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第五章 盲目の明日へと

 



 「なーー」

 俺は愕然として、言葉を失った。失った言葉は、リーダーに向ける初めての怒号へと変わった。

 「そんな馬鹿な! 修也にいがーー」

 「これに関しては、想定外としか言いようがない。元々スパイだったのか、敵の勧誘に乗ったのかは判らないが、間違いなく修也は寝返った」

 俺はまともな思考ができないでいた。想定外どころの話じゃない。俺にとっては彼は師匠のような存在なんだ。それに修也の腕は一流、しかもリーダーと同等のカリスマを持つ……そんな人物に裏切られてリーダーも正気を保っていられるわけーー。

 抑えきれなくてーー感情が爆発した。

 「私も今そちらに向かっている。それまで作戦は実行するな。偵察役から伝令は来ている、明日実行と言ったが、今の話を聞いて早まるなよ」

 「ーー俺一人で大丈夫だ」

 「達見! 馬鹿なことを言うな。無駄死にするーー」

 俺は電源を切った。

 あの修也にいが? 馬鹿なーー。笑いさえも込み上げてきそうだ。敵は戦争を起こそうとしているテロリストなんだぞ。なぜそんな過激派にあの穏和で、何よりも命と心を重んじる修也にいが加担するんだ?。

 あり得ない。ただその思いだけが心を埋め尽くしていく。

 修也にい、どうしてなんだーー。

 「クソッーー」

 俺は唇を噛んだ。手に力が籠められる。

 数秒ーー目を瞑った。そしてゆっくりと、目を開ける。

 「修也にいーーおまえをーー」



 外に出ると、意味もなく空を見上げた。空は暗黒で、闇のようだ。けれど俺にとっては、この闇は実家のような感覚のモノだった。

 闇から闇。幸川が言っていたように、それがこの世界の真実だ。だから最後、人は光から誕生したしても、闇へと進み、そして最後は闇へと帰る。それがどれ程辛いものだとしても、それが真実なのなら仕方がない。それから逃げるよりは、ここが実家なんだという感覚でいた方が何倍も強く生きれるはずだ。

 本当に守るべきものを同じくした仲間が敵に寝返った今、仲間を殺すには自我さえも殺さないといけない。諦観で包むなんて生易しい。心を殺してしまわなければいけないのだ。

 ーーいつかの日に聞いた言葉を思い出していた。

 ーー〝自身の心を殺して敵を観察したとき、おのずと敵の心と弱点が明確に見えてくることでしょう〟。

 あんたにーーこの俺にーーその方法を使えというのか。あんたはーー俺の貫き通した自我と意志さえも、最後に奪って行ってしまうのか。

 俺は耐えきれずに叫びそうになった。が、その思いを必死に抑えた。

 対象のいる場所に向かった。

 ここからなら十五分程で着くだろう。吉倉の家よりはよっぽどましだ。

 何分程歩いただろう。それにしても闇が痛いーー精神が参りそうだ。

 「ここーーか」

 俺は大きな屋敷の扉を見た。これなら乗り越えれる高さだ。

 俺は扉の横にある石に手を掛けると、乗り上げて屋敷の中に入った。

 俺の予測では、俺が侵入した時点でだれかが俺を排除しにやってくるだろう。

 ーー予測は的中した。

 少し歩いていると、影がゆっくりと近寄ってくるのが解った。

 「修也にい」

 柔らかな笑みが見えた。

 「達見、よく来ましたね」

 「どうしてあの時俺をやらなかったんだ」

 「それは雇い主の要望でしてね。あなたを殺すのは、この屋敷に入って来た時だけにしろと」

 「馬鹿なーー!」

 俺は強く歯を食いしばって影を睨みつけた。

 「私本人も、あなたを不意打ちで殺したりしたくはない。殺し合うのなら、正面からやりあいましょう」

 相変わらずの優しい口調で修也にいはそう言う。

 「それにーー達見ーー。あなたでは私には絶対に勝てません。あなたの戦闘技術は、私が一番よく知っています」

 「くーー」

 俺は拳を強く握った。

 「それでも……俺はあんたを殺す……修也ーー!」

 俺は込み上げてくる感情を必死に抑えながらそう言った。

 「始めましょう。銃を抜いてください、達見」

 俺は銃を抜くと、慣れた手つきでサプレッサーを装着した。

 一度、修也に銃口を向けるーー。

 「修也ーーあんたの死は、俺の諦観で埋めてやる」

 「ご自由に」

 俺は一度銃を下ろすと、右方向へと走り出した。

 修也に銃口を向けるとーー二発、銃弾を放った。

 タイミングを読まれていたのか、修也は俺が銃口を向けた時点で、右方向へと飛び退いていた。

 俺は急停止すると修也に銃口を向けた。

 ーー修也も俺に銃口を向けた。

 ーー同時に、発砲音が聞こえる。

 俺は修也の射撃をよく知っていた。彼は組織の中でも腕はトップレベルだ。彼が敵に銃口を向け、狙いを定めて引き金を引くまでおよそ一秒。それに対して、俺は一秒半かかることを修也も承知している。

お互い、発射されるタイミングに合わせて身軽に弾を回避する。彼は俺の左腕を狙っていたから、俺は少し重心を右へとかけて回避した。

 俺も彼の左腕を狙っていたから、彼も同じようにして俺の弾を避けた。

 修也が両手で拳銃を持つのが見えて、俺は慌てて左方向へと駆けだした。威嚇射撃として雑な狙いの発砲を三発、走りながら修也へと打った。相手が相手だ。怯みもしない。

 一発、修也が銃弾を放った。

 俺はなるべくタイミングを合わせて飛び退いたが、体勢を立て直すとじわりとわき腹に血が滲んでいるのが解った。

 ーーかすりはしたが、直接被弾したわけではないのが僥倖か。

 俺はゆっくりと態勢を立て直すと、痛みに耐えながらも修也へと銃口を向けようとする。

 それを修也の発砲が邪魔をした。ーー左腕に温かいものを感じる。

 「ーークソーー」

 どうしてだろう。やけに俺はやる気になれていなかった。彼を殺すという現実が、あまりにも惨いと思うからだろうか。それは哀しすぎることだろうからか。

 全く、何度思ってきたか今となっては覚えていないが、なぜこれほどまでも、最後というモノは救いようがないのだろうか。手を抜いたつもりはない。だから修也が俺を実力で倒したということはまごうことなき事実だ。だが、いつものように相手に明確な殺意が持てない。それはやはり、彼は俺が信じる人物の一人で、今すぐにでも戻ってきてほしいと思っているかだ。

 心を殺さなければならない。そして、信じている人物を殺すための、明確な意志を、自我を、持たなければーー。 

 修也は銃を下ろすと、ゆっくりとこちらに近付いてきた。

 「ーー達見。あなたでは私に勝てない」

 その眼は人を憐れむ眼だった。

 彼は今、かつて盟友とも呼べる存在であった俺を惨めなものだと憐れんでいるのだ。

 彼は今、絶対的な立場にいる。

 「諦めてください」

 そう冷ややかな声で修也は言う。

 俺はーー膝を折って、銃を手から離した。銃の上には、撫でるように置かれた無気力な手が置かれている。

 俺は俯いた。

 「聞かせてくれ、どうしてあんたは組織を裏切ったんだ」

 「……世界を根底から変えるためです。組織のやり方では、世界を変えることなどできはしません」

 「世界を変えるだって……戦争を起こしてか?」

 「そうです……」

 俺は修也の顔を見た。

 「どうしてなんだ! あんたが一番守りたかったのは、何よりも命だったはずだ! なのにどうしてなんだーー」

 「その命を守るために、私はこの選択をしたのです」

 「馬鹿な……」

 修也は哀しげな眼で俺を見た。

 「なら、俺を殺してあんたの望む理想郷とやらに行くのか?」

 「はいーー。あなたを生かしておくと、この先私たちの理想に影響が出る可能性がある。ですがあの時はーーあなたと最後に、普通の友達として話しておきたかっただけです」

 「……はは」

 俺は無意識に薄ら笑いを漏らしていた。

 「全く……あんたは優しい人だな……。今から殺す相手の心さえも気遣おうっていうのか?」

 「気遣いですか……。それはあなただからするんですよ、達見」

 「……俺は本当に……あんたには感謝してる……」

 修也が俺を憐れみの眼差しで見た。

 俺はまた俯いた。

 「組織に入ってからは、リーダーの次に俺を世話してくれたし、俺の過去を聞いては、真っ先に理解してくれた。俺にとってはあんたは師匠みたいな存在だ」

ひしひしと修也の思いが伝わってくるようだった。

 「こんな世界から……俺ははやく消え去りたいと思っていた。今でもそう思ってる。でも修也にいみたいな人間がいることを知って、少しはまだ、救いようがあるかなって思えたよ。

 でもーーこれで最後だな。修也にいに殺されるなら……俺はーー幸せに死ねるよ」

 俺はそう言って、笑顔で修也にいの顔を見上げた。少し涙が滲んだ。

 「達ーー見……」

 修也は少しハッとするような顔で俺のことを見つめた。


 ああーー今しか好機はないーー。


 「ーー!!」

 修也が条件反射で銃を持ち上げた。

 二発ーー銃声が鳴り響いた。

 修也の右肩に弾丸が叩き込まれて、血しぶきが飛ぶ。修也の打った弾丸は、俺の顔すれすれを通って地面に被弾した。

 彼の腕は一流、少しの秒差があったら俺の頭部は撃ち抜かれていただろう。

 驚きの表情で修也が後ずさった。

 お互いに目を剥いて銃口を向ける。同時に銃声が鳴った。

 彼と違って俺は利き腕をやられていないから弾は命中した。それに対して、修也の狙いは俺に打たれた負傷のせいで定まっていない。彼の弾丸は無意味に空を切っただけだった。

 空っぽになったマガジンを取って、新たなマガジンを装填する。

 俺は修也に近寄ると、三発修也に弾を叩き込んだ。

 修也は銃を地面に落とし、一度踏ん張ると、背中から無念そうにぱたりと倒れた。

 俺は修也にゆっくりとした歩みで近寄っていった。

 「……達……見……」

 俺は苦しそうにそう言う修也を見下ろした。

 「ごめん……本当に」

 その言葉を聞くと、修也にいは柔らかい動きで、ゆっくりと優しげな微笑みを作った。

 「いいん……ですよ……」

 涙がぽろり、と頬を伝った。

 こんな想い……するつもりなかったのに。

 「修也……にい……」

 俺は膝を折って項垂れた。修也にいの顔が目前まで迫った。

 「……こちらこそありがとう。達見……私こそ……あなたに殺されて、よかっーーたーー」

 修也にいは眼をゆっくりと閉じた。息が少しずつ止まっていく。

 静寂がーー闇を満たした。

 ピタリーーと彼の息の音が途絶えたのが解ったーー。

 ああ……彼は死んだんだ。

 俺は修也にいの胸に顔を押し付けると、溢れてくる洪水のような感情を抑えながら、喉からせりあがってくる苦悶の声を漏らして泣いた。涙が途方もなく溢れて、眼の周りが熱い。

 「ーーごめん。ーーごめんよ。それでもーーは、まだ目を瞑らない。

 俺たちの哀しみを見ない……盲目の明日へと……俺はまだ行くよ……修也にい」

 俺は立ち上がった。

 涙は枯れて、残ったのは空っぽの諦観だけだった。


 ゆっくりとーー足音が近づいてくるのが手に取るように判ったーー。


 屋敷の中から人影が近づいてくる。

 俺はその人影の顔を目を凝らして見た。

 「やあ。達見ーー」

 澄んだ、冷たい声だった。

 「修也をーー勧誘したのか?」

 「ああ。彼は僕の理想とする世界に相応しい人材だ」

 「戦争を起こしてどうするつもりなんだ……」

 「人間の愚かさを死の哀しみで教育する。そのためには抗いようのない……願っても、叫んでも……解決することのない、どうしようもない哀しみが必要なんだ。その哀しみを与えるのに、戦争は一番相応しい」

 「命は失われたら、もう取り返せない」

 「だからこそ、だよ。その命を尊重する人間性を作ってしまえばいいんだ。命が死に、消えるのを目の当たりにするからこそ、人は命の大切さに気付くーー。ならば、その大切さに気付くために、誰かに犠牲になってもらうしかない。きっとーー犠牲になった人たちも、命を大切にする人々が増えて、その失敗を何よりも排除しようとする人々が増えて……仕方ないと許してくれるはずだ」

 「ありーーえないーー。大切な誰かを失って、生きられなくなる人だっている」

 「確かにーー。でもね、命の大切さを知らない、心の大切さを知らない人々がそこかしこにいる世界よりはマシだよ。そんな世界、どのみち破裂して戦争が起こるよ」

 俺は反論できないでいた。

 「先人は、戦争をしたからこそ、自分たちの過ちと愚かさに気付くことができ、何が一番大切なのかということに気づけた。それは、今まで自分たちがないがしろにしてきた命だ。そして、それと同じ程に大切にしなければならない心だ」

 俺は黙して彼の言葉を聞いた。

 「人はーー命と心の価値を忘れたとき、戦争をするんだ。そして、気づく、自分たちは間違いを犯していたのだとーー。

 つまりーー身勝手な利己と欲望が命を殺し、心を荒廃させていくんだ。その果てが戦争だというのなら、もう解るだろう。戦争は、人が命の尊さと、心の尊さに気づくのに欠かせない、回避できない過程なんだよーー。過ちは、人が大切なことを知る上で欠かせないモノなんだ。

 ならば、その過ちを、故意に人々に経験させるのが、一番の実のある教育だと思わないかい」

 俺は眼を見開いて影を見つめた。

 「歴史は繰り返す、と言うけれどーー。そんなに簡単な言葉で終わらせていいと思うかい。それは、本当の苦しみモノというものを忘れてしまっているから、そんな他人事のような気軽さでその発言が放たれるんだ。

〝本当の恐怖〟を忘れているんだよ、人々は」

 影が音もなく笑うのが判った。

 「じゃあーー一体、俺たちはどうすればいいんだ」

 俺は投げやりにそう言う。

 「そんなことーー僕にだって解らない。僕も、きっとキミと考えていることは大して変わらないよ」

 「……」

 「ただね……キミと僕の違うところは一つある。それは〝憎しみ〟だ。キミはまだ人間にいちるの望みを持っているのかもしれないけれど、僕は違う。人間が取り返しのつかない生き物であるということを知っている。キミは、本当に取り返しのつかなくなった者たちを特定で排除しているけれど、僕は違うんだよ」

 「何が違う」

 「殺す対象が、だよ。人の心を根っこから改造してしまったら、殺人者さえもいなくなる。殺人者や、誰かを傷つけるような人間の心を、そうなるまえに殺してしまったら、その人間はきっと誰も殺さないし、誰も傷つけない。

 僕が殺すのは、取り返しのつかなくなる前の人間の心なんだよ。

 キミたちのやり方では手遅れになったモノたちを排除することしか敵わない。でも僕のやり方だと、人々の悪い感情自体を排除することができる。価値観を覆せるんだ」

 「そのために戦争が必要だとでも言うのか」

 「爆発して人々が起こすよりも先に、故意に起こした方が最小限の犠牲で済む。

 ……この平和を見てよ。過ちを犯した先人たちの目指した理想郷だ。彼らの幸福は全て、今のこの平和に注がれているんだ。命が死なない、心が病まない、ただそれだけが本当の幸福なんだよ。

 でもーー多数の人々はそれさえにも気づかない。なんて身勝手な話なんだろうね。人間は、最後には人間に裏切られるようにできているようだね」

 「……俺はおまえの経歴を知っている。

 おまえの父親は水城明人。水城財閥の御曹司だ。水城明人の父、三代目当主は、他国にもかなりの影響力を持つ人物だった。三代目当主はある非営利組織に所属する人間で、空いた時間を使っては、紛争地域、貧民地域を渡り歩いて慈善活動を行ったという。その息子である水城明人も、親に習って似たような活動をする人間だった。

 水城明人も、三代目当主同様、慈善活動を行った国、地域では英雄扱いだった。彼のすることに口出しする者たちはいなかった。紛争地域に、年端も行かないおまえを連れ出したことに対しても誰も文句は言わなかった」

 暗闇がやけに目に沁みいた。

 「まだ中学生ほどの年齢になったおまえを、紛争地域に連れていくことだけでも、計り知れない精神虐待だ」

 「父はよく言っていたよ。〝この世の終わりを自分の眼で早くに見ておけ。〟と。虐待だと僕に気遣う必要もない。それは必要なことだったし、価値のあることだった。戦争も同じさ、僕たちは本当の哀しみを回避するために、先に本当の哀しみに正面からぶつかっていかないといけないんだよ。絶対に遠回しにしてはいけないものというもんがあるんだよ。その絶対に遠回しにしてはいけないものとは、皮肉なことに、僕たちがこの世界で生きる中で、一番の苦しみなのだけれどね。その苦しみを許容している人間がーーその苦しみを許容できない人間に、経験させてやらないといけない。それが死という救いようのない現実だったとしても、きっと後から思えるよ。あの経験は必要なものだったのだと」

 俺は影を黙して見つめた。

 「おまえは父親を憎まないというのか」

 「ああ。感謝している。絶望を教えてくれた父は有能な教育者だ。後でその絶望を経験して動けなくなるより、先に絶望を経験して、それに対して耐性を得ておいた方が人生は何倍も生きやすい。そして、明確な明日、正しい明日というモノが見えてくるようになるだろう。少なくとも僕はあの地獄で、明確な明日というモノを見て来たよ。

 達見。人はね、明日を正しく生きるためにこの世界に生まれてきたんだ。だから、この世界で経験する全ての哀しみも、苦しみも、必要なもので欠かしてはいけないモノだよ。それは死のようにねーー」

 「人は、死の哀しみを知らなければ命の重みをしることができないーー」

 「その通りだよ。命は消えるからこそーー人は命を大切にする。一番無くしてはならないモノだということに気づく。至極当然な話じゃないか。本当の現実というモノは、そう言うモノのことを言うんだよ。それを知ることが、正しい明日を導く唯一のカギになる。道徳を尊重するというのなら、それ以外には何もいらないんだよ」

 「何人も自分の手で罪のない人々を殺してきたおまえが平然とそれを言うんだな」

 「そうだね……。それはキミも同じだと思うけれど、やはり本当の幸せのためには誰かの犠牲が付きものなんだよ。

 あの紛争地のモノたちは、父と僕を捕まえてこう言ったんだ。父を殺せと。僕はそこで彼らに言ったんだ。〝なんて救済だ〟と。父は、自分の命を顧みず、紛争地を渡り歩く人だった。彼は自分の命を重んじていなかった。ただ自分が救えるだけの命を彼は守ろうとしていた。そして死ぬときは、自分の生み出した命によってこの世を去る。誰かの死を一番に恐怖し、絶望した彼は最後、愛する息子によって殺される。なんて潔く、崇高で完結された人生なんだ。僕は笑ってその現実を受け入れたよ」

 「狂っていないのが、何よりもおまえが絶望を象った人間であるという証拠だ」

 影は笑った。

 「彼らは何に感動したのか、僕を生かした。そして彼らは僕のことを仰いだ。奇跡の子だと。我らの光明になりうる人物だと言った。何日も立つと、彼らは僕のことを本当に奇跡の子だと喝采した。殺戮を繰り返す彼らに残されたのは、研ぎ澄まされた人格と思想だけだったのだろう。僕はその人格と思想に一番相応しい人物だと、彼らは思ったということだ。この幸福な国から来たこの僕が、世界で一番不幸な世界の、不幸の王になる。皮肉な話だと思わないかいーー」

 「思うよ。おまえの存在自体が皮肉のようなものだ。誰かのために生きた人間の息子が、今度はだれかの命をひたすらに奪い続ける存在になる。これ以上に皮肉な話があるのか。だがーーおまえはただの殺人者じゃないんだろう。俺にもそれは判る。おまえは命を重んじていたからこそ、その命が大切なモノだと気付くために必要となる死の味方をした。おまえは、死という絶望の目線から、生に希望を与えようとしている。命の価値をーー死という絶望を知らせることによって、人間に教えようとしている。もしおまえの期待通りの世界になったとしたら、きっとまた今までと同じような過程を歩んで、この惨たらしい幸せを知らない平和へと着地する。だがそれでもーー人々は命を重みを知り、過ちに気づき、当分はだれもお互いに傷つけ合わないような、殺し合わないような世界になるだろう。大切なモノを失わない世界をーー人々はそれを失ってしまった経験を元に構築しようとする」

 「キミはーーやはり凄いや」

 そう影が呟く。

 「キミを見てきて思ったけれど、キミは僕と似ているよ、やっぱり。ただ目的に些細なな齟齬があっただけだ。帆坂文香を排除できたのもキミがいたからだ。僕はこの国では一切殺しはしないと決めている。僕はキミの正体を知っていたから、キミを帆坂文香と接触させた。キミが彼女を殺すことは、明白だった。キミは僕の帆坂文香を排除するという目的に大変役に立ってくれた。だが、キミの存在は正直あまり、テロリストの立場としては好ましくない。友達としては……好ましいけれどね。

 キミの組織は本来、僕の階級、中級特権〈ゼロ〉に指導権が付与されているはずなんだけど。キミたちの組織の創設者が古参でね。僕と同じ階級にいながら、全てその組織の運用を任されている。それに面倒なことに、どこの誰かは判らないのだけど、〈オール〉という僕より格上の特権を持つ存在がキミたちに味方したようでね。最終的に僕の野望が果たされとしても、結局は僕は死ぬんだよ。僕をスカウトした政界の方がね、かなりの影響力を持つ人間なんだけど、今回の目論見はあまりに損害が多きすぎるのではないかと特権を所有する者たちが動いてね。そこで僕は捨て身の戦法という策に打って出ることになるわけなんだ。まあ、僕が殺されればこれでこの目論見も終わるようになっている。僕がファクターだったんだよ。戦争というモノを目の当たりにしてき、そしてそれを誰よりも理解し、その現象を必要なモノだと思う僕が眼をつけられてこの目論見に参加させられた。そういうことだよ。僕は、ただ自分のやりたいことをするだけだけどね。それを現実的なモノとするのに、今回の話は僕にとっても利のある話だった。ただそれだけの話だよ。さあ、僕を殺せれば全ては終わりだ。キミの正体を知っていて逃げなかったのも、途中から半分は諦めていたからなんだよ。〈オール〉は格別なんだ。全ての権限を握っている。敵に回れば後は命を失うのを前提に反発するしかない」

 「そうか。それを聞いて安心したよ。おまえはここで俺が殺す」

 「受けて立つよ」

 俺はゆっくりと拳銃を上げて、影に狙いを定めた。


 「水城東和……いや、テロリスト集団の元リーダー、〈アンサー〉、おまえを排除対象として処分する」


 ーー二発発砲する。

 それと同時に〈アンサー〉は右方向へと駆けた。被弾はしていない。

 すぐさま〈アンサー〉は距離を縮めてくる。彼の運動神経は尋常じゃない。気が付くともう近くまで迫っていた。

 俺は正面から突っ込んでくる〈アンサー〉に、二発、銃弾を放つ。彼はそれを、俺の懐へと入ってきて躱した。右腕を掴まれ、次に手首の関節を曲げられて、俺は痛みで拳銃を離した。拳銃を取って〈アンサー〉が俺の額に拳銃を向ける。俺は向けられる銃口をすぐさま左腕ではじき、敵の懐に入り込む。発砲されて、弾が背中を擦れた。

 「ーー!」

 俺は敵の繰り出す膝蹴りを受け流し、拳銃を握っている手の関節を曲げて、そのまま曲げた方向に敵を投げた。その隙に、拳銃を手から奪い、引き金を引いたーー。

 カチ、カチと音を立てるだけで、弾が放てない。敵に銃を持たせたとき全て打たれてしまっていたのだ。

 〈アンサー〉は起き上がって、左太ももにぶら下げてあったナイフを引き抜いて、立ち上がった。俺も数歩後ろに下がって、ポケットからナイフを取り出して刃を出して敵へと向けた。

 俺は近寄ってナイフを突き出した。その攻撃を敵は、後ろに下がって回避した。その後を追いかけて、俺は横、斜め、縦とナイフを薙いだ。その全てを後退されて回避される。

 ひゅんと音を立てて、敵のナイフが一閃される。俺はそれを後退して躱すと。踏み込んで一突きした。読まれていたのか、その攻撃を敵は左腕で受け流した。

 〈アンサー〉は間髪入れずに、俺の右腕、右肩を斬る。その勢いで俺の首筋に刃を振るう。それを俺は左手で敵の腕を掴んで止めた。俺はナイフを右へと一閃した。敵も斬られてだろうか、俺から距離を取った。

 敵は逆手にナイフを持った。

 「どちらが死ぬか、見えて来たよ、達見」

 俺はナイフで威嚇しながら、敵との距離を詰めた。

 俺はナイフを敵の眼前でゆらゆらと揺らして注意を逸らそうとする。

 ーー互いの緊張が頂点に達した。

 俺は顔に目掛けてナイフを突き出すと見せかけて、狙いを変えて腹へとナイフを突き出した。それと同時に敵もナイフを俺の首へと一閃する。その攻撃を俺は左腕で受けるようにして止めた。

 「ーーッ」

 敵は左方向へとくるりと回って、俺の繰り出した突きを回避した。俺のナイフは空を切って敵のいないところに打ち出された。左側に回ったのか姿が見えない。

 ーーすぐさま、左腕に痛みが感じる。慣れた手つきで音もなく、左腕が三度斬られたのが判った。

 俺は切られた場所を押さえた。痛みと出血多量で意識が朦朧としてきた。あの修也にいを相手にしてから、戦闘訓練を受けている水城を倒せるはずがやはりなかったか。

 ここで終わりだーー。

 俺はゆっくりと捨て身の一撃を繰り出すために、水城へと近寄っていく。距離を少し縮めると、俺は死ぬつもりでナイフを振り上げたーー瞬間ーー腹部へ激痛が走った。

 腹部を見ると、ナイフが刺さって血がゆっくりと滲んできている。

 俺は水城の姿を見つめながら、後ずさった。痛みで意識が飛びそうになり、俺はひざまずいた。腹部に刺さったナイフの場所からは、途方もなく血が流れ出ている。

 「もう終わりだよ……達見」

 水城がそう言いながら近寄ってくる。

 「そのようだな……」

 俺は地面を向きながらそう言った。

 「最後にありがとう、とだけ言っておくよ」

 「なぜ感謝する」

 「キミはこの国で始めて見た本当の自己犠牲者だったからだよ。初めて人間を……好ましいと思えたからだよ。キミのような人間を僕は求めていた。キミが死んでこの先、きっとキミのような人間が増えることだろう。けれど、キミのような殺人者にはさせない。真っ黒な闇の中でも、きっとその孤独を理解する存在が周りに増えれば、キミのようにはならないはずだ。だから約束しよう、真の平和を」

 俺のところまで来ると、俺からマガジンを取った。そして銃を取りに行き、こちらにゆっくりと戻ってきた。マガジンを装填する音が聞こえる。

 ゆっくりと黒い物体が俺の頭上に持ち上げられるのが曖昧に判った。

 「早く死んだ方がキミも楽だろう」

 「ああ。礼を言う」

 そう言うと、いつもの優しい笑い声が聞こえてきた。

 「キミはやっぱりいいね、達見。

 そうだーー最後にこれだけは言っておきたいんだ」

 そう言うと、水城は少し言葉を切った。

 「キミのことはーー忘れないよ」

 憐れむような、悲観するような冷たい声で、水城はそう言った。

 初めてーー水城の本音を聞いた気がした。

 一発ーー銃声が鳴り響いた。

 俺は自分の腹を見たが、痛みが全くなかった。俺は痛みで倒れているはずだ。その予想に反して、水城が目前で苦悶を漏らした。

 「ーー!」

 水城は腹を押さえると、ゆっくりとした動作で、俺が入ってきた塀の方に振り向いた。そしてまたゆっくりと、塀のある場所に銃を向ける。

 また銃声が鳴り響いた。サプレッサーをつけていない音だ。

 影はゆっくりとこちらに近付いてくる。その影を俺は見たーー。

 そこにはすらりとした華奢な体に合わない、おっかない拳銃を片手に握っているリーダーの姿があった。

 パタリーーと水城は倒れた。

 「この馬鹿が」

 ぶっきらぼうにリーダーはそう言った。

 俺はリーダーの顔を見上げた。

 「……」

 「何を黙りこくっているんだ。弁解の一つでもしろ」

 俺は何かを言う気分ではなかった。

 「全く……」

 そう言うと、リーダーは近付いてきて、俺の体を支えて立たせてくれた。

 「珍しいな……リーダーがこんなことをしてくれるのは」

 「黙って歩け」

 俺は数秒黙っていたが、我慢できなかった。

 「修也にいを……俺は……」

 「達見」

 妙に真剣な気配で、リーダーは俺の名を呼ぶ。

 「もしおまえが裏切った時、私がおまえを殺してやる。だが、その時私は、今のおまえと同じ絶望を味わうことになるだろう。だから……私にそう思ってほしくないのなら、おまえは組織を裏切るな。いや、私を裏切るな。今はただ、それだけを考えていろ」

俺は地面を見た。

 「わかったよ……リーダー」

 やけに……暗闇が目に染みる。



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