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第一章 優しさの行く末

 



 海葉鈴音は母親が大好きだった。けれど、その想いは彼女が中学に差し掛かるところで泡のように消えた。

 彼女の母親は優しかった。だから鈴音も、その優しさに習って生きて来たし、優しさというものがどれほど心を温かくさせてくれるかということを理解していた。

 彼女という人間を作り上げたのは、〝優しさ〟そのものだった。

 だから彼女は、どのような社会にもまれようと、その優しさを忘れなかった。優しさを知らない、理解することのない人々を不審に思い続けた。その人々に対する蔑みさえも、彼女にとっては優しさの一部だった。なぜならその行為は、彼女の中にある優しさを肯定することになったからだ。人間の区別は、彼女が優しさの味方であるために、一番大切なことだった。

 父親はいなかった。父は子供が嫌いで、母と喧嘩をして離婚したのだ。

 しかし母は彼女を選んだ。それは彼女が信じる母の優しさがもたらした選択だった。

 けれど、母は彼女を許したわけではなかった。

 彼女さえいなければ、父は居なくならなかったんじゃないのか? 母はそのようなことを考えるようになっていた。

 理不尽だった。八つ当たりだった。それは〈優しさ〉という名の化け物が、すくすくと成長し、牙を立てた末路だった。

 ーー〝優しさ〟とはなんだ。

 彼女は考えて考えて、ようやく気付いた。


 それとは、人の弱さであると。


       ◇


 「おい」

 俺はもう何も気遣うことなく、声を掛けていた。

 遊具の上でのんびりと寝る女生徒は、俺の声を聞くと、むっくりと遅い動作で起き上がった。

 「……またきみか」

 眠そうにそういう。

 「ああ。暇だから声を掛けただけだ。そのまま寝ていていいぞ」

 「きみなぁ……私は一度目を開けてしまうと寝れなくなるんだ」

 不機嫌そうに女子生徒はそう言った。

 遊具から降りて前のように公園の出口へと向かう。

 「なんだ、行かないのか?」

 「行くよ」

 俺たちは公園を出て学校へと向かった。

 「私は海葉鈴音。きみは?」

 「詩原達見。昨日転校してきたんだ」

 「知ってるよ」

 「なんで?」

 「変な奴が来たって、噂になってるんだよ。三年の私でも知ってるんだから、相当変なことでもしたんでしょうね。ヘンタイだし」

 「普通に自己紹介しただけなんだが」

 「ここは結構治安がいいからね。変な奴とか悪い奴は、すごい目立つんだよ」

 そんなことを言い流ら海葉は歩いている。それにしても気の抜けた話し方だ。寝起きの時の話し方とあまり変わらない。聞いてるこっちも眠くなる。

 「そうだ。一つきみに質問がしたいんだ」

 「答えられる範囲で頼むな」

 「ああ。すごく私的なことだからプライバシーは侵害しない」

 一呼吸おいて海葉は喋った。

 「きみは……人が好きかい」

 それは透き通った質問だった。不純物が全くない、そんな印象を持った。

 俺は海葉の顔を見た、彼女の眼は、俺を品定めするかのように、細く、研ぎ澄まされて見つめられていた。それは、人に殺意を飛ばすような勢いだ。

 「好きさ」

 海葉から目をそらすと、俺は答えた。

 「……そうかい」

 理由を聞いてこない海葉を、俺は不思議そうに見つめた。なぜなら理由を聞かなかったら、その質問は何の意味も持ち合わせはしないからだ。

 なぜ好きなのか。なぜ嫌いなのか。

 そのなぜが解らないと、エスパーでない限り、一番大事な部分を知ることは出来ないだろうに。

 好きだ、とか。嫌いだ、とかいう言葉は、なぜそうであるかという意味や理由がなければ、ただの空っぽの無責任にすぎない。それは良くない。

 「逆に聞くけど、おまえは人が好きなのかよ」

 「ーー大嫌いさ」

 清々しいほど素直に、海葉は言った。

 その言葉には、それだけで意味と理由が付属されているような余韻を含んでいた。



 学校に着いてからは、暇をつぶそうにも友達がいないから、何もすることがなかった。朝だけは水城が、暇そうな俺を気付かって声を掛けてくるが、それっきりだ。彼は人気者なのだ。

 俺は暇つぶしになりそうなものを探して周りを見た。あの女生徒が目に入った。

 「よう、幸川」

 「……なによ」

 不快そうに女生徒は俺を見た。

 「暇で仕方がなくてさ、遊びに来た」

 「迷惑だわ」

 幸川はきっぱりそう言う

 昨日気になってこの意味の解らないことをいう女生徒の名前を調べたところ、彼女は幸川叶江というらしい。クラスメイトの名前を知っていることぐらい普通のことだろうと思う。

 「なあ、この学校は変なやつばっかりいるのか? 公園で寝ているやつもいるし、いきなり喋りかけたら変なこと言うやついるし」

 「公園で寝ているのは海葉さんかしら。……あと、最後の私のこと?」

 「お前以外に誰がいるんだか」

 おかしくて笑ってやった。

 「それに、たったの二人だけなら〝ばっかり〟ってこともないでしょう。一人や二人、理解のならない人間がいるのが、社会というものよ。本来、社会はそういう面倒な連中を一挙に束縛するために構築されてたきたようなものなのだから」

 凛とした声で、俺を見ることもなく一人気にそう幸川は言った。

 「どうだかな。おまえは変なやつだが、束縛されているようには見えないが?」

 「そう、見せかけているだけよ。誰であれ、生きているなら生まれたその瞬間から、束縛にがんじがらめにされるわ」

 幸川はそう言い終わると、不機嫌そうに俺を見た。

 そして「私は、束縛を嫌うわ」

 と、言った。

 理解のならないもの。束縛するもの。

 俺には幸川のその言葉が、子供が駄々をこねる時に使う泣き叫びのようなものに聞こえた。贅沢に育った子供は頑固だ。なぜなら欲しいものをなんでも与えられて成長してきたからだ。少しでも手に入らないものがあったら親のせいにして、世界は理不尽だと勘違いする。

 それでも確かに世界が理不尽なのは間違いない。どのみち、贅沢に生きようが、貧困にいきようが、人である以上世界の理不尽に触れるのは決まっているのだ。

 「俺も束縛は嫌いさ。しかしな、束縛があるからこそ俺たちは生きていられるんだろ。束縛がない世界には、人は存在さえできないと思うんだ」

 幸川は顎を指で支えると、少しうつむいて押し黙った。俺への反論を考えているのが手に取るように分かった。

 そして何かに思い至ったような顔をすると、顔を上げた。

 「……たとえそうでも……私は人を認められないわ」

 それは澄んだ返答だった。

 チャイムが鳴り、俺は席に座った。

 彼女の言っていた束縛、その言葉の本当の意味するところを少し考えた。

 その回答はすぐに導き出せた。

 そうだ。彼女が嫌悪してならない束縛とは、この体を縛ることもせず、ただ見えない鎖でつなぎとめている〝社会の義務〟に違いない。

 周りを見渡して、思う。彼らはなぜ、自分で歩き、動くことの出来る足を持ちながら、この何の価値もない木の板に張り付けらているのか。

 この空間には、幸川が嫌悪してならない束縛が隅々まで充満しているのだ。

 俺は少しだけ、幸川の気持ちが解った。



 授業が終わった休み時間、水城が声を掛けてきた。

 「すごいね。あの幸川さんが口を利くなんて。一体何を言ったのかな」

 水城は相変わらず愛想の良い表情で話している。

 「怖いことを言って脅かしてくるから、少し俺も驚かせてやっただけだ」

 「僕も初めて話しかけたときに言われたよ」

 「おまえも話しかけたのか?」

 「ああ。彼女いつも一人だから。それで、なんて答えたの?」

 「自分を怖がらない人がいることを知れて良かったな、と」

 水城は微笑んだ。

 「僕も確か、キミと同じようなことを言ったよ」

 水城はそう言って人の輪の中に入っていった。と、思ったが、また何か言い忘れたことでもあったのかこちらに戻ってきた。

 「海葉さんが呼んでいるよ」

 海葉……? 教室のドアの方を見ると、海葉涼音が顔を出していた。こっちにこい、とジェスチャーしている。

 何事だろう。

 俺は海葉のところへ行った。

 「やあ」

 相変わらず気の抜けた声でそう挨拶してくる。

 「なんか用か?」

 「ちょっとね。単刀直入に言うけど。きみ、いいことする気ない?」

 「いいことってなんだよ」

 「お掃除? かな」

 俺は呆けた顔で海葉の言葉を聞いていた。

 「まあいいから来なよ」

 手を引っ張られて俺は学校の外へと連れてこられた。

 「なあ、授業は?」

 「この学校は、少しくらいサボったってお咎めはないよ」

 「そうなんだ」

 正直、単位などどうでもよかったから俺はその海葉の言うお掃除と言うやつに付き合うことにした。

 俺は黙って海葉に付いていった。

 少しするといつも海葉が寝ている公園が見えてきたから、公園のお掃除をするんだなと思った。だが学校をさぼってでもすることだろうか。まあそうだとしても、もしそれが本当なら俺は海葉のことを少し見直しそうだ。

 公園が見えてきた。いつもの入り口で、隠れるようにして海葉が止まる。

 「中を覗いてみて」

 妙に冷ややかな声で言う海葉に気圧されて、半ば無理矢理に中を覗いた。

 「不良共がたまっているでしょ。それと、一人女の子がいない?」

 「いるが」

 俺は海葉の目的が全く想像できなくて少し動転していた。

 「その女の子は私のクラスメイトよ。この頃あまり学校へ来なくなったんだ」

 海葉は無表情でそう言った。

 「別段交友があるわけではないんだけど、気になってね。調べてみたら、あの人たちに何か弱みを握られているようなんだ。だからさ、ちょっと、お掃除」

 海葉はいたずらをする前の子供のような顔でそう言った。

 俺は理解が追い付かなくてただ話を聞いていた。

 「そこの溝に木刀が隠してある」

 そう言って海葉は入り口付近にある溝を指さした。一つだけ穴があって、中には何があるかよく見えなかった。覗き込んでみた。

 「あった」

 そこには木刀があった。

 「きみにはあまり迷惑はかけない、だから少し頼みを聞いてくれ」

 俺は何も考えずに首を縦に振った。

 「私があの人たちに絡まれてくるからさ、それを携帯で撮ってほしいんだ。出来るだけ挑発して、暴行されるようにするから、それが撮れたらそこにある木刀を私のところに持ってきてほしいんだ。あ、私でなくても、あの女の子が暴行されても撮影を中止していいよ。その後は全速力で逃げてもらっていいから」

 無表情に、淡々と海葉は言った。その瞳にも感情は無かった。

 「おまえ……やめておけよ」

 俺は海葉のことを心配して、一応注意した。それでもやはり、海葉は止まろうとはしなかった。

 「心配しなくていい」

 海葉は俺に背を向けて、そう涼しげに言った。

 海葉は動じることなく堂々と公園の中に入っていった。

 俺は仕方なく携帯を出して、撮影を開始した。


       ◇


 敵は被害にあっている少女を抜きにして五人いた。

 海葉鈴音は敵がどのような位置にいるかをまず確認した。そしてゆっくりとした歩で近付いてく。

 「すみません」

 出来るだけ怖がる素振りをして、海葉は男共に声を掛けた。

 「あ?」

 一人の男が間抜けな声を上げると、他の男共も寄ってきた。

 「その子を解放してください。お願いします」

 そう言って頭を下げた。海葉はぶるぶると肩を震わせた。

 少女が話に乱入してくる。

 「あなた、同じクラスの海葉さん……? どうして! こんな人たちと関わってはいけないわ!」

 海葉鈴音はその少女の名前さえ知らなかった。

 「お願いします。お願いします。その子を解放してください」

 そう言って海葉は頭を垂れた。

 「へー、もしかしてアレ? なに? 友達を助けようとしにきたってわけ? 泣けるぅ~」

 一人の男がそう言った。

 「馬鹿じゃんこいつ。この女は俺たちが弱み握っているから、誰がこようと身動きできねーんだわ」

 「親とか、弁護士とか呼んだ瞬間、ふしだらな映像が全国に流れるもんな~」

 「ははは。人生終わりってか」

 そういって男たちは談笑する。

 「お願いです。その弱みとかも全部消して、彼女を解放してやってください」

 「もうやめて! 海葉さん! ねぇ、この人は関係ないわ!」

 そう言って少女は男にすがり追くようにした。

 「このやろ!」

 男が少女を振り叩いた。

 男たちが気が付くと、海葉は少し距離を離していた。海葉は公園の入り口の近くまで迫っていく。

 「おい! 待てよ!」

 男が薄ら笑いを浮かべながらゆっくりと近づいてくる。

 それに海葉は動じない。

 「きみ! 持ってきて」

 海葉鈴音はそう珍しく大きな声で言った。

 その声に釣られて詩原達見はあらかじめ取り出しておいた木刀を海葉の近くに投げた。

 「重!」

 「なんだ? 男がいやがるぜ!」

 薄ら笑いを浮かべて男が迫る。

 「上出来だよ。きみ、なんだっけ、詩原くんだったっけ」

 海葉がそう冷静に言う。

 「なに? 木刀? そんなものでどうするつもりなんだよ、殴るってか? そんなことできるわけないよなあ! ただの脅しだろ」

 嘲るように、男は海葉に近付く。

 海葉はその言葉を聞いて確信する。この男はやはり馬鹿なのだと。

 こういう類の人間をいつも海葉は憎んできた。こう言うやつは、同じ生き物である筈の人のことを、多数で脅したり、弱みを握ったり、一度手を付けて嫌なことをしただけで自分のことを恐怖して、怖気づくと思っている。だがそれは、怖気づいた側の〝優しさ〟に甘えた行為でしかないのだ。〝優しさ〟という名の、弱みに付け込んだだけなのだ。

 つまり馬鹿なのだ。

 なぜなら、〝優しさ〟とは、悪事や哀しい攻撃をする人の命を、排除しようと決心するファクターなのだから。

 海葉は木刀を少し持ち上げると、男の頭に叩き込んだ。

 男はその容赦ない打撃を受けると、そのまま倒れこんだ。

 それは一瞬のことだった。海葉は一切、力を抜いていない。何も迷うことなく、その重い木刀を男の頭めがけて叩き込んだーーのだ。

 ーー殺すつもりでやったのか。

 達見は目を細めて、海葉のその常軌を逸した行為に愕然とした。

 それからは嵐のようだった。

 「え……! おい!?」

 男が叫びのような情けない声を上げた。

 姿勢を低くして、片手に木刀を携えた海葉が男たちに迫った。

 海葉が声を上げる男の前で一瞬停止すると、男は両手で反射的に頭を防御した。そうした時には最早遅かった。海葉はくるりと逆方向へ回ると、手を避けて男の頭へと木刀を叩きこんだ。男は倒れこみ、それきり口を利かなくなった。

 海葉に見据えられて、三人目の男が硬直する。

 「まーー」

 言葉が始まる前に、海葉は距離を詰めて男の頭に木刀を叩き込む。男はのらりくらりとすると、倒れてうずくまった。

 達見はその凄惨な様子を見てーー理解していた。

 彼等はまだ、誰を傷つけているのかさえ解っていない。子供のお遊びをまだしているんだ。それに反して海葉は違う。そんな愚かな彼らにーー問答無用で〝殺し合い〟を仕掛けているんだ。

 そろそろ彼等も気づくだろう。自分たちは、いつまでもただの子供でいることは出来ないのだと。彼等にとって、彼女はこの平和な日常に、初めて現れた地獄なのだから。

 残りの二人はポケットからナイフを取り出した。どこにでも売っているようなナイフだ。だがいくら海葉がリーチの長い武器を持っているとはいえ、間違いなく一人を倒している最中にもう一人に一刺しされる。

 彼等も本能で、一人が犠牲にならないと海葉を倒せないことを重々理解していた。

 用心しながら、海葉を囲むようにして二人の男は近付いていく。二人の手元には白く光るナイフが握られている。

 海葉の眼は据わっていた。彼等の間にある空間を見つめて視線は微動だにしない。

 海葉は死を覚悟していた。彼らのような人間を殺してやろうと決意した瞬間から、海葉は自分の命に対して執着が無くなった。自分の命への執着、それがないから、彼女はその、大罪にも思える行為を淡々と行うことができたのだ。

 男が奇声を上げて、海葉に襲い掛かった。それにつられて、もう一人の男も声を上げて海葉に襲い掛かった。

 ドス、という鈍い音が一つ聞こえる。海葉が木刀で男を倒した音だ。もう一人の残った男は、もう間近まで海葉へと迫っていた。

 「やめろーー!」

 達見は走っていた。海葉が刺されることが明白だったからだ。

 達見は男を押すようにして、突進した。勢いが余って、達見は男に覆いかぶさるようになって倒れた。

 「お、おい!?」

 男は驚愕の顔を浮かべていた。

 ポタリ、ポタリと赤い鮮血が達見の腹部から流れ落ちている。

 達見は苦しそうに溢れ出る血を抑えて、声も無く苦悶を漏らしていた。

 海葉はその様子を、感情を取り戻した冷静な眼で確認した。ーー徐々に、海葉の眼が怒り……いや、憎悪の感情を露にさせていく。

 まさにそれは鬼の形相だった。

 「ひぃい」

 男が自分がしてしまった事の重大さに気づいて、背を向けておぼつかない足取りで立ち上がる。

 「キーーサマーー!!」

 海葉はその男の後姿を見てーー透き通る、冷静さを感じさせる声でそう叫んだ。

 男は振り返りもせず必死で前だけを見て走っていった。それに海葉はすぐに追いついて、後頭部に誰にしたよりも重い一撃を叩き込んだ。

 

 ーー静寂が訪れた。


       ◇


 海葉は一人で五人もの男を倒した木刀を、片手に力なく持って俺のところに歩いてきた。立ち止まると、木刀から手を離した。

 海葉の顔を見上げると、彼女は俺を見て、ひどく悔しそうな顔をしていた。唇が微かに震えている。

 海葉は両手の拳を強く握った。

 「ごめんよ……詩原くん」

 「ふふふ」

 俺は笑いが込み上げてきて、耐えられなくなった。腹部が焼けるように痛い。

 「あははははは!!」

 俺は仰向けに倒れて笑った。確かに刺されたが、腹を破られたわけではないから、まあ大丈夫だろう。

 「ど、どうしたんだい?」

 海葉がいつもの雰囲気に戻って、そう不思議そうに尋ねてくる。

 「どうもしないさ! ただおかしくってな」

 何がおかしいのかは言わないことにした。

 「お腹……大丈夫?」

 海葉が四つん這いになって、心配そうに顔を近づけてくる。無遠慮で純粋なその行為に、少し内心でどきりとする。

 「ああ。問題ない。それよりも、あの子を心配してやれよ。おまえ、あの子を助けに来たんだろ」

 「そう、だね」

 少しきょとんとすると、海葉は弱みを握られていたという少女の方へと向かった。

 「大丈夫? きみ」

 海葉は少女に優しく声を掛けた。

 少女はその声に反応しない。視線は宙に注がれていて、唇は何かに恐怖するように小刻みに震えていた。

 「う……み……は……さん」

 少女は怯えるようにしてそう声を振り絞った。自分が一体何に怯えているのか、本人さえも判別できていないのだろう。

 海葉は怯えて一点を凝視している少女を優しく片手で抱き締めた。そしてぽん、ぽんと背中をゆっくりと叩いた。

 「だいじょうぶだよ……もう……」

 海葉が呟くように優しくそう言うと、少女は涙を流した。

 俺は、その様子から目が離せなくなっていた。

 海葉の顔が、全てを犠牲にして子を慈しむ母親の顔に見えた。

 何よりも美しいーーそれは、きっと。



 あの被害にあった少女を家に送り届けてから、俺は少女から貸してもらった応急セットで傷を処置して、海葉と共に公園に戻った。意識不明の状態だったはずなのに、男たちはもう姿を消していた。

 運がよかったのだと心の底から思った。

 なぜならあれは人を〝生かす〟戦い方ではなかったからだ。あれは人を〝殺す〟戦い方だった。彼らがあのまま死んでいてもおかしくはなかった。なぜなら〝殺す〟ことを前提とした攻撃だったのだから。

 国が戦争をしているから仕方なく戦っている。

 殺さなければ殺されるから仕方なく殺す。

 あの時の海葉の戦い方は、そういう、生きるモノとしては当たり前の、最低限の道徳を備えた防衛本能のような戦い方ではなかった。

 あの行為は本能でも何でもない。理性の塊だった。

 海葉が少女を助けようとしたのは確かだ。そして彼女がその善行に見合うだけの良心を持っているのも確かだ。

 しかし海葉は、きっと、ただ〝守る〟という行為に重点を置いたわけではなかったのだ。いや、彼女はもしかすると、〝守る〟という行為が好きな訳ではないのかもしれない。

 明確とした答えは出なかった。

 誰もいなくなった公園の遊具に海葉は昇っていた。いつも彼女が寝ている場所だ。俺は下で遊具にもたれかかっている。

 「私、昔母親に虐待を受けていたんだ」

 唐突に、海葉が言った。

 「母は優しかった。死ぬほどにね。それがきっと、私をこんなモンスターにしてしまったんだと思うの。

 ーーなんて、皮肉なんだろう」

 その寂しげな、悔恨のような言葉を聞いて、俺は海葉の顔を見た。彼女の瞳はキラキラと輝いて綺麗だった。

 澄んだ、冷たい声で海葉は言う。

 「母が大好きだった。なぜなら母は私の人生と存在意義を形作る〝優しさ〟そのものだったから。それが私にとっては全てだったのよ。けれどね、母は私を虐めた。母は、私を好きな訳じゃなかった。ただね、母の中にある〝優しさ〟が、私を消したいという気持ちを抑えていただけ。

 ねぇーーきみは、〝優しさ〟とは一体何だと思う?」

 唐突な質問に、俺は考えあぐねた。

 「強さ……かな」

 「違うのーー」

 海葉は続ける。

 「〝優しさ〟とはーー〝弱さ〟なの」

 「そんなーー」

 その言葉を聞いて、俺は自分の心が暗い海底に沈んでいくような気分になった。

 俺は彼女の言うことが認められなかった。いや、認めたくなかったのかもしれない。

 なぜなら、もし〝優しさ〟が誰かを救うような〝強さ〟ではなく、誰かを傷つてしまうような〝弱さ〟であるというのならーー

 最早、人間とコミュニケーションをする価値などないということなのだから。

 「〝優しさ〟には適性があるの。適性がない人は、その〝優しさ〟を保とうとすると、最終的には我慢ならなくなる。どのような人に不適正かというと、〝自分の命を守りたい人〟〝自分の心を守りたい人〟なの。誰に適正かと言うと、〝自分の命を重んじない人〟〝自分の心を重んじない人。

 つまりねーー私たちは〝優しさ〟に生きる希望をもらって、〝優しさ〟に生きる希望を打ち砕かれてーーそして、〝優しさ〟という名の〝弱さ〟の果て、人を憎むのよ」

 おまえがあの少女のために、人を殺すような大罪を犯そうとしてまでーー全てを犠牲にしてまでーー誰かを守ろうとしたことさえ、おまえはその〝優しさという名の弱さ〟に負けた結果だというのか……。

 ああーーでも、どうあがいてもこの世界が救いようがないことを、俺は知っていた。

 「海葉……いや、鈴音」

 「……なんだい」

 「降りてきな」

 鈴音は不思議そうにして降りてくると、俺の顔を見つめた。

 俺は鈴音を抱き締めた。

 「ちょ……な、なにを……」

 俺は静かな声で言った。

 「おまえはな、鈴音。人を憎み、殺すことでしか生きることの出来ないーー優しさが成り果ててしまったモンスターなんかじゃないんだよ。ただ色んな絶望にがんじがらめにされて、気に入らないものを壊さなきゃ満足できなくなったただの子供だ。

 優しさが弱さだって? 違う。それは逆なんだよ」

 俺は鈴音の肩をもって、顔を見た。

 「〝弱さ〟が〝優しさ〟になるんだよ。

 初めから優しい人間なんていない。弱さがあったからこそ優しくなれたんだ。

 だけどな、もうお前は何も気にしなくていい。弱さから優しさに都合よく成り代わったまがい物の優しさに絶望することもない。

 お前の理論で言うのなら、俺はおまえよりもよっぽど弱いんだ。だからお前の弱さは、お前以上の脆さと憎しみを持つ、俺の弱さで埋めてやる」

 「なにーー言ってるのーー」

 困ったように鈴音は俺のことを見た。

 「ーーもう、何も見なくていいんだ」

 鈴音はゆっくりと瞳をにじませると、儚げな、しかし意志の揺るぐことのない、力の抜けた神秘的な表情で、涙を流した。

 理由も解らず、涙を流しているというふうだった。

 「わかんないよ——」

 そう言って、ひたすらに俺の顔を見つめながら鈴音は涙を流した。



 「達見! やあ」

 次の日、珍しく鈴音が起きて公園で俺を待っていた。

 「なんだ? 珍しい」

 「きみを待ってたんだよ。えへへ」

 「なんか気味悪いな」

 「失礼な。そんなことないよ。じゃあ、学校行こ」

 「ああ」

 俺は学校へと歩を進めた。

 鈴音が来ていないことに気づいて後ろを振り返った。

 「鈴音?」

 鈴音はあの、少女を慈しむような優し気な表情をしていた。

 そして「きみがーー今日から私の眼だわ」

 と、儚げに言った。



 


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