度消しても、にじみ出てくるような……。
ぞくりと背中が震えた瞬間に、幽霊さんの手が私の背中をそっとさする。
顔を上げればそこはいつもの風景だ。
必要最低限のものが並ぶ部屋、残り香は甘い焼鳥丼……ただ、幽霊さんという異物だけが増えただけ。
「大丈夫です?」
幽霊さんは心底心配そうな顔をして私の顔を覗き込む。
その細い腕に、小さな手に、私の肩から力が抜ける。
最近の異変といえば、幽霊さんという異物が増えただけだ。
その『だけ』に救われている自分に、私は目眩を覚えるほどに焦るのである。




