第二章 悪意の辿り着く場所
「まただよ、あいつ」
俺はそのひそひそ話を聞いて、廊下を出た。
廊下を出ると、またあの男、吉倉秀人が誰かともめていた。
「先輩よぉ、ちゃんと前見て歩けよ。足を挫いちまったよ」
「当たってきたのはおまえだろ」
「ーーは?」
ドン! 胸ぐらを掴まれて、男が吉倉に壁へと叩きつけられた音が響いた。
「いーーなにすんだよ」
男は怯んで顔が強張っている。
吉倉は男の耳に口を近づけて、何かを言った。
だが、小さな声で話すものだから聞こえなかった。
男が笑った。顔は怯んで強張ったままだ。
「な、なんだよ。こんなことをして、善人気取りかよ、おまえは」
唇が震えている。
吉倉は黙して男を睨んでいた。
「それによ、誰が何をしようが人の勝手だろ? だってこの国には人権ってのがあるんだぜ? それを尊重させないこと、侵害することは、それこそ勝手な話じゃないか」
吉倉は我慢ならなかったのか、頬に一発、よろけているところを腹に膝蹴りを一発入れて、男が悶えて倒れる様子を無表情で見ていた。
うずくまりがら顔を上げて、男が言う。
「……おまえ……一年のくせに調子のんじゃねーぞ。他の奴らはこの程度のことで、〝やめた〟かもしれねーが、俺たちは違うぜ」
吉倉はまだ喋る元気のある男の顔を蹴って、向こうへと消えていった。
俺は気になってまたもや、その後を追った。
ついでに負傷者に声を掛ける。
「大丈夫か?」
「……」
傷みで意識が朦朧としているのか、男は口を利かなかった。これは正当防衛どころではない。ただの一方的な暴行だ。言い逃れは出来ないはずだが。
俺は周りを見た。
教室の中にいる教師と目が合った。教師はすぐに目を逸らした。
なんだ? 他クラスの教師はもう来ているじゃないか。おかしな話だ。
俺は吉倉の後を追った。
吉倉は前と同じ場所に突っ立っていた。
「秀人」
「……?」
「おまえ、今回の策は抜かりだらけだな。相手が意識を朦朧とするほどの攻撃をするなんて」
「おまえには関係ないだろ……」
吉倉はそう言うと俺から目を逸らした。
「関係は無いが……おまえ、一人じゃ分が悪いんじゃないのか?」
「はーー?」
吉倉は疑問の表情で俺の顔を見た。
「一体何に首を突っ込んでるのかは知らないが、俺が力を貸してやるぜ」
驚きの表情で秀人は俺のことを見つめた。
「余計なお世話だ」
そう言って秀人は俺に背を向けて去っていった。
教室に戻り、俺は自分の席に戻った。席に座る途中に、幸川と上滝がこちらを見ていたことを思い出して、俺は後ろを向いた。
それにしても、二人は全くと言っていいほど性格が違うらしい。上滝は何かを言いたいのかこちらをちらちらと控えめに見ていたが、幸川は俺を真っすぐに睨んでいた。
俺は立ち上がって幸川の方へと行った。
「なんだ珍しいな。そんな熱烈な視線を寄こして」
「あの男には近づかない方がいいわ」
そう決然と幸川は言った。
「少々、あれは首を突っ込みすぎている」
俺はそう迷いなく言う幸川に疑問を呈した。
「なにに?」
幸川は薄ら笑いを浮かべた。
「〝悪意〟によ」
俺は目を細めてその言葉を聞いた。
隣から上滝が話に入ってくる。
「私からもお願いします。あの、吉倉って人、きっと次のターゲットになります。関わると危険です」
彼女たちが一体何に警戒しているのか、俺には理解できなかった。
綺麗な長髪を揺らして、幸川が無表情で言う。
「この学校はね、一年前にある事情で〝二人死者が出ている〟の」
俺は眉をひそめた。
「社会という名の〝悪意〟は、いつも私たちの眼前に立ちはだかっているわ」
そう言って幸川は話すのをやめた。
上滝を見ると、彼女は精神の強い幸川と違って、ひどく辛そうな顔をしていた。
これ以上の会話は上滝に悪いと判断し、俺は席に戻った。
死者が出ている……幸川は確かにそう言った。
幸川は言葉を濁して言っていたが、俺は十分に、一体この学校で何があったのかを予測出来ていた。
だがそれにしても……〝死にすぎだ〟。
一年間のうちに、二人もの犠牲者が出るなんて異常に過ぎる。だが、なぜ二人も死人が出ているのに、学校側もその死について疑問を抱かないんだ?。
どちらにせよ具体的にどのようなことがったのかを調べないことには何も始まらない。放課後にでも一度情報を収集しに行こう。
俺はそう決心して変わり映えのないチャイムの音を聞き入れた。
◇
吉倉秀人が好んでいたのは、いつまでも続くと思ってしまう程の、何の変哲もない日常だった。
学校に通って、授業を受けて、友達と遊んで、家に帰る。
それだけが吉倉の幸せだった。
彼の幸せには〝人間〟というモノが欠かせなかった。幸せというものが、自分の知る人間たち無くしては保つことができないものなのではないか、ということさえも思っていた。
自分以外の人間、即ち〝他人〟は、吉倉の幸せそのものだと思えた。
吉倉には親友がいた。
彼は優しくて、強くて、たくさん友達がいて、いつも笑顔だった。彼は吉倉にとって、この幸せな日常を作り上げる全てに等しかった。
自分にないモノが彼にはある。吉倉は彼を心から尊敬して、信頼していた。
彼を取り囲むすべての人々は、彼に〝善意〟を分け与えていた。吉倉はその周りの人々の〝善意〟によく感動した。母親、父親、親友……それらは吉倉にとって欠かしてはいけない幸せのピースだ。
〝世界は善意に溢れている〟〝世界は美しい〟。
心の底から吉倉はそう思っていた。
この世界に存在する〝悪意〟の正体に気づくまではーー。
親友は優秀だった。家によく遊びに来た。親友はそのたびに母と仲良くなった。親子なのだと思ってしまう程に二人は仲が良かった。
母が親友と話すたびに満面の笑顔になる。親友は母と話すたびに満面の笑顔になる。ぼうと突っ立ている吉倉に、まるで見せつけるかのようだ。
二人が異常な程に仲が良くなったころから母がおかしくなった
母は吉倉を見るたびに言った。〝なんであなたはそんなに馬鹿なの〟。
暗い、暗い、人の感情が全く感じられない眼で、よく吉倉を見つめて母はそう言うようになった。
何度も何度も、母は言う。
親友と話をしている時は、底抜けの笑顔を見せるのに、親友が帰ってから二人になると、母は先ほどとは全くの別人だった。
父親さえも、母と同じ眼で自分を見るようになった。
どんどんと掛け替えのなかった日常が遠ざかっていく。
自分が悪い、自分が悪い、ひたすらに自分のことを吉倉は責めた。
親友は相変わらず笑顔で元気をくれる。彼は〝優秀〟なのだ。成績も、コミュニケーションも。
ある時、親友と母が笑顔で話し合っている時、吉倉は見た。
細くーー横目で自分のことを嘲笑っている親友の楽しそうな眼を。
吉倉は思った。
そう、親友は、もしくは両親は、〝自分の大切にしている日常を壊すために自分と関わっていたんだ〟と。
そしてようやく気付いた。
幸せが、彼の愛する変哲のないこの日常が、彼ら〝他人〟無くしては成り立たないものではないということを。彼ら〝他人〟が〝自分からこの幸せな日常を奪いに来た侵略者だった〟ということを。
そう、彼の感動した〝他人の善意〟の正体こそが、吉倉から幸せな日常を奪う〝悪意〟の正体だったのだ。
〝世界の美しさ〟と〝幸せな日常〟を反映したような存在だった親友は、彼がそれそのものだと思っていた一番大切なものを奪いに来た、一流の詐欺師だった。しかも、人が苦しみ、悲しみ悶えているのを見て喜びを感じるような、親友というには笑いさえ込み上げて泣いてしまう程の、ぞっとするような人間だった。
◇
放課後になって、俺は行動を開始した。
昼間の教師を見るに、きっと教師たちに〝ある事情〟とやらを問いただしても返答は返ってこないだろう。なぜならあの束縛を心底嫌う幸川が言葉を濁した程だ。余程のタブーのはずだ。
だがそんなことは関係ない。
この社会に触れてはいけない暗黙の了解があるのなら、その暗黙の了解を気に掛けることのない立場にいる人間に直接当たるまでだ。
俺は校長室と書かれている部屋のドアをノックした。
いないのだろうか。
俺は反応を見せない部屋の奥に苛立ってドアをガチャガチャと無造作に回した。
「ちッ……」
一人舌打ちをする。
「どうしたの?」
そうしていると、聞き覚えのある声が後ろから聞こえた。
水城だった。
「校長先生はいないよ。何か用だったのかい」
「まあ、な」
俺は水城の顔を見もせずに、その場を立ち去ろうとした。
それを水城の声が制止させた。
「吉倉くんのこと、かな」
俺は水城の顔を見た。
「キミの知らないこと、知っている限りなら教えてあげるよ」
愛想の良い表情で、水城はいつもと変らない雰囲気でそう言った。
俺たちは外へと一緒に出ると、そのまま帰路へと向かった。そのついでに水城は何かしらの情報を提供してくれるつもりなんだろう。
二人並んで歩いていく。
「吉倉くんのことはもう知っているよね?」
「まあ、一度か二度は話したが」
「そっか。じゃあ吉倉くんが何を目的にあの子供のような嫌がらせを特定の人々にやっているかも、キミならもう察しはついているかな」
そう言うと水城は俺の眼を見た。
彼の言葉には情報量が多かった。今の発言だけで、吉倉が〝的を絞った人間〟にだけ嫌がらせをしているのではないかという、俺の予想に対する答えが出た。彼は特定の人々と、はっきり言ったのだ。その言葉に根拠があるかは判らないが、きっとそうなのだろう。
だが、一番驚くべきことは、彼が、俺が吉倉のことを考え、そして吉倉の性格さえも大雑把であれ解読していることを〝見抜いていた〟ことだ。彼は間違いなく、俺のことを観察して、そして何を考えているのか推理していたのだ。
「ああ」
俺は話を切り出す。
「なあ水城、一体吉倉は何に首を突っ込んでいるんだ?」
「元々突っ込んでいたわけじゃないよ。その問題に首を突っ込んだのは、今日の朝だよ」
そうか。吉倉は前々から問題に何らかの関わりを持つ連中に、喧嘩を仕掛けていたわけではかったんだ。だというのなら、俺が転校してきた日に喧嘩を売っていたあの目の鋭い男は、この問題には全く無関係だったというわけか。
なるほど。あの転校の日までは吉倉のあの嫌がらせはただの私的な行為に過ぎなかった。それが本人が意図したのか、意図していないのかは判らないが、その行為が引き金になって吉倉を〝ある事情〟とやらの問題に巻き込んだというわけだ。
どちらにしろ吉倉の自業自得か。
「俺が一番聞きたいのは、その〝ある事情〟だ。ここは学校じゃない。はっきり言葉にするが〝誰が誰をイジメたんだ〟」
「その問題が取りざたされずに、犠牲者を二名も出した犯人を野放しにしている理由は、簡単だよ。〝犯人は社会そのモノ〟だとみんな思っているからだよ」
俺は自分の心の中で煮えたぎる何かを抑えた。
「もっと具体的に言えば〝人間社会だ〟よ。社会というのにはルールと秩序が欠かせない。そうでないと社会は機能しないからね。でもね——」
水城は少し言い淀んだ。顔を見ると、何かを憐れむような繊細な表情をしていた。
「社会を作るのは、どう足掻いても〝人間〟なんだよ。昔みたいに恐怖政治で構築された社会だったのなら、誰が悪いかのかは明白だったのかもしれないけれど。今となっては悪が改善されて、それを縛る法律にがんじがらめにされて、悪は自分が悪であることを豪語できなくなったんだ。だから何が言いたいかというとね、独裁者がいる社会なら、その彼が悪だとすぐに気が付くことができるのだけど、独裁行為が禁止された世界では、独裁者は〝自分が独裁しているという事実を狡猾に世間から隠し、煙に巻くという策に売ってでることになる〟んだよ」
水城は出来るだけ具体的に自分の意見を披露したようだ。
俺は断片的だが、彼の言うことを理解できていた。
「お前は言ったな、水城。〝犯人は社会そのモノ〟だと〝みんな思っている〟からだと。おまえの言う独裁者ってやつは、一体誰なんだよ」
水城は僕を一度見ると、少し微笑んで呆れるようにした。
そして一息ついてこう言った。
「この学校の理事長の親戚である、帆坂文香だよ」
それからは水城と別れる道まで多少の沈黙が続いた。
「ふふふ」
水城は初めて会った時と同じように、優しい微笑を浮かべた。
「キミは、面白いだけじゃなく優しいんだね」
俺は少し困ったが、何とか返答を考えた。
「余計なお世話だ」
「僕はもう、犠牲が出てしまった時点で手遅れだと思った。この学校に入るのにもう一年早ければ阻止出来ていたかもしれないと思うだけで、行動を起こそうとはしなかった。空いてしまった穴を埋めることしか考えていなかった。
尊敬してしまうよ、僕は」
そう言うと水城は柔らかく笑った。
そして「達見、キミは例え無理だと解っていても立ち向かうんだね。ただ敵わないだけじゃなく、相手が相手なだけにこの学校にいることさえもできなくなるかもしれない」
彼の言うことは心に響いた。確かにそうだ。間違いないと思った。
「僕はもうその問題のことを、過去のものだと割り切ってしまっていた。キミを見てその考え方が、時としてはダメなものであるということを思い出せたよ。ありがとう」
真っすぐに俺の眼を見つめて、水城は言う。
「じゃあね」
水城は自分の帰り道の方へ向いて去っていった。
彼の年相応でない気配と、それに合ってはいないが、しっくりくる愛想と抑揚のある話し方が、妙に印象に残った。
俺は水城という人間がいささか理解できなかった。彼を理解するのは、まだもう幾らか時間を要するようだ。
翌日俺はその帆坂文香という人物に合うために三年の廊下を訪れていた。
誰が帆坂文香なのかを探ってクラスを行き来していると、見覚えのある顔がこちらに近付いてきた。朝も一緒に登校して来た鈴音だ。
「達見! どうしたの? 三年に何かようかい?」
いつも通りの調子で鈴音はそう言う。全く気の抜けた話し方である。
「何も、鈴音がはぶられていないか見に来てやっただけだ」
鈴音には吉倉が首を突っ込んでいる件については教えていなかった。
内容が内容だ。
あの壮絶な奪還作戦を見てからじゃ、死んでも鈴音にはこの話は出来なかった。きっと彼女が俺が今関わろうとしていることについて知ると、また前のように暴れるだろう。
——俺はどうしても、もう鈴音に誰かを傷つけてほしくないと思っていた。
「友達なんかいないよー」
鈴音は気の抜けた陽気な声でそう言う。
「友達は達見だけだよ」
そう言って鈴音は少し抱き着いてきた。
「こらこら」
「えへへー」
こいつ、やっぱり底ぬけにマイペース過ぎる。
唐突に、第三者の声が聞こえてきた。
「ジャマーーですよ」
振り返ると、眼鏡をかけた女生徒がいた。
よく判らないが。非難されたのに〝何も思わない〟。ああ、そうか、あまりにその言葉が自然に、まるで常識的な言葉かのように堂々と発せられたからだ。
「廊下の真ん中で、一体何をしているんですか」
蔑んだ眼で俺のことを見ると、今度は睨むようにして鈴音を見た。
「〝あの海葉さん〟が、ねぇ。珍しいものを見せてもらいましたよ。その人に甘い声で抱き着くあなたは、可愛かったですよ。私にも、そのような感じで接してくれないのですか」
「帆坂……文香ーー?」
帆坂……だって……? この女子生徒が?。
明らかにーー鈴音の気配が変わった。まるであの時と同じだ。
鈴音の顔を見ると、目に一切の感情を映し出していなかった。
「私の視界から今すぐに消えろ」
鈴音が感情を感じさせない声でそう言う。
「ふふーーその顔、好きですよ、海葉さん」
恍惚とした顔で、鈴音を見ながら帆坂は言う。
普通じゃない。彼女たちのやり取りはきっと誰が聞いてもそう思えるほどに尋常ではなかった。
鈴音もあの男たちと対峙した時以上の殺気を徐にしている。
俺には解ったーー根拠はないが。この帆坂という女子生徒、きっと何度も鈴音に〝襲われている〟。
彼女たちの間に一体何があったんだ……?。
確証は無いが、確かに鈴音の反応が異常なだけに、彼女が鈴音に何らかの攻撃を仕掛けられているのは間違いないと思う。だが、仮にそれを事実として断定した場合、なぜ帆坂は重体患者になっていない。もしくは死亡しているはずだ。
一番不可解なことは、なぜ帆坂は、大の男五人組が恐怖して戦慄した相手である鈴音の前で、平然と、しかも余裕をもって笑っていることができるんだ?。
俺は不快感で目が一瞬眩んだ。
この不快感の正体ーーこれだ。幸川の言っていた〝束縛〟とは。
俺は今、鈴音と一緒の気持ちになっている。
俺は鈴音を手で制して、後ろに下がらせた。鈴音に俺の眼を見てほしくなかったからだ。
「……達……見……?」
不思議そうな声で鈴音は言う。
俺の眼は真っすぐに帆坂文香を見据えていた。
帆坂文香に俺の眼はどう映っただろうか——。
「なんーーですかーー? その眼はーー?」
目を丸くして、ぱちぱちして帆坂はそう言った。
帆坂はさっきの不敵な顔を興覚めしたように途端にやめると、冷徹な無表情になった。
「面白くないですよーーそれ」
そう低い声で言って帆坂は自分のクラスに戻った。
俺は気を取り直して鈴音を見た。
「鈴音、そろそろ教室に戻った方がいい。授業が始まるだろ」
「……? うん」
鈴音はいつもの鈴音に戻って、そう頷いて自分の教室に戻っていった。
俺も教室に戻ると、席に座った。
鈴音には今回のことに関わってほしくない。だからなるべく自分があの帆坂文香に関わろうとしていることを悟られないようにしなければならない。相手がどんな人間であろうと、もう鈴音には誰かを傷つけてほしくない。
断言できるーーあの帆坂文香という女は、鈴音が今すぐにでも殺したいはずの類の人間だ。
放課後が終わると、次は吉倉を探すためにすぐに自分の教室を出た。
この頃は帰りも鈴音と帰る時があるのだが、今日はそれは出来ないだろう。
一年の教室がある廊下に着くと、吉倉がいるクラスを探した。帰っていく一年生たちの中に紛れていないか見渡してみたが、いないようだ。
帰る途中の男子生徒に吉倉のことを聞く。
「吉倉って……」
少し警戒してその言葉を言う。あいつも友達が少ないらしい。
だが気を取り直して男子生徒は言う。
「三組ですよ」
そう言って男子生徒は帰っていった。
俺は三組の教室に向かった。
三組の教室には教師がまだいた。彼に話を聞くとしよう。
「吉倉秀人を知らないか?」
無礼極まりない俺を一瞬不快気な眼で見ると、すぐに教師は答えた。
「今日は来ていない」
「理由を聞いてないか」
「怪我をして休んでいると聞いてる」
俺のことが気に食わないのか言葉に反発の色が見える。
こういう、大した理由もなく人を差別する人間ほど、大きな問題から目を背けたがるんだ。
「何か気に食わないか?」
俺は無性に何か苛立っていた。あの帆坂文香と話したからに違いない
教師は目を尖らせた。
「おまえもあの理事長の親戚とやらの、帆坂文香には頭が上がらないのか?」
教師は答えない。
「吉倉を処罰しないのも、きっとあいつが〝本来処罰されるべき輩〟ってのを、おまえたちの代わりに粛清しているからなんだろう。問題が起こってからじゃないと行動しない。おまえらのような教師が子供を苦しめてるんだぜ」
半ば八つ当たりだった。別に彼は悪くないのだ。生徒をただのカモだと思っている輩よりはましだ。
俺は教師に背を向けた。
「ま、待て!!」
教師が俺のことを怒声で止める。
俺は振り向いた。
「じゃ、じゃあおまえは! あの帆坂……理事長のお気に入りを止められるのか! お前は解っていないんだよ、ガキだからな! 社会ってのは、力を持った人間に逆らってはいけないようにできているんだ! あの事件の犯人を告発しようとした先生たちは、みんな〝狂言者〟の烙印を押されて沈黙させられた! お前は何にもわかっちゃいないんだよ!」
怒鳴り終えると、教師は顔を真っ赤にしながら荒い息だけを吐いていた。
俺は面白くてつい笑ってしまった。しらけ笑いと言うやつだ。
「関係ねーよ……」
姿に目もくれずに、教師に言う
真面目に彼と真っ向から話す気にはなれなかったから、俺はその言葉の続きを言わずにその場を去った。
水城に聞いてもよかったのだが、俺はその〝いじめ〟についてやはり校長に聞きに行くことにした。今朝教師に聞いたが、今日は何かの事情で校長は学校にいるらしい。生徒が二人も死んだ事件など、ネットで調べれば今の時代幾らでも出るのだが、やはり人に聞くのが一番手っ取り早い。
俺は校長室をノックした。
「はい」
声が聞こえる。
俺は間髪入れずドアを開けた。
老人の校長はこちらを驚いたような顔で見つめていた。
「なにかね?」
失礼な俺に対して威圧の態度をとる。
俺に彼を上の人間だと区別する気遣いは無かった。それに俺はただの学生だ。ここは会社じゃない。
校長はソファの上に座っていた。それに向かい合うようにして置かれているソファは、客が座るものだろう。
俺はそれに座った。
真っ向から校長の眼を直視する。
「なあ、少し聞きたいんだ。時間は取らせない」
校長には口を開かせない勢いで俺は喋った。
「一年前にこの学校で起きたという〝いじめ問題〟について少し聞きたい。詳細にな。一体何が原因でそれは起きたんだ」
校長は鋭い眼差しで俺を見つめると、一つ溜息をついて目を逸らした。
「儂は今年校長についたばかりであまり知らないが……。ただ言えることは、あれは〝いじめなどではなかった〟ということだ」
俺は目を細めた。
「残念なことに一年のうちに二人もの尊い命が自ら命を絶ったが、それはいじめなどではなく家庭の事情だった。自ら命を絶った二人は仲が良い友達だったらしいのだが、その二人ともが運悪く家庭に問題を抱えていた」
校長は一度話を切ると、俺の顔をちらりと見た。
「ーー一時、事実はそうであるのに、本当は家庭の事情で自ら命を絶ったのではなく、外部の嫌がらせ……つまりいじめがあったのではないのかと言う人々が出てきたのだが、それは証拠も何もない〝狂言〟だった。つまりその〝いじめ問題〟の真相とは、自ら命を絶った二人が自分の不幸に耐えられずに起こしてしまった無念の自殺だったのだよ。その犠牲者の生徒の母校の校長として、儂は無念でならないし、残念でならない」
そう言って校長は俺を厳格な顔で見た。
「ーーよく吠えるな」
そう小さく静かに言うと、俺はそれでもかという程に目を細めて校長の眼を見据えた。
「なん、だとーー? 貴様! 今何と言った!」
怒声が部屋を満たす。
「下らないことをたらたらと、じじいがよーー」
そう言って嘲笑する。
「貴様ーー! これ以上の侮辱は許さんぞ!」
そう怒鳴って校長は立ち上がる。
「俺はそんな下らない〝ごまかし〟を聞きにここに来たわけじゃないんだ」
俺は静かにそう言った。
心が冷える。俺は凍えるような外で、冷たい息を吐き出すようにこう続けた。
「もう、誰が誰を攻撃して、そしてそれが原因で、その傷ついた方が自殺したという事実を、隠蔽する段階の話は終わってるんだよ。
〝おまえが誰であろうが、何を言おうがな〟。
目を背けたって何も変わらない。俺が見つめているのはその〝攻撃をした人物〟だけだ。そいつが俺の近くで、のうのうとこの日常を当たり前のように生活している限り、俺のこの、冷え切った心が元に戻ることはない」
最後は、俺はもう完璧に私情を挟んだ発言をしていた。
少し落ち着いたのか、校長は腰を下ろし、俺を嘲笑するかのような顔をしていた。
「〝お嬢さん〟は理事長のお気に入りなんだよ! 彼女は〝優秀〟だ! 才能がある、輝かしい〝未来〟がある! 彼女のカリスマは儂も認める。親戚なのも関係がない。彼女は完璧に理事長に好かれている。人を動かす力を持っているんだよ! あの子の意思は理事長の意志だ!」
俺はその様子を冷めた眼で客観していた。
「そうか。ならこれ以上おまえに聞くことは何もない」
俺はゆっくりと立ち上がった。校長に背を向けてドアの方へ歩いていく。
「待ちたまえ! ーー一つだけ聞きたまえ」
俺は黙して言葉を待った。
「なぜーーなんだ」
俺は振り返って校長の眼を見た。俺は感情の全くない眼で校長の眼を見据えた。
「ーー」
校長は俺の眼を見て、それきり口を微かに震えさせるだけで何も言葉を言おうとはしなかった。いや、この様子では言うことができなかったというべきか。
言おうとは思わなったが、だが確かに俺は心の中で彼に言っていた。
これ以上は口を開くな、と。
あのへっぽこ校長との会談から二日経過していた。
俺は何よりも先に吉倉に合わなければならないと思っていた。
あの教師が、怪我をしていたと言っていたし気になっていたんだが、二日待ってようやく今朝吉倉の姿が見えた。
俺は学校が終わるとすぐに吉倉の元へと行こうと考えていた。
学校が終わり、俺は前のようにすぐに教室を出て一年のクラスがある廊下へと行った。
前のクラスを覗くと、帰る準備をしている吉倉がいるのが見えた。
「おい、秀人」
俺は声を掛けた。
不機嫌そうな顔でこちらをじろりと睨んでくる。心底迷惑そうだ。
吉倉は廊下に出てきて、俺の顔を見た。
「……なんだよ」
相変わらずのガンを飛ばしながら吉倉は俺のことを見る。だがそれは睨んでいるように見えるだけだ。本当は彼は人のことを慎重に見極めているだけで睨んでなどいないのだ。
よく見ると、吉倉の顔には痣ができていた。
「おまえ、それ」
少し顔に手を伸ばそうとすると、手で振り叩かれた。
「く……」
今度は俺の手を払った手を吉倉は痛そうに抑えた。
吉倉の手を見ると、包帯でぐるぐる巻きになっていた。
「帆坂文香の手下どもだな」
俺は一人気にそう言った。
「帆坂……?」
吉倉はその言葉を不審げに聞いてきた。
「帆坂文香、俺の予想では、おまえが相手にしている連中たちの裏のリーダーだ」
「なーーんだと!!」
俺の胸倉を掴んで、吉倉は俺を壁に叩きつけて迫ってきた。
「適当なこと言ってるんじゃないだろうな! おまえーー!」
俺は無表情で答える。
「彼女は一年前にこの学校で起きた〝いじめの首謀者だ〟彼女は二人、生徒を殺している」
サッーーと吉倉の顔が青くなった。
「その女……四日前に俺は会ったんだ。俺がいきなり数人の男に喧嘩を仕掛けられて、そいつらをボコしてやった後に〝大丈夫ですか?〟て声を掛けてきたんだ。俺は奴らに勝って、奴らはビビッてしっぽ巻いて逃げていったんだが、俺も痛みでもがく程の怪我をしてた。その怪我の場所を……その女は優しく撫でてくれた」
吉倉は手を離した。
そして「俺はーー二度も騙されたのかーー。俺は、〝他人〟にもう絶対に騙されるかって生きて来たのにーー」
吉倉は俺から挙動不審な動きで離れた。
「そんなやつらを倒してやろうと生きて来たのにーー」
吉倉は、グッと見ているだけでも解るほどに力強く拳を握った。
「チーークショーー!!」
ドン! と近くの壁が殴られる。
「殺してやる……」
顔を震えながらゆっくりと上げた吉倉の眼は据わっていた。
俺はその様子を感情の無い眼差しでただ見つめていた。
吉倉は俺に目もくれることもなく、ゆっくりとした足取りでどこかへ歩いていこうとする。
「どこに行く気だ」
一応俺は聞いてみることにした。一応聞いただけで、俺は彼が一体どこへ行くのか予想できていなかったわけではなかったし、今からすることを止めようとする思いも全くなかった。
その言葉に吉倉は返答してこない。
俺は仕方なく黙ってついていくことにした。
彼が向かったのは体育館だった。
彼は土足で中に入る。それにつられて俺も土足で体育館に入った。
バスケ部だろう。中では数人がバスケをしていた。
一人女子生徒がいる、マネージャーだろうか。それはよく見るとあの帆坂文香だった。
バスケ部が吉倉と俺を見て皆一斉にピタリと止まってこちらを見た。
一人いた教師が何に感づいたのか、用事でも突然できたような素振りで体育館を退室していった。
ここは今正に無法地帯となった。
帆坂がこちらに近付いてくる。あの不快さえも感じさせる不敵な笑みを浮かべて
「あら、劣等生が何の用ですか。部活のジャマですよ」
「おーーまえーー」
一人の男が前に出てくる。
「帆坂さん。こいつはいけないと思うんですよ」
吉倉を見つめてそう言う。
「ほら、ただの不良のくせに僕たちの体育館に土足で上がり込んでいる。こいつはこの学校に要らないですよ」
見知った顔の男がひょいと顔を出して、薄ら笑いを浮かべている。吉倉に頬と腹をやられて倒れていた男だ。
「よしくらく~ん。元気~?」
吉倉が男を睨みつける。
「前はよくやってくれたね」
薄ら笑いが煩わしい。
「おまえらだけは……絶対にゆるさねぇ」
吉倉がそう言う。
「秀人、こいつらは?」
少し間があってから、吉倉は口を開いた。
「二年のこいつはーーいや、この中の数人は、後輩や弱そうなやつを集団で脅しては金をせびって、最後にはリンチしてる。それも、顔は一切殴らない。胴体だけだ。もう目を付けられた生徒が何人も不登校になってる。教師共も感知しねぇ。そうかーー教師共が俺に感知をしなかったのは、面倒な奴らを俺が代わりに締めてやってたからってわけじゃなかったんだな!」
「いーや、それもある。陰湿ないじめをする奴らに粛清をしていたおまえを、善い行いだと野放しにしていたのも確かだ。今の時代、彼ら教師は公然と生徒を殴ることが出来ないからな。だが一部の教師は、そこの帆坂の影にいる理事長の影におびえて、陰湿な連中にただ関与しなかっただけだろう。摘発すれば自分が危うくなるのは解ってるが、守らなければ何かペナルティーがあるというわけじゃないからな。
この問題ーーそこの女が善良な性格だったら何もかも良い方向に向かったというーー全く解りやすい問題だということだ」
「一体何を言っているんですか? あなたは」
高身長の男が前に出てくる。
「偉そうに。排除され、唾棄されるべき社会のごみはあなた方なんですよ? 何を勘違いしているんですか? もしかして自分たちが正しいと言っているわけではありませんよね? もしそうならお笑いですよ。だって、僕たちが〝正義〟なんですから」
そう男は鼻を鳴らして断言する。それと同時に陰湿な笑いを他の者たちも漏らした。
「さあ、追い出してください」
帆坂がそう言う。
高身長の男が吉倉の前へと出る。そして吉倉の肩をドンと押した。
吉倉が目を剥いた。そして拳を握って、それを間髪入れずに男の顔に繰り出した。
男はその攻撃を読んでいたのか、身軽にそれを避けた。一見しただけで解る、こいつは喧嘩慣れしているのだ。
高身長の男は、すぐさま態勢を立て直すと、吉倉の腹に拳を突き入れた。
「ぐッーー」
吉倉は苦悶を小さく漏らした。
「もう体中痣だらけのはずですよね、顔はやるなって言ったのに」
にやり、と男は笑った。
吉倉はようやく気付いたのだろう。先ほどよりも敵意を剥きだしにしている。
そうだ。吉倉が退治したおかげで今はいないが、吉倉を襲ったのはバスケ部員なんだろう。顧問も認知していないのか、何にしろここはまごうことなき外道のアジトというわけだ。
だがそれよりも、今の怪我じゃ喧嘩をしたとしても吉倉はあの高身長の男さえも倒せないだろう。吉倉は重傷だ。それに倒せたとしても形勢が逆転することはない。あの男を含めて数は十四人。あの女がいる以上、ただバスケだけをしたいというような真っ当な人間がここいることを許されているとは思えない。
ああそうか、この女、元々〝悪意〟に味方をしているだけの人間ではないのだ。こいつそのものが〝悪意〟のようなものなのだ。彼女がいることで、その周りにいる人間達の〝悪意〟さえも小さいものから肥大させてしまっているんだ。
ーーなんて、最低なカリスマなんだ。
吉倉が蹴られて倒れた。
俺は男の前に立ちはだかった。
「こいつは見逃してやってくれ」
男の顔を無表情に見ながら俺はそう言った。
「何を言っているんですか? 正当防衛と言う奴じゃないですか」
周りの連中が笑う。
「こいつは重傷なんだ。それともなんだ? おまえ、人を痛めつけていたぶる趣味でも持ってるのか」
「……」
男は眉間にしわ寄せて俺の顔を凝視する。
「おまえが誰をいじめて、誰を殴って、誰をリンチしようが、そんなことはこの広い宇宙の中じゃちっぽけなことだ。そんな下らないことに気を掛けている時間なんて無価値だし無意味だ。だから俺は気にしないぜそんなこと」
俺は倒れた吉倉を抱き起して、吉倉を立たせた。
「よく考えてみろ。おまえ自身の持つ〝悪意〟の限度は何だ。そしてそれはどこから生じたものなんだ。初めはただこの社会や世界が気に食わなくて、誰か自分よりも弱い奴に八つ当たっていただけなんじゃないのか。その八つ当たりは、甘えと何も変わらない。おもちゃを買ってもらえなかったから怒っているのと何も変わらない。ごく一般的で、何も、誰にも恥じることもないような他愛ない話じゃないか」
「……なにが、いいたいんですか……?」
「おまえのその、心に渦巻いている〝社会に抵抗したい〟〝他人を利用したい〟〝他人をいたぶりたい〟という気持ちは、この世界に〝他人〟や〝社会〟が存在しなければ、無かったということだ。つまり、世界におまえだけしか存在しなかったら、おまえはもっと真っ当な人間になれていたかもしれないということだろ。
人間の感性は千差万別で、曖昧模糊で、不明瞭な場合がある。しかしおまえは一応、常識を学んでいるからこそ、常識を理解し守ることができるんだろう。つまりおまえは〝悪意〟以外にも〝善意〟を理解できるんだ。それは理解力が欠けていても関係ない。気持ちで解決できる。
おまえの中にある〝悪意〟を肥大させる正体を見破れーー。一体それはどんな顔をしてるんだ。周りをよく観察してみろーーそこにいる女が、おまえの〝悪意に餌をやっているモノの正体〟だ」
男は理解が追い付かないのか、眉間にしわを寄せて停止している。
「ーー詩原達見ーーあなたは面白くないの。あなたはここにいるには〝相応しくない〟の。……何をしているの? あなたたち、詩原達見をはやく失神でもせさて外に放り出してください」
俺は吉倉に声を掛ける。
「立てるか?」
「……」
吉倉は痛みに耐えながらも、必死に立ち上がった。
吉倉は言う。
「おまえ……説教のつもりか?」
俺は答えない。
吉倉は俺を睨みつける。
「おまえ……解ってるはずだ! なのにどうして! 〝他人〟なんかを説得しようとする! 気持ちなんか、思いなんか、人間には絶対に伝わらないんだ!」
俺はそう叫ぶ吉倉の様子を無表情で傍観した。
「秀人、お前は今はとにかくこの場から離れるんだ」
「俺はあそこにいる女を殺すまで倒れない!」
「俺一人が加勢したとして、おまえはこの場にいる十数人のサディスト共を倒して、あの女王を殺せるとでも思っているのか。こいつらは人をいたぶれば満足する類の人間だ。俺一人がこいつらの餌食になればそれで終わる話だとは思わないのか」
「どういうことだよそれ……。てめぇ! 俺に逃げろって言いたいのか!」
俺は吉倉の肩を押した。
「いいから行け。
……というわけだ。おまえたちの相手は俺だ。満足するまで相手してやるぜ」
「生意気な人ですね、本当に……」
男が合図すると、他の男共が俺を取り囲んだ。
「その強情な顔と声が、涙でしわくちゃになり、助けをこう悲鳴になることが、今の僕の一番の楽しみですよ」
「吉倉は見逃していいんですか?」
吉倉にやられた眼の鋭い男がそう言う。
「やられたのはあなただけです。あなたが決めてください」
「あの重体なら後で追いかけても十分間に合いそうですね。今は吉倉よりも、こいつの方を痛めつけたいです」
臨戦態勢に本格的に彼らは移行した。
俺を取り囲んで、ゆっくりと近づいてくる。少なからず警戒しているらしい。
俺は高身長の前の男の顔にまずは適当に拳を突き入れた。
その拳を男は野球ボールをキャッチしたときのような軽快な音をたてて掴んだ。俺の拳は男の顔面に届くことなく防がれる。
「ーーなんだ、やはり口だけですか」
前蹴りが俺の腹に目掛けて真っすぐに打ち出される。
「ーー!」
俺は倒れはしなかったが、後ろに後ずさった。
「あなたは吉倉くんの何倍もの重体にしてあげますよ」
「望むところだ」
「負け犬の遠吠えですね」
一斉に彼らは蹴りやら拳やらを俺の胴体に目掛けて突き入れてきた。
「クッーー」
何もしなければ喧嘩にもならない。なんて簡単な話なんだろう。
俺が倒れると、彼等は蹴りで俺を一斉に痛め倒した。
俺は横目で吉倉の様子を見た。彼は少しずつ離れながらも、振り返っては俺の様子を見て忌々し気な眼をしている。彼にはきっと理解できていないんだろう。
俺が彼をなぜ逃がしたのかが。
それも彼が忌々し気に俺を見る原因でもあるのだが、一番彼が忌々しいと思っているのは、彼等だ。大勢で一人の人間を襲って、傷つけて、痛めつけて、笑う。そういう醜い彼らのことが、吉倉は一番忌々しいんだ。彼は怪我をしていなければ、自分が負けることを怖がることもなく、彼等に立ち向かうことだろう。
吉倉の姿は見えなくなった。
「ほら! ほら! 痛いですか!? 痛いよな!? 泣けよ! 助けを乞えよ! 自分が間違ってましたって! 許してくださいって言えよ! なあ!?」
俺は痛みに耐えた。彼らは容赦なく俺の体に暴力の雨を叩き込んだ。
確かに痛いとは思うが、俺は謝る気も、泣く気も一切なかった。ただ無表情で彼らの愚かな行為を客観していた。
「それ以上はもうーー無意味です」
唐突に体育館の入り口から声が聞こえた。
誰だろう、必死にその声の主が誰なのか思い出そうとする。
「あなたはーー」
帆坂が驚愕の声でその人物の名を呼ぶ。
「水城ーー東和」
「水城東和だって!?」
俺を殴っていた高身長の男が驚愕して声を上げる
「水ーー城ーー?」
水城はゆっくりと歩いてくると、俺の前に立った。
男たちが水城を警戒してか、数歩後ろに下がる。
「そうですか、その男、あなたの息がかかっていたんですか」
帆坂が言う。
「無駄話をしにきたのではないので……」
水城は微笑む。
「それにしても……〝やりすぎですよ〟、帆坂文香さん」
慈しみがあるが、全く感情を感じさせない声で水城は言う。
「これ以上のサディズムも、精神攻撃も、この僕が許しません」
何て冷たい声なんだろう。そう俺は思った。
「僕はあなたに言いましたよね。〝誰かを自殺に追い込むような攻撃はもうしてはいけない〟と。ですが今回はまだ誰も命を落としてはいません。ですから見逃してあげようと思っているのです」
忌々し気に帆坂は水城を睨んだ。
水城は振り返って俺の方を見た。
「だいじょうぶかい、達見」
優しく柔らかい眼でそう水城は言ってくる。
俺は痛みで声を出せないでいた。
「もうだいじょうぶですよ」
そしてそう微笑むと、彼等に向き直った。
「ですが見逃すのはあなただけです帆坂さん。今日であなたの君臨したバスケ部は終わりです。暴行をした彼らは一人の漏れもなく退学処分を受けてもらいます」
水城はそう決然という。
帆坂は目を細めて言った。
「やはりあなたですか」
高身長の男が言う
「そうかーーうちのメンバーが六人も退学処分を受けたのは、おまえの手引きがあったからということか!!」
高身長の男が冷静を保てなくなって、そう挙動不審に吠えている。
水城が冷めた声で言う。
「何よりも、決定的な証拠がありましたからね」
「なにーー!?」
「あなたたちが暴行を働いていたいくらかの現場を録音していました。今の吉倉さんと、達見に対する暴行もきっちりと録音しました。あなたがには早々に退場してもらった方が後が楽なのですよ」
冷静に息を吐くように水城はそう言った。
「そんな馬鹿なーー。……いやーー」
男が水城に近寄る。
「その証拠を渡される前に、壊せばいい話だろうがーー!」
「無駄です! 彼には勝てないわ」
帆坂が冷静さを感じさせる声でそう言った。
水城は男の突き出される拳を華麗に避けると、見えないような速さの打撃を顎に叩き込んだ。打撃を打つ時、水城の体は一切揺れず、見直した時にはもう拳は元の位置に戻ってぶらりとしていた。
男は一度ふらつくと、そのまま床に倒れ伏した。
忌々し気な顔で帆坂が水城のことを見た。
そして「あなたさえいなければ……」
と一人気に言った。
「立てますか、達見」
「ああーー。だが水城ーーどうして」
「友達を助けることに、理由など無粋というものですよ」
水城はそう言うと、俺の顔を見てにこりと笑った。俺はその笑顔を見て、少し安堵してしまった。
水城と俺は体育館を出た。
あれから四日が立っていた。
俺はバスケ部連中にやられた深手で三日も学校を休んだ。
ボコボコにやられた後、あの様子では吉倉もやられてしまうと危惧していたのだが、水城が奴らの戦意を退学処分という現実を突きつけて消失させてくれたためそれは免れた。
それにしても、水城のあの戦闘は、間違いなく何かを習っていた巧さだった。
体は少し痛んだが、もう体を十分に動かせる程には回復していた。
俺は支度をして学校へ向かった。
「やあ達見!」
「鈴音、元気だったか?」
「きみこそ、三日も休んじゃって、私寂しかったんだから!」
「へいへい」
鈴音の声を聞いて、少し俺は安心していた。
学校に着くと、水城がいつもの調子で俺を見ていた。
「怪我は治ったかい?」
そう優しく水城は言う。
「ああ。おかげさまでな」
それからはいつもの日常だった。
一日はすぐに終わり、あの騒動の後の経緯を水城に少し聞いた。
水城は、あのバスケ部員たちは即刻退学になったという。帆坂の意志が理事長の意志なら、あの校長にも帆坂の息がかかっていたはずだ。だというのに、帆坂の仲間であるあのバスケ部員たちは退学させられた。決定したのは間違いなく校長のはずだ。つまり、校長は理事長の命令と同様の帆坂の命令よりも、それ以外の圧力を優先したということになる。当然ながら退学処分を進言したのは水城だ。それを確定させる要素になる証拠を提出したのも水城だ。なら常識的に考えて、その水城自身が何らかの圧力を校長に与える要素を持っていたという推理ができる。
幸川には隠し事が通用しないらしく、散々駄目だしされた。彼女は俺が〝具体的〟にどのような目に合うのかということを九割の確率で予測していたらしかった。彼女はきっと、何らかの助けが入って、俺がその幸川の予測よりもマシな負傷で済んだことを知っているんだろう。だからこその駄目出しだった。
だが、俺はまだこの事件が解決したとは思っていなかった。帆坂が主犯で行った一年前のいじめも、俺はあの帆坂がいる以上解決することのないものだと思っている。
誰も言葉にして言わないが、それはただ単に、帆坂文香という人物がそのいじめをしたという根拠も、証拠もないからだ。普遍的な人間というモノは、自分に直接的に伝えられた情報しか信頼しない傾向が多々ある。なにも伝えられたその言葉の中の真意を読み取れまでとは言わないが、本来在るべき〝真実〟というものを、その情報を知る者として、流すモノとして、導き出そうという気持ちは持つべきなのだと思うのだ。
結局、〝真実〟というモノが救いようのないもので、絶望的なものであるのなら、それ以上にそれを無暗にかき乱し、撹乱し、隠蔽する行為がどれほど意味のないことなのかは、誰の眼から見ても歴然だと思う。
一年前のいじめ問題の真実、発端となったのは帆坂文香の〝周りに対する印象操作〟だった。俺の予想では、帆坂は自分が排除したいと思っている人間の価値を、〝自分の立場と巧妙な発言によって地の底まで陥れたのだ〟。
水城の言っていた通り、帆坂は自分が独裁者であることを周りに対して巧妙に、狡猾に隠し通したのだ。帆坂の目論んだ作戦とは、〝周りが自分を犯人だと一切思わせることのないような環境と雰囲気を作り出す〟ことだった。皆が一斉に口を塞ぐ〝暗黙の了解が作られるまでが、帆坂の計算の内だった〟のだ。彼女は理事長という大きな力をバックに持ちながら、自分が恐怖で統括して、糸を引き非道を行ったという疑心を周りに思わせることはなかった。唯一、それを見抜いて指摘した人々も狂言者の烙印を押されて沈黙させられた。〝それも帆坂本人ではなく、社会そのものに〟。
つまり帆坂は周りの支持を我がものとするのに、〝恐怖を使用しなかった〟。
なんて〝巧い〟んだろう。
俺は内心で愕然とする。
何て才能だ。なんてカリスマだ。俺はあの校長と同じことを思っていた。
帆坂文香は〝独裁者でありながら、恐怖で人を操作しなかった〟。
帆坂文香はきっと〝独裁者でありながら、優しさと慈しみを持ってして人を操作した〟
ーー俺は身震いのようなものを覚える。
そうだ。この帆坂の人間性が〝悪意〟の辿り着く場所ーー〝悪意の極限〟だ。
俺は今、帰る途中だった。
水城の話を少し聞き終わると、俺はすぐに学校を出た。今日はなぜだが早く帰りたい気分だった。
後ろから薄っすらと声が聞こえてきた。
「達見ーー!」
俺は振り向いた。振り向くと、後ろから水城が走ってきていた。
立ち止まると、水城は息を少々切らして俺の前で停止した。
「少し問題が起きてしまいました」
冷静な面持ちでそう水城は言う。
「なんだ?」
「〈今日の夜十二時に、学校の屋上に来い〉という手紙が僕の下駄箱に入れられていたんだ。誰がいるのか、僕は想像がついている。それとこれは僕の予想なんだけど、吉倉くんもその屋上に呼ばれていると思うんだ。それで頼みがある。吉倉くんの住所を教えるから、吉倉くんをその屋上に行かないように説得して欲しいんだ。お願いだ、達見」
真剣に、澄んだ表情で水城は言う。
「……わかった」
そう言うと、水城は俺に吉倉の住所が書かれているという紙を手渡した。
水城は真っすぐに俺の顔を見る。
そして「ありがとう」
と、ふんわりと言うと背を向けて去っていった。
俺は吉倉の住居へと向かった。
水城に渡された紙を見て吉倉の家を探した。吉倉の家はかなり遠くて、行くまでに相当時間がかかってしまった。途中で迷いもしたから、一時間は探すのに費やしたと思う。
家の前まで来てインターホンを押す。声が聞こえる。
「だれだ」
「出てこい、秀人。話がある」
「おまえ……詩原達見……」
数秒立つと、吉倉は出てきた。明からに俺を不審がっている。
「秀人、おまえ手紙をもらったか」
「それがどうしたーーおまえには関係ないだろ」
「関係ある。水城と言うやつに頼まれた。おまえの恩人の恩人だ」
吉倉の表情が変わる。
「水城、東和のことか?」
「ああ、そうだ」
吉倉は少し考えるようにした。
「そいつが、なんて?」
「おまえを止めろと。屋上に行かせるなってな」
「ちッーー。どいつもこいつも!」
バン! とドアを吉倉は叩く。
「入っていたんだな?」
吉倉は答えない。俺は肯定の意味だと取る。
「吉倉、おまえは俺が止めようとしても必ず行くだろう。おまえは人を傷つける奴らを絶対に許さない。そんな奴らから果たし状が来たのなら、喜んで受けに行くはずだ。
ーーだから、俺はあまり気にしないことにする」
「はーー?」
「俺は約束を必ず守るような人間じゃないんだよ。それがたとえ恩人の頼みであったとしてもな。
ーー俺は自分のしたいことを優先する。
だからおまえは何も気にすることなくどこへなりとも行かせてやってもいいと思ってる。だが一つ条件がある」
「条件?」
「ああ。俺を倒してから行け。それが条件だ」
「おーーおまえを?! 馬鹿言ってんな! 一人もやれなかったおまえが、俺に勝てるわけないだろうが! 寝言は寝て言え馬鹿!」
「じゃあ試してみるか」
「てめぇーー調子に乗んじゃねぇ! おまえぶっ飛ばして、やつらをぶっ殺してきてやる!」
吉倉は道路に出てきた。俺と向かい合う。
吉倉は上がっている。彼の喧嘩のやり方を見たことは無いが、大概素人の喧嘩の一手目と言えば、右の拳の打撃だろう。
吉倉の眼が俺を見据えるーーそして、一点に俺の眼を見据えたまま、勢いよく正面から突っ込んできた。
吉倉は気が付くと俺の眼前まで来ていた。右拳を俺の顔へと繰り出すまいと、右拳を一瞬空へと上げるのが見えた。
「ーーウーー」
俺はその拳が振り下ろされる前に、それよりも早いスピードで吉倉の腹に蹴りを叩き込んだ。
吉倉は腹を抑えて数歩下がる。俺は一歩も始めの場所から動いていない。
「どうした?」
「クーーおーーおまえ……」
吉倉が苦しそうな顔で、驚愕の色を滲ませた声でそう呟く。
俺は言う。
「攻撃をする時の動作に隙がありすぎる。それではどのような攻撃をしてくるのかが見え見えだ。今の場合だと、たとえ攻撃できたとしても避けられて何らかの反撃を受けていたはずだ。俺にはそれを成し得るだけの観察力と、反射神経がある」
吉倉は真っすぐにまた走り出してきた。何の迷いもないという感じだ。
「うらァーー!!」
次は跳躍して蹴りかかってきた。俺はそれをすらりと躱すと、着地した吉倉の後ろへすぐさま回り込み、両腕で首を絞めながら後ろへと数歩下がった。
「ガーーッ!!」
俺は腕を離すと、後ろからわき腹に拳を突き入れた。
吉倉はわき腹を抑えて膝をついた。
「意識が一瞬真っ白になっただろう。俺の腕の皮を爪で引きちぎる余裕もなかったはずだ。そしておまえはそこでうずくまっている。この状況が理解できるか」
目を見開いて、震えながら吉倉は俺のことを横目で見上げた。
そして吉倉は立ち上がった。
「まだやるのか」
「タフなのがーー俺の取り柄なんでね」
俺は静かに口だけで笑った。
吉倉が立ち向かってくる。俺はそれを迎え撃つ。それが何度も続いた。
彼はあらゆる攻撃をもってして俺に立ち向かってきた。だが俺は、そのあらゆる攻撃を看破して意味のないものとした後、反撃を、吉倉がしようとした攻撃以上の威力を持ってして全て返した。
「はぁーーはぁーー」
吉倉が俺の前にひれ伏した。
「クーーソぉーー。クソがぁぁぁぁぁッーー!!」
吉倉が宙を見て叫ぶ。
俺はその様子を何の思いも、感情もなくただ見ていた。
俺は喋る。
「立てーー秀人」
吉倉は俺の顔を、切り傷だらけの顔で見上げると、静かに立った。
「人には〝悪意〟がある。だれかを騙そうとする〝悪意〟。だれかの心を傷つけようとする〝悪意〟。だれかの哀しみや苦しみを快感にしようとする〝悪意〟。誰かの命を奪おうとする〝悪意〟。
だけどなーー秀人、この世界には〝悪意〟を倒そうとする〝悪意〟もあることも知れ。そして、だれかを助けようとする〝悪意〟もあることも知れ。
その〝悪意を倒す悪意〟とはな、秀人ーー。善を守ろうとして本当の悪を傷つけ、八つ裂きにできない偽善よりもーー遥かに気高くて崇高なーー神様にも自分は善人だと言い張っていいような、〝偽悪行為なんだ〟。」
「偽悪ーー行為ーー?」
疑問の文字を顔に浮かべて、そう吉倉は聞いてくる。
「ああ。英雄のことだよ、吉倉秀人。
おまえはきっと、このまま行かせたら本当に帆坂文香を殺しただろう。それこそがおまえの偽悪行為の行きつく果てだ。だがその結末は〝何の価値も持ちはしない〟だろう。
どの時代だって、半端なやつはどんな善人であれ、悪人であれ、英雄にはなれなかったはずだ。英雄になるのに重要な要素は、ファンタジーでもこの現実世界でも変わらない。絶対悪を倒さなければならないんだ。〝特定のだれか〟がな。その特定の誰かを英雄だとはやし立てる連中は、結論としては、何の関与もしていないし、重要な武器をくれたわけでもない。〝全くの他人であり無関係者〟なんだよ。その連中はなーーただ無責任に、自分が英雄と呼ぶ他人の行いを、暇つぶしの話題のネタにしているだけだということだ。どれだけ救われて、喝采したしても、その連中からしたら結局、極論としては〝勝手に他人がしたことに過ぎない〟という解釈にしかならないはずなんだ。もしそうでないというのならな、英雄に喝采し、感謝する人々は、血に染まった英雄の手と苦悶の心中を察して、気遣いから沈黙するはずだからだよ。それをしないということは、その連中は、自分たちを救った英雄のことを〝ただのお人よしの使える他人〟だと言う薄情な見方しかしていないということだ。
俺が何を言いたいか解るか、秀人」
長い俺の話に吉倉は動転する。
「わからない」
俺は笑った。
「つまりだ、おまえが帆坂を殺して英雄だと周りから言われようが、ただの殺人者だと言われようが、〝犠牲者はただ二人、おまえと絶対悪の帆坂だけだということだ〟。
ーーなんて空っぽで、空虚な行いだ。おまえはーーそれをして、自分の一度きりの人生が勿体ないと思わないのか、秀人」
「おまえは……どうしてそこまで、俺のことを止めようとする」
「俺はしたいことをしているだけだ。ーーいや、はっきり言ってしまうと、薄情な連中や、とてつもなく悪い奴らが得をするのが嫌いなだけだ。そして、本当に善い心を持っているだれかが、苦しんで哀しむのが嫌なだけだ」
「はーーはは。じゃあ、この俺が、おまえはその、善い心を持ったやつだって言いたいわけかよーー? 俺はひどいやつなんだぜ? 親を否定し、親友に裏切られて、他人を憎んで、憎んでーーそんな俺が、善い心の持ち主ーー?」
俺は目を細めた。
吉倉の瞳がゆっくりと滲んでくる。
「はーーははははははーー! こんな醜い俺が!? 無価値の俺が!? 笑わせる……!!」
吉倉は地面に顔を押し付しつけて、すすり泣いた。溢れてくる涙と感情を抑えようとしているのか、途切れ途切れに嗚咽のようなものが聞こえる。
そして「俺はーーあんたみたいな強いやつになりたかったよーー」
と、最後に言うと、すすり泣くのを止めた。
時刻は夜八時を超えていた。全くタフな相手だった。
「あんたーーもう帰るのかい?」
「ああ。俺はこれでも忙しいんだ」
「そうか。なんか、ありがとなーー」
「おまえーー殴られて喜ぶタイプの人間だったのか?」
「ちげぇって!!」
「なんだ、全然元気そうだな」
「ちーー」
なにか不満そうに吉倉はそっぽを向いた。
少しの沈黙があった。
「おい、あんた」
「なんだ?」
「飯でも食っていくか?」
「ああ。食っていこうかな」
「忙しいんじゃなかったのかよ?」
「まあいいや、そっちは諦めるよ」
「てきとうな人だなぁ」
俺はそれから吉倉の家に入ってご馳走になった。
意外なことに、吉倉は料理が上手かった。吉倉が言うには、あまり家に母親が帰ってこないからだそうだ。彼にも色々あるのだろう。
ご馳走になった後、俺は忙しいとか言っておきながら、眠気に負けて人の家でぐっすり眠ってしまった。途中までは吉倉がなにか言っていたのだが、あまり覚えてない。
「なあ、もう十時半だぜ? 起きろよ」
そう言って吉倉が揺さぶってくる。
「もう、そんな時間か。じゃあそろそろ帰るな。美味かったぞ、ごちそうさん」
俺はそう言って手を合わせた。
吉倉が何を思ったか、笑った。
「なんだよ」
「いやーーなんかーーな。……気にすんな。まあ、また腹減ったらこいよ、なんか作ってやるからよ」
吉倉はそう言うとにこりと笑った。
「ああ。楽しみにしとくよ」
俺は吉倉の家を出た。携帯で時刻を確認すると、十時四十分と書いてあった。
十二時までに時間はまだあった。
俺は家に帰った。時計を見ると、針は十一時三十五分を指していた。
俺は電気もつけずにソファに座った。それからは何も考えなかった。
何分そうしていただろう。気が付いて時計を見ると、針は十一時五十二分を指していた。
俺は立ち上がって、タンスの中から黒い手袋を取り出した。手に吸い付くようなそのゴム製の手袋を手にきっちりはめる。
俺は家を出た。
学校についたのは十二時八分頃だった。
遅刻してしまったことを少々悔やみながら、俺は学校の中に入っていった。
周りを見渡して最初に目に入ったのが、いつも皆が入っていく大きな入り口のドアが木っ端みじんに叩き割られている光景だった。
そこら中に散らばったガラスを踏みながら、俺はガラスの割られたドアを潜って中に入った。
だれもいない。真っ暗だ。肝試しには丁度いい。
俺は何も見えない暗闇の中で、にやり、と笑みを零した。
階段を昇って行って屋上へと向かう。ここまで来てようやく何か聞こえてきた、叫ぶような人の声と、頬を殴られるようなパチンという軽快な音だ。それが交互に聞こえてくる。
俺は屋上の手前の階段まで来た。どうやったのか解らないが、屋上のドアが開いていた。
俺は屋上へと出たーー。
そこには、異様で、壮絶な光景が広がっていた。
「おらぁーー!!」
「くたばれやがれーー!!」
ど真ん中で、一人で戦う一人を除いて数は一見して十数人は居るように見えた。
床をよく見ると、人が何人も倒れている。数を数えてみると、五人いた。
真ん中にいるのは水城だ。
襲い掛かってくる連中を、ふらふらしながらゆっくりと倒している。
連中の一人のパンチが水城の頬を殴る。その途端、好機とばかりに一斉に水城をリンチした。
水城は体に三回ほど打撃を食らうと、四回目の攻撃をしようとする男の打撃をすらりと躱し顔に一発、腹に蹴りを一発入れた。男は倒れた。
他の連中が顔を一瞬驚きの表情に変える。
その瞬間だった。
水城は周りにいる連中の一人の顔に蹴りを叩き込むと、次は慣れた動きでくるりと回転し、肘を違う男のこめかみに入れた。それと同時に、三人目が繰り出してくるパンチをすんでのところで躱すと、その男のみぞおちに拳を深く捻じ込んだ。
蹴られた男はピクリともしない。こめかみをやられた男は頭を両手で抑えてうずくまっている。最後にみぞおちを突かれた男は、腹を抑えながら顔面から倒れた。
水城はたった一人で八人もの敵を戦闘不能にしたのである。
俺はゆっくりと彼らに近付いていった。
「よお」
俺は気の抜けた声でそう言った。
その声を聞くと、水城がふらふらしながらこちらに後退してきた。水城の背中を好機と見て狙う輩はだれ一人といなかった。
「やあ」
疲労を感じさせる声で水城がそう言う。
「ああ」
「吉倉くんを止めてくれたんだね。ありがとう」
「感謝なら後で散々聞く。今はこいつらだ。……水城、一つ頼みがある」
「なに?」
「先に帰っててくれ」
「いいけど。だいじょうぶ……?」
「多分な」
俺は水城にそう言うと、連中の方へと視線を飛ばした。
数は九人いた。いやーー一人華奢な人影が見える。あれは帆坂文香だろう。つまりーー超えるべき敵は九名、〝ターゲット〟は一名だ。
作戦と言える代物でもなく、これはただの〝お遊び〟である。しかしこのお遊びの危険なところは、敵には本来の作戦とは違って、不意打ちが通じないということだ。つまり、ターゲットに行きつくためには、その周りを固めている外敵の抵抗を沈黙させなければならない。難点と言えばそれだけだろうか。
自分より上の戦力を持つ相手に勝つために必要なことは、どれだけ相手の動きを先読みできるかだ。相手が大勢ならば、相手の一人一人が必ずしも同じ行動をとらないというところに隙がある。
もし今の環境が、外国の紛争地で、相手がそこに住む兵士たちだったのなら、俺は間違いなく殺害されているだろう。心構えと覚悟が違うからだ。
だが相手は素人だし、敵を確実に殺すという意志もない。それに、俺もそれを見こしてここに来ている。
連中を観察する。少し距離を縮めてきているやつがいる。彼は喧嘩という行為に何らかの自信があるのか、それとも、負けるのを覚悟で特攻してこようとしている少々根性のあるやつかのどちらかだ。どちらにしろ素人ならば、戦闘をする時は頭の中は真っ白だろう。しかし、この数だ。あまり初めにダメージは受けたくない。
なら、距離を縮めてくるやつの攻撃を回避して、そのまま裏手に回って後ろの腰抜けどもを先に倒す。
連中が少々腰を抜かしているのは、水城のおかげだろう。水城に感謝しなければ。
大勢という戦力で負けることを知らなかった連中は、水城という未知の因子と遭遇してすくんでしまったのだ。
ならば俺は、彼等にとっての二回目の恐怖の因子として、存分に暴力を披露しよう。
ーー俺は真っすぐに駆け抜けた。
前に出てくる男めがけて突進していく。彼の顔をよく見ると、あの高身長の男だった。
「なんですか? あなたは前のへなちょこじゃないですか! またやられに来たんですか?!」
遠くで叫んでいる。俺は急速に距離を詰めた。
おまえは後だ、と心の中で呟く。
正面から拳が飛んできた。俺はそれをすらりと躱すと、そのまま後ろへと距離を詰めた。こうゆうのはスピードが大事だ。
「なに!?」
高身長の男がそう吠える。
俺が後ろの一人を見すくめると、俺の顔を見てそいつは一瞬停止した。
攻撃が行われる前に撃退する。
俺はすくむ男のみぞおちを狙って、最小限の反動を想定した打撃をお見舞いした。拳が深々と腹に練りこむ感触が伝わってくる。男は床にぱたりとうずくまった。
「そんーーなーー」
高身長の男が一人気に何か言っている。
その攻撃を行うと、すさかず近くいるやつのところへ走る。
高身長の男は次の攻撃を考えているのか、ただ驚いているのか、その様子を傍観している。俺はその様子を横目で見て、嘲笑気味な笑みを零した。
俺の狙った相手は、条件反射で俺の顔目掛けて拳を振り下ろす。俺はそれを何事も無かったかのように避けて、その男の顔面に蹴りを叩き込んだ。男は蹴られた方向に、くるりと一度回転した後、床に倒れた。
これで二人だーー。
周りを見渡すと、一斉に三人の男が襲い掛かってきていた。
俺は回避するために敵のいないところへ両手から飛び、そのまま前に回転して距離を少し離した。
攻撃しそこなった男の一人が、やけくそ気味に突進してくる。俺はもう恒例になったかのような右ストレートまがいの攻撃を避けて、男の顔面に肘を叩きこんだ。男は顔を抑えて床に手を突いた。
そのままの勢いで、あとの二人と対峙する。彼らは一斉に襲ってこない。それが隙だ。腰が引けているのだ。
容量を得ない攻撃を順番に避けて、一人の男の後ろに回り込み、両腕で首を絞めた。
「うぅーーッ!」
これ以上締めては死んでしまう。俺はそうなる前に残りの敵の位置を確認した。
高身長の男は、少し離れたところで驚愕の顔で傍観している。後の三人は固まっている。もう一人は俺の行為を愕然と凝視している。
俺は男を投げ捨てて、愕然と俺の非道を凝視していた男の腹に目掛けて蹴りを叩き込んだ。男は後ろへと飛ぶように倒れると、動かなくなった。頭を打ったのだろう。
俺は面倒くさくなっていた。ここからは心を錯乱させて戦況を覆そう。
「おまえら、男を見せろよ。見てのとおり、おまえたちが何人かかってきたところで俺には勝てない。一人ずつかかってこい。それで命に別条のない怪我で済ませてやる」
「やだぜーーおれもう」
一人の男がそう言った。
全員を倒すと意気込んでいたから、この状況は考えていなかった。
「一人なんかじゃ、もっと勝てねぇじゃねえか……俺……もうやめるぜ……」
「お、おれも」
「前の時は雑魚だったのに……こいつ……」
そう言って三人の男は走って屋上の出口へと駆けていく。
「ま、まておまえたちーー!!」
高身長の男がそう叫ぶ。
俺が倒した連中も少しずつ立ち上がっていくと、皆それに釣られるようにして出口へと向かっていった。それでも、水城が相手をした連中は一向に回復しなかった。
水城のやつ、どれ程の攻撃を彼らに行ったのだろう。気絶しているわけではないようだが、痛みで意識が混濁しているらしい。連中が回復して反撃してこないように、念を入れて叩きのめしたのだろう。
「なーー」
高身長の男が情けない声を漏らした。
俺は沈黙している帆坂文香を見た。
「もう終わりだ、帆坂文香」
暗闇の中でも彼女が悔しがっているのがよく伝わってきた。
俺は高身長の男の方へ視線を戻した。
「さっさとかかってこい」
「クソーー!!」
がむしゃらに男は突進してきた。突き出される拳を俺は左手で受け流すと、右拳を男の腹へと捻じ込んだ。
男が嗚咽を漏らす。腹を抑えて頭が少しこちらに垂れてくる。
俺はすかさずその倒れてきた顔に、肘を叩き込んだ。
男は顔を抑えながら数歩後ろへと後退した。
すぐに距離を詰めて、次は頬に最小限に反動を抑えた左ジャブを二回、一秒の内に叩き込む。
男はくらりとした。
俺は最後、男が倒れる前に、頭部に中ほどの力を込めた蹴りをお見舞いした。
男は左方向へと頭から倒れると、沈黙した。
「ーー」
俺は帆坂文香の方へと向き直った。
「あなたーーいったい何者なの」
帆坂は無感情の声でそう言った。
俺は冷めた心で鼻を鳴らした。
「水城くんも、あなたも、尋常じゃない。普通の暮らしをしてきた人たちが、あれだけの人数を相手にして勝てるわけがないのです。ーー全く、平凡な暮らしをしてきた私にとっては最悪の手合いです」
帆坂は興覚めしたような声色で、そう言った。
「私が一体何にをしたというのですか? 私は自由に生きているだけじゃないですか」
「ーーおまえは、〝悪意〟とは一体何だと思う?」
「ーーなんの話ですか……」
「まあ答えろよ」
「……〝悪意〟ですか。そうですね。一般論としては、だれかに嫌がらせをしたり、裏切ったり、大切なモノを奪ったりというところですか」
「ああ……その通りだよ、帆坂文香」
俺は帆坂の影を睨んだ。
「俺には見える。おまえのような〝悪意〟そのもののような人間は、そうやって、澄まし顔でそう言うことを平気で言う。ーーしかしな、俺はおまえのような人間こそが〝悪意の正体〟だと言いたいわけじゃない。
俺はな、帆坂。おまえのような人間を作ったこの人間たちの社会こそが〝悪意の正体〟だと言いたいんだよ」
沈黙が静寂を満たす。
「ふーーふふ」
帆坂は不気味な笑みを漏らす。
「それではきりがないというものですよ、詩原達見さん。例えば、あなたが身内を誰かに殺されたとしましょう。あなたにとって、その犯人こそが悪であり、〝悪意〟そのものに成り得るでしょう。それは故意の殺害でなくとも関係ありません。誰かを傷つけるという行為そのものに〝悪意〟という感情は付与されるのですよ。あなたは〝悪意〟とは何のかを勘違いしています。〝悪意〟とは憎み、追いかけ、追い詰めるものではないのですよ。
だれが〝悪意〟を持っているとかーー人間の欠陥とかーーそういう問題じゃないんですよ。〝悪意〟とはーー人間そのものであり、つまりこの世界そのものというわけなのですよ。
つまりーー〝悪意〟を排除しようとしているあなたこそがーー〝この世界に反抗する不純物〟なのですよ」
「ーー」
俺の心はあたりの暗黒と同じ色に染まっていた。
「はーー」
「ーー?」
「はははははははははーー!!」
「ようやく自分の間違いに気づくことができましたか?」
「ああーー確信したとも」
「そうですか」
「礼を言うよ帆坂文香。俺にここまで、忠実に人間が救いようのない生き物だということを、解りやすく分解して伝えてくれた人間はおまえが……初めてなわけではないか」
俺は一人気に笑った。
「あなたのあの眼を初めて見たとき、私は人生で初めての感情を味わいました。私はその不可解な感情の正体をーー全く、知りたいものですよ」
微かに声が震えていた。
「あなたはーー一体、何の目的を持って私の前に現れたのですか? ……ああ、これは……私、震えてーーる……?」
影が両の掌を見つめていた。暗闇でも解るほどに影は震えていた。
「俺たちは共に、この暗闇に包まれている。黒とは〝悪意〟の色かーー? 違う」
俺は影に少しずつ近寄っていく。
「黒は死の色でもある。死は命が存在するのには欠かせないモノだーー人は、死を理解するからこそ、命がいつかは消えてしまうものだということを覚りーー命の重みを知り、理解しーー命の大切さに気付く」
俺は影に近寄っていく。影は震えて後ろへと後ろへと下がっていく。
「無くしてしまうからこそ。闇が世界を満たすからこそ。俺たちは命と、光の掛け替えのなさに気付く——それは大切なモノなのだと」
俺は一歩、また一歩と影に近寄っていく。
「解るかーー帆坂文香、おまえのような類の人間が、〝心は傷つくように作られているのだから、どうせなら気持ちよく壊してしまおう〟という心の持ち主が、この世界で、悠々と自由に何かを食べて、何かを殺して生きる権利を与えられているのだというのならーーそのおまえも、死という闇から逃れられはしない」
俺は屋上の端まで追い詰めると、動きを止めた。
「重要なのは、一体だれが、おまえのようなやつのことを死という闇に放り込むかだ。
ーーおまえの論で言うのなら、あますことなく人の心は悪意と闇で満たされている。だがそれが法だと思うな。当たり前のことだと思うな。
帆坂、おまえは全く普通の人間だよ。ひどく人間らしいよ。利己的な衝動に従って生きて来た人間が、自分の〝弱さ〟に甘くないわけがない。〝悪意〟という〝弱さ〟を——〝仕方のないものだ〟と片付けている多くの人間の進化系がおまえだよ帆坂、おまえは吹っ切れてしまって、それを〝当たり前のものだ〟と豪語しているがな。そして自分のような人間を、仲間を増やすためにそのカリスマを用いた。
全くーーおまえも俺も運がないな。俺は知ってるぜ、おまえのようなやつは〝悪意〟にただ耐性がなかっただけだ。人間が綺麗だと思い込んでいたんだ。そういうやつは〝とんでもない悪意〟に触れたときの反動とショックがひどい。それに反して日頃から悪い感情を募らせてる連中は、〝悪意〟を卑劣に抑制する方法を知っている。ーー皮肉にも、その卑劣さが一線を越えないブレーキになってる。臆病者と言う奴だ。おまえの大失敗はーーそういう卑劣な連中たちに組してしまったことだ。きっとおまえはだれよりも弱かったからこそーーそういう臆病者たちや、ここにいる連中が持つような〝半端な弱さ〟を嫌悪し、憎み、そして最後には受け入れてしまった。〝これが人間の本来の在り方〟なのだと諦観に似た逃避から結論付けてしまったんだ」
俺は言葉を切って、目を細めて暗闇の空を見た。
「あなたは……」
帆坂も何かを言おうとして言葉を切った。
「そう……ですか……。やっとこの暗闇に包まれて、そしてあなたという不確定要素を前にしてようやく気付きました。ーー私は、もう人の世界には戻れない」
「改心などしても意味はないぞ。もう無意味だ。
最後にこれだけは言っておくが、おまえが本当に嫌悪した臆病者たちや、ここに倒れている連中たちが、おまえのように一線を越えたとき、俺が責任をもっておまえと同じ末路を辿らせてやろう。だから安心しろ」
俺はゆっくりと帆坂に近付いて行く。
「このーー人殺しがーー」
俺は無感情でその言葉を聞き入れた。
◇
翌日帆坂文香は学校敷地内で死体として発見された。
死亡原因は屋上からの転落死。新聞には自殺と報道された。
帆坂文香が自殺した理由は不明だった。バスケ部のマネージャーだった帆坂は、バスケ部員達を操作して色々な悪だくみをしていたが、理事長をバックに持つ帆坂がいる以上、そのバスケ部員達に教師たちは畏怖の思いから手を出せなかった。
そのバスケ部員達との間で何かがあったのではないかと教師たちは訝しんだが、帆坂と深く関わりを持っていた生徒たちのほぼ全員が退学処分を受けて学校を退学したばかりだった。教師たちはその情報を警察に教えたところ、警察はそのバスケ部員たちに事情を聴取した。だが彼等と帆坂文香の間に決定的な事件はなかった。彼らが何を知っていようと、詩原達見の工作は状況的にも完璧であったから、あの夜のことを言ったとしても、彼らも一緒に捕まるだけだった。彼らは自分たちが何を知っていようと、自分たちの罪が暴かれることを恐れて、黙秘することを選んだのだ。
あの夜、帆坂文香は水城東和を呼んで殺害しようとしていた。退学に追い込まれたバスケ部員たちと他の者たちも水城に復讐しようと皆一斉に帆坂の話に乗った。
皮脂が落ちぬように皆に手袋をつけさせて、水城を気絶させた後、屋上から放り投げようと思っていた。そこで罪を被るのが、吉倉秀人の予定だった。
殴っているのだから、自殺に見せかけることはさすがにできない。だから吉倉秀人と水城東和が喧嘩して、最後には吉倉が水城を殺してしまったという策略で行くことにしたのだ。だがそんなにうまくいくわけがない。手袋をしたとしても血液は落ちるだろうし、喧嘩をするのだから髪の毛だって落ちる。暴力をしたバスケ部員たちが警察の審査に引っかからないわけがないのだ。
吉倉を囮に、水城を殺すという算段は、確かに少しはよくできているものだと帆坂は思っていた。どう第三者に吉倉が屋上にいることを発見させるかが問題だったが、それはてきとうに痛めつけて動けなくしておけばそれでいいかというくらいにしか思っていなかった。
なぜなら、吉倉を犯人に仕立て上げて、水城を抹殺するという策略は、バスケ部員達をこの話しに乗らせるための一時の口実に過ぎなかったからだ。
帆坂文香は、最終的な目的として、バスケ部員達に罪を全て被せるつもりだった。
その抜け目だらけの策略を立てた黒幕として、警察に彼らを逮捕させることが帆坂にとっては一番安定した作戦に思えた。だが、何らかの邪魔、もしくは吉倉の心境に変化でもあったのか、吉倉は姿を見せなかった。
水城を殺す作戦を中断させることをしたくなった帆坂は、彼らに純粋に水城を殺させることにした。彼らは元々非道の輩だ。人を傷つけるのが人生の半分だったろう。それに一人でその非道をできるような肝の据わった人間でもない。なら、勢いで、人が多く集結し、思いを一つにした際のあの浅はかな、ある種の罪悪感の麻痺を利用して、彼らに殺人犯になってもらおうと帆坂は目論んだ。
しかしそれも不確定要素の介入によって失敗に終わった。
その不確定要素が介入した結果、帆坂文香は死亡し、自殺という結末で世間に公表された。警察もバスケ部員たちが動機を持っていないのをいいことに、すぐさま捜査を中断した。
囁かれる噂が、警察に対して何らかの圧力がかかったのではないかということだった。
詩原達見は家にいた。
携帯が音を立てて誰かから電話がかかってきていることを知らせる。
達見は携帯を取って電話に出た。
「久しぶりだな、リーダー」
気軽に通合相手に声を掛ける。
「おまえ……面倒なことをしたな」
声は凛とした少女の声だった。
「悪かったって、謝るよ」
「本来我々は一つの信条をもって行動している組織ではないが、あくまで私たちはこの社会で生きている。捕まればそれで平等の罰が与えられる。今回は特例中の特例だと思え。今頃〝オヤジ〟が圧力をかけてくれてなかったら、おまえの住居は晴れてブタ箱になっていたところだ。
本当の目的を忘れるな」
「そんな怒るなよ、リーダー」
「……別に怒ってない、だがな、いちいち面倒くさいんだよ馬鹿。下らないことで私に手間を掛けさせるな」
「はいはい。相変わらず麗しい声ですね、リーダー」
「黙れ、少し頭を冷せ。小物など後から幾らでも排除できる、先に大きな被害を出す大物から排除していけ。おまえは平凡な一学生ではないということを肝に銘じろ」
澄み切った感情の感じられない声で少女は言う。
「ーー了解」
達見は電話を切った。
携帯をソファに放り投げると、自分もソファに寝転んだ。
そして目を瞑った。




