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9連勤目の遭遇1

 世の中にある幽霊、妖怪、怪異のうわさ話。

 全部合わせたら、どれくらい存在するんだろう。

 たとえば、


 夜になると動く石像。

 ラップ音の響く部屋。

 トイレの3番目に出る女の幽霊。


 ……なんて、しょうもない話。

 幽霊なんて存在しない。するわけがない。

 つまり、噂が本物である確率は限りなくゼロだ。


 じゃあ、私の目の前に『現れた』もの。

 あれはなんだというのだろう。



「席に戻るときは……お静かに!」

 できるだけ静かに椅子を引いたつもりなのに、想定外に大きな音が社内に響きわたる。

 床をこする金属音を聞きつけた主任が、素早く私を睨みつけた。

 彼は机に付いた番号をじっとり見つめた後、唾でも飛ばすように唇を突き上げる。

 まるで鶏が餌を食べる時、あの首の動きそっくりだ。

「……7番さん、皆さんお仕事中ですから、お静かに」

 注意を受けても、私の怒りの導火線に煙もつかない。

 ただ、頭を上下に振ってやり過ごした。

 じっとりと湿った指先で、私はペコペコのヘッドセットを手に取る。

 いつものように耳にかけようとしても、手が滑る。暑いのに、手が冷えて……ああ、震えている。

「鈴木さん、気にしないほうがいいわよぉ。主任はいつもあんなんだから」

「……は……い」

「名前、ちがった? 田中さんだったかしら斉藤さんだったかしら」

「……田中で……いいです……」

 薄いパーティーションで区切られた隣の席。こってり化粧のおばさんが私の席に顔を突き出した。

「田中さんで合ってた? 良かった~最近年のせいか物忘れが激しくってさ」

 お隣さんは真っ赤な口紅を釣り上げて笑う。下品な笑顔だ。

 いつも見かける顔だが名前は知らない。今日は8番に座っているから8番さんだ。

 向こうだって、こっちの名前を知っちゃいない。

 私は7番に座ってるから7番さん。鈴木さんでも田中さんでも斉藤さんでもないのである。

 この会社ではその日、座った席の番号で名前を呼ばれる。100名が稼働する大型のコールセンター。

 だから私は日替わりで、1番であり12番であり100番である。


(……気のせいだ、気のせいだ、気のせいだ)


 今、名前なんて些細なことだった。

 私は心の中ででたらめなお経を呟きながら、キーボードに8桁の暗証番号を打ち込む。 

 すると目の前のモニターが灰色に染まり、待機中。の三文字が真っ赤な文字で表示された。

 ……相変わらず下品でトゲトゲしくって、嫌な文字だ。

 しかしその文字表示も長くは続かず、一つの番号が表示される。

 耳に付けたヘッドセットからは、かちりと響く軽い音。

 ぷぷぷと電子音が三回鳴って『ジュシン、デス』と感情のない電子音。

 続いて客の下品な怒鳴り声。

 その瞬間、私は安堵した。現実に戻ってきた、そんな安堵感だ。


『つながった! いい加減にしろよ、てめえんとこは、いっつも、いっつも! つながらねえんだよ!』


「大変、お待たせいたしました」

 汚らしい怒鳴り声も今の私にとっては、天使の歌声だ。

 歓喜の声を飲み込んで、私はマニュアル通りの言葉を口にする。


「●●コーポレーション、受付担当の田中。で、ございます」


 何度もいうが、私の名前は7番でも田中でも鈴木でもない。

「恐れ入ります。まずはお客様の生年月日とお名前を教えていただけますでしょうか」


 しかし、今、この瞬間だけ私は田中なのである。




 目の前のPC画面に映っているのは文字の羅列。 

 それは客の名前であり性別であり住所であり、客とオペレーターのやりとりの履歴だ。

 赤文字で書かれているのは、注意事項である。今、架かってきているこの客の赤文字は他より多い。

 文句に脅し、揚げ足取り多し。

 履歴が示す通り、この客はいわゆる『ヤカラ』だ。

 こちらが一言なにか口にすれば、怒鳴る、わざとらしく煽る、変に口を滑らせれば揚げ足をとってくる。

 まあ、一日に数回は遭遇する面倒な客の一人というわけだ。

 私は肩をきゅっとすぼめたまま、目の前の画面に集中する。

「ではお支払いについては、改めてお電話いたしますので……」

『だから払えないつってんだろ! お前名前はなんだ、住所をいえ、連絡先をいえ、脅迫罪で警察につきだしてやるからな!』

 ぎゃんぎゃんと良く吠える客だ。今日の客は元気がいいな、などと考えながら、私は心が落ち着くのを感じていた。

 いつもの日常、いつもの雰囲気。

 どうせクレジットカード会社のコールセンター……それも支払い相談窓口にかかってくる電話など、2/3はクレームでできている。

(……よし、気持ちが落ち着いてきた)

 罵詈雑言は日常のことだ。どれだけ怒鳴られても私の心はぴくりとも動かない。

 キーボードのつるつるとした表面をなでながら、私は息を吸い込んだ。

 柱の時計を見上げれば、時刻はちょうど20時28分。

 定時はあと2分に迫っていた。

 周囲を見渡せば、どの席でもオペレーターたちが必死に電話を終わらせようと四苦八苦している。

 この仕事を初めて最初に思ったことは『定時ぎりぎりにかかってくる、面倒な客が一番やっかいだ』ということ。

 調べ物をしなければならないような、そんな客に捕まってしまうと残業地獄に付き合わされる。

 しかし定時ちょうどに電話を終えることができれば、残業をすることなく家に帰れるのだ。

(……今日は、この客のおかげで残業なし。ラッキーだ)

 私は時計の秒針をにらみながら、客の声がクールダウンする瞬間をじっくりと探る。

 定時まで、あと30秒。

 ……20秒。

 私の〆セリフに必要な時間はちょうど10秒。

「本日はお電話をいただきまして、有難うございした」

 怒らせすぎてもいけない、怒りが復活すれば元の木阿弥。

 だから相手が疲れて嫌になるタイミングを見計らう。

 時計の針は、ちょうど、20時29分50秒にぴたりと収まった。

 客が見せたクールダウンの隙をついて私は言うのだ。


「それでは、失礼させていただきますー」


 客の血圧だけ心配しながら、私はそっとマウスを握る。切電、のボタンにマウスカーソルをあわせて一回押せば、それでおしまい。

 たったそれだけで、怒鳴り声もクレームも無音の世界に吸い込まれていった。

 『ホンジツモ、キンム、オツカレサマデシタ』

 そんな機械音とともに、今日の勤務時間、8時間。が画面に浮かぶ。回収率、回収金額も棒グラフとともに画面に表示される。

 OKボタンを押せば、すぐさま電源が落ちる。モニターが真っ黒に染まる。

 本日も、本当に本当にお疲れ様でした。そう心の中で呟いて、私は乱雑にヘッドセットを取り外す。耳たぶがじんわりと、温かい。

 ふう。と小さなため息をついたその瞬間。


「ひどいお客さんですねえ」


 湿気った耳元に、女の細い声が聞こえた。


「のろい殺してしまえばいいのに……あ、やってみましょうか。やったこと、ないけど」

 

 黒く染まったモニターに、白い女の顔が浮かんでいる。

 あり得ない位置に小さな顔の女が映りこんでいる。

 白くて小さな顔、大きな目。ふわふわの……茶色の髪の毛。

 それは、引きつった私の顔にぴたりと寄り添うように、『浮かんでいる』のだ。

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