第七章
――今日はあまり、ご主人さまが来てくれない。
ゆっくり、『伸び』をしてみた。ご主人さまは退屈なとき、『伸び』をするから。ディスプレイの向こう側のひとたちの体は、『背骨』でささえられていて、それを伸ばすと少しスッキリするんだよ、とご主人さまは言ってた。
こうも言った。「僕たちの体は、ビアンキたちみたいな0と1の電気信号じゃなくて、筋肉とか骨で出来てるんだ」
偶然、グーグルの空間内ですれちがった『ハル』に、この話を教えてあげた。ハルは、向こうの世界にとても興味があるみたいだったから。ハルは相変わらず表情を変えないで、少し考え込むように、視線を下げた。……あ、上げた。また下げた。
「…私の解釈は、ちがう」
「え?…ご、ご主人さまは嘘なんかつかないですから!」
「嘘、じゃない。知らないだけ。…訂正する。正確じゃなかった。…彼は、世界を大雑把に解釈している。そういう人間は、とても多い」
0.03秒の演算時間を経て、ハルは、すっと顔を上げた。
「人間も、電気で出来ている。…姶良の骨や筋肉も、机も、水も、全ての物体は分解していくと『原子』になる。原子は、プラスとマイナスの電子で構成される……その組成によって、在り方が変わるだけ。だから、人間も電子で出来て……」
ハルの瞳が、何かを追いかけだした。そしてそのまま、ふらふらとその場を離れようとする。引き止めようと思ったけど、視線の先を見て諦めた。
『木の実』が、ぷかぷか空間を流れていく。
木の実。マスターが指定したワードを含む情報の塊。私もよく木の実を摘むけど、ハルは特に木の実に目がない。ウイルス情報の交換中でも、木の実を見かけるとふらふらとついていってしまう。ハルは木の実をいっぱい食べるから、とても物識り。それにすごく頭がいいから、自分で木の実を探すよりもハルが消化した情報をもらったほうが、整理されててわかりやすい。だから最近、気になることはハルに聞くことにしちゃった。お礼に、集めた木の実をあげる。ハルはこういうのを「原始的物々交換」とか「加工貿易」とかいって、面白がっているみたい。
私はもう一回、伸びをした。
「私と、ご主人さまは、在り方が違うだけ……」
在り方が違うだけ。何度も繰り返してみる。……在り方が、違うだけ。
私が手を伸ばした先に、ご主人さまの手がある。私の手が、ご主人さまの手に触れる。
私の在り方が変わったら、そんな未来が、あるのかもしれない。
ずっと蓄積してきたご主人さまのメモリーを組み立てて、手のひらを作ってみる。人間の体は複雑で、どんなにデータをかき集めても、作れるのは一部だけだったから。目の前に手のひらが現れた時、少し、とまどった。
『触れる』って、どうするんだっけ。
私の中には『触れる』という概念が、たしかにある。
それは、私と他の存在の表面部分が接触すること。
接触することで、感覚器官が相手の温度、柔らかさ、時には感情まで把握する。そんな、とても細やかな情報収集の方法。表面を持たない情報体の私たちには、想像しかできない。
手をつないだときの、指先の冷たさ、ふわっとした感覚。手の甲が包み込まれる、安心感。それに、頭を撫でられたときの、優しく髪を押さえられる感じと、ゆっくり手を動かされるときの、体温の移動……
私はすごくリアルに『想像』する。
―――これは、本当に『想像』?
もっと思い描いてみる。ひざまくらをしてもらったとき、頬にあたるやわらかさ、頭の位置が合わなくて、ちょっといらいらする感じ。抱き上げてもらったとき、ちょっと脇がくすぐったい感じ。
考え始めると、それは堰を切ったように溢れ出した。放置されていた回路が突然電気を帯びて、溜まりに溜まっていた情報を一気に吐き出すように…。周りは、私の中からあふれてきた『接触』の情報でいっぱいになった。
この情報の洪水のなか、私はとまどいながら、ひとつだけ確信してた。
―――私はずっと昔、誰かに『触れた』ことがある。
《ああああぁぁああああぁあぁぁあぁああああぁぁぁぁぁ!!!》
世界中に轟きわたるような悲鳴に、はっと我に返る。皆が警戒しながら遠ざかっていくなか、1人、逆行して悲鳴の元を探った。丁度、私の死角になっていた位置に、赤い瘴気がたち込めている。
Google空間の片隅を侵す瘴気の中心に『あれ』はいた。
《あああぁぁああああぁぁぁあああぁぁぁあああぁぁぁぁ!!》
手足をもたない姿、瘴気にボロボロに侵され、狂った目つき。怖くて、肩がビリビリ震えた。あれは……探していた「あの子」が、更に狂って変わり果てた姿だ!瘴気は燃え上がるような形で「あの子」を責めたて、さらに狂わせていく。
「ひどい……なんで、こんな……」
「あの子」は何度も叫んだ。聞いているこっちが狂ってしまいそうな声で。時折、私のほうにも散ってくる瘴気で分かる。……正気じゃ耐えられないくらい、悲しんでる。そして憎んでる。
私がファイヤーウォールで拒んでしまったとき、彼女が必死に伝えてきた一言が、記憶をよぎった。
『ご主人さまを、助けて!!』
――ご主人さまは、助からなかった……?
私が逃げなければ、助けられたかもしれないのに。私は………!
《あああぁぁあぁぁあああぁあぁああああぁぁぁぁぁぁあ!!!》
最後の絶叫と一緒に、あの子がまとう瘴気が弾けて膨らんだ。空間の三分の一は、血の色に飲み込まれた。……こんな有名なポータルサイトが感染を受けるなんて!!…ぼうっとしていると、私の横を『何か』が駆け抜けた。
「……あ、セキュリティ」
戦闘機をなめらかに溶かしたような形の白い群れが、瘴気を囲い込んだ。それは少しずつ増えていって、球の形になった。それはあの子を押し込めるように包囲を縮めていく。よく見ると、機体(?)の翼がお互いの翼と、レゴブロックみたいに結合して、お互いの隙間を埋めている。手に負えない汚染箇所を隔離して、消滅させるつもりなんだと思う。
――きゅっと、胸が痛んだ。
あの子は囚われた。多分、消されちゃった。そう、ご主人さまに報告するために、教えられたアドレスに連絡しようとした瞬間
無数の機体が、バラバラに飛び散った。
「あっ……」
その瘴気はもう、目と鼻の先まで膨れ上がってて……グーグルのセキュリティさえ手に負えなかった瘴気が、私に!に、逃げないと……!!
急いでニュースサイトの入り口を適当に叩く。でも駄目。他のセキュリティが働いて、この空間は閉ざされてしまった。…ログアウトしか方法はないけど、そしたらもう『あれ』を追跡できない。
――どうすれば、いいの?
瘴気が鼻先をかすめたそのとき、すごく強い、衝撃。電気的なものじゃなくて、物理的な。『強制終了』という文字が頭上にひらめいて、意識が遠くなっていく。…追わなきゃいけないのに、どうして………。
周りが血の色に染め上げられた瞬間、ぷつり、と意識が遠のいた。
僕は、夢を見ていた。
さっきバラバラに砕け散ったはずの自転車が、今朝磨き上げた直後の姿で、白い部屋に居た。置いてある、じゃなくて、居たんだ。
「なんとなく、綺麗にしたかったんだ。…柚木のことで浮かれてたのもあるけど、ただなんとなく」
がちゃり、かちゃん、と、自転車が音を立てた。夢の中では、それは自転車が操る一種の言語で、僕には理解できる。ありがとう、と言ったのだ。
「どこかで、予感してたのかもな。別れが、近いって」
ひんやりとしたフレームに触れると、『彼』はハンドルをもたげて、僕に絡みつくように傾いた。別れを惜しんでいるみたいに。
「…僕は、みんなの自転車を羨んでばっかりで、お前に酷いことばかり…」
彼は、体中をかちゃかちゃ言わせながら最後の話をした。
週に一度は油を差して、フレームを拭いてくれたことが、嬉しかった。
しょっちゅう施してくれる丁寧なメンテナンスが、仲間うちでも自慢だった。
――あの時、自分の力では逃げきれないと悟った。だから、その体を贄に、あのランドナーを呼び寄せたのだと。呪いのランドナーは、気に入った部員の自転車を屠る。でもこういうふうに、自転車がそれを望んで呼び寄せることも、たまにあるんだ。…と、変速機をがちゃがちゃいわせながら笑った。…せめて自分の飛び散った部品を、形見に使って欲しい。とも言ってくれた。
「意地でも探すよ。……ありがとう」
白い部屋が、自ら光を放つように、さらに白い光に包まれた。光は、自転車の細いフレームをいとも簡単に飲み込み、全てを白く染め上げた。……あとに残ったのは、僕と白い部屋。
耳元を涙が滑り落ちる感覚で、目を覚ました。
――見知らぬ天井、質のよさそうな布団。はっきりしない頭で考える。……ここは、どこだっけ……
柚木の部屋か?と希望的観測が頭をよぎったけれど、頭がはっきりするにつれ、その可能性は霧散した。枕元にドカ積みにされた、ネットワーク関連の書籍、その中に無造作に挟み込まれた『プレイボーイ』、脱ぎ散らかした服、発火寸前の超タコ足配線、灰皿に山積みで、これまた発火寸前の吸殻。家主の人格を如実に表すアイテムの数々。
「…紺野さん」
声に出してみたが、返事はない。何度か呼んでみたけど、返事はこない。柚木の姿も見当たらない。布団の端で雪崩を起こしている本を押しのけて体を起こす。全身に、びりっと痛みが走った。体中の筋肉という筋肉が、きしんで悲鳴をあげている。よろめいた拍子に、右肩が本の山を突き崩して新たな雪崩を引き起こした。
「…なんだここは。物置か」
「失敬な。俺の寝室だ」
本の山の向こう側から、紺野さんがのっそりと体を起こすのが見えた。
「…お前、いま絶対動くなよ」
「な、なんだよ、急に」
身じろぎした拍子に、左手のあたりに冷たいものがあふれた。
「ばっ……馬鹿野郎!動くなって言っただろうが!!」
「なっ何、これ何!?」
慌てて左手に触れたものを確認すると、冷たい水だった。どぷんどぷんどぷんと音をたてて、エビアンのペットボトルから溢れている。
「うわ、わわわわ」本の壁ごしに紺野さんが突き出したティッシュの箱をひったくり、エビアンのフタをきっちり閉めてからティッシュで布団を叩く。
「あーあぁもう…この季節、なかなか乾かないのに…」
「なんで枕元にエビアンが置いてあるんだよ!」
「水を飲ませろと医者に言われたからだ」
「医者!?」
「往診の医者だ。……覚えてないのか」
まだ、はっきりしない頭で、僕はぼんやりと昨日のことを思い出していた。息を切らせて紺野さんの車を追って、高そうなマンションにたどり着き、目の焦点が定まらないまま玄関に転げ込んでぶっ倒れた。それ以降の記憶が怪しい。……断片的に覚えているのは、朦朧とする意識の中、枕元に座る年配の医師。この部屋のとっ散らかり具合にしきりに文句を言いながら、『大事ない』という意味あいの言葉を、何度か言い方を変えてくりかえし、銀色の道具類をまとめると、ぷりぷり尻を振りながら出て行った。なんで尻を振るのだ、と朦朧としながらも不思議に思っていたけれど、意識がはっきりしている状態でこの部屋を見渡して謎が解けた。足の踏み場がないから、ぷりぷりせざるを得なかったのだ。
「…柚木ちゃんに聞いたぞ。自転車がクラッシュしたんだってな。まー、大丈夫だとは思ったんだが、念のため知り合いの町医者に往診を頼んだんだ。まぁ、ちょっと重い打撲と脱水症状程度で済んだらしい。今日一日は寝てろ」
さっき、きっちりフタを閉めたエビアンをもう一度空けて、一口あおる。水が体に染み込んでいく感覚と共に、徐々に頭がはっきりしてきた。
やがて、一つの疑問が首をもたげた。
「ねぇ、紺野さん」
「どうした。腹が減ったのか」
「……どうして、『往診』なんだ」
崩れた本の山を積みなおしていた紺野さんの、手が止まった。
「あ、あぁ。ほら。あの人、いつも俺が世話になってる近所の町医者なんだよ」
止まっていた手が、ぎこちなく動き始めた。そしてつとめて無関心を装うように、小さくため息をついた。
「近いし、下手な医者より信用できるからな」
「嘘だ」
紺野さんの顔から、表情が消えた。本を積む手を完全に止めて、ただ表紙を見つめている。
「僕は、このマンションの番地を正確に言えるよ」
「…………まじかよ」
「この辺の地理は、全部把握してる。一度、通ったからね」
紺野さんの言葉を待ってみた。相変わらず、本の表紙を漫然と見つめているだけで、反論をして来ない。僕は言葉を続けた。
「ここは間違いなく、救急指定・純天大学総合病院の近くだよ。町医者は、いない」
「……あーあ……」
紺野さんが、間延びした声を出して本を放った。いたずらがバレた小学生のように、悪びれた様子もない。
…昨日、あいつらは何て言った?柚木をヤク漬けにして新大久保に立たせて、僕をマグロ漁船に乗せて殺す、そうはっきり言った。…あのときの恐怖と怒りがないまぜになったどす黒い感情が腹の底から湧き出てきて、その照準が「かち」っと音を立てて紺野さんを捕らえた。
「……あーあって何だ!あんたに関わったせいで僕も柚木も殺されるところだったんだぞ!!黙って聞いてたらなんだよ、警察どころか救急車も呼ばないでテキトーな町医者に診せて!あの連中と同様、僕らを拉致っただけなんじゃないか!?」
「ちがう!!」
本の山に手をついて、紺野さんが身を乗り出して怒鳴った。反論があるなら聞いてやろうじゃないか。僕はまっすぐ、紺野さんを睨み返した。
「伊藤さんはテキトーな町医者なんかじゃない!立派な町医者だ!!」
………何!?
「……い、今は町医者の良し悪しを問いたいんじゃないよ」
「伊藤さんを悪く言う奴は、俺が許さんぞ!あの人は名医だ!!」
「いやだから、医者のことは謝るけど僕の話を」
「いや聞け、俺はお前をテキトーな医者に診せてお茶を濁したわけじゃない!大切な友だからこそ!信頼している名医にだな!」
「そっ、そんなこと言って論点すり替えようったって」
「論点のすり替えだなんて!悲しい事を言うな!お前が玄関に倒れこんだ瞬間、俺がどれだけ驚き戸惑ったか!!」
「…その割にはボロボロの僕に自転車漕がせてニヤニヤしてたよね…」
「いや、俺の車バックミラー壊れてて、苦悩の顔がニヤニヤ笑いに見えるんだよ」
「そんな器用な壊れ方があるか!」
「なぜないと言い切れる!?」
「…だ、だってひび一つ入ってない…」
「なぜだ!?なぜひびが入ってないと壊れていないと言い切れる!?」
「…………」
……起きて早々だけど、僕はもう疲れ切っていた。
この人が何を隠しているのか知らないけど、打撲と筋肉痛で全身痛いのに、こんな不毛な言い合いをこれ以上させられるなら1日寝てたほうが数段マシだ。
「……分かったよ。もういい……」
「よくないっ!!!」
気合一閃、綺麗な木目のドアが轟音とともに開け放たれた。ドアの前に転がっていた雑誌が、埃を舞い上げて吹っ飛んだ。……や、やった……待ちかねたぞ、援軍到着だ!!
「言っとくけど、弁解の余地も話し合いの余地もないからね!!」
本の山を一切避けずに蹴り分けながら、柚木が携帯電話を片手に近づいてきた。紺野さんが静かに息を呑む。…あの人なりに、整理されてたんだろうな…と、少し気の毒になるが今は敵に同情している場合じゃない。
「あ、あらら…柚木ちゃん、起きてたのか」
「これだけ大騒ぎしてれば、起きるわよ」
柚木が寝ていたらしきリビングルームは、寝室の比較にならないくらい整然としていた。広々としたフローリングの床に黒のカーペットが敷かれ、その上に柔らかそうな黒のソファとガラスのテーブルが置いてある。奥のほうには、60インチはあろうかと思われる薄型のハイビジョン、窓辺の大きい観葉植物。モデルルーム並みの生活感のなさだ。…多分、こっちの寝室を生活の基盤にして、リビングには女の子を連れ込んだりするんだろう。
「紺野さん、…ひょっとしてお金持ちですか」
「ハイビジョンにびびって敬語になってる場合じゃないでしょ!なんでそうやって気が散りやすいの!そういうの、超腹立つんだけど!!」
「ご、ごめんなさい……」
「何ですぐ謝るの!そんなだから紺野さんのペースに呑まれて変なことに巻き込まれるんだよ!!」
「……や、あの、すみま」「何!?」「……なんでもないっす……」
ひたすら萎縮して周囲に同化するのがせいいっぱいの僕。…紺野さんへの攻撃ついでに僕のMPもゴッソリ削られた気がするが、呼び出す召喚獣が強力であればあるほどMPを大量消費するのは世の必定…さあ舞い上がれ、僕のバハムート!解き放てギガフレア!!
「……紺野さん、嘘ついたよね」
柚木が突き通すような視線で紺野さんを睨みつけた。声色は薄氷のように鋭利で冷たい。紺野さんは息を呑んで後じさった。
「警察には俺が話しておくって言ったよね。だから安心して寝てたのに……」
「と、とりあえず事情を聞いてくれ」
「弁解の余地なんかないって言ったはずよ!!」
そう叫んで、携帯電話をかざす。いいぞ、そのまま110番にダイヤルしてしまえ!!思わず握り締めた拳に、力がみなぎった。
「紺野さんが呼ばないなら、私が警察呼ぶから!」
「待てってば!!」
紺野さんが本の山を蹴り倒して、ダイヤルしようとした柚木の手首を掴んだ。
「…痛い」
目を見開いて顔を赤らめる柚木を引き寄せて、なんと奴は、優しく携帯電話をもぎ取った!そして耳元に顔を近づけると、囁くように言った。
「…少しでいいんだ、話を聞いてくれよ。警察の話は、それからでいいだろう」
柚木は頬を染めて視線をそらし、しおらしく頷いて髪をいじり始めた。
……バハムート、陥落………。
「……納得のいかない話を聞かされたら、速攻で警察呼ぶんだから!!」
せめてもの抵抗なのか、柚木は手首を乱暴に振りほどくと、腕を組んでドアにもたれた。このなんとも言えない痴話喧嘩風の空気の中、がっちり当事者のはずの僕が、一人蚊帳の外の気分を味わっている。……ここは本来、柚木のポジションじゃないのか。
「……なに見てんのよ!!」
目が合った瞬間柚木に噛みつかれ、慌てて逸らす。…僕が何をしたというのだ。紺野さんに手首を掴まれたのも、思わず顔を赤らめちゃったのも、そっちの事情じゃないか。僕に八つ当たりすることないだろう。理不尽だ、猛烈に腹が立つ!…と、ここで僕まで怒り出したら痴話喧嘩の三つ巴と化し、収拾がつかない修羅場の3丁目になることだろう。怒鳴りたいのをぐっとこらえて、エビアンを一口あおる。
「さて、まずは姶良と会った経緯からか…」
「その辺はいいから、飛ばして!」柚木が先を促した。
「飛ばすって…どの辺まで」
「姶良が知ってそうなあたりは全部飛ばして」
「…それじゃあ、全然イミわかんないぞ」
「わ、私は!…あいつらの素性と理由だけ分かればいいんだもん!」
ますます顔を赤らめて、柚木がついとそっぽをむいた。少しのあいだ、ぽかんとしていた紺野さんが、ふいににやりと笑った。
「…ま、そういうこともあるかもな」
…そういうことも、あるんだろうか。僕はむしろ、らしくないと感じたけど。
「じゃ、遠慮なく冒頭は端折るぞ。まず、俺の仕事から…だろうな」
紺野さんはベッドに深く腰を掛けて指の先を組み、僕らをじっと見つめた。その冷静な目つきと仕草は、なんというか、「社会人」を思わせた。…追い詰めているのはこっちのはずなのに、背筋に緊張が走った。バイトの面接みたいな気分だ。
「俺は、株式会社セキュアシステム・MOGMOG開発チームの主任を務めている」
…別段、驚きはしなかった。MOGMOG開発の関係者だということは知っている。開発チームのど真ん中にいるとは思ってなかったけど。ちらりと柚木の様子も伺ったが、平然としたものだった。…僕の知らないところで、紺野さんとメールでも交わしてたのだろう。さっきのイライラがぶり返しそうになって、エビアンをもう一口あおる。
「…お前らを拉致しようとした連中…そうだな、姶良がメールで送ってきたこいつ。こいつは、営業1課の武内だ」
「は、営業1課!?」
柚木と僕が、思わずハモッってしまった。
「……すまない」
「ちょっと、話が全然見えないんだけど!?」
柚木のイラついたような声に、僕も軽く頷く。なんで、同じ会社の営業さんが、開発チーム主任の知り合いを拉致するんだ。
「今に分かるから。今はとにかく聞いててくれ」
紺野さんは若干落ち着きを失いぎみの僕らを軽くなだめると、またあの時の顔をした。
僕らに話せる部分と、話せない部分をより分ける顔つき。…やがて、ゆっくりと重い口を開いた。
「まず、謝らなければいけないことがある」
紺野さんは、決心しかねるように目前の本の山を凝視していたが、やがて小さく息をつき、顔を上げた。
「市販されているMOGMOGの、コミュニケーション機能とウイルス消化機能…あれは全部、ダミーだ」
「えぇ!?」
またハモッてしまった。柚木の表情をちらりと伺う。柚木も、僕を見ている。怒っていいのか、驚いていいのか、全くもって判断しかねている気持ちは同じのようだ。
「何か食ってる映像は、消化中なわけじゃなく、ただのアニメーションだ。コミュニケーション機能は、簡単な会話が出来るだけのソフト。もちろん、ワクチンの開発と配布は他のソフトと同様か、それ以上の水準で責任をもってやっている。利用者の識別もだ。MOGMOG同士のワクチン交換機能は、既存のプログラムの応用で済むし、こいつがあると、後々都合がいいので装備してるが…今の時点では大して意味がないな」
「で、でも!MOGMOGの売りっていったら、コミュニケーションと消化機能でしょ!?その二つが嘘だったら……」
「MOGMOGの存在意義って何?…ってなるよな」
紺野さんが自嘲気味に、柚木の言葉を引きとった。
「……年末商戦だよ」
紺野さんは、訥々と語り始めた。
紺野さんがコミュニケーション・セキュリティソフト「MOGMOG」の開発・商品化の案を経営会議の議題にあげたとき、経営陣は諸手をあげて受け入れた。
パソコン世代の嗜好にマッチし、さらに全く新しいセキュリティの方式。企業向けソフトの市場に伸び悩みを感じていた経営陣には、一般ユーザーの市場に強烈なインパクトで割り込めるこの企画は、まさに救世主のように感じられたという。当時の主力商品であった、企業用セキュリティ・パッケージソフト開発の裏で、MOGMOG開発は秘密裏に、しかし多大な予算を割かれて推し進められることになった。
その後間もなくMOGMOGのために特別に設立された、紺野さん率いる開発チームは、山奥の施設にて軟禁状態でひたすらMOGMOGの開発を進めることになった。それほど、徹底した機密として扱われたのだ。
「ここのチームに集められた連中は札付きでな。扱いにくいけど腕は立つから、仕方なく雇っている、といった感じの問題児の寄せ集めでよ。上層部の奴らも、体のいい厄介払いになったんだろう。一石二鳥ってやつでよ」
そういう紺野さんの表情は、どこか誇らしげだった。
「ていうことはもしかして、割と最近山から下りてきたばっかりなの」
「あぁ。お陰で髪は伸び放題」
「…それ、おしゃれで伸ばしてるんじゃなかったんだ」
「いいから!先をつづけるの!!」
ぴしゃりと話を遮られて、男二人は首をすくめて本題に戻った。
「ところが、こういった話にはよくあることなんだけどな……」
企業用セキュリティソフトの売れ行きに暗雲が立ち込めたことをきっかけに、MOGMOG開発計画は暴走を始めた。
競合他社が、品質を保ちながらの大幅なコストダウンに成功したのだ。長い付き合いの大企業は、コストよりもソフト総入れ替えのリスクを渋った結果、顧客として残ってくれたが、浮動票ともいえる中小企業のシェアは、どんどん競合他社のセキュリティソフトに吸収されていった。
売り上げは3割減少、株価は大暴落。この最悪の事態に頭を抱える上層部に、営業部が提案した打開策は、言葉にすると至ってシンプルだった。
「MOGMOGの販売を、半年早めて年末商戦を当て込みましょう」
…MOGMOG計画についての不吉な噂を耳にした数日後、突然、山奥の施設から、会社支給の買出し・移動用の乗用車が姿を消した。その代わりに、1台の軽ワゴンが、がら空きの駐車場に弧を描くように滑り込んだ。朝一番に異変に気がついた紺野さんが、ワゴンに駆け寄り運転手に詰め寄った。
「…何だこれは!どういう状況だ!!」
運転席から転び出てきた営業一課の女子新入社員・八幡志乃が、半泣き顔で頭を下げた。
「…ご、ごめんなさい…あの…営業で使う社用車が足りないから調達して来いって……」
「え…お、おいおい…」
運転席で涙ぐんでいるのは、まだ幼さがのこる新入社員だった。紺野さんは天を仰いで立ち尽くした。起き抜けで、よく回らない頭を無理にフル稼働させて考えをまとめる…この山奥で、「社用車が足りない」という建前で、車が一台残らず奪われた。そしてこの新入社員が独りで運転してきた軽ワゴン。いや、おそらく彼女は一人で来たわけじゃない。軽ワゴンに一緒に乗ってきた社員が、車を運転して走り去ったのだろう。
「…要するに俺達は、陸の孤島に幽閉されたんだな」
そして、この可哀想な新入社員は、説明係と称した「生贄」として、この場に置き去りにされたのだろう。脳内が、ため息で満たされた気がした。それを一気に鼻から吐き出す。
「…馬鹿野郎が」
「…すみません!あの、生活用品とかの買出しは、私が…」
八幡は涙をぬぐって、腹を決めたように紺野さんの視線を受け止めた。このまま殴り倒されても、この娘はそれを受け入れるのだろう。…そう、言い含められたのだろう。それを思うと、逆に泣きたくなってきた。
「…あいつらのことだ。事情はメールで流してるんだろ」
自分らの引き揚げ終了を見計らってな、と言いかけてやめた。自分の立場が捨て駒以外の何者でもないことは、八幡本人が痛いほどよく分かっているだろうから。
「…で、俺が怒り狂ってお前に手をあげる、もしくは暴言を吐くのを待っているわけか。最近じゃ、女に悪口を言っただけで、セクハラ裁判起こせるらしいからな。俺達の脛に傷を持たせれば、あとはあいつらの思いのままだ」
「そ、そんな!私、そんなつもりじゃ」
「…もういい。行けよ」
「え…でも」
「行け!これ以上、あいつらの思う壺にはまってたまるか!!」
走り去る軽ワゴンを呆然と見送りつつ、『結構カワイイ娘だったな…』などと性懲りもなく考えている自分の業の深さに呆れていると、騒々しい音を立てて宿舎のドアが開け放たれ、数人の部下が転びでて来た。
「こ、紺野さん!本部が超アホなメール寄越しよるで!」
「うわマジかよ、ないぞ!本当にない!!」
「畜生、遅かったか!」
「紺野さん、あの軽ワゴンの奴が!!」
「くっそ、追いかけろ!!」
気休め程度のマウンテンバイクを担ぎ出し、絶望的な距離まで遠のいたワゴンをぎゃあぎゃあ喚きながら追い始めた部下は、今起きていることの深刻さが分かっていないのだろう。
まぁ、俺もなんだかよく分かってないんだが。
――この計画、俺達にしわ寄せがくる方向で暴走し始めたみたいだな。
…一方的に話を聞くのも疲れたので、質問してみた。
「…会社って、そんなことしていいの」
「いいわけあるか。告発したら俺達の圧勝だ」
紺野さんは黒革の煙草入れを取り出すと、一本くわえて火をつけた。紫煙の向こうで鈍く光るドクロのジッポは、多分ガボールのやつだ。雑誌で見たことがある。
「お?俺のジッポかい?…んふふふ、これガボールタイプ。ほれ、フタあけると、中にもラフィンスカルが入ってるんだぜ、ほらほら」
ぱちぱちぱちぱち、と、蝶番が傷みそうな程ジッポを開けたり閉めたりしてみせる紺野さん。…相当、値が張ったライターなのだろう。ついいつものノリで『まじで?なにそれ見せて見せて!?』とか身を乗り出して食いつきそうになったが、度重なる脱線にイライラしだした柚木が怖いので、話をさりげなく戻す。ジッポはあとで見せてもらおう。
「…そんな無茶をされて、誰も逃げなかったの」
「あぁ。全員で職場放棄して逃げてやろうって話も出た。だけどな」
言葉を切って、紺野さんは煙を薄く吹き上げた。何かを探すように、視線をゆっくり泳がせると、一言ずつ確かめながら、ゆっくり言葉を紡いだ。
「結局、誰も出て行かなかった。どう言えばいいのかな…俺もあいつらも、見届けたかったんだ。俺達のMOGMOGが、どこに向かうのか」
紺野さんは、再び話を続けた。
しかし、開発にかかる時間は、上層部が提示してきている期限では足りない。交代で徹夜を繰り返す計算でスケジュールを引いても、期限内に仕上げられるとは到底思えなかった。
紺野さんは、コアな箇所に関与しないプログラムだけでも外部に発注できないか、このままでは皆死んでしまう、と上司に掛け合ったが、上司は首を横に振るばかりだった。
『情報漏えい絶対禁止』この大前提の前には、技術者の生き死になど問題にならないと、暗に突きつけられ、紺野さんはとぼとぼと山奥に帰った。
外部注文も増援も断られ(というか山奥に半年以上軟禁という条件を呑む社員が現れず)、激務によるストレスで血を吐くメンバーが続出。とうとう、開発の継続すら困難な状態に陥った。もう打つべき手は「納期の後ろ倒し」しか残っていない。紺野さんは激務の中、生活必需品の買出しに現れた八幡の車をジャックして東京に戻り、決死の直訴に踏み切った。社内で波風が立つことを覚悟で、営業チームを通さずに上層部へ直訴したのだ。…案の定、製作現場の現状は上層部まで届いていなかったらしく、全員の勤務時間をまとめて提出したところ、ひどく驚かれ、緊急会議を招集することになった。
「外注は無理、増援も不可能!――いくら俺達でも、ない袖は振れない!…開発チームは恐慌状態です。このままこんな納期で推し進めていく気なら、全員一斉に、辞表を叩きつけるしかない!」
営業1課に在籍する同期の烏崎が、イスを蹴って立ち上がった。
「自惚れるな!…お前らの代わりなんて5万といるんだからな!!」
「――会議室に集められた面々は、俺と、関係部署の部長、あと専務クラス数人と、法務部の主任…それと営業部長と、MOGMOG担当営業が数人…」
ふたたび紫煙を噴き上げて、紺野さんは、正面の壁を睨みつけた。
「…多分、昨日の犯人の1人は烏崎だ。」
顔をゆがめて、再び煙草をくわえなおした。
「済まなかったな。…その、根っから悪い奴じゃないんだけどな、追い詰められたと感じると、すーぐにいっぱいいっぱいになって、思ってもいないことを口走ちゃったり、先走った行動に出て、余計に周りの反感を買ったりする奴でよ」
各部署の部長や専務の前で吊るし上げられた烏崎は、突付けば破裂しそうな顔色で紺野さんを睨みつけた。会議室での、よくある光景のはずなのに、そのときの紺野さんには、受け流す余裕がなかった。
「いねぇよ、馬鹿」
「…なんだと!?」
「社則を見てみな。……退職宣言後、会社が俺達を縛れるのは、せいぜい1ヶ月だ」
紺野さんは、別件で使う予定で持ってきていた社則を、机に叩きつけた。
「…俺達がこの開発のために、何日休日を潰していると思う。そして、俺達が有給休暇を取っているとでも思っているのか」
烏崎が、ぎりっと奥歯をかみ締め、目を血走らせた。
「退職届と一緒に、溜まりに溜まった有給休暇と代休を叩きつけるに決まってんだろ」
「き…貴様!開発チームを私物化して、会社を脅迫か!!」
烏崎は『会社を』の部分を強調して叫び、専務が居並ぶ席にちらりと目をやった。気が弱ってくると立場の強い味方を増やそうと躍起になるのも、会議室でのいつもの光景だった。でも、今現在も開発チームが命を削って仕事をしているというのにこいつは…!と考えると、(ここで紺野さんはムラムラと怒りが蘇ってきたらしく、脇にあった本の山を蹴り崩した)紺野さんも、正常な判断力を喪ってしまった。
「なにが脅迫だ、俺達の車盗んで山奥に幽閉しやがって!俺が脅迫ならお前らは監禁だ!裁判起こさないだけ有難いと思え!!」
「しゃ、社用なんだから仕方ないだろ!座り仕事なんだからたまには足使えよ!!」
「麓につく頃には日が暮れてるわ!大体なんで山梨くんだりまで車回収に来てるんだよ!都内の事業所で借りなかった理由を言え!!」
「おっ…お前ら座り仕事なんだから車いらないじゃないか!?」
「てめぇっ!座り仕事、座り仕事って、制作バカにしてんのか!?」
…あとはもう、専務の御前で同期同士が、小学生のような罵り合いとなった。やがてどちらからともなく掴みあいが始まり、あわや大乱闘というところを収めたのは、営業一課の伊佐木課長だった。
「あぁ、いや、悪かった。私の不行き届きで、君らをこんな辛い目に遭わせてしまって」
猫なで声で紺野さんたちを引き離した伊佐木課長は、親戚でも死んだかのような沈痛な面持ちで首を振ると、紺野さんに向き直った。
「知らなかったんだよ、君達がそんな大変な思いをしているなんて。こんな会議を設ける前に、なぜ私に一言相談してくれなかったんだい」
「俺はっ……」
俺は相談した…そう言いかけて、言葉が詰まった。
紺野さんは、「営業一課」宛てに抗議のメールや電話を入れたが、「伊佐木課長」個人には相談も、抗議もしていないのだ。紺野さんが呆然としていると、
「烏崎君、いつも言っているだろう。仕事の基本は『報告・連絡・相談』だよ。何かあれば、なんでも、私に相談してくれなければ、いけないよ」
子供に噛んで含めるような口調で、烏崎の肩を叩く。烏崎は青い顔をして、紺野さんと伊佐木課長を交互に見ながら席に着いた。伊佐木課長は、ぴしっと糊が利いたシャツの僅かな乱れを鏡を見たかのように正確に直し、口元に左右対称な微笑を浮かべた。
「…えぇ、皆さん。紺野君と、うちの烏崎をお許し下さい。聞いての通り、紺野君は連日の激務によるストレスで、烏崎は、開発チームと上層部との板ばさみによるストレスで、疲れ果てていたのです。完璧な新製品の開発は、確かに大事です!しかし、それは従業員の健康を犠牲にしてまで、成し遂げられるべきものでは、ありえない!」
伊佐木課長は、周りの反応を確かめるように一呼吸おいて、吐息をつくように語り始めた。
「とはいえ、逼迫しているわが社において、年末商戦は無視できないところです。…それで、どうでしょう?私に一つ、案があるのですが…」
「…案って、何よ」
柚木が低い声で促した。紺野さんは灰皿に吸殻を押し付けると、最後の紫煙を、深いため息と一緒に吐き出した。
「想像はついただろう。…俺達は、MOGMOGの一番大事な部分を仕上げられないまま、ただ年末商戦に間に合わせたんだよ」
柚木は、口をつぐんでしまった。何を思っているのか、その表情からは読み取れない。僕は…
そんなに衝撃を受けていなかった。
なんとなく、気がついていたような気さえする。
紺野さんは全部話してはくれなかったけど、市販されているMOGMOGと、ビアンキを始めとするMOGMOGαの違いについて、僕なりに2通りの想像をしていた。1つは、MOGMOGαは市販されているMOGMOGのバージョンアップ版…所謂MOGMOGパート2みたいなものじゃないか、という想像。
そしてもう1つは、MOGMOGとMOGMOGαは、全くの別物なんじゃないか、という想像。MOGMOGαは、ただのバージョンアップ版とは違うんじゃないか?とうっすら思っていたのには、理由がある。
MOGMOGとMOGMOGαの間には、互換性がまったくない。
バージョンが違うソフトで保存されたデータが開けなかったり、開けても正しく作動しないことはよくある。それでも、完全に別のソフトと認識されることは少ないと思う。ましてや、僕のソフトはいわば上位バージョンだ。MOGMOGに対応しているソフトが、MOGMOGαに対応しないというのは、よく考えるとおかしい。
確か、僕のMOGMOGには、あの18禁ソフトがインストール出来なかった。
…いやちがう根に持ってたわけじゃないんだ。ただ単に一つの疑問点として、心の中にずっと根付いていたわけで…とにかく、そういう訳で、僕はMOGMOGとMOGMOGαの関係に疑問を持っていた。だから改めて話されても、予想の範囲内だった。
「なんかそれ…ひどい」
柚木ががばっと顔を上げた。瞳にうっすら涙が浮かんでいる。紺野さんが、疲れたような苦笑を浮かべて視線を下げた。…無理もない。偶然、本物のMOGMOGを手に入れた僕と違って、柚木はお金を払ってニセモノを手にしたんだから。そして彼女の反応は、全てのMOGMOGユーザーを代表するものに違いない……
「その、伊佐木って課長!!」
……え?
紺野さんも、思わず組んでいた両手を解いて顔を上げた。
「何が『年末商戦は無視できないところです』よ!MOGMOGの納期早めたのは、そいつなんでしょ!?みんなに無茶させて、自分はそ知らぬ振りして、我慢できなくなって爆発したら『おおヨシヨシ』って宥め役に回って自分だけイイひと気取り!?」
「ゆ、柚木ちゃん…」
「いやそんな…憶測だけで決めつけるのはどうかと…」
「憶測で充分だよ!!」
ぴしゃりと言い放たれて、僕は口ごもってしまった。
「年末商戦なんて、会社側の都合でしょ。それに間に合わせるために半端なものを売りに出すなんて、誠意のある人がすることじゃないよ!」
「そ、そりゃそうだけど、一方の話だけじゃ分からないことだって…」
「へ理屈は聞きたくないっ!!」
突然横っ面に衝撃が走った。ビンタ一閃、僕は右側に詰まれた雑誌の山に頭から突っ込んだ。全体的に薄く積もった埃がバフンと舞い上がり、思わずむせ返る。
「……すげぇ……」
紺野さんが呆然として、頭上で呟いた。見事に状況についていけていない。僕も、頬が痛い事以外は何一つ把握できてない。
「ぼ、僕、何かした…?」
埃の海から起き上がって最初に口にしたのは、そんな情けない一言だった。柚木は僕を殴った瞬間、何か胸につかえていたもやもやが『スカッ』と晴れたらしく、ぽかんとした顔で僕を見下ろしていた。
「えと…そ、そうだよ!あんたの言葉には、実感がこもってない!!べ、べつに一瞬課長と混同したわけじゃないんだから!」
「…語るに落ちたよこのひと…」
僕は殴られた瞬間の表情のまま、紺野さんに首を振り向けた。…これ、僕怒っていいところですよね?無言の問いかけに、紺野さんはフイと視線を逸らして回答を拒否した。俺は関係ありません、と。一応、怒るべき相手にお伺いを立てることにする。
「…ねぇ、これヒドいよね。自分でもそう思わない?」
「そういう所がイヤなの!もうこの話はおしまい!…じゃ、紺野さん続きよろしく!」
柚木は一方的に話を打ち切り、紺野さんを促して体育座りしてしまった。場が収まったことを見越して輪に戻ってきた紺野さんの横顔を覗き込み、再び無言の問いかけをする。僕は殴られ損ですか、と。紺野さんはこの問いを黙殺して本題に戻った。
「…そして、MOGMOGは未完成のまま外見だけ取り繕って発売された。でも、それで済むはずないよな」
MOGMOGが発売されれば、プログラムを解析する輩が出てくる。解析されて、不正が公になるのは時間の問題だ。そこで紺野さんは開発会議の席で、ある提案をした。
「開発部は、完全なMOGMOGの完成を急ぎます。そして完成次第、MOGMOGユーザーにアップデートファイルとして配布するというのはいかがでしょうか」
守屋営業部長が、苦りきった顔で紺野さんを一瞥した。
「…元々入っている、ダミーのMOGMOGはどうなる」
「必要な情報だけMOGMOGに上書きして、あとはアンインストールします」
「アンインストーラーも一緒に配布するわけか。…バレないかね、そんなことして」
「そのリスクはありますが、現状のままにしておくわけにはいかないでしょう。まったく別物のソフトへの書き換えであることだけ伏せて、『重大なバグを修正するアップデートファイル』である旨、ユーザーに告知すれば、大抵のユーザーはインストールしてくれるんじゃないでしょうか。同時に追加される機能などの説明をread meテキストで添付すれば、大した混乱はないと思います」
紺野さんの発言が終わると、会議室内は水を打ったように静まり返った。…もう、これ以上議論の余地はない。皆がそう確信しているものと、紺野さんは高をくくっていた。
そのとき、銀色のカフスボタンをつけた純白の袖が、すっと挙がった。
「伊佐木課長」
進行役の社員が短く名前を呼ぶ。伊佐木課長は、いつもの左右対称な微笑を浮かべて起立した。イスを引く気配すら感じない、見事な「起立」だったという。どうでもいいけど。
「アップデートファイルへの『偽装』。一見、やむを得ないような気がしますね。しかし、もう少しだけ、改良の余地があるのでは、ないでしょうか」
「……は?」
前回の『ニセMOGMOG会議』以来、紺野さんは、この温厚そうな営業課長に漠とした不信感を抱いていた。そして紺野さんは、それを隠せる人じゃない。で、『偽装』という言い方にカチンときて、思わずぶっきらぼうに答えてしまった。
「はは…そう、剣呑にしないでください。…アップデートファイルを装うことには、一つだけ、心配な点があるのです」
伊佐木課長は言葉を切り、ゆっくりと周囲を見渡した。
「たとえば仕事で忙しい時や、少し重いデータを扱っている時。アップデートは後回しにされることが多いでしょう」
「…そうですね」
「その結果、忘れてしまうことも、多いのではないでしょうか?」
「アラームを工夫しますよ」
「でも、作業がお客様の手にゆだねられている限り、100%じゃない」
「…認めます。しかし、現状それ以外に」
「あるでしょう?…いい方法が」
紺野さんは、沈黙を返事にして伊佐木課長を睨んだ。笑顔の形に強張った細い眼は、なんの感情も伝えてこない。しかし、自分がどこに誘導されているのかだけは、よく分かった。
「全ユーザーのパソコンに、ひっそりと自動的に、インストールしてしまえばいいんですよ」
「それじゃウイルスと変わらないじゃないですか……!」
「アップデートファイルに『偽装』して配布するのと、何がちがうのでしょうか?」
伊佐木課長は、あくまで左右対称の微笑を絶やさず、ゆっくりと首を振り向けた。…心底、ぞっとしたという。言葉は確かに通じているのに、肝心の心が通じない生き物と言葉を交わしているような気分だった…と紺野さんは語る。
「全然違う!何のために、アップデートファイルとして配布すると思うんですか!…いくら現行のニセMOGMOGの仕様に合わせても、やっぱり使い勝手は多少変わってしまうんです。それに環境によっては、強引なプログラムの書き換えで急に不具合を起こす可能性だってある。ならば、それをユーザーに一言告知しておくのがスジじゃないですか!」
「…そっとしておけばほぼ分からない欠陥を、わざわざ詳らかにしてユーザーの不安をあおるのが、わが社のスジ、なのですか?」
紺野さんを覗き込むように首を傾けて、伊佐木課長は言葉を切った。
「ね?何も、ユーザーを害するために、こんなことを言うわけじゃないのです。若いんだから、そこはもっと柔軟に、柔軟に。…そうでしょう?」
役員の席から苦笑がもれた。…紺野さんの意見は「よくありがちな若者の暴走」として一蹴され、伊佐木課長の案が採用されることに決定した。
「…で、ニセMOGMOG発売の数日前、真のMOGMOGは完成した。開発チームは、今も山梨の山奥で必死にデバッグ作業をしている。そして俺の仕事は、お前を含めて19人のモニターを使った調査だ。……ちょっと疲れたな。珈琲でも煎れよう」
紺野さんは一旦言葉を切って立ち上がった。柚木はまだ見ぬ伊佐木部長に噛み付きそうな顔で聞いていたが、僕の考えは柚木とは違った。
この伊佐木って人は確かに嫌な奴かもしれない。でも、だからといって彼の判断が全部間違ってるとは思えない。
確かに、年末商戦にこだわるあまり、未完成なソフトを流通させてしまったのは、許されることじゃないとは、僕も思う。でも伊佐木課長の判断には『会社存続の危機』という、絶対的な前提があった。いくらいいソフトを開発しても、リリース時に会社本体が潰れているのでは本末転倒じゃないか。そんな状況で、こういう判断をするひとがいたとしても不思議じゃない。
MOGMOGの配信方法に関しては、紺野さんに分があるとは思うけど、「MOGMOGの欠陥がばれないように、全ユーザーのプログラムを書き換える」必要があるというなら、伊佐木課長の案も全く的外れとは思わない。どっちの案をとるかは、その会社の姿勢の問題だと思う。効率をとるか、ユーザーへの誠意をとるか…。
「珈琲、入ったぞ」
香ばしい珈琲の湯気が鼻をくすぐった。紺野さんと会ってからこっち、うまい珈琲にありつく機会が多くなった。お陰で舌が肥えてしまって、ドトールなんかの珈琲が物足りなくなってきている。貧乏なのに困ったものだと思う。
「どうだ、いいだろう。うちコーヒーミルがあるんだぜ。ヤバいだろこれ」
「挽きたてかぁ…どうりで…ブルーマウンテン?」
「いや、マンデリン」
「…ふーん」
白いカップになみなみ注がれた珈琲の湯気に顔をさらす。紺野さんが何かを話し始めたみたいだけれど、ちょっと疲れたので個人的に珈琲ブレイク。なんか柚木が熱心に聴いてるみたいだから、あとで聞きなおそう。目を閉じて珈琲の香気を吸い込んで深くため息をつく…あぁ、至福…
「姶良、聞いてる!?」
柚木の大声で、香気の帳が破られた。僕はレンガをどかされたダンゴ虫のようにあわあわと周囲を見渡した。
「うぁ、あの…き、聞いてた…」
「あんな目に遭ったのに、どうしてそんなに気が散りやすいの!?…姶良、今に死ぬよ?」
「…ごめんなさい。ほんと、ごめんなさい」
「なんですぐ謝るの!!」
「…僕どうすればいいんだよ」
「…あの、続き話していいか?」
紺野さんは、苦々しげに語りはじめた。この話に至るまでの、長くて辛かった開発秘話を語る時よりも、ずっと苦々しい口調で。実際この先の話は、とてもイヤな内容になっていく。
「ここから先は、俺もよく分かってない話だ。ただ、社内で聞きかじった噂をもとにした憶測に過ぎない。…反吐が出るほどイヤな話だ」
人事部の同期から、社がプログラマーやSEを大量採用しているという噂を聞いた。
「忙しいのは分かるけどさ、自分のとこの人材なんだから、最終面接くらい顔出せよな」
…初耳だった。紺野さんは、軽く肩を叩いて去ろうとした同期を引きとめて詳しい話を聞くことにした。
「お前が知らないってなぁ…」
彼は呆れ半分、驚き半分な表情で事の次第を明かしてくれた。
紺野さんが上層部に業務改善を訴えた「MOGMOG開発会議」から1週間もしないうちに、開発部の企業向け商品開発担当者から『個人向け商品』開発要員として、SE・プログラマーを大量採用したいとの要請があった。個人向け商品は目下MOGMOGだけだし、担当者は紺野さんのはずなのにおかしいとは思ったものの、紺野さんが山奥に篭っていることを知っていたので、代理で面接をすると思ったらしい。
キナ臭い空気を感じた紺野さんは、開発チームの面々に『MOGMOGに関する情報の徹底的な封印』を指示した。元々山奥に隔離されていたので、封印は簡単だった。連日の徹夜作業で、プログラミング以外のことは一切面倒になっていた彼らは最初しぶっていたが、この奇妙な採用活動のことを聞かせると、暫く考え込むような顔をして、やがて作業を中断した。
開発チームに本部への帰還指示が出たのは、この話を聞いた2週間後だった。
「長いこと、ご苦労でしたね。MOGMOGが発売になれば、情報を隠す必要は、なくなりますから。…本部に帰還したら、少しゆっくりしてください」
電話越しの伊佐木課長の声はとても平坦で、ひたすら上機嫌だった。紺野さんは受話器を耳に当てたまま、目をさまよわせた。そして一呼吸おくと、普段より1オクターブ高い声を出した。
「なるほど…しかし申し訳ない。今動くわけにはいけないんです」
「おや、何故。そろそろ都会の空気が恋しいころなんじゃないですか」
「そうしたいのは山々なんですが…完成にはしばらく時間がかかりそうでして」
「それなら、なおさら人手が必要でしょう。こちらでやればいい。最近プログラマーを増員してね、ぜひ当社きっての名SEの君に鍛えてもらいたい、と、思っているんですよ」
聞こえないように舌打ちをして、紺野さんはしばらく黙り込んだ。
「ね、そうでしょう。私は、散々無理をしてもらった君達に、ゆっくり休んでもらいたい、と思っているんですよ。どうですか、六本木あたりで一杯」
たたみかける様に懐柔にかかる伊佐木課長の耳障りな声を聞き流しながら、紺野さんは再び目を泳がせた。憔悴しきった開発チームのメンバー、古河と目が合った。
――扱いづらい奴らかもしれない。俺も含めて。
周りの和を乱したことも数知れない。俺達を本気で憎んでいる奴もいるだろう。
しかし「こんなこと」をされるほどの非は、俺達にはない!
受話器のむこうでなおも続く、耳障りな猫なで声を打ち切るために、紺野さんは口を開いた。
「有難いお話です。…が、色々事情があって、終わらないと動けないんですよ」
「はぁ…それは何で。引越しなら、営業部が総出で、お手伝いしますよ」
「何で…東京に帰したがるんですか」
つい、イラつきが言葉に出てしまった。電話の向こうが、ふっと静まり返った。
「…や、すんません。とにかく、作業がこれ以上延びると、それだけメンバーに負担がかかるんでね。人手が余ってるなら、こっちに回してもらえると助かります」
再び声のトーンを上げて、これ以上話が長引くまえに受話器を置いた。視線を上げると、皆、作業の手を止めて電話に聞き入っていた。彼らの視線がじりじりと集中する。紺野さんは皆に向き直ると、ただ1回だけ頷いた。
「…なんか、途中からよく分からなくなったんだけど。会社が、開発チームに何をしようとしてるって?」
柚木がいったん話を切った。紺野さんは、どこか煮え切らないような感じで髪をくしゃりと掴み、頬杖をついた。
「ここからは、本当に俺の憶測なんだよ。ただ、この不自然な状況をみると、そうとしか考えられない」
「不自然な、状況?」
「このタイミングで、俺に隠してのSEやプログラマーの大量雇用。…そして性急過ぎる、俺達への帰還指示。それに伊佐木は、採った奴らをMOGMOG開発に関わらせようとした…」
「…僕、なんか分かってきた」
僕に一瞥くれると、紺野さんは苦々しげに珈琲をあおった。
「採用した人たちに仕事を引き継がせて、紺野さんたちを追い出すつもり…なんじゃない」
「…まぁ、最終的にはな。でも、今ただ単に俺達を追い出しても、奴らには何のメリットもない。…この話には、まだウラがあるんだ」
カツン、と音を立ててカップを置くと、正面を睨みすえた。
「俺も一応保身のためにな、俺の直訴で開かれた開発会議や、プログラムの配信方法を決めた開発会議の議事録を調べたんだよ。だが…議事録は、なかった」
「…!!」
「会議室予約も確認したが、全て取り消しになっていた。…つまり、あいつらが俺に指図して不正行為をやらせた『証拠』は、何も残っていないんだ」
「そ、それじゃぁ」
「…そういうこと。あいつら、最初から逃げおおせるなんて思ってなかったんだよ。…俺達は体のいい生贄だな」
頭がぐらりと揺れた。僕に関係ない、遠い世界の事情を聞いているはずなのに、僕は自分でもびっくりするほど落胆していた。
――これが、大人の社会か。
「なにそれ!そんな会社、内部告発して倒産させちゃえばいいのに!!」
柚木が激昂して乱暴にカップを置いた。僕はといえば…この二人が、怒りのあまり珈琲セットを残らず粉砕するんじゃないかと、場違いな心配をしていた。
「それは出来ない」
紺野さんはカラになったカップを脇によけると、顔の前で指を組み合わせた。
「何で!?そんな会社に忠誠誓う必要なんてないじゃない!!」
「そ、そうじゃないよ柚木。内部告発なんかしたら、再就職できなくなるから…」
「見くびるんじゃねぇ、馬鹿」
匕首を突き通すような声で言い放つと、組んだ指の間から僕を睨みつけた。
「ば、馬鹿…?」
「SEだとかプログラマーだとか、色んな横文字で呼ばれてるがな、俺達の本質は『職人』なんだよ。俺達が忠誠を誓うのは『会社』なんかじゃない。ましてや食い扶持の心配なんざ論外だ」
紺野さんは組んでいた指をゆっくりほどいて静かにテーブルに置いた。
「俺達が忠誠を誓うのは、俺達が創りあげた『作品』。それだけだ。…俺達がヤケになって内部告発騒ぎを起こしたらどうなると思う。MOGMOGの発売で煮え湯を飲まされた競合他社が、マスコミや世論を動員して徹底的に叩きにくる。そうなったら、俺達のMOGMOGは会社ごとひねり潰されるんだよ。そしてお前が言ったとおり、俺達を雇う人間は出ない。開発チームは散り散りになり、MOGMOGは奴らに嬲り殺しにされるんだ。……あ、むきになってすまんな。えーと、どこまで話したっけな…」
「えと、生贄のところまで…かな」
すっかり毒気を抜かれたような顔で、柚木がつぶやいた。僕はといえば、突然紺野さんに睨まれたことで思考停止しきっていたので、内心だらだら冷や汗をかきながら、がくがく首を縦に振るのがせいいっぱいだった。
「おぉ、そうだそうだ。…俺が想像した最悪のシナリオは、こうだ」
ある日突然開かれる記者会見。記者会見の主題は、『開発チームの不正』。フラッシュライトの中、全ての罪を一身に背負ったかのような顔で一斉に頭を下げる経営陣。『私どもの監督不行き届きにより、一部開発チームの不正を許してしまいました。…被害を受けた方々には誠心誠意対応させていただきます。弊社HPより配信している修正プログラムを、ぜひともご利用下さい』
ざっ…と一斉にポマード臭い頭をさらす経営陣。社内の査察で発覚し、自ら謝罪というスタイルをとったことは、むしろ好意をもって迎えられる。そして『プログラム』という、一般人からすれば全くのブラックボックスでしかない分野であったがために開発チームに欺かれた、という建前は、却って世論の同情をさそうことだろう。世論の憎しみは、手抜き施工を行なった開発チームに集中する。そしてMOGMOG開発チームは、永久にこの世界から追放される。
誰も、一言も発しなかった。
柚木すら、一言も発することが出来なかった。ただまじまじと、珈琲を呑む紺野さんを初めて見るような顔で眺めていた。…そんな柚木をぼんやり観察しながら、僕はこう考えていた。
―――なんて、合理的なんだ。
こんな風に思ってしまう自分が嫌いだ。紺野さんはいい人だと思うし、実際に酷い目に遭っているなぁと思っている。
なのに僕はどういうわけか、伊佐木という課長の手管の鮮やかさに感心してしまう。
経営の危機を救い、上層部の無茶な懸案を呑み込み、開発チームの職人気質まで利用して、彼は『会社にとってのスジ』を通した。すごくイヤだけど、僕には彼の思惑が手に取るように分かる。そして彼が次に打とうとしている一手も見える気がする。
「……あのさ、紺野さん」
「なんだ」
「紺野さんたち、一切の情報を封印したんだよね」
「あぁ」
「……それでこれから、どうする気なの?」
「………」
紺野さんは、ぎくりと肩をふるわせた。
「今の紺野さん、七並べでカード止めてる子供と一緒だ」
「…うまいこと言うじゃねぇか」
「ちょっと、何なの?あんたらだけで話を完結させないで!」
柚木が割って入ってきた。自嘲気味に笑って、紺野さんは指を組みなおした。
「――もう『積み』ってことだ。このプログラムが完成すれば、俺達は社会的に殺される」
「そ、そんな!まだきっと方法が!!」
「……あるよ」
ふいに割り込んだ僕の声に反応して、柚木がガバッと振り向いた。
「なんで姶良に分かるの!?そしてなんで私に分からないの!?」
し、失敬な…。一瞬、もうこいつには教えてやるものかと思ったけれど、ここで知ったかぶっただけだと思われるのも悔しいので話してやることにする。
「要はこの件が、『なかったこと』になればいいんだ。…今まさに、紺野さんがやってることだよ」
紺野さんが、片眉をあげてにやりと笑った。
「すでにプログラムが完成してて、デバッグとモニターテストだけになってること、その課長には伝えてないんだろ」
「…察しがいいな」
「僕がその課長なら、こう考えるからだよ。紺野さん達を生贄にするなら、完成品のプログラムを何が何でも手に入れなきゃいけない。…最初は、技術者を雇って引き継がせようとしたけど、紺野さんの妨害に遭った……」
「妨害ってなんだ妨害って」
「いちいち絡まないでよ…で、伊佐木課長は作戦を変えた。まず紺野さんを泳がせて、プログラムを完成させた時点で記者会見を開いて謝罪を行い、完成されたプログラムを配布すればいい。あとは紺野さんが何をぎゃあぎゃあ喚こうが、先に言ったもん勝ち」
「…ま、そんなとこだろうな」
「紺野さんは、プログラムが完成した時点で屠られる。ならば取るべき手段は一つ」
珈琲はいつしか空になっていた。空のカップをもてあそびなら、言葉を続ける。
「上層部に内緒で修正プログラムを完成させて、勝手に配信しちゃえばいいんだ。そうすれば、この件は『なかったこと』になる。あの開発会議が『なかったこと』にされたのと同じようにね」
紺野さんは一度だけ首を縦に振ると、窓を細く開けて壁に寄りかかった。刹那、窓の外から洩れ聞こえた車の排気音におびえて、柚木が視線を泳がせた。
「…大丈夫だよ、白のミニバンだ」
「―――ん」
僕の脳裏にも、あの悪夢のような逃走劇がよぎっていた。悪寒が背筋を這い登って
――そうだ。あの、謎の追跡。
これだけでは、あの追跡の説明がつかない。彼女は、たしかこう言った。
―――私たちは、人殺しになってしまう。
その後、例の『烏崎』がパニックを起こして彼女を殴り、僕らに暴言を吐いてうやむやにしてしまった。だから断言は出来ないけれど、なんとなく感じる。
この件は、多分紺野さんが把握している以上に、複雑で厄介なことになってしまっている。そして紺野さんも、それに薄々気がついていると思う。
だから紺野さんは、軽い肯定だけ僕らに与えたきり、腕を組んで黙り込んでしまったんだ。
「――じゃ、私たちが狙われた理由はなんなの?」
柚木が、当然の疑問を投げかけた。腕を組んだまま考え込んでいる紺野さんの代わりに、僕が答えた。
「伊佐木は多分、紺野さんの目論見に気がついたんだ。それで、身辺をさぐっているうちに、外部の協力者がいるらしいことを突き止めた。…悪い、怒らないで聞いて欲しいけど、柚木は多分、僕と間違われたんだ。…それで、伊佐木は指示を出した」
「…MOGMOGを奪えって?」
僕らの視線が、紺野さんに集中した。彼は居心地悪そうに身じろぎをして、首をゆるゆると振った。
「そんな筈ないんだよ。――ここまでやる筈、ない」
「でも…!紺野さんだって、会社の奴だって言ったじゃん!」
「まてまて、たしかにそうなんだが…奴らが、ここまでやる理由がなぁ…」
――そう。そこなんだ。
話を聞く限り、伊佐木という男は石橋を叩いて強度を測って向こう側に人を渡してザイルを張って初めて渡るような人だと思う。危険を冒してMOGMOG強奪なんて迂闊なキャラとは程遠い。
「指示は出したかもしれない。ただそれは強奪だとか誘拐だとかじゃなくて…」
「んー、あぁ……そうだ、姶良、ビアンキはどうした。何か分かるかもしれない」
「……あっ!!」
枕元に無造作に転がされたバックに飛びつく。さっきこぼしたエビアンで浸水してないだろうな…金具をはずすのももどかしく、どきどきしながらノーパソを引っ張り出した。とりあえず、濡れてはいなかった。でも画面が暗い。
「…ばっちり、落ちてるな」
「壊れてないだけ奇跡だよ。…いや、壊れてるかも?」
電源を入れると、ヴヴン…と危なっかしい音を立てて、網膜認識中の画面が立ち上がった。ひとまずほっとして、ビアンキの起動を待つ。
「私のも大丈夫かな」
よく分からないなりに、話がひと段落したことを悟ったのか、柚木は広々としたリビングルームに帰ってしまった。…さっきはあれほど食いついてたくせに、興味が逸れるのは一瞬なんだな。
「――ご主人さま!」
起動音と重なるように、ビアンキが話しかけてきた。泣きそうな表情と、なにやら背後に膨れ上がる、とてもじゃないが一度に処理しきれないほどのウイルスの塊。それはグロテスクな蠢動を繰り返して『リンゴ』の形をとろうとするけど、形がまとまりかけると、どこかが『ぼこり』と綻びて、綻びから這い出した無数の触手がリンゴを飲み込み、再びカオスに戻る。
「………なに、これ」
「あの子が出たんです!」
「例のMOGMOGか!?」
紺野さんが身を乗り出して画面を覗き込み、息を呑んだ。
「……おい、これやばいぞ!!」
そう言い残して、凄い勢いであとじさると、CDの山からケースを一つ引っ張り出し、僕を押しのけて強引にスロットに押し込んだ。
「ちょ…マスター以外の操作は受け付けられないですから!」
「姶良、許可しろ!」
「ビアンキ、かまわない。インストールしてくれ」
言い終わると、ビアンキの姿がDos-vの黒いウィンドウに切り替わり、夥しい行数の数列が猛烈な勢いで画面を上昇した。次々に開く黒いウィンドウの、チカチカ明滅するカーソルの後ろに、関数らしきものを素早く打ち込んではリターンキーを押す。それを繰り返す。紺野さんの額に、汗がにじんだ。
「……キリがない……!」
「なに、これ」
自分のノートパソコンの無事を確認して満足したらしい柚木が、ひょこっと顔を出した。
「な、なんかビアンキがやばいことになってるみたい」
「ウイルス感染だ。結構、やばい。とっさに被害を最小限に押さえ込んだ判断力は、さすがMOGMOGだが、データはいくつかやられたぞ」
「いいよ、どうせ大したもん入ってないし」
「…感染ファイル削除…っと。おい、終わったぞ」
画面を覆いつくしていた黒いDos-vウィンドウが消え去ると、まだ蠢動をやめないものの、なんとかリンゴの形を保っているウイルスの塊が映し出された。
「…削除してくれないのかっ!?」
「何をいう、せっかく大物を生け捕ったんだぞ!ビアンキちゃんに食わせてワクチンを作らせないでどうする!」
そうは言うが、当のビアンキは完全に、ぶよぶよ蠢く巨大リンゴに怯え切っている。ウイルスに怯えるセキュリティソフトというのもどうかとは思うが、蠢くリンゴを食わせようとする紺野さんもどうなのか。
「さあ、食いなさい、ビアンキちゃん!」
「い…イヤですぅ…」
「イヤですぅ、じゃない!君の役目はなんだ、セキュリティソフトだろ!」
「だ、だって何か動いて…イヤァ!何か出てきた!!」
リンゴの右側がぞるりん、と蠢いて、赤い汁のようなものがドバッ!と溢れ出した。
「こ、これは…新鮮な果汁がこう…ドバッと…」
「あの、紺野さん…もういいから削除してよ」
「お前はまた甘いことを!さあ食えビアンキちゃん、ご主人さまのために!!」
「そ、そんなこと言ったって…ひゃあっ、また動いたっ!」
今度はリンゴの中央が横に裂け、ひきつり笑いのような亀裂が生じた。亀裂から、赤い液体がどばー、と滴り落ちる。画面はあっという間に血の海に沈みこんだ。…こんなグロいアニメーションを設定したのは誰だ。
「こ、こんなのもう食べ物じゃないですぅ…」
…そうだよな。ビアンキもそう思うよな。僕の感想、間違ってないよな。画面の大半を占めて、変な声で呻きながら血を吐くリンゴは、普通食べ物じゃないよな……。
「いやまて、なんかリンゴが小さくなっていくぞ!」
一通り血糊を撒き散らしたリンゴは、しゅるしゅると収縮を始めた。ビアンキの身の丈ほどあったのが、徐々に半分くらいになり、ついにはビアンキの手に収まる大きさに落ち着いた。血溜まりの中央に、赤黒く光る小さなリンゴが、ぽつりと消え残った。
「……よかったな、ビアンキちゃん。もう動かないぞ。これなら食えるだろう」
「………」
先刻まで動いてたビアンキは、心底イヤそうにリンゴを一瞥すると、あまり見ないようにしてつまみ上げて一口かじった。…すごくイヤそうに。
「硬っ…」
「硬い…じゃ、あれ圧縮の表現だったんだな…芹沢あたりの仕業か」
「えっ、仕様じゃないの?」
「ちょいちょいあることだぞ、プログラマーがソフトに悪戯アニメを仕込むのは」
ビアンキは、硬くてかじれないリンゴを持ったまま僕を見上げた。気のせいか、昨日の衝突で液晶がびみょうにいかれたのか、チェレステの瞳が少し濁ってみえる。
「なんかこれ、時間かかりそうだから…食べる前に、お話聞いてくれますか?」
「ああ。聞きたいな」
――ビアンキは、たどたどしく言葉を綴りながら長い話をした。ハルと話したこと、『あのMOGMOG』を見つけたこと、そして、そのご主人さまは、何かの理由で『助からなかった』ことを。ハルと交わした『僕とビアンキが同じ電子でできている』という情報を、目を輝かせて語り、狂ったMOGMOGのくだりでは、肩を落として呟くように語った。
「――追跡、しようと思ったら、電源が落ちちゃって」
「いや、ラッキーだったよ。Googleのセキュリティさえ歯が立たないようなウイルスと正面対決なんてことにならなくて…」
しばらく考え込んでいた紺野さんが、ふと目を上げた。
「ご主人さまは『助からなかった』って言ったな」
「…はい、そう聞きました」
「死んだのか」
「そこまでは…」
ビアンキは、困ったように視線をさまよわせた。少し、返事を待つ程度の間が空いて、紺野さんは再び考え込んでしまった。
「…おかしいな。マスターが『助からなかった』。MOGMOGは作動している。…MOGMOGは、マスターの網膜に反応して、処理を行なうはず…」
「ウイルスのせいで、ご主人さまが『助からなかった』って思い込んでる…というのは?」
「それもありうるな…どっちにしろ、今は情報が少なすぎてさっぱりだ。柚木ちゃん、姶良、メシだ。朝メシにしよう」
「えっ…」
ビアンキを立ち上げたばかりで、朝の挨拶もしてないのに…。さっき怖い目にあったばっかりで、まだ不安を隠せないビアンキをこのままに…?
「ご主人さま…」
「…ごめん、ビアンキ!少ししたら戻ってくるから」
「…いってらっしゃい」
弱々しく微笑をうかべて、ビアンキは頭を下げた。…あぁ、なんか可哀想だ。プログラムの仮装人格だと分かってるのに、この罪悪感は何なんだ…
「こら!なに1人でぼーっとしてるの!手伝いなさいっ!」
柚木に頭を掴まれて、はっと我に返った。すでにベーコンエッグと思われる香ばしい香りが部屋中に立ち込めていた。思えば、昨日の昼から何も食べてないなぁ…僕は匂いにつられるようにふらふらと立ち上がる。
「まだご飯じゃないからね、お皿ならべるの手伝ってよ」
ずんずん前を歩いていく柚木の、ぶらんぶらん揺れるクセ毛の束を目で追う。起き抜けは更に大変なクセ毛なんだなぁ。…ちょっと叱られたり、一緒にお皿並べたりして、一緒の朝ごはんを頂く。まるで同棲カップルみたいだな、と思うと、自然足取りが軽くなる。出来たら食後に、お揃いのカップでもう一杯珈琲が飲みたい♪
「よぉ、ベーコンエッグあがったぞ」
……そうだ。こいつがいたんだ……
ふいにムサ苦しい現実に引き戻されて眩暈を起こす。僕としたことが不覚にも、男が作った朝飯にふらふらと釣られてしまうなんて。…やめろ!エプロンで濡れた手を拭くな!あんたのエプロン姿なんか見たくないんだよ!見たかったのは柚木の出来れば全裸エプロン的な姿とでも申しましょうか…!という魂の叫びを心中にのみ押しとどめ、柚木に「むさ苦しい朝食風景だね」とでも言おうと思って横を見ると、彼女はベーコンエッグとサラダを皿によそう紺野さんを、うすく頬を赤らめて見つめていた。
…そういえば何かの雑誌で「料理はモテる男の必須条件!」とか書いてあった。畜生、ベーコンエッグくらい僕にだって作れるぞ。神よ!今すぐ、このベーコンエッグは僕が作ったってことにならんことを!と祈ってみるも、そんな馬鹿馬鹿しい願いに天が耳を貸すはずもなく、僕は食器のある場所さえよく分からずにキッチンをうろうろ2往復しただけで食卓に着いた。
「結局なにもしないんだから!猫並みの役立たずね!」
「し、仕方ないだろ。ひとんちってよく分からないんだよ…」
柚木に酷いことを言われながらも、僕はけなげにコーンフレークの箱を振る。僕の仕事はこれだけだ。
「こら!もう出しすぎ!これ食べてみると結構多いんだよ!ほんと猫並みなんだから!」
箱を振るだけの仕事にすらダメ出しを受ける。
「あはは…まあまあ。柚木ちゃんの、こっちによこしな。出すぎた分は俺が食べるから」
紺野さんが、度量の大きいところをアピールしだした。何か挽回のチャンスはないか!?と食卓を見渡したが、そこにあるのは完成された朝ごはんのみ。僕に出来ることといえば、『醤油とって』とでも言われたら、さっとスマートに渡すことくらいだ。
…昨日『あんなこと』があった後とは思えない、穏やかな朝食の風景。しかも隣には柚木がいる。もう挽回がどうとか、どうでもいいや。僕は口の中で小さく『いただきます』と呟くと、スプーンを取った。
……柚木が、ご主人さまの頭を、『くしゃ』って触った。
私の『情報』でしかない両手を見つめる。私が百万回でも伝えたい一言は、その一触には、決して届かない。
触れるって、無敵だ。
こんな何も触れない手なんて、誰にも歩み寄れない足なんて、あってもなくてもおんなじ。そう思った瞬間、『あのMOGMOG』が初めて私の前に現れた時の姿を思い出した。
あの子、手も足も喪っていた。
…今ならわかる。あの子は気付いてしまったの。私たちは最初から、手も、足も持っていないっていうことに。多分私よりもずっと強烈に、そのことを突きつけられ続けたのね。胸がじわりと痛んだ。手元のリンゴに目を落とす。あの子は、ご主人さまを助けられなかった。きっともう永遠に会えない。ご主人さまを救えなかった手なんて、足なんて、ないのと一緒。そんな絶望感が、この硬いリンゴにいっぱい詰まってる。…私も、朝ごはんにしないとね。硬いリンゴを、無理やり一口かじる。
集音マイクが拾ってくれる、ご主人さまの声。それに柚木の声。二人とも、少し喧嘩しながら笑ってる。紺野さんの声もする。食べてるときは、あまり喋らないみたい。二人ともいい人。…胸は痛むけど、少し安心する。朝ごはんが終わったら、きっと私の前に帰ってきてくれるもの。
でももし、あの二人が突然『悪い人』になって、ご主人さまを殺し始めたら…。
きっと、私には何も出来ない。ただ泣き叫びながら、二度と会えなくなるご主人さまの骸を見守るだけ……ぴりっと、なにか『よくないもの』が私の中を蝕む気がした。何か、イヤだな、このリンゴ。早く食べちゃおう。
集音マイクの音に耳を傾けながら、もう一回リンゴをかじる。三人の、楽しそうな笑い声が響く。…胸に、響く。
青いスクリーンに映りこむドアの隙間に、ご主人さまの笑顔が見えた。手を伸ばしてみる。指先は、青いスクリーンの表面を撫でただけ…。スクリーンの向こうは、私には触れられない別の世界。ここは綺麗だけど青白くて、暗くて、とっても冷たい。
――海の底にいるみたい。
私の思いに、もう1人、別の誰かの声が重なった気がした。…そうね。私もあの子とおんなじね。
ご主人さまに触れられない手なんて、ないのと一緒。ねぇ、ご主人さま。聞こえる?
「ここは海の底、みたいです…」
――ダメ!こんなこと考えてちゃ!
最近、1人で起動してる時間が長すぎて余計なことばっかり考えちゃってる。私とご主人様は、在り方が違うだけ!柚木や紺野さんみたいに触れないけど、ずっと、ずっと一緒にいられるんだから!ご主人さまの好きなサイトだって、好きな食べ物だって、いっぱい知ってるもん!……作れないけど。
「…あのさ、紺野さん」
「お、なんだ?」
「あの珈琲、もう一杯ほしいんだけど」
――ほらね!ご主人さまは珈琲が大好きなの。だから私は、おいしい珈琲の淹れ方を50通りくらい知ってる!…どれが一番おいしいのかは分からないけど。
「おぉ、ちょっと待っていろ」
「あ、いいよ。私がやる!」
柚木が立ち上がった。
「でも豆の挽き方、分かるかい」
「分かるよ。うちの実家、喫茶店だもん」
「…いいなぁ。柚木ん家の子だったら、おいしい珈琲飲み放題かー」
「もー、姶良は。子供みたいなこと言わないの!」
柚木は怒ったような口調なのに、少し笑ってた。そして、腕をかるく上げてポンと叩くと
「じゃ、純喫茶『ルベド』看板娘のウデを見せてあげる!」
柚木の手が、ご主人さまの肩を軽く叩いた瞬間、つい大声がでた。
「わ、私がご主人様の珈琲、淹れるんですから!!」
寝室の暗がりから、ビアンキの声が聞こえてきた。紺野さんと柚木が顔を見合わせ、僕に『何が起こってるんだ』と言わんばかりの視線をよこしてくる。そんな目で見られたって、僕だってよく分からない。
「ビアンキ…ちゃん?どうしちゃったのかな?」
一応、ご機嫌取りモードでビアンキに近寄る。ビアンキは、運んで欲しいときにする『持って持って』のしぐさを繰り返していた。…暗がりに1人で置かれて、寂しくなっちゃったんだろうか。
「寂しくなっちゃったんじゃないですから!」
僕の考えを見透かすように、ビアンキが釘を刺してきた。
「はいはい…じゃ、ここでいいかな…」
4人掛けソファの、紺野さんの隣にノーパソを置く。ビアンキは澄ました顔で、高らかに宣言した。
「ご主人さまの珈琲を淹れるのは、メイドのお仕事です。お客様にさせるわけには参りませんから。柚木、お座りください」
……3人で、息を呑んで画面を注視した。宣言したはいいけれど、彼女はここからどうするつもりなのか。そして僕らは、どう反応すればいいのだ。とりあえず、柚木が椅子に戻った。
「じゃ、紺野さん、立ってください」
「…え?」
「私の指示に従って、珈琲を淹れるんです。あ、手元が見えるところまで、私を持っていくんですからね!」
…そう来たか。紺野さんはイマイチ納得いかない顔で、首を傾げながらノーパソを抱えてキッチンに消えた。…すみません、紺野さん。
「まず、銅鍋でコーヒー豆を炒るんです!」
「…いや、もう炒ってあるから」
「でも、でも炒るんですから!」
「ていうか銅鍋がないんだよ…」
「じゃ、いいです。…次は珈琲豆をフィルターにセットして」
「挽いてないよ」
「あっ…ひ、挽くのはコーヒーミルで…その…ミルで…」
「…うん。ミルでね。分かった」
キッチンから、不安な言い合いが聞こえてくる。柚木も相当不安らしく、たまに伸び上がってキッチンを覗いている。
「どうしたの?あれ…」
「どうしたも何も…僕だってよくわかんないけど、自分ほったらかして皆で楽しそうに朝飯食べてたからすねちゃったんだよ」
「こういうこと、ちょいちょいあるの」
「…いや、こんなに反応するのは初めてだ」
「ふーん…ヤキモチだね!ちっちゃい子みたい」
柚木は、はっとするほど優しく笑った。
「そうじゃないですっ!もっと少しずつ、お湯を注ぐんですから!」
ビアンキは、なおも色々細かい注文をつけては紺野さんを困らせているらしい。もう言い返すのが面倒になったのか、紺野さんの声は聞こえない。
「それで、おやつはマリービスケットがいいです!かわいいから!」
「ねぇから…」
「えっと、じゃあアポロチョコもかわいいです!」
「三十路の1人所帯にアポロチョコが転がってたらイヤだろうが…」
「でも、ご主人さまのおやつ箱にはそんなのいっぱい入ってます!かわいいんです!」
「ビアンキ…いいからもう黙りなさい」
柚木がニヤニヤしながら肘で僕を突いた。あえて無視する。
「ご主人さま、ビアンキ印のホット珈琲です!」
ビアンキの弾んだ声とは裏腹に、浮かない表情の紺野さんが、珈琲を乗せたトレーとノーパソを抱えてふらりと出てきた。
「なに、ビアンキ印って…」
「ビアンキが、初めて淹れた珈琲なんですから」
「古いなぁ…」
「えっ…じゃ、カフェ・ビアンキ!」
「……喫茶店を開くな」
「キリマンジャロテイスト!」
「……マンデリンだ」
紺野さんに散々突っ込まれながらも、なんだか得意げに微笑むビアンキ。…柚木の言うとおり、ちっちゃい子みたいだ。結局俺が淹れたんじゃねぇか…と、まだぶつぶつ呟き続ける紺野さんのトレーから珈琲を取り、一口すすってみせる。
「ありがとう、ビアンキ。おいしいよ」
破顔一笑、ビアンキは子供のように無防備な微笑を浮かべる。喋り方とか笑い方、感情表現が、日に日にリアルになっていく。これがプログラムなんだとしたら、紺野さんは本当に天才だ。そんなことを考えていると、顎に手をあてて黙していた紺野さんがもぞっと体を動かした。
「だが、困ったな」
「今困ってること、優に10件は思いつくけど。どれ?」
紺野さんは一瞬首をかくっと落とし、そのまま言葉を続けた。
「…例のMOGMOGの追跡だよ。向こうもビアンキを意識しているようだし、そのMOGMOGが発狂して、どんな行動に出るか分からない以上、ビアンキで捜索を続けるのは危険だ。…でもマスターに『何かがあった』のなら、一刻の猶予もできない」
「ハルは捜索に回せないのかな」
「んにゃ…あいつは、完成版のMOGMOGをマークしているみたいだからなぁ…。標的がビアンキからハルに変わるだけの可能性もある」
なんか考えることが多すぎて、うんざりしてきた。紺野さんにも、そんな考え疲れの気配が漂っている。場の空気をいち早く察した柚木が(一番頭使ってなかったくせに)、テレビのリモコンをとった。
「もうやめよ、疲れちゃった。めざニューでも観ようよ」
僕は朝ズバ派なんだけど…と言いかけてやめる。モノリス並みにでかい液晶が、どこか不穏な面持ちの女性キャスターをバストショットで映し出した。…いつもと違って新鮮な朝の空気に、少しまごつく。爽やかな朝の時間に好んでみのもんたを見ている自分は間違ってたような気がしてきた。
どこかの国で大きいテロがあったとか、そんな実感がないニュースを、珈琲をすすりながらぼんやり眺める。ニュースが耳を素通りするにまかせて、頭を空っぽにする。
「そろそろ、今日のわんこが始まるよ」柚木の声が、遠くに聞こえる。
「今日のミノモンタは太ってます…」
「いや、これ大塚さんだから」
「オーツカさん?」
二人の声は、実に心地よく耳を素通りする。すがすがしいくらい、どうでもいい内容だ。今日のわんことやらは、まだ始まらないのかとじりじりしていると、突然、臨時ニュースが入った。
『…今、入ったニュースです。今朝未明、都内○○公園で、会社員男性の他殺体が発見されました』
「なんだ、近所じゃないか」
紺野さんが身を乗り出す。皿を洗っていた柚木も、中断してリビングに戻ってきた。
『服装や持ち物から、都内に住む会社員・武内昇さんであることが判明しました』
……武内!?
60インチの大画面に映し出された証明写真のその顔は、昨日僕が写メで紺野さんに送った男と、とてもよく似ていた。