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第六章

挿絵(By みてみん)


始業30分前


今日は冬には珍しいほどにカラっとした晴天だった。何となく早めに教室に着いて、後ろから3番目の窓際の席に座る。結露で曇った窓越しに駐輪場が見える。そこに、僕の自転車がとめてある。…自転車使うほどの距離じゃないんだけど、今日は何となく早起きしてしまったので、何となくフレームを磨いてホイールに油をさした。

せっかくだから、何となく学校に自転車で乗りつけ、ちょっと目立つ場所に置いてみる。


しんしんと底冷えがする朝の教室で、窓越しにキレイになった愛車をぼんやり眺めながら、ずっと考えていた。


柚木が来たら、なんて声を掛けよう


昨晩は結局、何もまとまらないまま寝付いてしまった。

朝起きてそれに気がついたとき、軽くパニックに陥った。


安全パイは「よぅ」とか軽く声を掛けて、自分からはオムライスについて触れないことだと思うんだけど、それではなんというか…

上流から偶然岸に寄りついた希少な流木を「っそぃやぁ!!」とばかり流れに蹴り戻すようなものだ。


すごい男らしい絵ヅラだが、逃した流木は多分、大洋に放たれたっきり二度と河を遡上してこない……


かといって「オ、オムライス作ったよね!? 僕に作ってくれたよね!?」

とかオムライスを作ってくれた事実にがっつき過ぎても、「うわ、モテなそ……」とか言われてドン引きされそうだし……

突っ伏して頭を掻き毟る僕を、ちょっと見覚えのある学生が不審げに一瞥して通り過ぎる。携帯を見ると既に始業15分前。…伏し目がちにゆっくり室内を見渡す。真面目そうな学生が数人、前とも後ろともつかない位置の席に座っている。…柚木の姿はない。

 …始業5分前。もう学生もちらほら集まり始め、席の半数がうまっているのに、柚木は来ない。


こんな日に限って、ばっくれる気なのか……かるく凹んだ反面、なにか解放されたように清清しい。あのオムライスの一件は、僕の中の『謎の思い出BOX』に封印して、将来、万一、僕に彼女が出来て1年くらい経ったらそっと開けてみることにしよう…


 始業時間。田宮教授は少し遅れているようだ。柚木は、やっぱり来ない。……さっき感じた清清しさが、時を追うごとに濁り始めた。もう教授が来る前に、さっさと帰って布団かぶって寝てしまおうか…と思った矢先、ぺたり、ぺたり、としみったれたかんじのスリッパの音が近づいてきた。

「タミヤ来たぜ」

「…どんな材質だとあんな音がするんだろうな」

前に座っていた連中が話しているのを聞いて『ういろうじゃないか』とかいって話に加わろうかと一瞬迷ったけど、その話題はもう終わったようなので、黙ってノートを開いた。


ぺたり…ぺたり。スリッパの音が止まった瞬間


教室後ろのドアが開いて、誰かが飛び込んでくる気配がした。

軽快な歩調、僕の斜め後ろの椅子が引かれる気配…


振り向かないでも分かった。


柚木が走ってくる音は、殆どしなかった。多分、教室の外で始業を待っていたんだろう。

腹の奥のほうに何か温かいものが点って、すこし、顔がにやけた。


……きっと柚木も、よく分からないんだ。


田宮教授がぼろぼろのノートと資料を教壇に放り、黒板に何かを書き始めた。チョークが軋る音を聞きながら、僕は目を閉じる。

空想の中で描いたのは、手を繋いで神保町を歩く、柚木と僕だった。


昨日まで腕枕だのブランデーだの、もっとすごいことだの妄想していたのに、手が触れる距離に近づいた途端、野望が一気に萎縮してしまった。空想の中の僕たちは、中学生みたいに躊躇いがちに手を繋いでいる。そんな情景すら、とても遠く感じた。


でもすごくリアルに感じた。華奢な指の質感とか、勝気なくせに伏目がちな微笑とか。

この授業が終わったら、真っ先に振り向こう。

そして、とっておきの喫茶店に誘おう。

そんなことを考えながら呼吸を整えた。



ぶぶぶぶ…ぶぶぶぶ…



鞄の中で、携帯がくぐもった振動音を発している。鞄から出さずに軽く傾けて、着信を確認する。

『ビアンキ』

googleでの張り込み中に何かあったら、IPフォンから携帯に連絡するように伝えてある。ちらと教壇に目を走らせた。教授は華奢な体格に似合わぬ激しさで、チョークを軋らせて債権譲渡の図を書きなぐっている。…僕はおもむろに、着信ボタンを押して耳にあてた。

『…いま、大丈夫ですか?』

「あぁ問題ない。進展があったのかい?」

『え…えっと、進展じゃないけど!あの、出来たんです!』

「出来た?…なにが?」

『んふ、いいもの、です!早くみて、みてください!』


…張り込み中、ヒマを持て余して何か作っていたようだ。再度、教壇に目を走らせた。教授の作図は終わらない。

「分かった分かった」

バッグからノーパソを取り出し、なにげなく開いた瞬間



椅子からズリ落ちそうになった。



液晶画面の2/3を占めていたのは、湯気をたててじわじわと回る、気持ち悪いほどリアルな柚木製・3Dオムライスだった。


背景だけじゃない、アイコンから、カーソルから、メニューバーから、細部に至るまで柚木のオムライス一色で統一されている。今、正面から僕の顔を見たら、画面の照り返しでさぞかしまっ黄色に見えるだろう。

……ともかく、これはちょっとまずい。授業終わったら爽やかに振り向こうと思っていたのに、こんなもんを見られたら、僕がオムライスに対して必要以上に狂喜乱舞してたみたいに思われてかっこ悪いじゃないか。

僕は、即座にノーパソを閉じた。

その瞬間



『食~べ放~題~~~~♪』



……人目もはばからず、頭を掻き毟りたくなった。


僕のノーパソから、桂 雀三郎の伸びやかなヨーデルが、大音量で教室中に響き渡った……受講している学生が全員、バッと僕の席を振り返る。


カツカツと軽快に響き渡っていた教授のチョークが、ぴたりと止まる。

『焼~肉バイキング~で~食べ放題~~、食べ放題ヨレイヒ~~♪』

「ばっ……」



やっ……やめて―――!! お願いだからもう静かにして―――!!



僕は慌ててノーパソをひっつかみ、こじ開けた。

「な、何のつもりだ、よせビアンキ!!」

ビアンキは、夢からむりやり叩き起こされたような呆け顔で僕を見上げた。

『えと…ご主人さま、すぐ閉じようとしたから、アピールが足りなかったかなって…』

「…………」

こわごわと視線を上げる。……教授は、緩慢な動作で振り向くところだった。緩慢なので、振り向ききれていない。

…そして不意に、首の後ろがチリチリした。……どす黒~い瘴気が、斜め後ろから僕のうなじあたりに突き刺さる。す、すごい威圧感だ……姿を見せずに、僕をこれだけ圧倒するとは……。


……恐ろしくて、もう爽やかに振り向くなんて出来ない……


『そ、それで…ご主人さまが、うれしい時によく口ずさむ《ヨーデル食べ放題》を…』

僕の恐怖の形相から、どうやら『のっぴきならない状況に陥っている』ことを察したビアンキが、こわごわ画面の端からレースのカーテンを引き出した。そしてカーテンをシャッとすばやく引くと、ぷるぷる震えながら隠れてしまった。

「……あっ!こら出て来い!隠れるな!!ヨーデルどうするんだよ!!」



「僕は、逃げも隠れもしませんよ」


げっ……


「ヨーデルをどうするおつもりか、聞きたいのは僕のほうです……」

ふたたび、こわごわと視線を上げる。…田宮教授は、振り向ききっていた。


「……おもわずヨーデルを大音量で流しちゃうくらい、僕の授業はつまらない、と?」


どよめく教室の中、僕だけがエアポケットに落とされたみたいに、周囲の音がフェードアウトしていく…頭のてっぺんが渦を巻く。ぐるんぐるん周り続ける、ぐるんぐるん……いけない、このままヨーデル食べ放題を垂れ流しながら卒倒でもしたら、僕のこの教室でのあだ名は「ヨーデル」に決定してしまう…!!


「……いや、あの、違うんです! う、ウイルスなんです!ウイルス!!」


咄嗟に思いついた言い訳を口走りながら、教科書とノートをババッとまとめ、ヨーデルを奏で続けるノーパソをカバンに押し込み、急いで立ち上がった。

「なんか止まらないんです!ウイルスみたいで…あの、ご迷惑になるので出ます!」

「……ウイルス。なんか、大変だねぇ」

教授は、呆けたような顔で僕を一瞬目で追うと、また緩慢な動作で黒板に向き直った。僕はカバンをコートでくるむと、こけつまろびつ教室を飛び出した。


……僕はなんでいつもこうなのだ。肝心要のときに限って。あの時も、この時もそうだった…これまでの、大事な局面での悲惨な失敗が次々と脳裏を駆けめぐる。なんかもう泣きたい……。

これ以上ヨーデルが続くようなら、ノーパソ叩き壊してしまおうかとまで思いつめた瞬間、ふつり、とヨーデルが途切れた。


た、助かった……


荒い息をつきながら立ち止まる。…講義に戻れる空気じゃないから、手近な教室に入り込んで、ちょっと休むことにした。後ろ手にドアを閉めて、机にカバンを放り投げて一息ついた瞬間、ノーパソからすすり泣きが聞こえた。

「なんだよ今度は!」

乱暴にノーパソを開くと、ビアンキが画面の隅でうずくまって、すすり泣いていた。

「う……ウイルス……」

「えっ…いや、あの」

「……ウイルスですか……ぐす……」

セキュリティソフトなのにウイルス呼ばわりされたことで、プライドを傷つけられてひどく落ち込んでいる。…なんだ、この扱いにくいセキュリティソフトは……。泣きたいのはこっちだ!の一言をぐっと飲み込み、僕はつとめてやさしくビアンキに声をかけた。


挿絵(By みてみん)



「…いや、それは…つい咄嗟にね…」

「どうせ私なんて…ウイルスですからっ……ぐすっ」

僕に背を向けて、壁紙をむしりながらいじけ始めた。うわ、ちょっとウイルスっぽい。

「そんなことないから、ね、機嫌直してよ、ビアンキ」

「ウイルスですからっ!こんなものっ!食べちゃいますからっ!!」

ビアンキは折角つくった3Dのオムライス画像を引っつかむと、もぐもぐしながら口の中に押し込み始めた。

「――だー!もうやめてよ!!ね、ほら、気持ちはとってもうれしいから!ね、僕はビアンキが怒ってると悲しくて泣きそうだよ!!」(別の理由で)

「……ほんとに?」

オムライスを戻すと、ちょこんと正座して僕に向き直り、首をかしげる……あぁもう、かわいいなぁ……。セキュリティソフトとしてはどうかと思うけど……

「うんうん、本当だよ!さっきは、みんなの前で音が鳴ったからびっくりしただけだよ」

「みんな、いたんですか?カメラに人が映ってなかった…」

あ、そうか…ノーパソを一瞬で閉じたから、ビアンキは周囲の様子がわからなかったんだ。

「……ごめんなさい……」

落ち着いたみたいだけど、まだ声が暗い。

「でも気持ちはうれしいからね。本当だよ」

「…ヨーデル食べ放題も、鼻歌からがんばって解析して、MP3の音源拾ってきたんです」

「うんうん、ありがとう。でもそれ違法だから、もうやっちゃだめだよ」

マウスで撫でてあげていると、少し機嫌が直ってきたのか、ビアンキはハンカチで軽く目をぬぐって顔を上げた。

「…あと、オムライス、柚木にも見てほしいです!」

「絶対だめっ!!」

「……なんで?…やっぱり、邪魔なんだ……」

ビアンキは視線を下にさまよわせる。

「いや違うんだ!ほら、これは……」

こういう微妙な問題を、どう説明すればいいのか……一瞬、視線が宙をさまよう。僕がおろおろしている間に、ビアンキの雲行きがまたぞろ怪しくなっていく。…しかたない。僕はノーパソをぐっとひきよせると、抱きかかえるようにしてカメラに顔を近づけた。

「このことは、ビアンキと僕の、二人だけの秘密、だからだよ」

言ってる自分もワケが分からないが、どうか雰囲気に飲まれてくれ!と祈るような気持ちでカメラを見つめ続ける。

「二人だけの、秘密?」

彼女の頬が、ぱっと桜色に染まる。どういうプログラミングなんだか超気になるが、ともかく機嫌は完全に直りつつあるみたいだ。

「私とご主人さまの、二人だけの秘密!?」

目を輝かせて繰り返す。僕は何度も頷き返し、マウスで頭をなでた。

「この仕事が終わったら『おやつ巡り』しようか」

ビアンキの目の輝きが、瞬時に倍になる。……『おやつ巡り』というのは、最近、ビアンキが気に入っている遊びのことだ。なんということはない、可愛いスイーツの画像が掲載されているサイトをめぐる。それだけの遊び。ビアンキは気に入ったスイーツの画像をダウンロードしておいて、僕に作ってくれたような3Dを作る。そしてそのうち、ウイルスを食べるアニメーションに、その3Dが登場したりするのだ。

「私、赤くて可愛いおやつがいいです!」

…味覚がないから当たり前なんだけど、彼女のおやつの基準は『可愛さ』のみ。だからいくら美味しくても、板チョコや焼き芋なんかは造形的にダメらしいのだ。

逆に可愛ければ、思わぬものがおやつ認定されてしまうこともある。いつだったか、ビアンキが青い石のブローチをバリバリ食っててびっくりしたことがあった。でも食った断面は、ふかふかのスポンジとクリームだった。

ビアンキは早速上機嫌になり、『ヨーデル食べ放題』を口ずさみながらむしった壁紙にぺたぺたと絆創膏を貼っている。そのうち、遠くの方でくぐもったチャイムが響いた。終業だ。

「……はぁ」

ついても仕方ないのに、ため息が出る。


教室に戻ると、柚木が一人、席に残っていて……

僕に向かってちょっと不機嫌な顔で「……遅い」とか言ったり


そんな空想もしたけど、柚木の性格を考えれば普通に帰ってしまっていることは明確だ。僕は引き続いてのGoogle張り込みをビアンキに頼むと、そのまま机に突っ伏した。




人気がない駐輪場の空気は冴え冴えとして、冷気が首筋に突き刺さる。空はいつしか、鉛色に淀んでいた。そろそろ日が暮れるな。冬の日は、つるべ落としだ…

自転車のチェーンをはずすと、寒気に晒されたアルミの冷気が、噛み付くように僕の手に張り付いた。

箸にも棒にも引っかからないような中古品を格安で買って、割のいいパーツを見つけるたびに改造を繰り返し、何が何だか分からないことになっている我が愛車。中核をなすフレームすら、先輩から譲り受けたブランド不明の謎フレーム。黒くペイントされているので確実じゃないんだけど……形から考えると……多分、ラレーのような気がしないでもない。


変な自転車……。


好天の下、磨きたてのこいつを見たときは『なんてカッコいいんだ!』と錯覚したけど、夕暮れ時、こんな気分でまじまじと眺めると、本当に変な自転車だ……。冷たいサドルにまたがって、ゆるゆると漕ぎ出す。


もう下宿に帰って寝てしまおう、と一瞬思った。事あるごとに引きこもる、この性癖。いつも僕を変な方向に追い詰めているのは、僕自身のこの性格なのかもしれない。

今日は思い切って、部屋に帰らないことにしてみようか。…いや、こんな甚大なダメージを受けている時に自分改造している場合か。とりあえず今日は下宿に帰って寝るべきか……


決心がつかないうちに、僕は下宿近くの、人気のない公園付近についてしまった。…この辺が妥協点かな。なんとなく自嘲的な気分になりながら、公園に自転車で乗り入れる。すると、10mほど前方の歩道を、マフラーを緩めに巻いた女の子が横切った。長く伸びた木立の影でよく見えないけど、何となく気になって目を凝らす。


「……柚木」


…これは、神の采配か。

このまま走り去るか、ちょっと声をかけてみようか迷った。柚木がマフラーの下から、コートの前をかき合わせる。同時に一陣の寒風が頬を打った。


―――風、強いね。寒いから、うちで珈琲飲みながらゼルダやろうか。


いや、なんだその終わってる誘い文句は。そもそも「ヨーデル食べ放題」大音量で流して教室から逃亡した僕がひょっこり現れて「ゼルダやろうぜ」とか、しれっと吐いたら一体どんな目に遭わされるんだ……

横切ろうとした柚木の前に、黒い乗用車が停まって、ドアが開いた。

柚木が、足を止める。夕日の逆光で、表情は見えない。


……な―――んだ、そういうこと。


体中が、弛緩していく感覚。つまり、こういうことか。

柚木には、彼氏がいたんだ。

こんな珍妙な改造自転車なんかじゃなくて、かっこいい車を持った彼氏が……

オムライス一つに舞い上がって自転車磨いたり、柚木の足音に一喜一憂したり…あれは、完全に僕の一人相撲で…僕が入り込む余地なんて、最初からなかったんだ。


……恥ずかしい。


ここ数日の色々な葛藤が、砂上の楼閣のように崩れていく。悲しい…とかじゃない。そこにすら辿り着けないくらい、深くて空虚な洞に、滑り落ちたような感覚。自転車なんて、いますぐここに棄てて、下宿に帰ろう……


さよなら、柚木。黒ずくめにサングラスとマスクを掛けた彼氏と、仲良くやれよ……


…………


…………なんだその変質者みたいな服装は!?


いや、もしかして本当に変質者じゃないのか?僕は「空虚な洞」からいそいそ這い上がって目前の光景に目を凝らした。

開いているドアは自動車の後部座席。彼女をエスコートするにはちょっと不自然じゃないか。そして…後部座席から伸びた腕は、柚木の腕を、がっしりと捉えていた。


……運転手と後部座席の男…少なくとも2人以上の人間がいる……?


掴まれたほうの腕を振りほどこうと足掻く柚木に、後部座席の男が短刀を突きつけた。ビクリと動きを止める、柚木。

気がついたら僕は、黒い車に向かって突進していた。


僕に気がついた柚木が、再び必死の抵抗を始める。男は、猫の子でも取りこぼしたように慌てふためいて空を掴む。その間隙に、僕の自転車が突っ込んだ。刃が自転車のボディに当たり、カリッと音を立てて地面に転がる。

「柚木、乗れっ」

「何処に!?」

戸惑う柚木を腹から抱えあげ、フレームに横座りさせて地面を蹴った。自転車は少しよろめいて走り出す。僕は無理やりギアを最大にチェンジして踏み込んだ。ひどく重い感触と引き換えに加速を得る。心臓が、気が違ったみたいに早鐘を鳴り響かせ、踏み込む足がガクガク震えた。……確かにこれは神の采配だ。失敗は、死んでも許されない。

「つかまって!後ろ確認お願い!!」

柚木はバランスを取りながら僕の腰にかるく手を回すと、僕の脇から頭を突き出した。

「…追ってくるよ!!」

「まじか…最近の変質者は根性あるな!」

「ばか!あれ変質者とかじゃないよ!!」

「……どっちにしろ、弱ったな……」

甘かった。公園出たら諦めると思っていた。こんな重いギアで、柚木を乗せて長続きするはずがない!…僕は進路を変えると、ギアを一段ずつ元に戻した。

「なんでギア戻すの!?」

「この先に長い下り坂がある。そこを抜けても追ってきたら」

一旦言葉を切り、もう一段ギアを軽くする。

「自転車、棄てるよ」

柚木は唇をかみ締めると、僕のほうに身を寄せて視線を前に戻した。重心を少しでも後ろに移してくれたみたいだ。坂はもうすぐ目前…僕はギアの、最後の一段を戻した。


挿絵(By みてみん)


がくん、と車体が傾いで、吸い込まれるように加速していく。風が頬を切るみたいに冷たい。目を細めて、柚木越しに前方を確認する。今のところ障害物は何もない…そろそろ、坂道が終わる。少しずつブレーキをかけつつ、柚木に視線を落としたその時、

「キャァッ!!」

柚木の悲鳴の直後、天と地がひっくり返ったような浮遊感に襲われ、空中に投げ出された。視界をよぎった柚木の体を引き寄せて必死に抱え込む。僕達の体は宙を舞い、正面の古本屋のシャッターに叩きつけられた。

「ぐぶっっ」

叩きつけられた瞬間、背中を貫いた衝撃に、肺の空気を全部吐き出した。

「姶良!?」胸の下あたりで柚木の声がする。よかった…怪我はないみたいだ。ひどい頭痛と、視界がかすむのをこらえながら、上半身を起こした。

「……悪い、車輪で石を踏んだみたいだ……あいつらは」

「まだいる!坂を下りてきてるよ!」

「……じゃ、こっちだ」

視界がぼやけて、足元がふらつく。…でも、方向感覚は衰えていない。僕は柚木の手を引いて、シャッターが下りた古本屋の脇道に駆け込んだ。

「車で、ここは通れないだろう」

「……駄目、来るよ!」

街灯の薄暗がりに停められた車のドアが開け放たれ、数人の男が駆け出して来た。僕らが逃げ込んだこの路地を、まっすぐ目指している。首筋が、ぞくりとした。…早い。女の子の柚木と満身創痍の僕では、すぐに追いつかれる。

「何で、ここまでやるんだよ……!」

「わからないよ!全然知らない人たちだもん!」

「…次の角、右ね」

「角!?角なんてどこにも…」

「そこの、隙間」

駆け抜けようとする柚木の腕を強引に引いて、古い家屋とビルの隙間に潜り込む。ワケがわからない柚木が、抗議しようと口を開いたところをすばやく制して叫んだ。

「ちょっとジャンプして!」

「えっ!?」

反射的に飛び上がった柚木を引っ張って、次の角に駆け込む。数秒後、背後で鼻を引っぱたかれた犬のような悲鳴と、トタン板に激突したような轟音が響いた。

「な、なに、どうしたの!?」

「漬物石だよ」

「…は?」

「ここに住んでいるおばあさんは、漬物石を隣との隙間に放置しているんだ。多分、それに躓いて…」

「…………」

「日も落ちてるし、足元の漬物石なんかに気付かないだろう。…ありゃ爪先からいったね。相当痛かったはずだよ」

「……地の利どころの話じゃないくらい詳しいね」

「…あー、まぁ…」

適当に言葉を濁してやり過ごした。


―――ポタリング部では、たまに有志で「タイムトライアル大会」を開催することがある。スタート地点とゴール地点だけを決めて、脚力と土地勘のみをたよりにタイムを縮めるというシンプルな大会だ。地図上で最短ルートでも、実際に走ってみると坂道が多くて却ってタイムロスになったり、地図には載っていない抜け道(多くは私有地)があったり、前もって調べておいた抜け道に敵がトラップを仕掛けていたりして奥が深い。脚力に自信がある輩は下手な小細工を弄さずにスタンダードな道をいくけれど、僕のような連中は、日々調査を繰り返して最短かつ有利なルートを探るのだ。だからこそ、僕らの土地勘は並大抵じゃない。

ちなみに、柚木を始めとする『おしゃれ街乗り派』は、こんな馬鹿な大会には参加しない。


「これで一人はリタイアだね!」

「…でもこのままじゃ、もうすぐ追いつかれる」

「どこかの民家にでも駆け込めないの!?」

僕は答えなかった。

柚木も、それ以上聞かなかった。

執拗に追ってくる「奴ら」が一体誰なのか、何の目的で追ってきているのか、何一つ分からない。最悪の場合、馬鹿な奴が開設した「殺し請負サイト」のヒットマンか何かで、助けを求めに立ち止まった瞬間、殺されることだって考えられる。

「……その先、左」

恐怖を押し殺して、呟くように言った。柚木も息を喘がせながら頷き、左側の隙間に飛び込む。入り組んだ路地を背中を丸めて走り抜け、都市開発から取り残されたような寂れた長屋が並ぶ細道にまろび出る。僕は少し目線を上げた。

「…前に雨が降ったのっていつだっけ」

「こ…こんなときに…なに言ってんのよ」

柚木が肩で息をしながら、途切れ途切れに応じた。

「気でも…触れたの…?」

「…まぁいいや」

走りながら、土中に半分埋まり、錆びてうち棄てられた物干し竿を拾いあげた。竿を覆っていた枯葉が舞い狂った。


挿絵(By みてみん)


「…武器!?」

「こんな狭い路地で物干し竿でやりあってどうするんだよ」

聞こえないように呟くと、後ろを振り返った。後方5m前後の植え込みが震え、奴らが飛び出してきた。僕は一瞬スピードを緩めて物干し竿を垂直に振り上げた。僕に合わせて速度を緩めようとする柚木を強く押し返す。

「先に行って。すぐ追いつく」

「なにする気!?」

柚木の言葉が終わるのを待たず、長屋の腐りかけて傾いだ雨どいに叩きつける。長屋一棟をぐるりと取り巻く雨どいが「わわん、わわん」と共振する。すると、雨どいに残っていた雨水が、大量に奴らの上に降り注いだ。

「…よし」

きびすを返して再び駆け出す瞬間、腐った物干し竿がブロック塀につっかえ、「ばきばきばきめきゃりっ」と大げさな音を立てて割れた。僕は短い方をむしり取ると、全速力で柚木を追った。


「…雨どい叩いただけ!?」

僕が追いついてくる気配を察して、柚木が叫んだ。

「…っそうだよっ……」

…息があがって、一言返すのが精一杯だった。でもそれは柚木も同じだったようで、それ以上の文句は返ってこない。

「…すぐ右に曲がって」

柚木の左側に回って、右側の路地へ促す。…が、一瞬たたらを踏んだ。

「…ここ、通るの?」

狭い路地に散乱する、鎌や鋤などの錆びた農具が薄闇に浮かび上がる。余所見などしたら、血を見るような大怪我に見舞われてもおかしくないだろう。

「ここを抜けると大通りが近いんだ。人がいるかもしれない」

僕の言葉が終わるのを待たず、柚木は危険な路地に駆け込んだ。

乱雑に放置された鍬や斧の隙間を縫うようにして進む。10mもない長屋の裏路地なのに、無限にも続くように感じてきた。刃物の海の中、後ろを振り向く余裕なんかないけれど、喘ぐような呼吸がすぐ後ろに迫っている。…多分、もう少し手を伸ばせば届くような距離に。突然、鋭い激痛が胃の辺りにじわりと広がった。さっき自転車で吹っ飛んだ時、打ち所が良くなかったのかもしれない。すごく嫌な予感がする痛みだ。

「抜けた!」

柚木の声に、突然我に返る。

「そのまま走れ!!」

振り向きざまに、足止めに農具を蹴り倒す。そして先刻もいできた竿の片割れを振り上げて、通路の出口近くに積んであった大袋にたたきつけた。袋が破れ、白い粉塵が狭い通路を満たした。後方から轟くような金属音と、くぐもった悲鳴が聞こえた。急に視界をふさがれて、倒した農具のどれかに足をとられたんだろう。

「斧じゃありませんように…」

寝覚めが悪くなるから。

「姶良!」

じれたように柚木が叫んだ。僕は粉がかかった顔を軽くぬぐうと、再び駆け出した。


僕が駆け出して間もなく、後方から大きな水しぶきが上がった。

いぶかしげに振り向いた柚木が、目を剥いて異様な光景に見入る。


頭から粉塵をかぶった奴が二人、路地裏の用水路に飛び込んだのだ。


「…あれ、なにやってるの!?」

柚木が、追いついてきた僕に当然の疑問をぶつけてきた。さっき通路を歩いて、大分呼吸が落ち着いている。

「……あれ…ね……生石灰……あそこの家主、農業に凝ってて……」

「あの粉が?…粉塵爆弾ね!!」

目を輝かせて物騒なことを言い始める柚木。

「……いや、そんなことしたら死んじゃうから……」

「殺しちゃえばいいじゃん!」

「…だめだからね!」

長いこと走らされて、気が立っているようだ。…この娘を1人で逃走させなくて、本当に良かった。さっきの農具路地あたりが猟奇な風景になってるところだった……

「まぁいいわ。…で、あれ、なにがあったの?」

「……水も、かけただろう、さっき……」

土質改良に使われる生石灰は、水とまじわると発熱する。さっき雨どいを叩いて振りかけた水と、路地でかぶった石灰が反応して、肌に火傷に近い症状が出ているはずだ。

「目に入ったら失明が怖いけど…サングラスしてるから大丈夫だろ」

「失明しちゃえばいいのに!…でも軽い火傷でしょ?なんで川に飛び込んでるの?」

もうすぐ大通りに出られる安堵感も手伝ってか、柚木がにわかに元気に喋りだした。僕は…胃の引きつるような激痛をこらえて、ようやく言葉を搾り出す。

「…彼らは、軽い火傷なんて思わないよ」

「え?」

「正体不明の粉末が体について、ついた所が火傷しはじめたんだよ……」

激痛に、息があがってきた。言葉が続かない。…そのへんの説明は逃げ切ってからにしてほしいけれど、柚木のじれったそうな横目に促されるままに仕方なく、口を開く。

「シャレにならない、大変な劇薬でも掛けられたかと勘ぐるのが普通でしょ……」

「へー…姶良、やるじゃん!」

柚木が僕を褒める声も、遠くに聞こえる。激痛が脈打つようになってきたのだ。逃げ切れそうな予感に、僕も少し気が緩んだのかもしれない。やがて、大通りの方から喧騒が洩れてきた。僕と柚木は助かる……そう安堵する気持ちに反比例して、激痛がいや増していく。

「……ねぇ柚木」

「なに?」

「助かったら、救急車呼んで……」

「………うん」

柚木が頷いた。そのあと、なにか一言呟いたような気がしたけど、脈打つ激痛にかき消されて聞こえない。僕はただ、足を動かし続けた。


柚木の「抜けたよ!」という感極まった声は、学生達のバカ騒ぎでかき消された。


大通りを塞き止めんばかりに群れるコンパ学生の真っ只中に、僕らは走り出てしまった。皆、こんな時間から切ないほどベロンベロンに出来上がってしまっている。多分、うちの学生だ。宴会が終わって万歳三唱でもしてこれから三々五々、帰途に着くなり2次会になだれ込んだりするところだろう。中央で1人、胴上げされている男がいる。

「向こうでも頑張れよー!」

「カバディ研究会を忘れるなよー!!」

などという歓声が、断続的に聞こえてくる。

「…留学する仲間の追い出しコンパかな…」

大勢の人がいる。…その安心感に膝ががくりと崩れ落ち、僕は路上に倒れこんだ。柚木があわてて僕を引っ張り起こす。

「ちょ…ちょっと!まだ終わってないんだから!!…あの、皆さーん!すみませーん!!あの、ちょっと今、変質者に…」「なぁにぃ!?変質者だぁ!?」

上半身裸の変質者っぽい学生が聞きとがめて近寄ってきた。

「ぃよーし!この中でぇー、我こそは変質者という漢は手を挙げろ!!」

「ぅい――――――す!!!」

歓声とともに、全員の手が挙がった。そして彼らはその一体感に気を良くして、隣同士肩を叩き合ったり、精も根も尽き果てた僕らをもみくちゃにしたり校歌を歌ったりと大騒動を始めた。一般人もちらほらと通ったが、巻き込まれるのを嫌がって足早に通り過ぎていく。


…路地から、1人の男が音もなく姿を現した。僕は…もう動けない……


「だめ、皆酔ってて話を聞いてくれない!」

「…柚木、逃げてくれ…」

「…もう、無理……!」

柚木の声がうわずっている。…その後、軽い浮遊感とともに、柚木が崩れ落ちた。寄りかかっていた僕は、そのまま一緒に倒れこむ。首筋に柔らかい髪の感触をおぼえ、鼻腔に柑橘系のコロンの香りがふわりと届いた。…一拍おいて、柚木が肩をふるわせながら、静かにしゃくりあげ始めた。


――激痛で気が遠くなりそうなのに、頭の芯ははっきりと冴え返りはじめた。


さっきまで胴上げされていた男が担ぎ下ろされ、男の前に酔っ払い学生がずらりと2列並んで人間アーチを作り始めた。

「ヘーイ、坂上!ヘイヘイ!!」

胴上げから解放されて、まだふらふらしている坂上を、二人のヤニくさそうな男が人間アーチに押し込む。坂上を押し込まれた人間アーチは、彼が通り過ぎると即座に瓦解してアーチの前に回りこんで再びアーチを作った。その繰り返しで坂上はなかなかアーチから解放されない。目の前に繰り広げられる平和な学生生活と、僕らのこの理不尽な危機。絶望を通り越して、笑いがこみ上げてきた……


僕の肩にかかっていた髪が、びくりと震えた。

振り向くと、柚木の肩を無造作に掴む、汚らしい掌。



――お前が、柚木に触るな!!



もう一度立ち上がるのに、たいした力は要らなかった。痛みはとっくの昔に麻痺している。柚木の肩を掴む腕をもぎ離し、天高く差し上げて声高に叫んだ。


「ヘ――――イ!!」


人間アーチが、一斉にこちらを振り向いた。しゃがみこんだままの柚木さえもが、きょとんとした泣き顔で僕を見上げている。僕は満面の笑みを浮かべ、男の腕を両手で掴んだ。


「ヘイヘイ!おっさん!通りすがりのおっさん!!ヘイ!!」


……食いつくか、お願いだ、食いついてくれ……

祈るような気持ちで、必死に抵抗する男を、満面の笑みでアーチに引きずっていく。

両手をさしあげたまま、きょとんと立ち尽くす学生達。……やはり、駄目か……


―――そのとき、二人の体格のいい酔っ払い学生が、男の両肘をがっしと掴んだ。そして、通りをつんざくような蛮声をあげた!


挿絵(By みてみん)



「ヘイ!通りすがりのおっさーん!!」



男の抵抗っぷりが学生達の嗜虐魂に火をつけたのか、人間アーチは急激に沸きかえった。男がもがけばもがくほど、ますます彼らをあおる。

よし、読み通りだ!

酔っ払った学生の集団は、怖いものや失うものが少ないのでタチが悪い。

僕の『通りすがりのおっさんを理不尽に人間アーチでもみくちゃにする』提案は、彼らの今の気分にぴったりマッチしたようだ。


酒臭い学生の群れにもみくちゃにされる男を待ち構えるように、僕も最前列で知らない学生と頭の上で手を組んでアーチを作った。

「ヘイヘイ!ヘーイ!!」

片手で携帯のカメラモードを立ち上げ、高く掲げる。男がアーチに押し込まれた瞬間、僕は男のサングラスをもぎ取り、強引に腕を割り込ませて写メを撮った。僕につられるようにして、何人かの携帯が連続してパシャパシャと瞬いた。必死の形相で顔を守る男の耳元で、僕は皆に分からないように呟いた。


「……紺野さんに、送りました」


ぴたり、と男の抵抗が止まる。男は一瞬、目をむいて僕を睨むと、そのまま弛緩したような表情で、ヘイヘイ叫ぶ学生のアーチに揉まれ流されていった。

――やっぱり、紺野さん関連だったか…

「……終わったの……?」

いつの間にか、僕の背中に近づいていた柚木が、狐につままれたような顔で呟いた。

「いや。一応最後のツメをやっとかないと……」

断続的な激痛は収まっていない。携帯にちらりと目をやって『送信完了』を確認した。そして一つ大きく息をつくと、僕はもう一度、最後の力を腹に込めて叫んだ。

「おぅお前ら、前に回れ、前に!!」

男が通り過ぎた後、残った人間アーチを満面の笑顔と激しい手招きでアーチの出口へ走らせる。彼らはばらばらとアーチをほどくと、ヘイヘイ叫びながらアーチの出口に続きのアーチを作った。

…一旦流れを作ってしまえば、あとは彼らの気が済むまで人間アーチは伸び続ける。

ざまをみろ、永久に酒臭い人間アーチに囚われ続けるがいい!


サークルの喧騒からのがれて、僕たちはしばらく歩いた。警察を呼ぶとか、病院に駆け込むとか、やることは盛り沢山だ。でも、なぜかそういう気が起きなかった。思考回路が停止寸前だったのかもしれない。

月は天頂近くまで昇っていた。携帯を見ると、もう8時を回っていた。

結局あのオムライスは何だったんだ、とか、あの連中は一体なんなのだ、とか、言いたい事は山ほどあった。でも全身がけだるくて、柚木の肩にもたれ掛って歩くのが心地よくて、なんか全部どうでもいい。

「…救急車、呼ぼうか」

僕の返事を待たず、柚木が携帯を取り出す。それなら少し休ませてもらおうかな…と、目を閉じた瞬間、カツン、という物音に瞼を開く。

「…携帯、落ちたよ」

「……姶良……!」

柚木の肩が、瘧のように震えだした。鼻先をかすめる、排気ガスの匂い。車がアイドリングしたまま停止する気配と、駆け下りてくる数人の足音。月の逆光で姿はよく見えない。でも、まっすぐに僕らを目指して歩いてくる足取りに、確信は強まった。

「……またか……!」

痛みと眩暈で、気が遠くなった。僕たちは数秒後、確実に奴らに捕まる。喉が干上がって、鼓動が早くなった。…次第に強まっていく激痛の中で、僕は初めて紺野さんを恨んだ。

――なんで、僕らがこんな目に。

一人、柚木の脇に立つ。もう一人、僕の脇に立つ。正面に回り、静かに僕らを見下ろしているのは、彼らの中で一番年少と思われる若い男だった。柚木が、僕の肩に寄り添うようにして、静かにしゃくりあげた。

「…なんで柚木を?」

男達は、誰一人答えようとしない。声を上げるのを恐れているように。念願の獲物を追い詰めたというのに、声を荒げるでもなく、獲物の腕をねじりあげるでもなく、ただ逃がさない程度の距離を保ったまま、こっちの出方を待っている。僕らが暴れだし、「やむを得ず」暴力で抑える瞬間を待つように。僕は、直感的に悟った。

――こいつらは、何かに怯えている。

気付いた瞬間、恐怖心がじわりとほどけて、頭が氷のように冴え渡った。こんな状況で、おかしいけれど……


彼らの怯えに、つけいる隙がありそうな気がした。


柚木を軽く後ろにかばうと、僕は正面の男の、目のあたりをじっと見つめた。

「…柚木は全く関係なかったんだ」

「…………」

「何を勘違いしたのか知らないけど、紺野さんの協力者は、僕だよ」

男達の影が、大きく揺らいだ。表情は見えないけれど、明らかに僕らへの抑圧が薄らいだ。…やがて、僕の横に立った男が、搾り出すように呻いた。

「…どういうことだ!」

正面の男がうろたえたような声を出す。

「そんな…私はMOGMOGをトレースして…!」

意外と声が高いな、もしかしたら、女かもしれない…と、呑気なことを考えた。

「柚木がノーパソを持って僕の部屋に来た。…ほんの2、3日前だ」

「!!」

「一緒に接続していたから、取り違えたのかもしれない」

言葉を切って、再度彼らを見渡す。皆、混乱と憔悴を極めたような顔つきで、僕と柚木を見比べていた。続いて柚木のほうに、ちらっと目を馳せる。柚木はあっけに取られたような顔つきで、僕を見ていた。

「…お前が協力者だというなら、言ってみろ。何を協力していた」

柚木の側に立っている男が、呟くように言った。

「MOGMOGの件。詳しいことは言えない」

「お前が『ビアンキ』のマスター?」

「そうだよ。……あんたたちが『人さらい』?」

正面の人物をにらみつけた。目が慣れてきて、月の光でも彼らの表情が少しわかる。『人さらい』という言葉を出した瞬間、彼らは目に見えて動揺した。

「で、僕らもさらうつもりなのか。柚木も僕も、家族がいる。まして紺野さんは事情を知ってるんだ。すぐ足が着くよ」

「…もう、こうするしかなかったの」

正面の人が、力ない声で呟いた。月明かりに照らし出された肢体は、意外とほっそりしている。この人は女性だ。そうに違いない。……もし強行突破するなら、正面だ。

「私たちは確かに、大変なことをしてしまった。だからもう…八方塞がりなの。…そこの子が紺野さんの『計画』に関わっていると知った時、もう彼女を頼るしかない、と思いつめたわ。最初は街中で声を掛けた。企業のマーケット調査を装って近づき、あたりさわりのない話をして、こちらの話に乗ってきそうな子だったら、謝礼を渡して協力を仰ごうと思ったの…」

ちら、と柚木を見た。柚木はサングラスを突き通すような目つきで彼女を睨みつける。

「あのしつこいキャッチみたいなのも、あんたたちだったの!」

「…彼女とは、話すら出来なかったわ。それで…こんなことに」

「ばかみたい!」

「そうね……」

彼女は顔を伏せた。浅くかけたサングラスの隙間から、長いまつ毛と黒目がちな瞳がのぞいた。…僕と同じくらいか、年下かもしれない。月の光しか頼れないながらも、相当な美人だってことは薄々分かる。

「こんなことを頼めた義理じゃないことは分かっているの。でも、お願い!あなたに協力してもらえなかったら、私達は……」

消え入るように、言葉が切れた。肩が震えている。


「……私達は、人殺しになってしまう……!」


「畜生!!うぜぇんだよ!だれが人殺しだ!!」

僕の横にいた男が、狂ったように吼えながら僕の腕を掴む。柚木の横の奴が、慣れない手つきでおずおずとロープを広げた。

「こいつらふん縛るぞ、手伝え!!」

「ま…待って、もう少し話を」

「いい加減にしろ!!」

パァン、と弾けるような音と共に、彼女が地面に倒れこんだ。サングラスが吹っ飛び、切れ長の大きな瞳がこぼれた。

「なっ……何するんだ、その人、仲間なんだろ!!」

「はん、これだから女は使えねぇんだよ。…もう交渉の余地なんかあるか、こいつらを『あいつ』の代わりに使って、あいつは病院に返す、それで万事終了だ!!」

「さっき聞いたでしょ!この子たちには家族がいる、すぐに足が着くわ!!」

「だからどうした」

「……!!」

「家族に愛され続けた甘えん坊の田舎娘が、都会に出て悪い遊びにハマってすっかりヤク漬けのラリパッパになって新大久保で立ちんぼ中に家族がハッケーン、なんてのはよくあることだろうが!そのころにゃ、すっかり廃人になって俺達のことは覚えてねぇよ!!」

柚木の顔が、さっと青ざめた。…そうか、女の子は死ぬだけじゃ済まないのか…。僕は柚木を後ろにかばいながら、カバンの中身を思い返した。…ノートパソコンと、フリスクと教科書くらいしか入っていない。

何か武器になるものがあれば、こいつを脅して柚木だけでも逃がせるのに……。自分の用意の悪さに舌打ちしたくなった。

「さ…最低……!!」

「もちろん、俺達が散々マワしたあとにな!!そっちのガキはマグロ漁船に乗せて、船長に金掴ませて太平洋の真ん中で水葬だぁ!!…知ってるか?船長はなぁ、船内で死人がでたら海に棄てる権利があるんだぜ!?…都会ではなぁ、誰が消えようが証拠隠滅の方法なんざいっっくらでも……っ」

「うひょあっ!」


挿絵(By みてみん)


ズガン、という鈍い音と共に、男の怒鳴り声が低い呻きに変わった。震えながら崩れ落ちる男の背後に、信じられない人が現れた。


「……鬼塚先輩!!」


男を撥ね飛ばした鬼塚先輩は、おろおろしながらボロいランドナーから降り、僕たちを見回した。

「いやすまん!…なんだかあそこから、急にブレーキが利かなくなってな」

鬼塚先輩は、背後の長い坂を指さした。

「どうもご迷惑を……あれ、動かないなこの人…あぁ、やばいかもな、脳震盪起こしてら…おや表情硬いな、姶良よ。お取り込み中か?…ん、なんだそっちの方は、ロープを斜めに構えて…」

柚木に縄をかけんとしていた細身の男が、小さく呻いて後じさった。

「まったく危ねぇな、このブレーキが…おや、利くぞ、えい、えい」

呑気にブレーキの利き具合を試していた鬼塚先輩が、ふいに神妙な面持ちで顔を上げた。

「…なぁ、姶良よ」

「は…はぁ…」

急転した状況がよく飲み込めないけど、とりあえず返事をする。鬼塚先輩は満身創痍の僕をじっと見据えて、眉をしかめた。月の光が逆光になって、眉の動きしか見えない。

「……お前の自転車、屠られたな」

「……!」

なんで分かったのだ、と問い返す前に、鬼塚先輩はグイとランドナーを引いて、僕の足にタイヤを押し当てた。

「…なっ」

「何か、起きてるんだろう。…こいつは、そういうモノなんだ」

足元に転がっていた男が、呻きながらもぞり、と肩を起こした。鬼塚先輩は奴の背中をぐいと踏みつけると、僕にランドナーのハンドルを手渡した。錆がういたハンドルに触れた瞬間、ぞわりと全身の毛が逆立つような寒気に襲われた。


「少し早い気がするが…今が『その時』だ。わかるな、姶良よ」


息を呑んで、鬼塚先輩を見返す。この声は、先輩のものであって先輩のものではない感じがする。この自転車を乗り継いできた、歴代の継承者達の残滓を帯びて、妙に錆びた深い声だった。……結局、鬼塚先輩の「予言」は正しかったのか。

「…借ります」

僕はゆっくり頷くと、柚木を促してランドナーにまたがった。柚木が荷台に腰掛けたのを見計らってペダルを踏みこむ。背後で車のドアが閉まり、排気音が響いた。僕はギアを最大にして、足に力を入れた。




背後に追手の気配を感じながら、ペダルを何度も踏み込む。それは、ふいごを踏むように風を捲き起こして、僕らはどんどん加速していく。


―――速い。


驚いた。ペダルはちっとも重くないのに、今まで乗ったどの自転車も比較にならないほどにぐんぐん加速する。追手との距離は、広がらないけれど縮まない。50~60キロは出てるんじゃないか。腰に回された柚木の両腕に力が入った。腹を締められているような形だけど、もう全然痛くない。いつから痛くないんだろう…こいつに乗った瞬間からだ。

――これが、鬼塚先輩が毎日がちゃんがちゃんイワせながら汗だくで漕いでいたオンボロランドナーと同じものか?…まるでロードバイクみたいな乗り心地だ。ポジションも測ったように僕にぴったりで、立ち漕ぎなんてしようとも思えない。

「…おかしいだろ、これ…」

必死に漕いでいるうちに、頭の中がぼうっとしてきた。……これは、ランナーズ・ハイってやつだろうか。耳を裂くような冷気も、足の痛みも、追手の気配すら、ゆるいけだるさに溶け込んで心地いい。ペダルを踏むたびに増していく風の轟音とランナーズ・ハイの恍惚状態は、僕を世間から少しずつ切り離していく。今僕の周りにあるのは、轟音と真冬の冷気、息が詰まるような風圧……それと、背中に感じる柚木の体温だけだ。…今の僕は、追われる恐怖からペダルを踏んでいるんじゃない。


ただ走るためだけに、ペダルを踏んでいる。


電信柱の横をすり抜けるときに一瞬生じる「ゴゥッ」という気流の乱れ。それにも似たような雑音が、風の音に混ざっている。とても小さな違和感…故障の前兆かもしれない。僕は慎重に耳をそばだてて、音を拾う。

《……レ………ガレ………》

その音は気流の乱れにも、老人の錆びた呻き声にも、錆びて壊れかけた部品の悲鳴にも聞こえる。試みに少しだけ、速度を落としてみた。気流が緩まるのに比例するでも反比例するでもなく、謎の怪音は耳の後ろ辺りをかすめ続ける。

《……ガレ………マガレ》

―――なんだよ、よく聞こえないよ

《……マガレ……ニマガレ》

―――分からない!もう知るか!!

《――右ニ曲ガレ!!》

錆びた声が、ぴしゃりと耳朶を打った。僕は咄嗟に右にハンドルを切って一方通行の路地に飛び込んでしまった。

「うわあぁぁあ!!」

その刹那、対向車のヘッドライトが眼窩を焼いた。もう駄目だ、避けられる距離じゃない。僕と柚木はこのまま跳ね飛ばされて死ぬ……ぐっと目を閉じた瞬間、フロントに強い衝撃を感じた。

「……あれ」

思ったよりも痛くない。ぎゅっと閉じた瞼の裏は、ヘッドライトに透かされて赤い。…ということは、僕は生きている。そっと片目を開けた。僅かに凹んだバンパーと、マツダのエンブレムが視界に入った。

「あー! バンパー凹んだじゃねぇか!!」

若い男の声が降ってきた。ヘッドライトがまぶしくて顔が確認できない。…でもこの声を聞いた瞬間、安堵で膝が震えた。

「……紺野さん!!」

「あっ……姶良……?」

その声で名前を呼ばれたとき、情けないけど涙が出てきた。柚木も、僕の腰に回した手をゆっくりほどいて、声をあげて泣いた。

「おいおい……なんだ、これ」

からころちりん、と軽やかな音をたてて、ランドナーの部品が数個、壊れて地面に転がった。背後で一瞬車が徐行する気配を感じたが、やがて排気の音と共に消えていった。




僕は今、自動車の排気を体いっぱい浴びながら自転車を漕いでいる。


2時間以上逃げ回って体中ボロボロなのに、紺野さんに『その自転車を積むスペースはないぞ』と冷たく言い放たれたのだ。

「家に戻るのは危険だろうから、ひとまず俺の家に来い」

という流れになり、僕は再び紺野さんの車に先導されて自転車を漕ぐことになった。

さっき壊れ落ちた部品は大して重要なパーツではなかったらしく、普通に漕ぐには支障はない。しかし逃走時の驚異的な乗り心地はどこにいってしまったのやら、さっきからひと漕ぎするたびに『ぎいちょ、ぎいちょ』と変な音がするようになった。しかも変速機もどうにかなってしまったらしくて、ギアがチェンジできない。つまり、僕はヘトヘトに疲れているのに、坂道だろうが何だろうが容赦なくトップギアで重―いペダルを漕ぎ続けなければいけないのだ。


―――うわ地獄だ。軽い地獄だ……


息をあえがせながら、街灯の光をたよりに車内の様子をうかがう。さっきまで泣いていた柚木はもうすっかり落ち着き、照れ笑いすら浮かべている。広くて快適そうな後部座席で、あったか~い缶コーヒーを飲みながら……


よかった……と思う反面、こん畜生、とも思う。


バックミラーごしに、紺野さんと目が合う。奴は明らかにニヤニヤしている。普通に、こん畜生、と思う。どっかの誰かのお陰で、2時間も走り通しで死にそうな目にも遭ったというのに、結局柚木の笑顔を引き出すのは、最後に登場した紺野さんが、なにげなく差し出した缶コーヒー1本なのだ。……理不尽この上ない。


…考えてみれば、こんなボロいランドナーが、あんなにスムーズに走れるわけがない。あの走りは極限状態だった僕の『火事場の馬鹿力』だったんだ。走ってる最中、聞こえた気がした声は、ランナーズ・ハイによる幻聴にちがいない。

腕が痺れてきたので、ハンドルを逆手に持ちかえてみる。傷だらけのグリップが、ざらりと手のひらを撫でた。…不快だ。

「はぁ……そういえば……結局……どさくさで……継承しちゃったじゃん……」

坂道にさしかかり、膝を悪くしそうな勢いでペダルを踏み込む。サスペンションが、ぎぎぎいちょっ、がこん、と人を馬鹿にしたような音を立てて軋んだ。


「……畜生―――――――――!!」


八つ当たり気味にグリップを叩くと、ちゃりりぃぃいいん…と人をコケにしたように涼やかな音を響かせて、ベルの部品が闇夜に四散した。



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