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しにがみ

作者: さばみそに


「や、死神です」

 アパートへの帰り道。女の子と目があったおっさんはへらりと笑うと右手をあげてそう宣言した。女の子が手に持っていた買い物袋がマンガのように地面に落ちた。ぽかんと口をあけておっさんを見る。するとそれを見たおっさんも驚きだしたのだった。

「あれ見えちゃう?見えちゃう感じで?」

 驚くおっさんはどこか戸惑った様子でもあった。あげた右手を後頭部にやると頭をがしがしとかく。おっさんのくせの強い髪が揺れた。前が開かれた黒いスーツからちらちらと白いシャツがのぞくので、女の子は目がチカチカした。そのせいで何度かまばたきをする。

「あ、ごめんごめん、一番驚いたのは嬢ちゃんだよな」

 女の子の様子を察したのか、おっさんはそう言って女の子を気遣った。女の子は我にかえると、首を横に振った。しかし何と言っていいのかわからず、何も言えなかった。

「まさか見えるとは思ってなかったんだけど、嬢ちゃんがこっち見てる気がしたからあいさつしてみようと思って、そしたら見えちゃう感じで?おじさんも驚いちゃって」

 女の子を気遣うようにしゃべり続けるおっさんの話を女の子は頷きながら聞いていた。内容は右から左へ抜けていくものの、危害を加える人ではないような気がしていた。

「怖がらせてごめんな、おじさんのことは夢でも見たと思って忘れてね、それじゃあ」

 そう言って、おっさんは女の子の隣を過ぎて去っていった。女の子は頬をつねってみた。じわりと痛かった。それから地面に落としてしまった買い物袋に気が付き、慌てて持ち上げる。今日は卵を買っていないことを思い出して、女の子はほっとした。





 おっさんはまた女の子の前に現れた。それは、女の子が横断歩道の信号が青に変わるのを待っているときだった。

 おっさんは向こう側の歩道にぽつんと立っていた。人通りは多くない。信号はまだ青に変わらない。向こう側の大きな歩道の真ん中で、おっさんはぽつんと立っていた。どこか遠くを見ている。道を歩く人は誰ひとりおっさんのことを気にかけない。それはまるでおっさんが女の子にだけ見えているような錯覚を起こした。おっさんもまた、自分が誰にも見えていないような振る舞いだった。道行く人をひとりひとりじろじろと見だした。時には通り過ぎて見えなくなるまでじっと見つめることもあった。見られている人は何も気にした様子もなくただ歩いている。女の子にはそう見えたのだった。

 気が付くと信号が青に変わっていた。女の子は小走りで横断歩道の真ん中にある路面電車の停留所へ向かった。すると向こう側の歩道にいるおっさんとの距離が少し縮まる。距離の縮まったおっさんは、やはり通り過ぎる人をじろじろと見ている。ふとおっさんがこちらを見て笑った。女の子はそんな気がしたがその直後、停留所に到着した路面電車がおっさんと女の子のあいだに割り込んだので、真実はわからなかった。

路面電車に乗ったあとも女の子の頭からは、あまり多くない人ごみの中にぽつんと立っていたおっさんの姿が頭をはなれない。恐怖はなかった。あるのは疑問だった。おっさんは何をしていたのか。なぜ誰もおっさんのことを気にとめないのか。おっさんは何者なのか。否、その疑問だけははっきりしていた。聞いたままのおっさんの声が頭の中で繰り返し再生された。や、死神です。や、死神です。や、しにがみです。何度も繰り返し再生されると死神という単語が理解できない感覚に陥る。しかしそもそも死神というものを理解できないのでやはりおっさんが何者なのかはまったく分からずじまいであった。女の子はおっさんのことを、ただおかしな人だと思った。



 おっさんは三度現れる。

 三度目に現れたおっさんは女の子の通う専門学校の近くにある公園で雨に打たれていた。

おっさんは、ベンチに座ってうなだれている。その前をぽつりぽつりと通り過ぎる人は誰もおっさんへ目もくれない。まるでおっさんがその場に居ないかのように人は通り過ぎた。おっさんは時々頭をあげて通り過ぎる人を見た。それからじっと見つめるとまたうなだれた。黒色の傘がおっさんの前を通り過ぎる。おっさんは一瞥するとすぐにうなだれた。赤色の傘が通り過ぎる。おっさんは顔をあげて通り過ぎるのをじっと見つめた。もともと人通りの少ない公園は、雨のせいか更に人が少ない。ついに人通りは無くなった。するとおっさんは頭を垂れてひとり雨に打たれた。雨はしとしと降っていた。

 噴水に貼った水に波紋は静かにまんべんなくひろがる。木々の葉は全身を濡らしていた。だんだんと増えていく水滴は互いに結びつき葉を重くした。いつしか重みに耐え兼ねた葉がしなり、水滴は地面に落ちる。あちらこちらで葉がしなる。おっさんの頭上でも一枚の葉がしなり、水滴はおっさんに落ちた。

石畳の地面はよく雨を吸い込んだ。質量の小さな雨はほんのわずかな風にも煽られ女の子の足元をしっとりと濡らした。女の子は噴水の傍で立ち尽くしていたが、人通りが無くなるとおっさんの座るベンチに近づいた。そしておっさんに傘をさしかけた。

「なに、してるんですか」

 おそるおそる聞いた。するとおっさんは顔を上げて、笑った。

「ほらだっておじさん、死神だから、見てたの」

 まだそんなことをいうおっさんに、女の子は憤りを感じた。息を吸い込んで、信じられませんと言う。女の子がそう言うと、おっさんは困ったような顔をした。

「そらそうだよな、お化けを信じるみたいなことだから、でも事実おじさんは死神だし、本当はヒトには見えないはずなんだけどなぜか嬢ちゃんには見えている」

 女の子はやはり信じられなかったが、心当たりもあるので何も言えなかった。

 改めておっさんを見ると、全身が濡れている。

「あの、だいじょうぶですか」

 女の子の気遣いはこれが精一杯だった。おっさんはありがと、気にしないでと言って笑った。

「嬢ちゃんはお帰りよ、肩が濡れてるぞ」

 言われて女の子は初めてそれに気がついた。女の子はどうしていいかわからず少し黙り込んだが、失礼しますと言って帰ることにした。途中で振り返ると、おっさんはこちらを見ていて手を振った。女の子は慌てて前を見直した。

 やはりおっさんはおかしな人だった。もしかしたら家のない人なのかもしれない。悪い人ではないと判断するのは安易な気もするが、女の子は少なからずそう思い始めていた。しかしかたくなに自分を死神だと名乗るおっさんはその点においてだけやはり不審だった。悪い人ではないのならその言葉はもしかすると嘘ではないのかもしれない。だが信じきるにはあまりに現実離れしすぎている。悪い人ではないが、少し頭のおかしな人なのかもしれない。もしかすると精神の病んだ人で、徘徊癖があるのだろうか。

女の子はひたすらおっさんのもしかするとを考え続けた。歩いているとき、授業を受けているとき、路面電車に揺られているとき、あらゆるときに考え続けた。ついに答えは出なかった。ただ女の子のなかで確かなことは、おっさんはおかしな人だということだった。





 晴れた日だった。噴水のある公園でおっさんは雨の日と同じベンチに座っていた。女の子に気がつくとおっさんはおいでおいでと手招きをする。女の子は少し考えてから、近づくことにした。おっさんが自分の隣をぽんぽんと叩く。座れと言いたいのだと思った。女の子はすこしだけためらってからおっさんの隣に座ることにした。

 おっさんは雨の日と同じスーツを着ていた。雨による劣化はみえない。もしかしたら同じスーツを何着か持っているのかもしれない。だとしたら家のない人ではないのだろうか。

「それはお昼ご飯?」

 おっさんが女の子の持っていた紙袋を指差して言った。女の子はおそるおそる頷く仕草をした。それからちらりとおっさんを見ると、おっさんはにこりと笑っていた。その顔に、女の子はなぜだか口が軽くなった。

「サンドイッチ、です」

 そう言って紙袋からサンドイッチを取り出すと、手作りなんですよと加える。

「へえ、女の子らしくていいね、美味しそう」

 おっさんが笑った。その柔らかい笑い方にあっと嬉しくなった。女の子自身を褒められたこともそうだったし、なによりも自分の作ったサンドイッチを褒められたことが女の子にとって嬉しいことだった。

サンドイッチを褒められた、ただそれだけの理由でおっさんへの警戒心を解いてしまうほど、女の子は嬉しかった。

「お昼ご飯だろ?おじさんのことは気にせず食べて食べて」

 おっさんが促すと、女の子のお腹が鳴った。あ、と女の子は恥ずかしそうにうつむき、慌ててサンドイッチを食べ始める。食べながら女の子はおっさんをちらりと見る。おっさんはまた歩いていく人を見ていた。

おっさんが気が付いた。

「嬢ちゃん、サンドイッチおいしい?」

 女の子は慌てて頷いた。

「あの、あなたは、お昼ご飯は」

 女の子はそれが気になっていた。もしかしたらもう食べているのかもしれない。おっさんはへらりと笑って、嬢ちゃんは優しいのなと言った。

「ほらおじさん死神だから、衣食住関係ないんだ」

 おっさんの回答は女の子の予想を裏切った。やはりおっさんはかたくなだった。

「それからあなたなんておじさんには似合わないからさ、おじさんって気楽に呼んでよ」

 おっさんは照れくさそうに笑った。女の子は戸惑いながらも、おじさんと反芻した。

「そう、やっぱりそう呼ばれるのがしっくりくるわー」

 おっさんは笑った。女の子の頬もゆるんだ。楽しいと、そう感じていた。

おっさんは毎日同じ場所にいた。毎日同じように女の子に笑いかけ、手招きをして自分の隣に座らせた。女の子も毎日同じ時間にその場所へ行った。毎日違うお弁当も作って持っていった。その度におっさんは女の子の料理を褒めた。女の子はそれがなによりも嬉しかったのだ。






「おじさんは死神なんですよね」

 いつもの公園のベンチで、女の子が突然言った言葉におっさんは目を丸くした。元気が無く落ち込んだ様子だった。おっさんはいくらか声色を暗くした。

「そうだよ、おじさんは死神なんだ」

「じゃあ、おじさんは死を見てるんですよね、とても近くで」

「そうだよ、おじさん死神だからね」

 女の子は今にも泣き出しそうだった。声を出そうとするとダムが決壊してしまうので声を出せずに数分が過ぎる。女の子は胸に手を当てて何度も深呼吸をした。

「犬が死んだんです、バイトしてる動物病院で」

 絞り出した声で女の子はそう言った。

「そう、あの子だね」

 おっさんの言葉に、女の子は思わずおっさんを見た。おっさんは前を向いていたが女の子が自分を見たことに気がつくとゆっくりと女の子へ顔を向けてまっすぐ見た。

「ほらおじさんは死神だから、わかるんだな」

 おっさんはいつものようには笑わなかった。真面目な表情で女の子を見据えた。

「安楽死だったな、とてもやむを得ない死だとは思えなかったよな」

 女の子がまばたきをすると、涙がこぼれ落ちた。唇がふるえる。

「もう少しおじさんの話をしてもいいかね」

 女の子は弱々しく頷いた。

「おじさんたち死神はなにができるわけでもないんだ、悲しいことにね、誰がいつどこでどのように死んだかがわかることしか出来ないんだよ、誰にも見えずでもこちらからはすべてが見えていることの虚しさったらないんだ」

 おっさんは眉間にしわを寄せていた。辛いのかもしれない、と思った。

「おじさんは一度だけ嬢ちゃんみたいに、おじさんのこと見える人に会ったことがあるんだ、人というか赤ん坊でね、透明なケースの中に入っていろいろな管につながれていたよ、おじさん死神だからその気になればケースなんてすり抜けることができたんだ、手を赤ん坊の近くにやってみるとね、ぎゅっと握るんだよおじさんの指をさ」

 おっさんの眉間のしわはより深いものになっていく。女の子の目にだんだんと溜まっていく涙は視界をぼやっとさせ、まばたきをするとたちまち落ちていった。まつげに残った水滴は視界をじゃました。

「その時だ、俺が初めて死神という存在を理解したのも、俺自身がそういう存在になってしまったと思い知らされたのも」

 おっさんは、ついにうなだれていた。

「死神なんてな、なにもできない存在なんだ、これはただの罰なんだろうなきっと」

女の子はおっさんの言っていることを理解出来なかった。しかしおっさんが悲しい気持ちでいることはわかった。それからおっさんが悲しいと自分も悲しくなることを知った。

「お、じさん」

 上ずった声だった。女の子はおっさんの手に自分の両手を重ねた。おっさんの手は冷たかった。女の子の手はじわりと温かかった。おっさんは体をぴくりとさせると、女の子を見た。

「ごめんな」

 そう言ったおっさんに対して、女の子は頭を横に振った。何度も。弱々しく。目を閉じると、また涙がこぼれ落ちた。

「ごめんな」

 おっさんは何度もそう言った。言うたびにおっさんはうなだれていく。女の子もおっさんがそう言うたびに頭を横に振った。何度も。力強く。







 その日のおっさんはいつになく神妙な面持ちだった。

「嬢ちゃんあのね、おじさんしばらく行かなきゃいけないところがあるんだ」

 おっさんが切り出したのは、別れの挨拶だった。

「しばらくって、どのくらいですか」

 女の子は少しだけ不安になった。おっさんの顔があまりに深刻に見えたからだった。

「どのくらいかな、まだわからない」

「そんな」

 悲しそうな女の子に対して、おっさんは困った顔を見せた。

「そんなに残念な顔をされると悲しいけど、嬉しくもあるね、おじさんがいなくなるのをそんなに寂しがってくれるなんて」

「だって」

「大丈夫だよ嬢ちゃん」

 おっさんは女の子の頭に手を置いた。つむじのあたりが、じわりと温かかった。

「おじさんも嬢ちゃんを一人にしたくないから、知り合いに頼んだんだよ、嬢ちゃんのこと見守ってやってくれって」

 女の子はそれでも不安そうな目をおっさんに向けた。

「大丈夫だよ」

 おっさんはもう一度そう言って女の子の頭を撫でた。

「人見知りとかしない奴だから、いつもおじさんと喋ってるみたいにしたらいいんだ」

「でも」

「不安だよな」

 おっさんは女の子をまっすぐに見た。女の子は常々おっさんのこの行為をずるいと思っていた。困る行為だとも思っていた。そうされると、じわりとこみあげるからだ。

「承知しているんだ、もしかしたら告げずに行ってしまえばよかったかもしれない、けれど、恥ずかしい話おじさんは嬢ちゃんに嫌われたくなかったんだ」

 女の子は必死にこらえた。泣けばおっさんを困らせてしまうとわかっているから。

「だいじょうぶ、です」

 声を出せばこらえるのが難しかった。だから女の子はとぎれとぎれに言葉を出した。

「わたし、は、おじさんのこと、嫌いに、なりません」

 おっさんは感極まったように笑った。けれど何かをこらえているようだった。そのうちこらえきれなくなったのか、口元を片手で覆い、斜め下へ視線を落とした。

「ありがとう」

 そう言ったおっさんの声は、どこか上ずっているように聞こえた。頭に置かれた手に力が入るのがわかった。おっさんは何度も繰り返した、ありがとう、ありがとう、と。





 いつものベンチに知らない青年が座っていた。通り過ぎる人はまるで青年に気がつかない。女の子は確信していた。一歩ずつベンチに近づいていく。女の子の気配に気がついたのか、青年が顔を上げた。

「嬢ちゃん?」

 青年が問いかけたのに対して、女の子は頷いた。

「自分はおじさんに頼まれて来た、そうだな、自分のことはお兄さんとでも呼んで」

 笑わない青年だった。無表情で淡々とコミュニケーションをはかってくるものだから女の子は少し戸惑ってしまう。

「自分はあの人、おじさんと同じように嬢ちゃんと呼ぶから、まあとりあえず嬢ちゃんも座って、ほら」

 青年はそう言って自分の隣をぽんぽんと叩いた。その振る舞いに女の子は少しだけ安心して青年の隣に座った。

「今日のお昼は何かな」

 青年はおっさんと同じことを聞いた。

「今日は、カレーコロッケです」

「へえすごいな、美味しそう」

 おっさんと同じことを言った青年は、やはり笑わなかった。けれど女の子は数日間青年と過ごしてみて気が付いたのだった。青年が笑わないのは楽しくないからではないということに。

 青年は、笑えないのだった。そしてたぶんその代わりに、ぎゅっと唇を巻き込む仕草をする。笑い方を知らない青年は、そうして笑っていた。






「海に行きたいな」

 ある日の公園で、青年がそんなことを言った。女の子が、海ですかと言うと青年は、そう、海と答えた。

「わかりました、海に行きましょうか」

 そう答えると、青年がぎゅっと唇を巻き込んだのが分かった。女の子は、嬉しくなった。


 次の日、女の子は青年を海に連れて行くことにした。いつもより少しだけ浮足立ったように見える青年は、路面電車に目を輝かせ、その車窓から見える海にぎゅっと唇を巻き込んだ。

そして海に着くと、真っ先に波打ち際へ駆けて行った。

「海、お好きなんですか?」

「そうだね、自分は生まれが海の近くだから」

 女の子が青年に追いつくと青年は波打ち際に立ち、海をじっと見つめていた。女の子はその隣へ立ちつつ青年の言った生まれという言葉に疑問を感じていた。そしてすぐに気が付く。女の子は青年が死神であることを前提に疑問を抱いたのだった。死神がどうやって生まれるのだろうと。それでも女の子は問いかけた。

「あの、生まれって」

「死神はなにもはじめから死神として生まれるわけではないんだ」

 青年は女の子を一瞥すると海へ視線を戻して、語り始めた。

「死神は、死んだ人間が生まれ変わることを許されずに、ただ死をひたすら知り、見つめていく存在なんだ」

「終わりはないんですか」

「わからない」

 そう言った青年は、悲しげに見えた。

「誰も彼もいつの間にかいなくなっているし、自分たちはそれを気にもとめなかった、いつ終わるのか自分たちにはわからない、今日かもしれないし明日かもしれない」

「急にいなくなっちゃうんですか」

 女の子は不安になった。

「いなくなることなんて、気にもとめなかった自分がそれを気にしだしたのは、あの人が来てからだったんだ」

「おじさん、ですか」

「そう」

 青年は海を見つめて答えた。

「あの人が言ったんだ、ひとり、いなくなったな、と、初めて言われたときは気にしなかった、でも三日後にも言われ、それから一週間後にも言われてから気になった、五日後にもう一度言われたときは自分も気が付くことができたんだ、ひとり、いなくなったと」

 青年はやはり海を見つめたまま話し続けた。青年が淡々と語る内容を女の子は理解することができないでいた。しかし不思議なことに青年とおっさんが死神であることは受け入れていた。

「それでね、自分たち死神は気が付いたとき、なにも記憶が無いんだ」

「なにも、ないんですか」

「たぶん死んだのだろうということはすぐに思い出すんだ、けれどどうして死んだのか、自分がそれまでなにものだったのか、何も覚えていないんだ、それでね、死神として死を見ているうちに、少しずつ思い出すんだ、自分に関わりのある場所、自分はこの場所でなにをしたのか、自分がどこで生まれたのか、自分が、なにものだったのか」

 青年は小さく息を吸った。

「そして自分はどうして死んだのか」

 青年がやはり海を見つめたまま話すので女の子も青年を見つめることをやめて海を見た。波は穏やかだった。

「さっき自分たち死神は死んだ人間が生まれ変わることを許されずにいると言ったけれど、たぶんそれを思い出すと、生まれ変わることが許されるんだろうとあの人は考えている」

「だからそれを思い出した人から、いなくなっていくんですか」

「たぶんそう」

 女の子はもうおっさんや青年が死神であることを疑っていなかった。だからすぐに青年へ言葉を返すことができた。

「お兄さんは、自分の生まれが海の近くだってことを思い出せたんですか」

「そう」

 青年はやはり女の子を見ないまま頷いた。

「それだけじゃない、自分はこれまでにいろいろなことを思い出した、家族のこともそうだけど、たとえば自分が兵士であったこと」

「兵士」

「たぶん戦争へ行ったこと、それからそこにいた兵士の仲間たち、そしてそこで自分が死んだこと」

「戦争……」

 青年の言葉に女の子の胸がぎゅうと締め付けられた。

「けれど自分がどうして死んだのか、それだけはまだ思い出せないでいるんだ」

 青年と女の子が見つめている海は、やはり穏やかだった。

「おじさん、何をしてるんでしょう」

 女の子はついに青年に聞いた。

「あの人は、祈っているんだ」

「なに、を」

 女の子は青年を見つめて問いかけるが、青年は女の子を見ない。

「嬢ちゃんが、死なないように、と」

 青年の答えが女の子の頭をがあんと強く叩いた。頭がぐらぐらした。けれど女の子はなんとか言葉をふりしぼった。

「どう、して」

「死神の姿が見える人間は、死期が近いんだと、あの人はそんな迷信を信じているんだ」

「でも、わたしはそんな、いきなり死ぬようなことなんて」

「人間は簡単に死ぬ」

 青年の言葉がまた女の子の頭を強く叩いた。強く叩かれ過ぎて世界が回る感覚に陥る。

「自分たち死神は誰がいつどこで、どのように死んだかわかるんだ、事故、殺された、病気、災害、そして自殺」

 青年の言葉がそのまま、女の子のぐるぐる回る頭の中で再生される。じこ、殺された、病気、災害、そしてじさつ。

「わたし、おじさんに会いたい」

 女の子はたまらず、青年の腕にすがった。上ずった声だった。青年がようやく女の子を見ると、とても悲痛な表情をしていた。

「今すぐに会いたいです」

 喉の奥が詰まった感覚に陥る。顔がこわばっていくのがわかった。そのせいで目にたまった涙が押し出されていく。頭はまだぐらぐらしている。しかし世界はもう回っていなかった。女の子に向かって、青年は黙って首を横に振った。

「どれだけ待てば、会えますか」

「わからない」

「でもわたし、会いたいんです」

 女の子は上ずった声で嘆願した。しかし青年はやはり首を横に振るだけだった。辛そうに、目を閉じて。

「だって」

 女の子がしゃくりあげる。息が落ち着かないせいでうまく声が出せない。それでも必死に、だってと繰り返した。

「だってわたし、おじさんに会えないまま、しんじゃうかもしれない」

 女の子がそう泣き叫んだ。鼻をすする音がする。まばたきをすると涙が落ちた。

「わたしは、わたしも、お父さんみたいに自殺するかもしれないし、お母さんみたいに事故にあうかもしれない」

 女の子の告白はまるで言葉を吐き出すようだった。あるいは吐き出したのは言葉ではなく、女の子がいままでずっと溜め込んできた恐怖だったのかもしれない。それは青年やおっさんに出会うよりもずっと前から溜め込んでいた恐怖だった。

「だってみんながそういう目で見るのわかるから、かわいそうだって、そういう」

「嬢ちゃんは」

 初めて聞く、青年の大きな声が遮った。

「死なないと、そう思う、なぜならおじさんがそのように、祈っているから」

 女の子がひゅうと息を吸った。頭の中をぎゅうと締め付けられた感覚がした。おっさんの声が頭の中で再生される。嬢ちゃん、と呼ぶ声。女の子は青年の腕にすがりつくと泣いた。吐き出す息がふるえた。つむじのあたりが温かくなった。青年が女の子の頭に手を置いたのだった。女の子はやっぱり泣いた。まばたきをすると涙がいっぱい落ちていった。






 女の子は眠っていた。毛布を頭までかぶるのは女の子の昔からのくせだった。

毛布が優しくはぐられる。女の子の額は少し汗ばんでいた。額にぺたりと手が添えられた。大きな手。肉付きは良くない。血管が浮き出ている。あたたかい。

 女の子は夢を見ているのだと思った。何度も繰り返し見た夢だったので、覚えていた。この夢を見たとき女の子は嬉しかった。優しい気持ちになれた。でも目が覚めて路面電車に乗り込む頃には悲しくなった。夢であることを痛く感じるからだった。けれどやはり夢を見ている間は、女の子は幸せなのだった。

 目が覚めたとき、女の子はもう二度とおっさんに会えないような気がした。それに気が付いたとき、女の子は悲しい気持ちになって泣いた。泣いたけれど、泣いたあとにはもう悲しい気持ちにはならなかった。それから女の子は顔を洗いに行くためにベッドをおりた。


 その日、病院で犬が出産をした。母親は黒いくせっ毛の犬だった。飼い主は生まれた子の内何匹かを里子に出す旨を告げていた。生まれた子犬を見ていると、ひときわしわの多い子犬を見つけた。子犬は女の子をじっと見つめた。

「あの」

 女の子は飼い主に声をかけていた。


「この子、わたしがもらってもいいですか?」








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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして。 続きが気になって一気に読んでしまいました。女の子が亡くなる話かと思っていたら、意外な展開で(特に後半)驚きました。面白かったです。
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