井の中の蛙
少しだけ話は遡る。それは今から一ヶ月前。俺と鶴姫が歪な契約を結んだ次の日のことだ。
その日の朝、俺はいつものように鶴姫の家の前に立っていた。
俺の朝はこうして鶴姫が家から出てくることを待つことから始まるのが常だった。
馬鹿でかい門の前で塀に寄りかかり、向こうから鶴姫が玄関のドアを開けるのをぼんやりと待つ。
そんな俺を見て鶴姫が満足そうに頷いて、前を歩くのが小さい頃からの習わしだ。
お互いそうしようなどという取り決めをしたわけではないが、偉そうに肩で風を切る鶴姫の隣を歩くことに気後れしていたのもまた確かなことであった。
自然と俺と鶴姫の間に線引きがなされていたのだと今では思う。幼い頃の刷り込みというのは絶対的な効力があるのものだ。それはある種の洗脳に近いだろう。
「そう考えると高校の段階で抜け出せたことは、まだ運が良かったのかもな」
そんなことを呟きながら、俺は手に持っていたコピー用紙に目を通していた。
昨日鶴姫と幼馴染料金の契約を結んでから、家に帰って適当に考えた内容をプリントアウトしたものである。
――鶴姫舞華は幼馴染として関係を続けることを望む限り、一日一万円を紫雲蓮司に支払い続ける
――名前呼びは別料金となる。金額は五千円
――登校、又は下校時の同伴を望む場合、それぞれ料金は五千円払いとなる。紫雲蓮司に用がある場合、そちらが優先される
――支払いは現金のみとする。また支払いが滞った場合、この契約は破棄されるものとする
――その他オプションは要相談。また、この契約を第三者に知られた場合もこの契約を無効とし、以後再契約を結ぶことはしない
他にもいろいろとあるが、書かれているのはざっとこんな内容だった。
適当にネットで書かれている内容をパッチワークし、それらしく見せかけた契約書である。
改めて見ると我ながら引いてしまうほどひどいもので、かの日米修好通商条約並に理不尽な内容が詰め込まれていた。
とりあえず幼馴染を続けたいなら文句を言わずに金を払え。そう言っているに等しいものである。よくここまでゲスいことを書けたものだと苦笑した。
とはいえこれも理由がある。最初に契約した幼馴染料金の内容。一日一万円で幼馴染を続けてもいいという言葉を、鶴姫は不満も疑問も口にすることなく、喜んで頷いていたからだ。
―――そんなことでいいの!?なら払う!払うわ、幼馴染料金でもなんでも払う!!
その顔を見て、俺の口元が引き攣ったことは記憶に新しい。
金で関係を続けようという幼馴染の浅はかな考えを皮肉ってやろうとしたというのに、結果は真逆なものになってしまったことで、大きな脱力感に襲われたことも。
(これじゃ俺も鶴姫の同類じゃないか…)
そんなつもりなどなかったというのに、結果だけみれば俺も鶴姫と同じ場所まで堕ちてしまった。
これでは鶴姫から離れ、彼女に告白したところで、真っ直ぐ向き合えるとは思えない。きっとこういうことは、彼女の嫌うところだろう。
そのことが俺の気を重くしていた。
だが、もう取り返しはつかない。賽は投げられてしまったのだ。
俺にできることは、この偽りの関係をさっさと破綻させることしかない。
そう思い、俺はこの無茶苦茶な契約書を作成したのだった。
勿論金だって使うつもりなんてない。払った金額は、後でまとめて鶴姫に叩きつけてやる予定である。
お前が続けようとしていたのは、こんな薄っぺらいもので繋がっている関係でしかなかったんだぞ、と
そう言ってやるつもりだった。鶴姫の家が金持ちであることは重々承知の上だが、娘となれば払える額にも限度があるはずだ。
いくら鶴姫が貯金しているかは知らないが、金遣いは荒いほうでもあることはこれまで散々買い物に付き合わされてきた経験から分かっている。
持っている金額はそこまで多くはないと予想していた。あっても多分十万とかそれくらいか。それでも俺と比べたら天地の差だが。
一週間が過ぎた頃には、きっとその顔も曇っていることだろう。
「つまりそれまでの辛抱ってことだな」
先の展望が見えるのとそうでないのとでは大違いだ。
俺はこのバカバカしい契約がその先も続くことになるなどと、そのときは考えもしなかったのである。
本当に馬鹿なのは、俺だというのに。
「なにひとりでブツブツ言ってるのよ、キモいんだけど」
ひとり未来予想図を描いていたところで、凛とした声が投げられてくる。
散々聞いてきた気の強さを感じさせるその声に、俺は反射的に顔を上げていた。
「…鶴姫か。相変わらずそんな口を聞くんだな」
長年の積み重ねが成せる悲しい条件反射。俺の体に未だ色濃く残る鶴姫の残滓を誤魔化すように、俺は敢えて冷たい声を出していた。
「なによ、そんな口って。私はね…」
「他人だろ。俺とお前は、ただの同級生だ」
朝の挨拶も喉元まで出かかっていたが、口にすることはなんとか押しとどめる。
人として罪悪感の残ることではあるが、今は鶴姫にイニシアチブを渡すわけにはいかない。そんなことをすれば元の木阿弥に戻る可能性があるのだ。それだけは御免だった。
俺は他人であることを強調する。そうすることで、鶴姫もようやく昨日のやり取りを思い出したらしい。唇を噛み締めている姿が見える。それは昔からの鶴姫の癖であり、自分に都合の悪いことがあると見せる仕草だった。
「そう、ね。私と蓮司は、他人だったわね」
「ああ、そうだ。だから、『幼馴染』を続けたいっていうならさ」
俺は手のひらを鶴姫に向けて差し出した。蔑むような目も意識する。
胸中に広がる自分への嫌悪感からは、目をそらした。
「幼馴染料金、払ってくれよ」
これで鶴姫に嫌われることを願いながら
だけど、俺はまだ知らない。自分が井の中の蛙であるということを。
この行為が、自分をどこまで苦しめることになるのかを。
俺はまだ、知らなかった。
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