第738話 ÷
「なるほど……確かに二つの月だな」
王都でもソコソコレベルの宿になる『二つの月亭』。
その看板には『÷』しか描かれておらず少し不思議に思っていたのだが、その答えは俺達に宛がわれた部屋から見える景色に有った。
俺達の部屋は宿の三階にあり、その窓からは湖を遠目に見る事が出来る。
そして、その湖面にはこの世界に来た夜にも浮かんでいた満月が映っている。
二つの満月が俺達を歓迎するかのように輝いている様は、まさしく『÷』だった。
「あの看板は宿の名前じゃなくて、窓から見える景色を示していたんだな」
「まぁ客の中には文字の読めない者もいるからな」
「あぁ、そっちの事情もあるのか」
この世界の識字率はあまり高くない。
文字が読めない客も相手にするなら、看板にも文字を使わずとも分かるような工夫が必要なのかね。
まぁ、そんな豆知識はさておき、一つ気付いたことがある。
「あー、月の形で思い出したけど、お前と出会ってから、もう一か月が経ってたんだな」
「そうだな。あの時はこうして王都で同じ月を見上げるとは思っても居なかったよ」
塩の平原過ごした初めての夜が、確か満月だったか。
あの時は満月よりも星空の方が凄すぎてスルーしてたけど、あの時と同じ満月を見ているって事は、あれから一か月が過ぎたってことになる。
同じ窓から二人して月を見上げると、これまであった出来事が思い返せそうだ。
この世界に来て、飛空艇を呼び出して、塩の平原に行って、一泊して、マウルーに舞い戻って、そして町に入るところでシャーロットに出会っんだよな。
それからなんやかんやで一か月だ。
たぶん、シャーロットもこの一か月を振り返っているのか、ちょっとシンミリとした雰囲気になる。
「ハイハイ、二人の世界を作ってるとこ邪魔するっスけど、食事の時間っスよー、って確かに二つの月っスねー」
パンパンと手を叩きながら、俺達の間に割り込んでくるシュリだが、そのまま窓から身を乗り出し、外の景色を眺め始める。
もしかして呼びに来たんじゃなくて、こっちが目的だったのか?
「ところで、ショータさん達って長年連れ添ってる感出してたっスけど、出会ってまだ一か月だったんスね」
「なにがどうなって『ところで』になったのかは分からんが、まぁそうだな」
あと夫婦じゃないんだから、連れ添って言うなや。
「そうっスかー。なら二週間ぐらいしか変わらないんスねー」
「二週間?」
「出会ってから期間っスよー」
「そんなもんだっけ? もっと前からだと思ってた」
「あたしも結構長いつもりだったっスけど、思い返したらそんなもんだったッスね」
シュリを拾ったのが……あれ? 何日前だ?
ここのところ、ダンジョンやらマデリーネさんの出産やらと、イベントが盛りだくさん過ぎてその前の記憶があやふやになって来てる気がする。
まさか体はニ十歳に若返ったけど、オツムは元のままなのか?
……いや、俺の記憶力って、二十歳の頃からこんなもんだったな。
興味がある事は覚えられるけど、どうでもいい事とかって、結構忘れっぽかったっけ。
特に親戚の人の顔なんてサッパリで、年始で集まったりしても、毎回「この人、誰だっけ?」状態だったんだよな。
正直、あの当時の親戚は「お年玉をくれる人」程度の認識だったから仕方ないよね。
ウチの姉はその辺が長けてたんで、挨拶周り(という名目のお年玉回収)は姉にくっ付いて済ませてた記憶だけが残ってる。
あの時だけは、姉の存在がありがたいと思ったね。
逆に言えば、あの時以外の姉は要らない存在だったんだけどな。
まぁそれもいい思い出か……もう二度と積み重ねられないけど。
「おっと。景色もいいっスけど、それだけじゃお腹は膨れないっスよ」
窓から乗り出す様に外を眺めていたシュリが、いきなり俺達の手を取るとそのまま部屋の外へと引っ張っていく。
そうだな、ここの宿はガロンさんに教わった宿だ。
ちょっと宿泊料が高くついたけど、その分食事に期待が出来るらしい。
俺はお腹の前に期待で胸を膨らませつつ、階下の食堂へと向かうのだった。




