お姉さんの取り方
※習作企画『サヨナラ相棒』掲載予定だった短編を、改めて書き起こしてみました。
彼女はかつて、僕のヒーローだった。
またしても何も掴めないままダラリと吊り上がっていくアームを、絶望的な思いで眺める。あと1回で手持ちのお金は尽きてしまう。今月のおこずかいはもうない。ガラスの向こうで無邪気に転がる赤色がぼやけて、慌てて袖で目元をグイグイと拭った。ダメだ、泣いたら見えなくなってしまう。見えなければ取れない。どうしても欲しい、僕の好きなスマモンのぬいぐるみ。みんなみたいにお母さんに買ってもらえないから、自分で手に入れると決めたのに。
ランドセルを背負い直し、温かな最後の百円玉を投入口に入れた、その時。
「キミ、あの赤いのが欲しいの?」
隣から、声が降ってきた。キャラキャラと賑やかな音を背に、紺色の制服の上、肩の上で揺れる茶色の髪。
「ごめんね、さっきから見ていたんだけど。どうしても欲しい?」
「ほ、しい」
掠れた声を受け止めてくれたそのお姉さんは、よっしゃ、と軽く腕まくりをして、カウントダウンを始めたボタンに手を置いた。
「ここまでよくがんばったね。おねーさんに、任せなさい」
数秒後に景品口に転がり落ちてきたそれを渡されて、恥ずかしくも号泣してしまったことを覚えている。
「美都香さん、もうちょっと前」
「はーいっと、こんなもん?」
「です」
アームが1本箱の下に入り、持ち上がりがてら上手く転がす。カコン、と軽快な音と共に景品口に吸い込まれていったそれを見送り、ハイタッチを交わした。
「八尋くん、ほんと、どんどん目が良くなるよねぇ」
「美都香さんに比べたら、全然」
「ご謙遜を~! 私一人だったら、もう3回くらい使ったよ」
ひらひらと手を振る彼女は制服をとっくに卒業していて、今は同じ制服の男子版を僕が着ている。
「今の八尋くん、多分初めて会った時の私より上手いよ」
「そんなこと」
手の中にあるぬいぐるみは、妹にあげる予定のもの。あの時のスマモンと同じくらいの大きさで、あの時の半分以下の金額で取れた。でも、僕にとってはあの日の彼女ははやり格好良いままで。
「さて、もう少し取っていくかい? 相棒」
あれ以来師匠と呼んでゲームテクニックを教わり、今は相棒と呼ばれ並んでふらふらと店内を物色する日々。それが心地良くもあり、少しだけ──
「あれ、ハチじゃん!」
「ロク、キュウ」
六条と球汰、友人二人が目を丸くして近寄ってきた。
「ハチもこういうところ来んのな!」
「つーか、ハチがそのファンシー持ってるの、なんか似合っててウケる」
「妹にあげるんだよ。つか、二人こそなんでここに」
柄にもなく、焦っていた。こういう場所に出入りしていることは秘密にしていた訳でもないから、ばれても構わない。困るのは。
「なあなあハチ、そのお姉さん誰? ハチの姉貴?」
「年上美人連れとは、うらやましいな! うらやましすぎるぞ!」
「うるさい、ほっといてよ」
否定すれば詮索されて騒がれる。それは、それだけは、彼女のために、避けたかった。ちらりと横目でうかがうと、美都香さんは一瞬ぽかんとして、それからニッコリ笑った。
「こんにちはー! 八尋くんの〝お姉さん〟です、よろしくね」
爽やかな挨拶に色めき立つ二人をよそに、静かに唇をかみしめる。
彼女より背が高くなっても、力がついても、相棒になっても。
彼女はいつまでも、僕の〝お姉さん〟のまま。
その日はそのまま四人で巡り、解散した。
次に会うことになった時、思い切って提案した。
『別の場所にしませんか』
返事は、彼女にしては少し時間をとったあと。
『良いよ。ちょうど新しい場所を開拓しようと思っていたんだ。付き合ってね、相棒』
あいつらには邪魔されたくない。そんなちっぽけな独占欲を、見透かされているような気がした。
「いやぁ、こっちはこっちで品種も機種も違って面白かったね!」
ぬいぐるみを抱えてホクホク顔で店を出る美都香さんに、安堵の息をつく。馴染みのシマを離れることに抵抗はなかったのかと、自分から提案したくせに心配になっていた。僕と彼女の出会いと絆の場所でもあったのに、とは、僕だけの女々しい感情に違いないけれど。
「でも、ちょうど良かったよ」
ふと、小さな声を耳が拾った。
「仕事がね、忙しくなってきて、あんまりこういうこと、できなくなりそうなんだ」
参ったね、相棒。そう苦く笑う彼女の手を、思わず引いていた。
「会えない、の」
もう、こうやって、相棒として、並んで、ガラスにかじりついて、一喜一憂しながら、作戦を立てて、そんなことが、もう?
「社会人だからね、仕方がない」
壁が、築き上げられていく。
「若い子が相棒になってくれたから、ついつい調子に乗って長いこと楽しんでしまったよ。彼女作る暇もなかったんじゃないの? ごめんね」
なんでそこで、あなたが謝る。なんで、そんなこと言うんだ。僕は。
「……僕がずっとくっついてたから、彼氏作る暇なかったんじゃないですか? すみません」
違う、言いたいことは、そうではなくて。
「いやいや、さすがに、八尋くんを彼氏とは見ないと思うよ? 年の差的におと」
咄嗟に、手で口を塞いでいた。持っていたぬいぐるみが地に落ちて転がる。手の中で彼女の唇が震えたのがわかった。
自分が放った皮肉が何倍もの痛みを連れて返ってきたことに、耐えられなかった。
「それを、言わないで」
俯いたまま発した声が、震えた。
「それ、言われたら、僕、男として、本当、立ち直れないから」
これ以上何を聞くのも言うのも怖くなって、慌てて手を離し、拾ったぬいぐるみの汚れを軽く払うと、彼女に押しつけた。
「取り乱してすみません。今日は、帰ります」
かつて、彼女は僕のヒーローだった。
弟子入りして、腕を磨いて、相棒になった。
では、それでは、その先は?
相棒を解消したら、残るものは、一体なんだ。
「ハーチ、どうした?」
だらだらと下駄箱に向かって歩いていると、ロクが追いついて並んだ。キュウは名前のとおり野球部に所属しているから、帰りが重なることは多くない。
「最近元気ないぞ? ゲーセン行ってるか?」
「行ってない……つか、なんでそこでゲーセン?」
ピンポイントで当ててくるロクにギョッとしながら尋ねると、彼は簡単だろ、と言わんばかりに、サラッとそれを言い放った。
「あの年上美人に決まってるだろ。ハチ、あの人のこと好きじゃん」
思わず足が止まった。まじまじと、それこそ穴が空くほどロクの顔を凝視する。
「なんだその顔」
「……僕は、そんなに、わかりやすいのか」
「キュウはわかってないんじゃね? てか何気に失礼なこと言ってね?」
はぁぁぁ、と息をついて、抜けた力に従いその場にしゃがみこんだ。
「もう、どうしたらいいか、わかんなくてさぁ……」
しゃがんだ膝の間に頭を落として呟くと、その背中に拳が当てられた。
「ミクドでも良いなら奢るぜ? 友人」
そうして連れられて洗いざらい吐かされて机上に突っ伏した僕の頭を、ロクはうーん、と唸りながらコップの縁でつついた。
「まっさかハチがそんな甘酸っぱい青春を送っていたとはなぁ」
「……僕は、どうしたら良いんだろう」
「脈はないわけじゃないと思うぞ?」
「マジ?」
ガバ、と顔をあげたとたん、ぎゃ、とか危ね、とか言いながらロクが慌ててコップを持ち上げる。それでコツンと額を小突かれて、渋々座り直した。
「俺が思うにさ、ハチは実はちゃんと圏内にいて、お姉さんはそれを認めるのが怖いんじゃないかなぁ」
「こ、わい」
「でなきゃ、わざわざ彼女云々なんて言わないだろ。下手すりゃ罪悪感すら持ってるかもな」
「ざいあくかん」
鳩尾辺りが、ス、と冷えるような心地がした。傍目から見ても青ざめているであろう僕の顔色をわかっていながら、ロクはそれを口にする。
「ハチを相棒にしたこと。振り払えなかったこと」
ガン、と金属が打ちつけられた音で、自分が椅子を蹴倒して立ち上がったことに気づいた。目元が熱い。拳が震える。ふざけるなと、心が叫ぶ。あくまで仮説だからな、と言い置いたロクの冷静さにあてられ、少し呼吸ができるようになった。
「だけどな、もしそこであの人が壁を作っているとして、壊せるのはハチ、お前だけだぞ」
ガラスの向こうで、無邪気に笑う彼女を思い浮かべる。壊す、とロクは言ったけれど、割って美都香さんが怪我をするのは嫌だ。なら、割らずに彼女の手を取るには、どうしたら良い。思考し始めた僕の前で、友人がニヤリと笑う。
「ハチ、これまでテクを磨いてきたんだろ。どうやったら彼女を〝取れる〟か、その褒められた目で見極めてみろよ」
立ち寄ったいつものゲーセンで、見慣れた姿を見つけ駆け寄った。
「美都香さん」
ひく、と肩を揺らして、クレーンからこちらへと視線を移す。その目が、ぎこちなく笑みを浮かべた。
「や、やぁ八尋くん久しぶり。やっぱりあれだね、たまには別のところに行くのも良いけれど、ホームグラウンドが一番落ち着くね。今日はたまたま仕事が定時で終わったから来てみたけど、新しい機種入ってたの知らなかったよ。八尋くんもうやった?」
泳ぐ瞳、必死に紡がれるなんてことない話題。取り損ねて空回ったアームが、残念そうな空気だけを景品口に落としていく。
「……それ、取ります?」
「いいいや、たまたま目についただけだから別に良いよ。それより折角来たんだもの、一緒に新機種のアームを確かめに行こう」
くるりと背を向けて、右手と右足を同時に出す。……明らかにおかしい。どうして、彼女はこんなにぎこちないんだろうか。静かにその背中を目で追いながら、考える。何か、したっけ?
何気なく肩の上で揺れる髪に目をやった、その時。髪の合間、のぞいた耳の赤さに、息をのんだ。
「美都香さん」
思わず声をかけると、ひゃい、ともひぁ、ともつかない変な声があがった。
「待って」
取った手が強ばる。内心謝りながら、振り返ったその顔をじっと見据えた。心なし目元も少し赤い。でも、そこに宿るのは決して嫌悪や恐怖ではない以上、その意味を都合良くとらえるなというのは、無理な話で。
これは、もしや、脈というやつでは?
「あああの、八尋、くん?」
「……罪悪感、あります?」
「……へ?」
「僕を、あなたの相棒にしたこと。あなたの傍に、ずっといさせたこと」
「!!」
サッと顔を駆け上がった感情は、それを明らかに肯定する類いのもの。だから僕は、その「罪悪感」の源にある感情に迫ることを、決めた。
「それ、手放さないでくださいね」
一歩近づけば、赤い耳の彼女は困惑したままジリ、と下がる。もう一歩距離を詰めると、下がった彼女の背中が新機種のガラスに当たった。揺れる瞳が、不安げに見上げてくる。
「僕は今から、その罪悪感に、付け込むことにするから」
ガラスの向こうで新しいアームがキラリと光った。
もし、彼女の上に巨大なアームがあったとして。どこを掴んだら、どこを引っかけたら、僕のところに落ちてくる? 可能性があるなら、見極めて、手に入れる。
取ったままの手をそっと持ち上げた。
「相棒はおしまいです。新機種より、僕は、あなたを攻略する」
キザでもアオハルでもなんでも良い。かつて魔法のようだと思ったその手に、僕はそっと口づけを落とした。