第三章 平凡への切望
ソファの上でゴロゴロしていたところ、軽快なインターホンの音が鳴って俺は立ち上がた。
知り合いもいないはずの俺の家に誰かが来ることは珍しいことだった。
ドアを開けて来訪者を見る。
「久しぶりですね、達見」
「しゅ、修也にい!?」
「はは。そこまで驚かなくても」
修也にいはそう言って人の良さそうな表情を浮かべる。
彼は色々とお世話になった人で、俺は修也にいという愛称で呼んでいた。
「まあとにかく、中に入ってよ」
「お邪魔します」
修也にいを中に通すと、俺は飲み物を取りに行った。
「適当に座ってて」
「はい」
相変わらずの丁寧語で彼は話す。俺よりも五歳も年上なのに、彼はその俺に対しても常に丁寧語で話す。見ている限り誰にでもそのようなのだが、年下の俺にはため口でもいいと俺は思っている。
「それで、どうしたの? 何か問題でも発生した?」
俺は淹れたお茶を修也にいに渡した。
「いいえ。一つの任務に対して人員を割くのはリーダーのやり方ではありませんから、今回の私の行動はリーダーに半が強引にお願いして許可を貰ったものです」
「初めてのことだね。でも修也にいのお願いだ。さすがのリーダーでも無下にはできなかっただろうね」
「リーダーには申し訳なかったと思っています。彼女の悩む顔を私は見たくなかったのですが、渋々と言ったところでしたね。自分でも自覚はあるのですが、今回は達見の命に関わることだと思いましてね、どうしても達見に合わなければいけませんでした」
「俺の命?」
「はい。今達見が追っている相手、達見の思っている何倍も厄介な相手です」
「……」
「達見。リーダーの許可は下りています。今回の件は私に任せてください。あなたでは手に余ります」
「修也にい……本気で言ってるのか?」
「はい」
「……駄目だ。今回の相手に一番相応しい立場に俺はいる。修也にいがやるよりも、俺がやった方が効率がいいし、リスクを最小限抑えれる。俺たちは自分の意志で命を懸けてる。それは修也にいが一番解っていることだ」
「そうです。ですから私は自分の守りたいもののためにこの命を使うのです」
沈黙が部屋を満たした。
「修也にい……」
「まあ、リーダーもこれを見越して許可を下ろしたのでしょう。達見が途中で与えられた仕事を放棄するはずがない。そうなれば私の出る幕はないですからね」
「ごめんよ……修也にい」
「いいですよ。達見が元気なことが解っただけでも収穫がありました」
修也にいは立ち上がった。
「修也にい! 俺は修也にいに大切なことをたくさん教えてもらった。今まではっきり言葉にして言わなかったけど、今言っとくよーー」
その言葉を修也にいが遮った。
「……やめてくださいよ……。またこの任務が終わって帰って来た時に、存分に聞いてあげられるじゃないですか。またその時に聞かせてくださいよ」
そう言うと修也にいは優し気に微笑んだ。
「そう……だね。わかったよ」
「はい」
修也にいは頷くと玄関へと向かった。
「もう帰えるのか?」
「はい。……そうだ」
そう言うと修也にいは一度止まると、こちらに振り返った。
「達見。私がいつも教えていたことを思い出してください」
俺は黙ってその言葉の続きを待った。
「強い敵ほど〝人の心というものを理解しています〟。だから本当に強い敵と対峙したとき、本当の意味で絶対に油断してはいけない。油断しまいという焦燥さえも隙になり得るでしょう。だから達見、そうならないように〝心を諦観で埋めてください〟。〝守るべきものと、殺すべきものを誰よりも現実的な目線で区別するのです〟。
ーー〝敵を抹殺するのに、あなた自身の心は邪魔なものでしかない〟。〝自身の心を殺して敵を観察したとき、おのずと敵の心と弱点が明確に見えてくることでしょう〟
達見、忘れてはいけません」
少し厳しい顔をしてそう言った後、優しく修也にいは微笑んで俺の肩をぽんぽんと軽く叩いた。
俺は心から修也にいを尊敬していた。今も全くその想いは変わらなかった。彼の言葉を聞いて改めてそう思った。
修也にいが帰るのを見送った後、俺はすることもなくソファにまた寝転んだ。
明日が学校なのが少し憂鬱だったが、久々に修也にいと話せたことが嬉しくてその憂鬱もすぐに消えていた。
◇
上滝知羽は〝平凡〟だけを求めていた。
父親が人殺しになったその日からずっと。
彼女は別段、誰かを憎んだり、恨みをぶつけたことはなかった。だがそれは口に出して誰かに憎しみを伝えたり、恨み言をいう肝の太さが彼女になかっただけだ。
彼女は〝平凡〟な人間の模範のような人間だった。
遅刻せずに学校へ行き、特定の友達と遊び、突飛な行動は取らずに、学校や世間に教えられる〝普通〟というものに習い日々を生活する。
だが彼女は、〝平凡〟というまるで無色の色を持つ人々の輪から追い出された。
それは彼女の願った末路ではない。彼女の居場所はそこにしかなかったからだ。
本来、同じ種類のはずの人間たちから迫害される。
同じ種類だと思っていた人間達から侮蔑される。
彼女は〝平凡という名の土地〟に住む人々から、自分の我が家でもあったはずの〝平凡という名の居場所〟から追い出された。
彼女はもう、この世界には自分の居場所は存在しないのだと心の底から思っていた。
〝平凡“とは一体何なんだろう。〝平凡な暮らし〟。〝平凡な日常〟。〝平凡な未来〟。
〝平凡〟には、それに逆らった行為を身内がしただけで、その者が血が繋がっているという理由だけで、取り上げられなければならない掟でもあるのだろうか?。
彼女には解らなかったし、到底納得もできなかった。
なぜなら関係のない不特定多数の人間たちが、知羽自身が与えた危害でないというのに、知羽が唯一欲した〝平凡〟という名の全ての思いや、日常を無理矢理に取り上げていい理由などいくら考えても見当たらなかったからだ。それに、そんなルールも聞いたことがなかったし、先生もそんなことは一度も言わなかった。
私の何が悪いのーー。
ただその思いだけが知羽の心を暗雲のように満たしていた。
何食わぬ顔で生活する〝平凡〟という名の世間から追放されるまでは、知羽もその者たちの一員だった。今もその方がいいと心の底から思っている。
でもーーこれだけは解る。
〝平凡〟という名の世間から遠くはなれた場所に追放されて、知羽はその場所から〝平凡〟を俯瞰して、一つだけ確信できた。
〝平凡〟とは〝自由〟のことではない。
世間は〝平凡〟や〝常識〟という言葉を豪語しておいて、その中の一員である知羽を、気に掛けることなく排除した。
知羽から〝平凡〟を奪い取った父よりも、知羽から〝平凡〟を取り上げた〝平凡という名の世間〟の方が、彼女にとっては殺人犯よりも、強大で、邪悪な醜い怪物に見えた。
それでも知羽は、彼ら平凡という名の世間に属する人々と、自分という人間が、根本的には同じものだという思いを、捨てることはなかった。
ーー彼女はただ、その〝平凡〟へと帰りたかった。
◇
公園で待っていた鈴音と学校へ向かい、教室に着くと水城といつもの他愛ない挨拶を交わして席へ着いた。
何か教室に入った時に、足りないものがあるような気がしたのを思い出して後ろを向いた。
後ろを向くと、上滝がいなかった。
あの優等生がいないのは珍しいことだった。風邪でも引いたのかもしれない。
チャイムが鳴り、それと同時に教師が入ってきた。教師の合図で委員長が皆に指示をし、俺たちはいつも通りの挨拶をして着席した。
教師は何か目立った言葉もなく教室を退室しようとする。
俺はその背中を止めた。
「上滝はどうしたんですか?」
教師は一瞬顔をしかめたような気がした。
「怪我をしたらしいよ。当分は安静だそうだ」
俺は間髪入れずに言葉を挟んだ。
「何かあったんだな?」
「な、何の話だ?」
「教えてくれ」
俺は廊下に行った。教師も後から続くように教室から出てきた。
「上滝に何があったんだ?」
「いや……それが……」
「誰にも言わない。それよりも彼女が心配なんだ」
教師は少し押し黙った。
「おまえ……あいつの友達になってやってくれ」
教師は俺の顔を真剣に見てそう言った。
「他の先生から聞いたんだ。おまえあいつと話していたらしいじゃないか。少しはあいつと友達になってやってもいいと思ってるからそんなことをしたんだろ?。この学校には前まで、あいつに優しく声を掛けて近寄って、最後には裏切ったひどいやつがいる。
ーー私は、そのひどいやつがいなくって、ようやくひそひそと言いたいことを少しは言えるようになった臆病者だ。それと、上滝が〝自殺未遂〟をして、自分の浅はかさと愚かさにやっと気づけた。それでようやく自分が馬鹿だったなのだと気づけた。
私は上滝を全身全霊で救いたいと思っているんだ」
「なーー」
俺は一瞬言葉を疑った。
「自殺未遂だと!」
俺は沸々と湧き上がるモノを心の奥に感じた。
俺は教師の胸倉を掴んだ。
「おまえーー。自分が無力であることを……教師面で語って面白いのか」
「何をするんだ……!」
教師は目を剥いて怒った。
俺は手に力を込めて、歯を食いしばった。
俺は数秒そうしていると、ようやく手を離した。
「貴様! 教師に手を挙げたな!? 停学で済むと思ってるのか!」
教師はそう俺の顔の前で怒鳴り散らした。
俺は教師を睨みつけた。
「命は何よりも大切なモノだ。だがどれ程泣き叫ぼうと命は死から逃げることは出来ない。命はいつかは消えてしまうんだ……だが、だからこそ命が何よりも、一番大切なモノだということを思い知るんだ」
俺は教師の目を見た。彼の眼は焦点が合っていない。まるでモンスターだ。
俺は心の中で笑った。同時に俺の心は冷え切っていた。
「貴様……何が言いたいんだ!?」
「おまえは教科書通りの人間でしかないってことだよ。おまえのような人間がいる日常を〝平凡〟な日常と言うんだ。本当の道徳は、自分が実際に経験した事実からしか知ることは出来ない。
——それを、はやく上滝にも教えてやらないといけない」
教師は人を馬鹿にするような笑いをした。
「貴様は馬鹿のようだ。どうせ転校してきた理由も、周りと馴染めなかったというところだろう。貴様のようなことを何というか知っているか? 社会不適合者というんだよ。解るな? きっとおまえはろくな人間にならないだろうな」
教師は薄ら笑いを浮かべて俺の顔を覗き見た。
「ろくな人間か……。そんなもの、人間である以上この世界に存在するのか? 何かを常に殺し続けて、食べ続けて生きてきた人間なんて、ろくなものだと俺は思わない。あらゆる命を殺しておいて、その命の重みと気持ちさえも考えてやらない人間は、一体どこを目指して生きているというんだ?。
死か? 死の意味さえも腰の抜けた恐怖が原因で解っていないというのに。
それとも神か? 自分の体さえも、この世界から与えられた借り物でしかないというのに。
〝本当に見たいものを見れない〟。〝何も見えていない〟なら、まるでそれは〝盲目〟だ。
何も見えていない。暗闇が怖くて前に進めない。不明瞭なモノが怖くて無造作に暗闇の中で暴れることしか術を知らない。
ーーこんな、〝平和な世界〟でも人はそうやって足掻いている。なんて救いようのない話だとおまえは思わないのか。
今ここでこんな話をしても意味はないと俺も理解してる。だから意味があることが、ろくでもない俺にあるとしたら、未遂で終わった知り合いの自殺を、次がないように完璧に阻止することくらいだ」
途中から教師は落ち着いたのか、俺の話を不思議そうな顔で聞いていた。
俺は最後に教師に上滝がいる病院の場所を聞いてそこに向かうことにした。
学校を出て病院へ向かった。
俺は行ったことは無いが、何となく場所は知っていたから迷うことはなさそうだ。
何分か時間を食って、ようやく病院へと着いた。
俺は病院の中に入ると、受付で上滝の部屋を教えてもらった。
上滝の部屋の前へ着くと、俺は気遣うこともなく扉を開いた。
上滝がいるベッドを探した。他の患者は皆カーテンを開けていたから、すぐに判った。
俺はカーテンを開いた。
「生きてるか?」
ゆっくりと上滝は俺の方を向いた。顔色が良くない。
「なにを……しに来たんですか」
「いやな、おまえが死にかけたって聞いてな」
上滝は下を向いて沈黙した。そして唐突に顔を上げた。
「そう……ですよ。私、死ねなかったんですよ!」
そしてそう声を上げた。するとまた上滝は顔を下げた。
「よかったじゃねーか」
「よかった……? どうしてそんなことを軽々と……。私は、死にたかったんですーー」
「死んでおまえに得することがあるのか?」
「ありますよ。こんな世界から、おさらばできます」
「おさらばね……」
俺は教師の言葉を思い出していた。
教師は確かに〝ひどい奴がいた〟と言っていた。考えてはいたことだが、上滝の自殺未遂は、帆坂の最後の抵抗だったんじゃないのか? だが死ぬ数日前に上滝に何らかの攻撃をしたとなると、偶然とも思えない。どちらにしろ、上滝は帆坂のいじめの標的になっていたんだろう。そんな様子は無かったのだが……。
それに、上滝の自殺未遂が帆坂の死と関係があるように思えてならない。だが今は、そんなことは重要にはならないだろう。
それにーーもう帆坂はこの世にはいない。
「じゃあおまえは、一体何からおさらばしたかったんだよ」
「だから言っているじゃないですか……この世界からだって」
「本当は……上滝は〝この世界〟なんていう曖昧なモノから逃げようとていたわけじゃないんだろ。
おまえは、今すぐにでも逃げたいような明確な恐怖があるからこそ、それに最小限触れないように〝この世界〟なんていう曖昧な言い方をして、その明確な恐怖から逃げようとしてるんじゃないのか?」
「明確な恐怖……」
上滝の顔が一層曇る。
「おまえだけじゃない。そういう考えたくもないような明確な恐怖ってのを、俺も持ってるし。他の人たちだって持ってるんだ。だが重要なのは、その明確な恐怖が、本当に〝取り返しのつかないくらい恐ろしいモノ〟かどうかという話だ。
その〝取り返しのつかないくらい恐ろしいモノ〟というのは、例えば〝死〟であったり、〝罪〟であったりするわけだが……おまえは本当に、そんな〈本当の恐怖〉を抱えているのか?」
俺は上滝の顔を見た。上滝は相変わらず俯いていた。
微かに上滝の口が動く。
「〈本当の恐怖〉……とは、一体どこまでが〈本当の恐怖〉なのですか……? 本人が怖いと思っている恐怖それそのものが、その本人にとっては、何物でもない〈本当の恐怖〉じゃないんですか……? それ以上も、それ以下もないと私は思います」
「そう……言ってしまえばそうなのかもしれない。だがそれは〝甘え〟だよ、上滝。〝平凡〟という名の〝甘え〟を基準に生きているから、〈本当の恐怖〉が何なのか解らないんだ」
「私が……一体何に甘えたというんですか……」
「具体的には、逃避にだ。おまえは、自殺という名の逃避に甘えたんだよ」
「……あなたは、そうやって無遠慮に人に関わってきて、人の心に足を踏み入れようとする。あなたも——私のことを見捨てた世間の人々と同じです。
何が一体悪いのかということを少しも考えないくせに、その〝悪い〟という言葉を我が物顔で私にぶつける……私は何も悪くないのに……。私はただ、〝平凡な暮らしをしたかった〟だけなのに」
上滝は苦しそうにそう言った。
「俺は逃避に甘えたとは言ったが、おまえが悪いなんて一度も言ってないよ。そんな言葉、おまえに初めて会った時から一度も思ったことはないぜ。逆に聞くけど、どうしておまえが悪いんだ?」
「どうしてってーー」
上滝は考えあぐねているのか、毛布を強く握った。
そして、悔しそうに声もなく涙を流した。
「私は……悪くなんかない……。人殺しの娘だからなんだっていうんですかーー私は好きでそうなったわけじゃないのにーー私は何も悪くなんてないですーー。それを、誰も、誰も、解ってくれないーー」
俯いてぽろぽろと上滝は涙を流した。
「おまえ、下の名前は知羽っていったか」
上滝は微かな動作で首を縦に振った。
「じゃあ知羽ーーおまえと俺は今日から友達だ。俺は初めて会った時から友達だと思ってたけどなーーおまえも、今日から俺のことを友達だと思え」
上滝は顔を上げた。
「友……達……?」
「そうだ。友達だ。それで……だ。その友達の言うことを聞いてほしい。俺はおまえに死んでほしくないからここにいるんだ。だから俺の説得をーー聞き入れてくれ、知羽」
知羽は涙でくしゃくしゃになった顔を上げると、俺の顔を見た。
「知羽ーーまずおまえの居場所は、おまえの言う〝平凡な日常〟には残されていない。だからそこに帰るのはもう諦めろ。おまえはもうそこの住民じゃないんだ。人殺しを親に持たない彼らと共存するのは不可能なんだ。彼らのことはこれからはモンスターだと思え。差別されるなら、差別し返せ。善悪の判断もできない、愚かな連中だと。その代わりにーーおまえの居場所は、俺が絶対に探してやる。
幸せや救いはまだおまえに、ほんの僅かでも残されている。なぜなら、一番大切なことと、何が正しいのかということが解らない世間の連中に、無罪のおまえが殺されるという事実こそが、世界が地獄であるという一つの証明になってしまうからだ。ーーだが、おまえはまだ生きている。
ーー俺もおまえと同じで、こんな世界壊れてしまえばいいと思っている。だが、そんな世界でも、おまえが死なずに生きていてくれれば、まだ救いのようのある世界だと——俺も思えるかもしれない。いや……きっと、思えるよ」
「どうして……あなたは……そこまで私に……」
知羽は、次は悔しさとは違う涙を流した。頬が緩んで、ぽろぽろと布団へと涙が零れ落ちた。
きっと、人間の敵が人間だけになった世界で、人間が救われる時があるとするならば、それはーー憎悪と、嫌悪と、全ての醜い感情の原因である、敵という名の人間の中に、ほんの少しでもーー美しくて、そして儚いひと時の夢のような〝愛しさ〟を見つけられた時だけだ。
その〝愛しさ〟ーー〝盲目〟の世界で見るーー現実逃避に限りなく似た、究極の理想なんだ。
生きることをやめたくなるほどの、人間という名の強敵がいるこの世界で、自分を助けてくれる人間がいるんだという想いこそが、人間を敵に回す人間が救われる、唯一のファクターなんだ。
ーー俺は、今頃そんな当たり前のことを思っていた。
そういう〝愛しい〟人間になりたいと思って、俺は聖者にもなろうとしたし、人もたくさん殺してきてんだったーー。なんて惨い話なんだろう。
でも、それは全部俺自身のためだ。俺が失ってきたものを……俺自身がこれ以上失いたくなかっただけなんだ。
失くしてしまったものを必死に埋めようと足掻いている俺自身はーーやっぱり、どこまでも救われることはないのだろう。なぜなら、一番大切なモノは、もう帰ってはこないからだ。
突然に溢れる想いを、俺は心の箱に押し込んだ。少し、彼女の涙に流されたのかもしれない。
「友達を助けるのに、理由なんて無粋だろう、知羽」
俺はどこかで聞いたことのあるような言葉を言っていた。
「ずるいですーー本当にーー。私……あなたに死んでも……関わってほしくないなんて言えなくなっちゃった気になってます。どうしてでしょうねーー本当にーー本当にーー」
知羽は何度も何度も、不思議そうにしながら疑問の言葉をつぶやいた。
そして吹っ切れたような顔をすると、優し気な笑みを満面に浮かべた。
病院を出ると、外では水城が待っていた。
「上滝さんはどうだった?」
「俺があいつの居場所を作って、絶対に死なないようにしてやる」
「そっか。キミは本当に早かったから、僕は少し自信を失ってしまったよ。でも、僕よりも先に動いてくれてありがとう、達見」
「俺が気づけなかったとき、おまえがいてくれてなかったら彼女は死んでたかもしれない。こっちこそ礼を言いたいよ。ありがとう水城」
水城は愛想よく微笑んだ。
〝平凡〟とは〝自由〟のことではない。
知羽はきっと、それが解っていたのだろう。だから〝本当の自由〟というものの片鱗の存在を少しでも知った時、彼女は心の底から涙を流した。
彼女が本当に求めたモノはーー〝平凡〟ではなく〝本当の自由〟なんだ
人間社会で生きるということは、自分と他人とのせめぎあいだ。
そしてその双方は、お互いの自我と自我をぶつけあって、最後にはその間で生まれた衝撃を相殺する。そして人と人との間に沈黙が訪れる。その時点でお互いは、衝撃で何かに亀裂が入ることを恐れて、次の衝撃を起こすまいと他人を遮断する殻を作っているのだ。
そうなってしまえば、人の心と心は同じ過程を歩もうとしなくなる。お互いの亀裂を恐れて、ただ違う道をお互いは進んでいく。仮面の関係だ。
その道の先にあるものが、〝平凡〟という名の、法律と義務だけで固められた、暗黙の了解だというのなら、それはなんて薄情な平凡だろうか。それはなんて薄情な心の在り方だろうか。
人がいう〝平凡〟という全ての事柄は、全て人間の利己に寄った都合の良いものでしかない。それは絶対の〝孤立〟なんだ。
世間から迫害される知羽も孤立だったが、空気に流されて知羽を迫害する人々も、ただ集団に組するのが楽だっただけの、希薄な存在でしかない。迫害する人々が増えれば増えるほど知羽も孤独になっていくが、それと同時に、迫害する人々が多くなればなるほど、迫害する人々も一個の透明な利己へと溶け込んでいって、最後には一つの〝都合の良い生き方〟という希薄なモノに成り下がって、自我の見分けがつかなくなり、一人一人が孤独になっていく。最後には、得るものもなく、知羽と同じような惨めな孤立感を味わうことになるんだ。決して表面的に独りであることが孤立というわけではないんだ。
〝平凡〟への切望は、〝孤立〟への切望だ。
知羽はもう孤立しているというのに、矛盾した話だ。
〝平凡な日常〟は、色々なモノから孤立した人々たちが寄せ集まった、透明の場所なんだ。
そうだ。結局のところは、俺たちには、どこにも決められた居場所なんてものはないということだ。
ただあるのは、〝本当の自由〟という名の未知だけだ。その正体までは判らないーーもしかするとそれはただの幻想なのかもしれない。だけど俺は、そんな曖昧なものを使ってまでも、知羽のことを助けたかった。
「ねーこの子だれなのー」
鈴音が少し機嫌悪そうにそう言った。
傍には知羽がいた。
「あなたこそ、少し馴れ馴れしいですよ……」
優し気な口調だが、少し尖った知羽の言葉が鈴音に突きつけられる。
「私たちはずっと前から友達だからいいの」
「わ、私もそうですよ」
知羽は少し照れたようにしてそう言った。
俺はなんだか面白くて笑ってしまった。
「何笑ってるんですか!」
「いやー、なんか面白くてさ」
「笑われてやんの」
「うるさいですッ」
俺の朝は前よりも一層賑やかになった。
やはり居場所というものは自分の手で作るものなのだと、心の底から思った。だが、本当にこの居場所が、知羽にとっての本当の居場所になれているのかと言うことだけが心配だった。やはりどこまで行っても知羽と俺たちの立場は違う。居場所ができたと言っても、知羽が恐怖する、世間という名のモンスターはまだ彼女の目前に佇んでいるのだ。
「それで、何て名前なの? きみ」
鈴音がいつも通りの気の抜けた声で知羽にそう言った。
知羽は少し躊躇ったが、勢いで行くようにして自分の名前を言った。
「上滝知羽……です」
「上滝……?」
鈴音が不思議そうな顔をしてその名前を言った。
「ああ、あの上滝さんか。きみ有名人だから知っているよ」
知羽の顔が少し暗くなった。
「よろしくね。知羽ちゃん」
だが知羽の予想とは違い、鈴音はいつものマイペースな笑顔を作ってそう言った。
「よろしく……です……」
知羽は嬉しそうに少し俯いた。照れ隠しだろうか。
「言っただろ。こいつは大丈夫だって」
「はい!」
心底嬉しそうに知羽は笑った。
「大丈夫って、人のことを何だと思ってるんだよ」
鈴音の顔が少し膨れる。
「だっておまえ遊具の上で寝ているようなやつだし、大丈夫なのかも疑うよ。どこを疑っているかは言わないが」
「頭のことかい? それは」
「そんなことない。馬鹿と天才は紙一重っていうし」
「くらえッ、この」
ぽかん、と俺の頭を鈴音は軽く叩いた。
「うふふ」
それを見て知羽は楽しそうに笑った。
知羽にとっての居場所。平凡の中に存在する異質な者たちによって作られたその居場所を、俺は早速好ましく思っていた。だが、三人だけしかいないのは少々寂しいような気もする。
俺は教室に着くと幸川に声を掛けた。
「幸川、俺は知羽の居場所にもっと活気をつけたいんだよ」
「それでどうして私が関係する羽目になるのかしら」
幸川は気怠さを通り越して、最早無感情だ。
「だっておまえ友達いないじゃん」
ぎろり、と鋭い眼差しが俺の視線を射抜いた。その眼差しは一度俺を見ると、気怠そうな視線に変わってまた元の位置に戻された。
「好きで作ってないだけよ」
「ウソだぜそれは」
俺は意地悪な笑みを浮かべて幸川にそう言った。
「俺も好きで友達を作ろうとしたけど、ほらこの通り。おまえと一緒だ」
「あなたと一緒にしないでほしいわ」
イライラしているのが手に取るように判った。
「言い訳だ。じゃあ今から友達作ってみろよ幸川。いいや、か・な・え」
俺は幸川の逆鱗に触れたのか、幸川の右ストレートをもろに受けた。幸川の拳は宙で停止し、俺の顔は幸川の方ではなく、知羽の方に向いていた。
知羽は両手で口を押えて、その様子を驚愕の表情で傍観していた。
「詩原さん……」
俺はようやく自分がどのような攻撃を受けたのかを理解した。
「っ……た……」
幸川の方へ向くと、いつもの無表情で俺のことを見ていた。俺には、彼女が今まで以上にイラついているのが手に取るように判った。
「今から上滝さんと詩原くんが私の友達よ。ほら、友達なんてすぐに作れるわ」
彼女はそう言うと勝者の表情を見せた。
俺は彼女の豪胆さに心底驚愕した。殴られたところが痛い。
「おまえ……殴られて友達になるやつなんているとでも思ってるのかよ」
「あら? 友達というモノは殴ればできるモノではなかったかしら」
「もしそんな方法で友達が作れるのなら、世界は今頃ハッピーだ馬鹿」
ばし、またあの一撃を食らった。不意打ちなのもあってかなり痛い。
幸川を仲間にした後は、次は吉倉をターゲットに絞った。
授業が終わり、昼休みになると、すぐさま知羽を連れて吉倉のクラスまで行った。
「おーい秀人ー」
吉倉のクラスの皆が一斉にこちらを向いた。
一度不審げに俺を見ると、秀人は遅い足取りでゆっくりと近づいてきた。
「……なんだよ」
「それがだな、今仲間集めをしていてな」
「は?」
唐突な俺の言葉に吉倉は疑問の文字を顔に浮かべた。
「まあ来いって」
俺は吉倉の背中をばしっと叩くと、吉倉は仕様がないというように付いてきた。
「あ、そうだ秀人。弁当持ってこいよ」
「……」
秀人は従順にその言葉に従った。
秀人が帰ってくると、俺たち三人は食堂へと行った。
「それで?」
知羽と俺は自分のご飯を食べながら秀人の疑問を聞いた。
「今友達を作るボランティアをしているんだけど、おまえ俺たちの友達になれよーーまあ俺は初めから友達だと思ってたけどな」
「……はた迷惑な話だなあ」
吉倉は呆れてそう言った。
「けど……もう俺も友達だとは一応思ってる」
吉倉はそっぽを向きながらそう言った。照れているのか、言葉がはっきりと発せていない。
「なんだ、やけに素直だな……と思ったら、何を言ったのかよく聞き取れなかった。もう一度言ってくれ」
「だから……って何度も言わせんじゃねぇ! しかも聞こえてるじゃねえか!」
「照れすぎだろ」
「照れてねえ」
吉倉の方を見て知羽が少し怯えていた。
「おまえのせいで知羽も怯えているだろうが」
「あ?」
「いえ……あの……」
吉倉の視線が知羽を見つめる。
「えっと……上滝知羽です。よろしくお願いします」
震えながらも知羽はぺこりと吉倉に頭を下げた。
「おい、何か言うことがあるだろ」
適当に言っておく。
「……よろしく……」
「そんなに照れんなって」
「だから照れてねぇ!」
知羽の居場所に、これで俺を合わせて四人集まった。上出来だ。知羽を合わせて五人もいれば、話題が止まることもないだろうし、一癖も二癖もある連中たちだ、早々に飽きることもないだろう。
「秀人、そういえばおまえ料理上手かったよな」
「そこまで上手いってわけじゃ……」
「上手いだろ。弁当開けてみてくれよ」
吉倉は弁当を開けた。
知羽が興味ありげにひょいと顔を伸ばして吉倉の弁当を見た。
「わっ、すごい。しっかりしてますね」
「食べてみろよ。こいつの作ったのめっちゃ美味いんだぜ」
「いいですか?」
吉倉は頷いた。
「ほんとだ。美味しいです」
知羽は驚いたように眼をまん丸くさせてそう言った。
「そうだろ? 俺が教えてやったんだぜ」
「何の嘘だよ……」
ご飯を食べ終わると、俺たちは教室に戻った。
帰りしまで幸川の視線がやけに痛く感じた。彼女は今までにない程にお怒りのようだ。
俺たちは今日のような日常を数日ほど繰り返していた。
鈴音と幸川と、吉倉と俺と知羽。彼らと友達になろうと言った日から、知羽の周りは前よりも数段活気づいた。
自由奔放だった俺は知羽にずっと付きっきりだし、幸川に関しては知羽とまるで本当の友達のような会話を平然としている。驚くべきことだった。
吉倉の家に行ってご馳走をしてもらったりもして、知羽は吉倉の料理の腕に前よりも魅了されたようだ。自分も料理をしたいと言い出し、吉倉に教えてもらう程だった。当の吉倉も元々面倒見がいいのか、文句ひとつ言わず知羽に料理を教えていた。
一番仲が良いのは鈴音で、俺が公園に着いた頃には、笑いあって楽しく談笑していた。
知羽が楽しければいい。それだけでいいと俺は思った。
それだけでいいーーそれだけでいいのにーーやけに外野が煩いな。
この頃に起きたことだが、俺の周りで明確な変化があった。
俺の机の中には、昼食から帰ってくるとゴミのようなモノが詰め込まれているし、教科書が何冊か無くなっていたりもした。挙句には上履きが紛失している。変えの上履きはあったろうか。仕方なくスリッパで生活しているのだが、なぜだかスリッパはなくならない。どうせならスリッパも紛失させてもらった方がスッキリする。
誰がやっていることなのかは判らないが、間違いなく俺はいじめの対象になっていた。
「すっかりスリッパ姿も板に付いてきたようね」
笑いをこらえるようにして幸川が言う。
「ああ。全くどんなジョークなんだか」
俺は無表情でそう言った。
俺は周りを見渡した。教室はいつも通りだ。
水城がこちらに近付いて来た。
「達見。本当に誰がやったのか見当さえもつかないの?」
「そうだな」
俺は少し考えてみた。
「判らない」
「そっか……」
水城が落ち込むような表情になって少し俯いた。
「ごめんなさい……」
唐突に、知羽がそんなことを言う。
「私のせいなんです……。私が、詩原さんと楽しく会話をしてしまったから」
知羽はスカートの裾を強く握って下を向いた。
「そんな目に合うのは、自分だけのつもりだったのにーーごめなさいーー」
知羽はぽろぽろと涙を零した。
教室の皆が一斉にこちらを見た。
知羽の心の傷みが伝わってきて、俺は無意識に知羽に手を伸ばして、頭に触れた。すると、ゆっくりと、ゆっくりと頭を撫でた。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだから、おまえは何も気にするな」
知羽は涙をぬぐいながら、不思議そうに顔を上げて俺の顔を見た。
「どうしてーーどうしてそこまであなたはーー私に良くしてくれるのですか」
ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「友達だからだよ。それ以外に理由は要らない」
「ーー!」
知羽は俺の服に抱き着くように掴みかかってくると、俺の胸の近くで小さく囁いた。
「ーーありがとう。ほんとうにーー……心から感謝しています」
パッと手が離されて、俺は前へと突き飛ばされた。ガシャンという音を立てて俺は他の机へとぶつかった。
「もう……私に一切関わらないでくださいッ……!」
その知羽の声は廊下まで響き渡った。
俺はゆっくりと顔を上げた。知羽の顔は溢れ出る涙でぼろぼろになっていた。
「知羽ーー」
知羽は涙をぬぐいながら前も見ずに教室から出て行ってしまった。
「……達見」
水城が手を差し伸ばしてくれる。俺はそれに捕まって立ち上がった。
「知羽を一人にしてしまった……」
俺は悔恨を感じながらそう呟いた。
今の彼女を一人にしてはいけない。
いや待て……。俺は唐突に思い至った。
まだもし、あの帆坂文香の〝いじめ〟が続いているのだとしたら、今までの過程と、この結果は全て、あの帆坂の計算の内だったのではないか……?。そんな馬鹿な話があるのだろうか。帆坂文香は死んでもなお……まだ人を死に追い込もうとするのだろうか?。
俺は頭を振った。
今はとにかく知羽のところに行かなければ。
もし帆坂と同レベルの問題が控えていたとしても、そんなモノは後だ。一番大切なのは知羽の命だ。
俺は水城の眼を見た。
「水城。俺は何となく読めたぞ」
「ーー」
水城は憤るような真剣な顔を手で支ていた。考え事をしているのだろう。
「とにかく俺は知羽を追う。それまで待っていてくれ」
「解った」
水城は大きく頷いた。微妙なことなのだが、彼が少し動揺しているのが俺には解った。彼の動揺するところなど、初めて見た。
俺は教室から勢いよく出ると、帆坂を探すために走り出した。
どこだ。どこにいるんだ。頼むーー。お願いだーー。
俺は珍しく、無意識の内にでも、神頼みまがいのことをしてしまっていた。いもしない神。空っぽの虚構。俺たちを見もしない盲目の世界。そんな何の価値もないものに、僅かでも逃避してしまうなんてーー我ながらダメな奴だ。
そんな下らないことをしている暇があるのなら、探すんだ。脳みそが壊れてしまうような勢いで思考して、知羽の居場所を見つけるんだ。
もし、帆坂が関係があるのだとしたら、きっと帆坂が死ぬ前に自分の野望を託した誰かが、何らかの干渉を知羽にしているはずだ。だがどうやってだ? どのような方法をもってして、知羽を自殺に追い込むというんだーー。そこにはどういう策略があるのだ。
だが、その思考は今は必要ない。それは犯人探しと変らない。今は知羽の場所を見つけなければならないんだ。
帆坂の息がかかっている悲劇ならば、間違いなく最終的な最悪の結果として、自殺は間違いない。そして、自殺の定番と言えばあそこだ。
俺は階段を上がっていった。
帆坂を殺した夜と同じように、階段を上っていく。
屋上へ続くドアはすぐに姿を現した。
思っていた通り、近頃自殺者が出たにも関わらず、ドアは開け放たれていた。立ち入り禁止の表紙をなびかせながらも、ドアは何物かによってこじ開けられている。
俺は屋上のドアを抜けて屋上へと入った。
独りーー髪を風になびかせて佇んでいる少女がいる。少女は俺があの日に、帆坂を追い詰めた屋上の端に立っていた。
俺は近付いていく。
「知羽ーーッ!」
知羽が俺の声に気づいて後ろを振り返る。
「やめるんだ……」
「……」
冷たい目線が俺を射抜いた。
「知羽、こっちに来るんだ」
俺はゆっくりと近づいていく。
「来ないでくださいーー!」
涙も尽きたのか、眼を腫らした哀し気な眼で知羽は俺を見つめた。
俺は止まるしか選択肢を持ちえなかった。
「知羽、お願いだ」
知羽は哀し気な眼で俺を見つめたまま身動きを取らなかった。
「もう……こんな世界イヤです……。私は、自分のせいで大切な人たちに迷惑ばかりを掛ける。お姉ちゃんのことは、もう取り返しがつかない……」
「教えてくれ、知羽。どうしておまえは、そこまで追い込まれたんだ。誰に、そこまで追い詰められたんだ」
その沈黙は、苦悶の叫びが聞こえるようだった。
「自殺した……帆坂文香を知っていますね」
「ああ」
「私は……彼女のような人間が死ぬなんてこと、想像もしていませんでした。彼女は私にとって魔王でした……今も……」
知羽は自分の体を抱き締めるようにすると、ぷるぷると小刻みに震えた。
「私は殺人者の娘です……。だから初めのころは、たくさんいじめを受けました。最近、詩原さんがやられているようないじめです……」
震えは増していく。
「私は精神も何もかも、疲弊して、傷ついて、ズタボロでした。そんなときに、あの人……帆坂文香が私の前に現れました。彼女は……優しく、私のことを慰めてくれました。〝あなたの味方はここにいる。だから心配しないでいいですよ〟って……。けれどーー彼女は違った、そんな善良な人間ではありませんでした。私にとって、唯一の生きるための希望のような存在ではありませんでした。彼女は私をいじめた人たちのリーダーだった。ーー私は絶望しましたーーほんとうにーー」
嗚咽のようなモノが知羽の言葉に混じり始めた。
「それでも、私はめげませんでした。どれ程哀しくてもーー私を愛してくれる、助けてれる存在がいたから。その存在であるお姉ちゃんをあの人は、男の人たちを使ってーー」
知羽は両手で強く自分の胸を押さえると、服を強く握った。
「帆坂文香は、男の人たちを使って、お姉ちゃんを襲ったーー」
襲っただと……。男たちが、知羽の姉をーー。まさか、あのときの少女……。
「私は、帆坂文香が自殺する数日前まで、そのことを知らなかったんです。お姉ちゃんが、自分を犠牲にしないと妹に手を出すと脅されいることを」
扉の方から二つ、足音が聞こえてくるが判った。
俺は振り向いた。
「幸川。鈴音」
鈴音が知羽を憐れむような眼で言う。
「私のせいだーー。あの時奴らを殺しておくべきだった」
「そんなことをしても意味はないわ」
幸川がキッパリという。
「帆坂文香は人気のないチャットサイトを利用して、彼女の姉の羞恥写真を男たちから早々に受け取っていた。だから結末を変えることなどできはしなかったわ」
「きみ……どうしてそんなことを知っている」
「少し興味を持てば誰でも知れる話よ。帆坂文香は上滝知羽を殺すために、多数の者に声を掛けていたの。主に、殺人者の娘である上滝知羽を排除したいと思っている者たちにね。けれど、上滝さんを自殺に追い込むのには天敵である水城東和の手の届かないところから攻撃するしかなかった。つまり他人を使うしかなかったということよ。
あの水城くんも水城くんで、無駄に人がいい。だからもう取り返しのつかない過去ならば、取り返しのつかないことのせいで空いてしまった大きな穴を埋めようということしか彼は考えなかった。彼は帆坂文香の表面だけの根拠のない停戦を受け入れただけで、帆坂文香を排除しなかった。いいえ、排除しようとはしたけれど、彼女は直接誰かをいじめないから退学処分というやり方で排除できなかったというところかしら。今となっては彼女はなぜか死んでしまったけれど。
まあ、吉倉くんに手を出したところで早々に気づかれてしまって無力化させられたことには変わりはないわ。
水城くんの誤算は、彼女の本命になりうる攻撃に気づくことができなったというところでしょうか。今回の心理戦、帆坂文香が一枚上手だったようね。それでも水城くんに落ち度はないわ。彼の行為は非営利行為だから。
帆坂文香に何があったのかはしらないけれど、彼女は自殺する寸前に、上滝さんを自殺に追い込めると意気込んで、上滝さんに姉を襲わせた羞恥写真を何らかの形で見せた。どのみち帆坂文香がなぜ死んだのかということは一生の謎だわ」
「なんてことをーー」
鈴音が言う。
「つまりーー帆坂文香が死ぬことは関係なく、知羽ちゃんにその姉の羞恥写真が漏れることは決まっていたということかい」
「ええーー。死ぬ数日前に、男たち、もしくはほかの誰かに、上滝さんにその写真を送るように指示していたのよ。彼女が死んだことにより、まるで彼女が上滝さんを殺すために帰ってきたかのような感覚を覚えるわ。ただ運よく上滝さんは死ななかっただけ。もしそこで死んでいたら、上滝さんは帆坂文香という亡霊に殺されていたことになったでしょうね。そして、生き残った今でさえも、上滝さんは亡霊に殺されようとしている」
その通りだ。誰かに……俺が説得したのだが、説得された次に用意された自殺行為も、帆坂の計算の内だったのだろうか。
そうかーー。あの時俺が説得をしなくとも、水城が説得をしに行っていた。つまり、本来いじめられ、自分を説得した誰かがいじめられているのを見て、自己嫌悪から知羽が自殺するという場面を見届けるのは本来水城の役目だったというわけか。
帆坂文香はーーそこまで想定していたとでもいうのか。
知羽の笑顔を取り戻させた水城をいじめるように元々誰かに吹き込んでおき、二度目の自殺へと知羽を追い込んだ。
帆坂の策略は、水城に逆襲をするという目的も持っていたのか。
ーーなんてことだ。
「ーーここまで来ると性癖か何かなのかしら。執念深さと、用意周到さが尋常じゃないわ。ーー初めの二人で味を占めたのよ」
「その通りです。幸川さんの言う通りですよ。帆坂文香は私を死へと誘っているんです。私は彼女から……存在意義を奪い取られたーー。存在しているだけで、私は大切な人たちに迷惑をかける。そんな私、何の価値もないです!。
だからーー」
知羽はゆっくりとフェンスに手を掛けた。
「ダメだよ知羽ちゃんーー」
「知羽……」
俺は悔しさで拳を強く握った。
「知羽。俺たちもおまえも、大して変わりのあるモノじゃない」
「ありますよ。私はあなたが大切です。私と関わって、そのあなたが誰かに攻撃されるというのなら、私はもう、生きる価値を見出せません。生きる意味を持てません」
「死んで何になるというのよ」
幸川が冷静に言う。
「こんな世界からおさらばできます。それに、私は明確な死への意味を見出せました。それが最善なのだとはっきりと思います。私も……もう我慢するのは嫌なんです」
「私は死を怖いとは思ったことはないわ。けれど、あなたのその行為は価値のあるものだとは思えない。何も得るモノがないじゃない」
「得るモノなんて、何もないんですよ。それは、幸川さんなら解ってると思います。どうせ得たとしても、それを人から世界は奪って行ってしまうし、たとえ守れたとしてもいつかは消えてしまう。最終的には、全て失ってしまう
だからおさらばするのが一番いいですよ」
幸川は黙した。
「知羽ちゃん。私はきみが死ぬと哀しいよ」
鈴音はかろうじて平静を保ちながら、懇願するようにそう言う。鈴音の手が震えているのが判った。
「ありがとうございます……。でも、それでも私は、あなたたちに迷惑をかけたくない」
俺たちは、何もすることができないのか。ただ目前で大切な誰かを失うことしか、今は手段がないのか。
幸川が一歩前に出た。
「わかったわ。あなたの好きにすればいい」
「幸……川……」
俺は横目で幸川に鋭い視線を送った。
「けれど、最後に、私の話を聞きなさい」
そう言うと、幸川はスカートのポケットからカッターナイフを取り出した。すると、知羽の方へとゆっくりとした冷静な動作で歩いていく、俺を越えたところで、幸川は停止した。
「……なにを、するつもりですか……」
驚愕の顔で知羽が問う。
「まあ、聞きなさい」
冷たい声だ。全く感情を感じられない。
カッターナイフの刃を、かちゃかちゃと音を立ててゆっくりと取り出す。
「上滝さん。あなたは下手くそだわ」
「なにが、ですか」
「人は、手首を切った程度では死ねないわ。死ぬのならもっと確実な方法を選ばなければいけないでしょう。だから、私はもし死にたいと思ってもこの軟弱なカッターナイフなど使わない。あなたのように、ただの逃避から来る勢いだけで、そんな生易しい方法は選ばない」
幸川はカッターナイフをポイと床に捨てた。
「冷静に、私ならこうして確実に死ねる方法を選び取っていくでしょう。そして、今私が思いついたのは……そうね、あなたが今しようとしている方法かしら」
「なにをーー言っているんですか!」
知羽は理解が追い付かず、叫んでいるというような感じだ。
「幸川……おまえ……」
俺は幸川のしようとしていることが解ってしまった。
幸川は知羽を真っすぐに見つめる。
「上滝さん。答えなさい。あなたが死ぬというのなら、今度は私が死ぬわ」
あっさりと幸川は言う。
「そん……な……」
知羽は愕然としている。
「そんなことーー」
「脅しでも、でまかせでもないわ。私は本当にするわ。こんな死ねるかも判らないような高さから死なない。あなたが死んでから、間違いなく死ねる高さの建物の屋上へと無心で行って、この命を終わらせるわ。
ーー上滝さん。あなただけが、死への明確な意味を持っているだけとは思わない方がいいわ。それに、私はそんなものがなくとも、行為に及べる。ーー死んだ方が楽だと思っていいるのは、あなただけじゃない」
俺はここぞとばかりに口をはさんだ。
「俺もだ、知羽。おまえが死ぬなら、俺もこんな世界からおさらばするよ。俺はまだ最後にやることがあるから、それが終わってからになるだろうがな」
「私もそうするよ、知羽ちゃん。きみが何も解っていない人たちに殺されるというのなら、私こそこの世界に対して、本当の意味で価値を見出せなくなる。なぜならーー私はきみのような何も悪くない子を助けたくて今まで生きて来たんだから」
「帰ってくるんだ……知羽」
俺は手の平を裏返して、知羽の方へと手を伸ばした。
「みな--さんーー」
知羽は観念したのか、地面に座り込んだ。
俺たちはゆっくりと知羽の傍まで来た。
鈴音が膝をつくと、知羽を片手で抱き締めた。優しく、ぽん、ぽんと背中を鈴音は叩いた。
まるであの時のようだ。
知羽が鈴音に抱き着いて声を上げて泣いた。鈴音の肩に顔を押し込んで、知羽は子供のように泣いた。
鈴音が助けたあの少女が、知羽の姉だというのなら、なんて因果な話なんだろうーー。どちらとも、同じ人間に助けられて、同じ人間の懐で泣くなんて。
俺は横を向いた。幸川に感謝しなければならない。
「幸川、ありがとう」
「あなたに感謝される覚えはないわ。それに、私は何もしていない」
「そんなことはない。おまえがああ言ってくれてなかったら、知羽は間違いなく死んでいた」
俺は暗い面持ちでそう言った。
「それでも……私は何もしていない」
迷惑そうに、幸川が言う。
「もし……彼女が死んでいて、それで私も死んだとしましょう。まあ、その可能性はないのだけど。しかし仮に、本当にそうなったとしましょう。……それでも、きっとそれはどこまでも、この世界の真理に属した結末だったと思うわ」
哀し気に、眼を細めて幸川は言う。
「ーーそれは、その結末に対する絶望さえも世界に想定された、この世界の決まり事なのよ」
俺は、ひどくその言葉に圧倒された。
その言葉がゆっくりと、俺の脳裏に焼き付いていく。
改めて、そんな解り切ったことを、当たり前のように言われると、俺は目を瞑ってしまいそうになる。
鈴音と解散し、俺たちは教室に戻った。
水城が悔し気な眼で俺のことを見つめていた。
「ごめんよ……本当にありがとう。達見」
「礼なら幸川へ言ってくれ」
水城は無言で幸川の方を見ると、幸川の方へと行った。
「ありがとう幸川さん。僕は……」
「あなたに落ち度はないわよ。水城くん」
「……キミは何でも知っているんだね」
驚いたような顔で水城はそう言った。
「そうかもしれないわ」
そう答えると、幸川は席に座った。
その方を見て、水城が言う。
「じゃあ、キミは誰が達見に嫌がらせをしているかも知っているかな」
幸川が水城を真っすぐに見た。
「知っているわ」
教室は沈黙している。楽しい昼休みだとは思えない程に空気は冷たい。帆坂文香の作った暗黙の了解が、今度は自分の意志を持って、帆坂の後を継ぐ。この中の数人が、必ず上滝をよく思っておらず、死に追い込もうとしている。あのカリスマと賢さを持った帆坂の息がかかった、面倒な相手だ。
「教えてくれないかい、幸川さん」
優しく言っているが、水城が憤っているのが俺には解った。
「俺からも頼むよ、幸川」
幸川は俺を睨んだ。
「あなたは、これ以上は面倒ごとに足を突っ込まない方がいいわ」
俺はその言葉を聞いて、一度退くべきかと思ったが、すぐにその思いは消えた。今の知羽を見て、そんなことは出来ないと思った。彼女は、大切な俺たちのために死のうとし、そしてそれさえもできなくなって、まだ続く俺へ対するいじめの片鱗を見せつけられている。
幸川は呆れるようにすると、口を開いた。少しーー薄ら笑いを浮かべて。
「水城くん、そして詩原くん、上滝さん、そして私を除くその他のほぼ全員が、このいじめに何らかの関わりを持っているわ。そして、上滝さんを殺そうとしていじめをしていることに関しては、全員が認知しているはずだわ」
教室の空気が少しずつ緊張しているのが判る。
水城はしてやられたのだ。彼は人気者で、人望がある。だが彼は卑劣な行為を許すような人間じゃない。だから彼のいるこのクラスは平和なものだと思っていた。しかし、それは見せかけだけで、元から帆坂の何らかの工作が行われていた。
水城にぼろがでなかったのは、皆全員が水城の敵、少なくとも味方ではなかったからか。
「みんな……」
水城が呟いた。
チャイムが鳴った。
水城がこちらを向いた。
「話の続きは後にしよう。達見」
そう言って愛想笑いを浮かべると水城は席へと座った。
授業が始まると、いつもの教室の雰囲気ではないことがひしひしと伝わってきた。
時間はすぐに過ぎ、放課後になるとみな帰っていた。
教室には誰もいなくなった。
幸川は、もうこの件は終わったも同然よ、と言って帰っていった。
「知羽、今日は先に帰っていてくれ」
「はい……」
知羽は素直に帰っていった。
教室には俺と水城しかいない。
「水城、俺は、これ以上は知羽を苦しめたくないと思っている」
「僕もそうだよ」
「そのためにはこのいじめを止めないといけない」
「ああ」
「だから俺は反撃に出ることにするよ。水城は?」
「僕には何もできることがない。彼らはあんなでも、僕には良くしてくれる。ただ、罪もない上滝さんをいじめることが許されないことなんだ。彼らは重罪を犯している。それに、教師ならともかく、ただの生徒である彼らを操作することは出来ない」
「そのようだな。じゃあ、俺は俺のやり方で彼らの攻撃を止めるよ」
水城は俺の眼を見た。
「わかった……。上滝さんをよろしくね、達見」
「ああ」
水城は帰っていった。
俺は早速準備に取り掛かることにした。
俺はいじめの主犯格と言える人物の机をまずひっくり返した。
俺がひっくり返した机の連中は、水城とも仲が良い人たちだ。席を数えると七人はいる。七人もいれば、その中に小さな社会ができて、どのような悪いことでも皆とすれば別にいいか、と思ってしまうような数だ。まあ、自分の信条があるのなら、どれ程数が集まってもそんなことはしないと思うが。だが彼らのしてしまったことは取り返しがつかない。どれ程未熟を言い訳にされようが、俺は行動を開始する。
俺は彼らの机から、てきとうに教科書を取り出して他の人の机に置いた。
さてどうするか。積まれた教科書の山を見て、そんなことを思った。
面倒くさいが、一番道具の要らない方法で行こう。
積まれた教科書の山から、一つ一つ本を取り開くと、手で破れる程の厚みのページを重ねて、びりびりと破っていった。
その作業を十五分ほどかけて行った。
やっと全員分の教科書を破り終えると、俺は机の上に広がった紙の山を見下ろした。
こんなものか、と紙の束を、適当にひっくり返った机の中に押しこんだ
まずまずといったところだろう。
俺は家に帰った。
翌朝は。いつもの朝よりも少し教室が騒がしかった。
俺は何食わぬ顔で教室へ入った。
教室に入ると、まず目に入って来たのが、慌てて机を直す際に中から零れ落ちただろう、破られた紙の束を掃除する彼らの姿だった。
俺は彼らを見下ろした。
「どうした。朝からごみ拾いか?」
俺は無表情でそう言う。
「……もしかして……おまえが……」
男がそう言った。
「お前らが何をしようが勝手だが、敵にした相手が少々面倒くさい相手だったんじゃないのか」
「おまえ……」
眉間にしわを寄せて男が俺を睨む。
「おまえらが全員敵に回ろうと、俺は気にしないぜ。ただ大切なモノに手を出すというのなら話は別だ。おまえらがマフィアであれなんであれ、死んででも抵抗してやるよ。いや、大切なモノを守れないくらいなら、死んだ方が何倍もマシだ」
「よく言うじゃない」
幸川が興味なさげにそう呟いた。
「もう面倒なんだーー外野が煩くて煩くて仕方がない。俺たちの日常に、おまえたちは必要ない」
知羽の方をちらりと見た。彼女は怯えているようだった。
さっきの男は黙々と俯いて紙を掃除している。
他の男が立ち上がって何かを叫んだ。
「おまえが悪いんだ!」
そう一人が言うと、爆発したように他の皆も次々と何かを言い出した。
「殺人者の娘だから、あいつが悪いんだ!」
「そうだ! 俺たちは何も悪くないじゃないか!」
「当たり前のことをしているだけだ!」
煩い。妙に外野が煩いな。
「上滝が悪いんだよ!」
誰も悪くないというのに、上滝さえもそう思っているはずなのに、こいつらは悪くもない誰かを吊り上げようとする。それは罪なのではないのか。罪のない者を勝手な考えから死刑台に挙げる。それは殺人と何も変わらないじゃないか。自分の手は汚さない。殺人者よりも質が悪いじゃないか。
「出ていけ転校生! おまえは社会のゴミだ!」
水城が立ち上がる。
「みんな……もうこんなことやめてくれ」
「水城、おまえはいいんだ。お前は誰にでも優しいからな。だからおまえは殺人者の娘にでも優しく振舞う。上滝に水城が関わる価値はない!」
水城が何かをいう直前だった。
ーー俺は上滝を侮辱した男の元へと走っていた。侮辱した男の顔面に、拳を叩きいれた。
その瞬間、教師が教室に入ってきた。
「何をしているんだ!」
「先生! あいつ、いきなりぶったんだ!」
指を刺されてそう言われる。
俺が殴った相手は、頬を押さえて怯えるように俯いていた。
「キミ!」
手を掴まれる。
俺は教師を睨みつけた。教師はぱっと俺から手を離した。
俺は一人気に言う。
「先生。帆坂文香という奴を知っているか」
俺は憎しみを抱いてそう言った。
「こいつらは、おまえらが排除できなかった帆坂文香の手下の生き残りだ」
俺は周りを指さした。
「こいつらは上滝を殺そうとしている。そして、俺はいじめのターゲットにされている。このスリッパを見ろよ。そしてだ、俺の机の中を見てくれ」
俺がそう言うと教師は俺の机の中を見た。
「もう面倒くさいから掃除をしていない」
「なんてことを……」
教師がそう呟いた。
「これをやったのは……?」
「ここにいるやつら全員だ」
「何を馬鹿なことを」
「先生! こいつおかしいんですよ。逆に俺らが被害者なんですよ。この状況を見たら一目瞭然じゃないですか。教科書を破られました。やられているのは俺たちです。挙句こいつは同級生を殴った!」
「そのようだね」
教師は俺に近付いてくる。
「それでいいのか」
俺は教師に問う。
「そうやって、今までも誰が悪いのかわからなくなって、捕まえるべき相手を捕まえられず。死人を二人も出したというのかーー!」
俺は教師を真っすぐに見つめてそう声を上げた。
「三人目の死人がーーでようとしているんだ。いやーー俺はやはり思うんだが、帆坂も被害者なのかもしれない。お前らの弱さがああいう人間を生むんだよ。だから、次に誰かが自殺したら、犠牲者はこれで四人目ということだ」
なんだ、ひどく皮肉な話じゃないか。今となっては、帆坂を理解しようとする者は、あいつを殺した俺だけではないか。
「こいつらは知羽の姉が不登校になった原因である写真を、生前の帆坂の工作のおかげで、知羽に送りやがった。それで知羽も一度自殺未遂をしたんだ。
お前はそれでいいのかーーバカなりに、知羽を助けたいとほざいていたじゃないか。魔王は消えた。最後くらい、そんな自分に価値を見出してみろよ」
教師は俺の眼を見つめた。
「おまえこそーーよくほざくじゃないか。それに、上滝さんを救ったのはおまえとーー幸川とーーあのいかれた問題児の海葉だというじゃないか。私は驚いたよ。おまえに胸ぐらを掴まれて侮辱されたときは何だと思ったが、おまえの言ったことは確かに全うされている。私など、二回目の自殺行為さえも止められない。
ーー;私たちの謳う、規則こそが、そのような簡単な二文字で言う軽率な言葉こそが、もうその時点で、人間の本当の間違いを見逃してしまうーーそれから逃避してしまう、どこまでも都合の良い教育方針なのかもしれない。人の心を外から治そうとするのではなく、人の心は、一番難しいことだが、中からゆっくり治さななければいけないのかもしれない」
教師は俺の肩に手を置いた。
「詩原……。私はおまえの言う通りの人間だ。だが、私は自分に絶望するよりも先に、世間から嫌われ、そして馴染めない問題のようなおまえたちが、誰にもできないような命を救ったことが、誇らしいし、何よりも尊敬して仕方がない。
彼らを許すことは出来ないか?」
「……できないな」
「わかった。じゃあ私は何も見なかった。ただそれだけだ」
俺は教師の顔を見て笑った。
「いい顔になったじゃねーか」
俺は彼らに振り返った。
教師はホームルームを開始せずに教室を出ていった。
「おまえら、覚悟しろ。これ以上俺への嫌がらせを止めないというのなら、一番今回の件に関わったやつから順番に、ぶん殴っていく。安心しろ、気絶はさせない。
おまえらはもしかしなくとも、一人に対して全員でいじめれば、俺に勝てると思ったんだろう。だがそれは大間違いだ。俺は初めからおまえたちに勝っているつもりだ」
俺は駆けだして、無防備な顔でこちらを向いている奴の腹を蹴り飛ばした。
そして次は一人の女子の方へと行って、睨みつけた。
「女でも関係ねーよ。おまえら、全員で俺にかかって来いよ。でないと俺は殺せないぜ」
「頭おかしいだろ、おまえ!」
俺はそいつのところまで走ると、そいつの腹を殴った。
「ここからは裁決の時間だ。非難も、誹謗中傷も、何も意味はないし、俺はそんなものは何とも思わない」
水城はこの様子を黙って見ていた。幸川も、この様子を黙って見ている。
「今日の一時間目は担任か。あいつは帰ってこないだろうな」
「殺人者の娘の友達は、犯罪者だな! かかってこいよ!」
薄ら笑いを浮かべて他の男がそう言う。
俺はその男に近付いていく。教室が狭いのが煩わしいな。だが些細なことだ。
俺は右拳を振り上げた。一瞬男が笑った。
男は俺の打撃を受け流し、左側の懐へと入ってくる。そして間髪入れずに右拳を突き出そうとしてくる。俺はフックのように下から繰り出される右腕をいち早く左腕で固めると、右肘で顔面を三度殴った。
男は鼻を押さえて机にひれ伏した。血がだらだらと出ている。
「おまえにはサービスだ」
さすがに状況の異常さに感づいたのか、一人の女子生徒が出ていこうとする。それを水城の声が制御する。
「待ってください。意味はないですよ。みんな、やりすぎたんですよ」
女子生徒は水城の言葉に従って、行くのをやめた。
「もう……やめてください。達見さんーー」
そう知羽が言う。
「黙ってろてめえは! このーー」
他の男が何か言う前に、俺は駆けだしてその男の腹を蹴った。
「くふーー」
妙な声を出して男は腹を押さえて倒れた。
俺は一人気に言った。
「おまえたちが処刑人気どりだというのなら、俺にだって処刑人になる権利はある。それを重々に承知しろ。そして、罪人を殺していいのは、その罪人のことを完璧に理解している奴だけだ。おまえらはそれができていないから、ただの殺人者……おまえらが避難する殺人者と何も変わらないんだよ。おまえたちは、自分が生きる権利しか持ちえない。だれかを殺していい権利などどこにもない。その行為に及ぼうとし、それを知っていながら放置したおまえらは、全員まとめて殺人者だ!」
「おまえーー!」
「殺してやる! くそ野郎!」
俺はその様子を見て笑った。
外へと俺は出て、グラウンドに向かう。その後ろをクラスの男たち全員が追いかけてくる。予想以上に彼れは仲が良いようで、俺は少し驚いてしまった。
グラウンドにつくと、十人以上の相手と向かい合った。
教師たちが何事かとこちらに向かってくる。
「みんなならやれる! このゴミやっちまおう」
「一斉にかかって、ねじふせてしまおうか」
作戦でも立てているのか話声が聞こえてきた。
すると、一斉に彼らは俺を襲いにかかってきた。さすがの俺も、これ程の人数を相手にしたことは人生で初めてのことだった。
俺は俺を囲む彼らの輪からひょいと横に飛び退くと、間髪入れずに飛び上がって、目前の男の顔を蹴り飛ばした。
着地して、次は掴みにかかってくるやつの右腕を固定し、顔に一発拳を突き入れた。朦朧とするその男の腕を掴みながら、数歩後ろへと下がる。その男を盾にしているせいで、彼らは俺に攻撃できないでいた。
一人の男が走ってきた。それに合わせるように、掴んでいたやつを、走ってくる男に、体当たりするようにして押してぶつけた。
両方から一斉に殴り掛かってくる相手の攻撃を避け。右の男の顔を一度殴って、その後ろに回り込んで首を絞めるようにした。殴っているから、力が入らないのかそこまで締めなくとも動かなかった。
男を投げ捨てて、目前の男の腹に蹴りを叩き込む。その合間に二人の男に、蹴られたり、殴られたりした。
その男たちも、俺は何事もないかのように殴り倒し、停止させた。
……あれから何分たっただろう。俺はもう敵を何人倒したかも忘れていた。
周りを見ると、連中は痛みに悶えながら呻いていた。立とうとしても、痛みで立てないのか何度も倒れているやつがいる。
「情けねーな……全く……」
俺は一人呟いた。
あれから数日が立っていた。
俺たちの起こしたあの喧嘩は、この高校の歴史に名を刻むほどの騒動だったらしく、教師たちも心底動揺した。
一体何が起こればあそこまでの喧嘩が起こるのか。それが漠然としておらず、そしてあまりにも問題を起こした生徒が多かったから、皆退学ではなく、事情を聞いて停学処分で収まった。
問題の原因であった俺も同様で、停学処分になった。
俺は考える時間が久しぶりに増えて、少し深く考え事をしていた。
やはり俺は平凡な世間というものからしたら、間違いなく異常だろう。それは平凡な世間というモノを知っているから、俺にも解る。今まで異常な日常というモノを送ってきて、それが当たり前で、自分の常識になっていから俺はあんなことをしたんだろう。
教科書を破るまでは理性を持っていたが、俺は連中をコテンパンにすることなど考えていなかったはずだ。
あの時、グラウンドに追い詰められたき、俺がやられてもこの問題は解決したんじゃないだろうか。自分たちを憤らせた俺をコテンパンにできていたら、彼らも納得して、もう俺に手を出さなくなったのかもしれない。まあ、被害者、加害者になって、彼らもようやく少しはマシになろだろうと思いたい。
どちらにしろ、この問題の発端は帆坂文香だ。
帆坂文香が彼らのような人間の弱さに狂った独裁者のような異常者であったとはいえ、彼らの平凡が、武器になりうるのだと教えたのはあの帆坂文香だ。
誰が悪いのか……ここまで来てようやく、俺はあいつを排除しておいて本当に良かったと思った。
二人の人間を殺すということがどれ程の哀しみで、どれ程の苦しみなのかということを知っていたとはいえ、俺は少し気を抜いていた節があるのかもしれない。俺はきっと、あの屋上という犯罪を効率的に隠す状況と場所が現れなかった限り、あいつを殺していなかったかもしれない。俺が知羽に声を掛けて、本当に幸いした。
やはり本当の標的よりも、まずは帆坂を排除していて正解だ。
「平凡か……」
一人気にそう呟く。
平凡への切望は、孤立への切望。
何もない日常から、幸せと裕福さと、平和から成り立っているこの世界で一番に幸運な日常のことを、〝平凡なモノ〟だと思っている時点で、もう人間は、本来の幸せを、大切なモノを見失っているのかもしれない。
一番の幸せが眼前に常に広がっているから、視界にまるで靄がかかっているように〝当たり前の平凡〟に置き換えられた幸せが、その平凡を守ろうとして、その平凡に害をなそうとする存在を排除しようとする……。なんて幸福な話なんだろう。
一番の幸せというものが、平凡になり替わってしまったのなら、そうなってしまった人間は、次はどこを目指すというのだろうか。幸せさえも平凡なものだと勘違いしてしまった人間は、最後、孤立するに違いない。なぜなら、幸せが当たり前のものだと思ってしまう、それ以上の幸せがあると勘違いして、上を見上げてしまう。そうなれば、人は幸せからも孤立していき、最後にはそれを自分の手で破壊し、何もかも失ってしまう。
どのみち人間は、利己の果て、究極の利己の果て、結局人間は死から逃れらない。
平凡への切望は、孤立への切望そして……自壊への第一歩なんだ。
なんて簡単な話なんだろうーー。
そう思えてしまことが、ひどく俺を憂鬱な気持ちにさせた。




