17話 朝倉達也
ある雨の日の帰り道。
雨特有の匂いが鼻につんと刺さり、梅雨のジメっとしつつも、紫陽花の花を彷彿とさせる淡い紫色が辺りを包み込む。
龍乃心は、この独特の匂いを気にしつつも帰り道を歩いていた。
辺りに田んぼでもあるのだろう。
蛙の合唱が響き渡っていた。
「おーい、明空ぅ!」
元治とはまた違った、やや軽薄なトーンの声が龍乃心を呼び止めた。
「なんだ、今日は帰り一人だったの?」
その声の主は朝倉達也だった。
「達也…。あれ、今日は風邪で休みだったんじゃ…?」
「あぁ、あれ? まぁそのサボりって奴だよ!」
達也は、なんの悪びれもなく言ってのけたので、龍乃心は呆気に取られてしまった。
「サボっちゃダメだろ…。そして、それを普通に言うなよ」
「あらら、明空って結構真面目なのね。まぁそこは多目に見てくれよ!」
「それで…達也はこんな所をブラブラして何してたんだ?」
「いや、なんかどら息子みたいな言い方! まぁ別に何があって訳でも無いよ。散歩しながら、外の空気を吸ってただけだよ」
「外の空気を…?」
龍乃心には、達也の言っている事の意味がさっぱり分からなかった。
外の空気なら、学校行ってもいくらでも吸えるじゃないか位に思っていた。
「で、明空は今帰り? 元治は一緒じゃないの?」
「元治は今日、風邪で休み」
「あら、アイツはホントに風邪なのね。っつーか、アイツもちょいちょい風邪ひくな!」
「なんか、昨日雨の中、外でサッカーしてたんだってさ」
「…バカは風邪引かないなんてよく言うけど、アイツはバカのせいで風邪ひいてんだな」
しばらく二人で歩いていると、ふと思い出したかのように達也は龍乃心に提案を始めた。
「じゃあさ、これから川に行かね?」
「今から? 魚でも釣るの?」
「違う違う、なんとなくだよ! じゃあカバン家に置いてきたらさっさと行こうぜ!」
「なんだそりゃ…」
何の目的で川に行くのかさっぱり検討がつかなかった龍乃心は、正直気が進まなかったが、帰ってもこれといってする事が無く、友達の誘いを断る理由も、特に見つからなかった。
無愛想に見えて、龍乃心は案外お人好しだったりする。
龍乃心は、荷物を家に置くと再び達也と歩き出した。
(なんかこれ、デジャブだな…)
しばらく歩いていくと、川の入口に着いた。
引っ越し初日といい、こう何度も行っていると、流石に龍乃心も、道の勝手が分かってくる。
「おし、奥行こうぜ!」
そう言うと、達也はどんどん奥の方にスタスタ歩いて行ってしまった。
龍乃心は、訳も分からず達也の後ろをついて行った。
やがて、この間元治達と釣りをした地点に到達すると、達也は足を止めた。
「よし、ここら辺で良いか」
そう言うと、達也はその場で座り込んでしまった。
「明空も座れよ」
龍乃心は言われるがまま、その場に腰を降ろした。
「俺、昔からこの場所で、こんな感じでぼーっとしてんのが好きなんだ」
「へぇー…川が好きなのか?」
「んー、別に川が好きでここ来る訳じゃないよ。ただ、誰にも邪魔されずに自然に囲まれて、何も考えないで居るのが好きなだけだ」
よく誰も居ないアパートの中で、何を考えるでもなくて、ぼーっとしている時間がある龍乃心にとって、達也の言っている事は、分からないでもなかった。
わざわざ川まで繰り出す意味は分からなかったが。
それからしばらく沈黙が続いた。
「明空ってさぁ」
やがて達也が口火を切った。
「何かやりたい事ってあんの?」
「やりたい事…」
龍乃心は、少し間を置くと、ゆっくりと答えた。
「やりたい事はよく分からないけど…やらなきゃいけない事はある」
「やらなきゃいけない事…?」
龍乃心は、それ以上を答えようとはしなかった。
達也も何かを察したのか、それ以上聞こうとはしなかった。
「みんな羨ましいな~」
「羨ましい…?」
龍乃心はキョトンとした顔で達也を見つめた。
「みんなやりたい事とか、やらなきゃいけない事があって」
そう言って、達也は徐に、手元にあった平べったい石を川に水平に投げた。
達也が放った石は、水面が地面であるかの様に小刻みに跳ねながら、とんでいき、とうとう対岸まで辿り着いた。
「お、あっちまで行った!」
達也は割と嬉しそうな顔をしていた。
「澄玲は花屋、春樹は考古学者、元治は…まぁ無理だろうけど野球の選手…。みんなやりたい事があってさ」
「達也は…何か無いの?」
「なーんにも無いんだな、これが。まぁ日々楽しけりゃ良いかな位にしか考えてないし」
「別に…今はそれで良いんじゃないか?」
「いーのかねぇ」
達也はそのまま、寝っ転がってしまった。
やがて、日が暮れていき、真っ赤な夕陽が空を焦がしていった。
「やっべぇ、もうこんな時間じゃんか! 『電車のデンジロウ』が始まっちまう!」
「なんだ突然…。それと、でんしゃのでんじろうって何?」
「今人気のアニメだよ! 元治も見てるし、俺もあれ好きなんだよ! 龍乃心も今日帰ってから見てみ!」
「あ…うん」
「よし、じゃあ帰ろうぜ!」
結局、今日、龍乃心達がした事といえば、達也に川まで連行されて、何をする訳でもなく、ただ駄弁っていただけである。
しかし、不思議とその時間は龍乃心にとっては、つまらない物では無かった。
時間や物事に対して、人によって様々な価値観があるという事を、まざまざと見せつけられていたからだ。
段々と龍乃心は、辰じいさんの言っていた、殻に籠るなという言葉の意味が分かってきた様な気がしていた。
「俺…ここに来て良かったのかもな…」
部屋で一人、そんな言葉を呟くと、龍乃心は静かに微笑んだ。
※次の更新は01月20日(月)の夜頃となります。