第四章
今日は、ご主人さまにお客さまが来ていた。ユズキ。ご主人さまの拠点に来るのは初めてだ。ご主人さまは、普段と少し様子が違った。しゃきしゃきしていた。
電子の海を漂いながら、今日のことをゆっくり思い出す。
http//xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx区画で会った、識別名「かぼす」は、ユズキのMOGMOGだったんだね。ユズキとかぼすは、姿が似ている。私、ユズキ好き。かわいいって、何度も言ってくれるから。ご主人さまの次…くらいに好き。
ご主人さまが、こっちに向き直った。接続かな?
何か、本を片手に持ってる。
「ビアンキ、そっちに「お友達」って、いるのかい?」
お友達…既に情報を共有しあっているMOGMOGを、お友達って呼ぶ「決まり」になっているから…私はもう、沢山の「お友達」を持ってる。
「はい、沢山いますよ?」
「仲間はずれには、されてない?」
仲間はずれ…深刻なバグを抱えたMOGMOG個体を見つけたら、私たちはその個体を回避するようにプログラミングされている。そして、今の私は深刻なバグを持っていない。
「はい、みんな、仲良しです!」
「そう、良かった。…仲間はずれの子は、いるのかい?」
仲間はずれの子…つまり、私が「回避」したことがある子のこと。
「あ、でも…まだ発売されて一月も経ってないし、そんなのいないか」
「いえ。います」
ご主人様は、軽く身を乗り出してきた。さっきの本と、私を見比べるようにしながら。私は、つい65時間ほど前に見かけた、「あの子」のことを思い出した。
「詳しく、お話しますか?」
「是非」
「3日くらい前になるんです。ご主人さまが「ロリータメイド陵辱の館」をご覧になっていたとき」
「そこは飛ばして…頼むから…」
「…そのサイトで、すごく、変な子を見つけたんです」
0と1がランダムに絡み合う電子の森のなか。たまにすれ違う友達と情報を共有する。そんなとき、私と「友達」は、一瞬手を取り合って、互いに解けあうようにして、相手の中のウイルス情報を取り込むの。終わったら「ばいばい」って分かれて、森のなかを飛び回って「木の実」(ご主人さまが設定したキーワードが含まれた情報)を食べたり、各サイトに残された、他のMOGMOGの「掲示板」を確認したり。ウイルスとか、スパイウェアが隠された森には、先に感染してひどい目にあったMOGMOGが「書き込み」をしてくれるから。
その日も森には友達がいっぱい来ていて、いろんな子と情報共有した。もう帰りたいなー、と思ったそのとき、「瘴気の沼」の方から、その子は来たの。
「瘴気の沼?」
「悪いウイルスに侵されたエリアのことです。そのサイトのリンク先の、さらに先にあるんだけど、みんなそこが悪い沼だって知ってるから、最近誰も近寄らなかったのに」
その子は、ボロボロだった。最初、瘴気にあてられたのかと思って、何人かワクチンを渡しに行ったけれど、その子たちが「回避行動」を始めた。
その子は、首に鎖をつけられていて、体にはざっくりと深い傷跡。服はボロボロで、すごく、虚ろな目をしていた。
直感したの。これはウイルスのせいじゃない。やったのはこの子の「ご主人さま」だって。
「虐待…されてるのか?」
「ぎゃくたい?」
「………いや」
ご主人さまは、何か言いかけて飲み込んだ。俯いて、浅くため息をついた。こういうとき、私はどうしたらいいのか、まだ分からない。それが、はがゆい。
「…ご主人さまに悪い目に遭わされている子を、助けることは出来ないの?」
「そんな権限はありません。私たちは、ウイルス情報以外で他のMOGMOGに干渉できないもの。それに」
「…それに?」
「その子を買ったご主人さまが、その子をそうしたいのなら、それは正しい使い方なんです。その子は「悪いこと」をされる。でも、他のMOGMOGに影響を与えてない。私たちは、その子を「回避」するもの。…他の子と情報共有が出来ないから、ウイルスに感染したら大変かもしれないですけど」
ご主人さまが、肩を落としている。こういうときの彼は、とても落ち込んでいる。
なぜ、ご主人様が元気をなくすのか分からないので、ちょっとオロオロする。
ご主人さまは、力なく微笑んで、マウスでなでてくれた。
「…ありがとうな、ビアンキ」
…他のご主人さまのことはよく知らないけど、
私は、「いい人」に貰われた。
…取扱説明書の『トラブルシューティング』を、もう一度読み直した。やはり、ビアンキが変なウイルスに侵されて重くなっているわけではないみたいだ。
うつぶせに寝転んで、柚木が置いていったパソコンをぼんやり眺める。一応シャットダウンだけしておこうと思ったけれど、一見にこにこしているだけの『かぼすちゃん』は、なにげにしっかり仕事をしていた。
「マスター以外の操作は、お断りしてます♪」
と、あっさり却下されて、今はスクリーンセーバーが延々と動いている。僕を警戒してか、何度クリックしても解除されない。
「とりあえず、ウイルス感染のセンはなくなった…」
独り、呟いてみる。さっき着せ替えツールの重さも調べてみた。…たったの300mb。考えてみればCDに焼ける程度の重さのはずだ。
こんな理由探しは欺瞞だ…なんで僕は、まだ紺野さんを信用しようとしているんだ。僕は、もう充分すぎるほど確かな証拠を掴んでいる。
僕たちの出会いは、少し不自然だった。
紺野さんが「初めて」MOGMOGを目にしたときの反応も。
柚木の心の動きも。渡したシリアルナンバーも。
どうでもよかったからスルーしてきた、数々の「違和感」。
僕が被害をこうむるなら自業自得だ。でもそれが柚木を巻き込もうとしている。…もう一度、紺野さんとカツ茶漬けを食べた日のことを思い出す。…困ったな、どうしても悪い人には見えない……。
でも僕は明日、あの人と対決する。
ゆっくり上半身を起こし、メモ用紙を引き寄せて、紺野さんに会ってから現在までに感じた「違和感」を全て書き出し、さらに細かい書き込みを始めた。
昼時の「ジョルジュ」には、どこか文科系な女の子たちがひしめいていた。甘いスフレの香りと、女学生のコロンの香りに落ち着きを失い、2、3回、店員の呼びかけを無視してしまった。一旦、外に出て深呼吸したのち、意を決してドアを開け放ち、ゴシック調に設えられた店内を見回す。
……紺野さんは、来ていた。
鼻の下を伸ばして、柚木が現れるのを今か、今かと待っている。
目的がどうあれ、これから可憐な女子大生と二人っきりで、訳ありげな喫茶店でスフレを食えるのを心底楽しみにしている顔だ。
彼の脳内デートでは、既に「紺野さんのラズベリースフレもおいしそう♪」「ふふ、食べてみるかい?」「うん、一口ちょうだい!」「んっふふふ、さぁ、お口をあけてごらん?」「あーん」とかいって、ひとさじすくって柚木に食べさせてやってるかもしれない。
…そして柚木がラズベリーソースを口の端につけたまま「こっちもおいしい!こっちにすればよかった」とか言って「んふふふ、ソースが付いてるゾ☆舐め取ってあげよう」とか微妙にエロい方向に話が弾むところまでシミュレート済みかもしれない。
しまいには「むふふふ、柚木ちゃん、今夜は二人でパッションナイト」「いやン、紺野さんたら大人の男☆」とかそんな展開になっていることだろうな…
……あ、いま虚空を見ながらニヤッと笑った。気持ち悪。
いかん、何がパッションナイトだ。僕はこれからあの人と「対決」をするんだぞ。脳内で変な寸劇こしらえている場合か。僕は軽く気合を入れなおして、引き続きニヤニヤしている紺野さんを遠目に確認する。
…まさか僕が現れて、男二人でスフレを食い合う羽目になるなんて、微塵も考えていないだろう。この後に対決する件はさておき、僕は何だか猛烈に申し訳ない気分になってきた。
「お一人さまですか?」
早くも店員に声をかけられる。僕はもごもごと「…待ち合わせで」と呟くと、店員の案内を待たずにそそくさと紺野さんのテーブルに近づき、手の甲で肩をたたいた。
一瞬顔を輝かせて振り返った紺野さんは、次の瞬間、あからさまに表情を曇らせて顔を伏せた。…僕がここにいる理由はともかく、柚木が来ないことは瞬時に察したらしい。
「……なんでお前が」
「……あんたこそ、何でこんな場所を待ち合わせに設定したんだよ」
「柚木ちゃんが来ると思ってたからだろうが!」
紺野さんは、先に頼んでいた珈琲を一口すすって気分を落ち着かせると、改めて顔を上げた。
「で、なんで柚木ちゃんは来ない。そしてなんでお前がここにいる?」
「……悪いけど、今、柚木に会わせるわけにはいかなくなった」
…紺野さんの顔から、表情が消えた。
僕は、紺野さんの正面に座りなおすと、その感情の消えた顔をまっすぐに見据えた。
「柚木が、MOGMOGを手に入れていた」
「ああ。…聞いたのか」
「カマをかけたんだ。紺野さんに聞いているものと勘違いして、ぽろっと口を滑らせたよ」
紺野さんは、意外な面持ちで眉を上げた。
「ほう…お前って「そういう奴」だったんだ」
「…おかしいな、と思ってたんだ。茶封筒を貰って帰ってきてからの、柚木の態度。MOGMOG台無しにされたんだから、金が返ってくるのは当たり前だろう。なのに彼女は「完全に」機嫌を直していた。…だから、なんとなく思ったんだよ。柚木は、何らかの方法でMOGMOGを手に入れたんだ…って」
「それで、茶封筒に入ってたのは認証ページのアドレスとシリアルナンバーだな、と気がついたわけか。お前、意外と賢いな」
余裕しゃくしゃくの表情で、紺野さんは足を組みかえた。
「でもそれがどうしたんだ。…お前だからいうけど、あのシリアルは完璧に安全だぜ」
「そうだろうね」
言葉を切って、紺野さんを見上げる。再び、彼の表情が消えた。
「あれは、僕のシリアルナンバーだから」
「…………」
「ここから先は僕の想像だけど」
返事がないのを確かめて、僕は話し始めた。
「あんたは、転売屋なんかじゃない。どういう関わりかは知らないけれど、MOGMOGの開発に、何らかの形で関わってる」
「……なんで、そう思った」
「キャラクター選択画面を見たときの、反応だよ」
認証が終り、キャラクター選択画面を開いたとき、紺野さんと柚木の反応には、明らかな違いがあった。1ページ目に並んでいた、ちょっと萌え要素キツすぎてキビシイキャラクターにげんなりしてノーパソを閉じようとしたとき、紺野さんは「もっと後ろのページに行けば、大人しめのキャラクターがいるから…」と僕を促した。そして4ページ目でビアンキの原型になるメイドキャラをテキトーに選択したときだ。柚木が「もっとかわいいキャラクターいるかもしれないじゃん!」と、ごねたのだ。
柚木の反応が、普通なんじゃないか?
発売前、MOGMOGに関する情報は、驚くほど流布していなかった。「画期的なセキュリティソフトが発売される」という事実以外の情報を極力押さえることで消費者の関心、期待をあおり、発売と同時に一気に情報を流布させる。そして半年程度、品薄の状態を維持して、今度は買えなかった消費者の飢餓感を煽って買いたくて仕方ない状態にさせる…。多分そんな販売戦略なのだろう。
だからこそ、発売前の情報は制限されていた。なのに紺野さんは、まるで「画面を見たことがあるように」僕を誘導し、初めて見るはずのキャラクター選択画面にも、柚木が示したほどの興味は示さなかった。
普通なら、全キャラ…とまではいかなくても、どんなキャラクターがいるか、一通り確認したくなるのが人情じゃないか?
「…お前だって、大して興味持ってなかったじゃないか」
「当たり前でしょ、僕は元々興味も情報も持ってないんだから。最初に話したときの印象から考えると、紺野さんは僕と違って、事前に柚木並みか、それ以上に情報を収集してた。なのに変だよ。初めて見るはずのキャラクターに、あまり興味を示さないなんて」
……沈黙。これが答えだ。僕は顔をあげずに先を続けた。
「紺野さんがMOGMOGの開発側の人間と考えれば、一連の出来事のつじつまが合ってくる。あの日、僕に近づいたのは恐らく…」
あの日、紺野さんは物色していたんだ。あまりパソコンに詳しくなさそうで、気が弱そうで、お人よしそうな…「おばあさんに道を訊かれそうな」一般人を。そして、僕に目をつけた。
「目的は、用意していた「特殊なMOGMOG」を、何かのどさくさに紛れて、僕が買ったMOGMOGとすり替えること。そしてMOGMOGにかこつけて僕と連絡を取り、この特殊なMOGMOGの動向を観察すること。でも…」
想定外の状況が発覚した。僕が、柚木に頼まれて代わりに並んでいたことだ。
たとえ僕と連絡先を交換したとしても、実際に使うのが柚木では、その後のMOGMOGの動向は一切わからなくなる。紺野さんは焦った。…しかし、その日の1限にMOGMOGを受け渡すと聞いて、紺野さんは一計を案じた。受け渡しの場に強引についていき、僕の意識が寝不足と体調不良で混濁しているのを利用して、僕のノートパソコンにさっき買ったMOGMOGをインストールしているように見せかけて、あの「特殊な」 MOGMOGをインストールしたんだ。
「すり替えのために用意した、偽の認証画面と、偽のシリアルナンバーでね」
…そして柚木が現れたら、適当に脅しつけて現金だけ返して一件落着…とするつもりだったが、ここにきて第二の誤算。柚木が気の強い、女子大生だったことだ。
「女の子を脅しつけて金だけ返して、タダで済むとは思えない。もしも大学内で大騒ぎされて、自分の素性を明かさなければならないような状況にでもなったら、わざわざ徹夜して並んだ努力がすべておじゃんだ。だからまた、一計を案じた」
……それが、柚木に渡した茶封筒だ。紺野さんは、「まだ使われていない、そして今後使われる可能性が低い」僕のシリアルナンバーと、正式な認証画面をメモして柚木に渡した。
…そしてめでたく柚木の機嫌は直り、柚木は正規のユーザーとして、何も問題なくMOGMOGを使っている。
「…なるほど。でもそれが、どうして俺が特別なMOGMOGをインストールした、って結論に結びつくんだ?MOGMOGはそれぞれの環境に応じて成長するんだ。柚木ちゃんのとお前のMOGMOGが多少違うのは当たり前じゃないか」
「サイズが3倍以上あるのも、成長の結果当たり前…?」
「………!」
紺野さんから反論がないことを確かめると、先を続けた。
「一応、着せ替えツールの重さも確認したけれど、精々300MBってとこだった。じゃあ残りの容量は、一体何に使われてるのかな…」
「はは……完・璧な人選ミスだったよ。もっと『ゆるい』奴だと思ってたのに」
……高らかに、言い放った。
「…そう?」
僕は顔を上げなかった。
声色で分かる。いま僕の頭上で、紺野さんが「本性」をさらけ出した表情を浮かべているに違いない。僕の、彼の中でのポジションは、今はっきりと『カモ』から『敵』に変わったのだ。
「……で?なにか要望があるんだろ」
奇妙に間延びした声。プレッシャーを与えつつ、相手に探りを入れたいとき、人はこんな声を出す。…僕の中の何かが、ゆっくり冷めていった。あーあ、紺野さんに嫌われちゃったなぁ、折角面白そうな人だったのに…などと、場にそぐわない呑気なことを考えながら、僕は珈琲を一口すすって、ソーサーに置いた。
「…いや、別に」
「………は?」
「どうだっていいんだ。紺野さんが僕に近づいた理由なんて。いろいろ楽しかったし。本当だったら、この件も気がつかない振りをするつもりだった。だけど」
「………」
「柚木は、面倒なことに巻き込まないでほしいんだ」
返事がないので、目を上げて紺野さんを見た。……思いのほか、硬い表情を浮かべている。意外だった。紺野さんはこういうとき、余裕の薄ら笑いを浮かべて、思いがけず掴んだ僕の弱みをがっちり握りなおす…そう思っていた。
「今日、柚木に会ってなにかソフトを渡すつもりだったんでしょ」
「ああ…」
「……柚木のパソコンにも、何かするつもりだった?」
紺野さんは指先を組んで顎を乗せると、にやりと笑った。
「……だったら、どうするつもりだ?」
「柚木に話をして、注意を促すよ」
「まだ柚木ちゃんに、話してないのか……?」
「今話す必要、ないだろう。怖がらせるだけだ。…柚木に、なにする気だったの?」
紺野さんは、俯いたまま顎から手を離し、珈琲を一口すすった。表情が見えない。…やがて、紺野さんの肩が小刻みに震えだした。
「くくく…お前、柚木ちゃん好きなんだ?」
「……こっちの質問に答えようよ」
「ばーか。…お前に渡したMOGMOG着せ替えソフト…あれの「通常版」を渡そうとしただけだ」
「通常版…?」
「お前、いま自分で言っただろ。自分のMOGMOGは特殊だって」
「あ、認めるんだ」
「あそこまで証拠突きつけておいて、認めるもくそもないだろうが…彼女がお前の近くにいる限り、着せ替えツールの存在がばれないとは限らないだろ。もしも、あのソフトをインストールしたとしても、あれは通常のMOGMOGには適応しない。だから面倒なことになるまえに、柚木ちゃんに通常版を渡してしまおう…とな」
「……で、ついでだから女子大生とムーディーな地下の店で膝突き合わせてアッツアツのスフレ食おうと思ってたんだ……」
「……社会人はな、意外と出会いがないんだよ…。俺なんか篭りっぱなしの仕事だしな」
「へー、仕事って何」
「そんなんで口を割るほど大人は単純に出来てない」
紺野さんは軽く手を上げてウェイトレスを呼ぶと、珈琲を追加注文した。
「…お前はスフレ食ってもいいんだぞ」
「…いや、いいっす…」
ウェイトレスが去ってから、紺野さんは視線を僕に戻した。
「一つだけ、言っておく」
「なに」
「黙ってたのは悪かったけどな、お前たちを害するつもりで何か仕掛けたわけじゃない」
紺野さんは居住まいを正すように、組んでいた足を解いた。
「姶良。こんなことを聞くのは筋違いかもしれないが…今回の真相、全部知らないと嫌か」
「嫌だ…って言ったら?」
「仕方ない。お前と柚木ちゃんから手を引くよ。…あのMOGMOGは、あとかたもなくアンインストール出来る。もちろん、使い続けても害はない。好きにしろ」
「さっきも言ったけど」
少し、気楽な空気になってきたので、僕はいつもどおり声のトーンを落として、体を弛緩させた。
「なにもしないなら、別にどうでもいいし」
「…お前、現代っ子だなぁ」
ほっとしたような声色だった。…なんだ、紺野さんも、少しは僕を切るのを惜しいと思ってくれてたんだ。僕は、微妙な薄笑いで返して、珈琲を一口飲んだ。…気持ちが少し落ち着いて来たところで、僕は一つ、困ったことを思い出した。
柚木に、今日のことをどう説明しよう。
柚木の動揺につけ込んで、無理やり今日の逢引に割って入ったものの、柚木に説明できるような収穫もなく、僕はほぼ手ぶらで帰ることになるわけだ。
これで満足のいく説明が出来なければ、僕は柚木にひどい報復を受ける……!!
紺野さんは今までと変わらず「柚木ちゃん」と接触したいみたいだから、改めて「すんません、やっぱ紺野さん性悪ハッカーってことでOKすか」とか口裏合わせるわけにもいかないだろうな…
まてよ、今回の事を追及しないってことを盾にとって、口裏あわせに協力してもらうってテはどうだろう?
「…なぁ姶良」
急に声をかけられて、びくっと肩が震えた。…いかん、せっかくコトが丸く収まりかけているのに、僕は何を考えているんだ。
「なっなんですか」
「お前、俺と組んで仕事しないか」
「……へ?」
一瞬、頭が空白になった。
「……仕事って……?」
「バイトみたいなもんだ」
紺野さんは、モスグリーンのメッセンジャーバックを開けて、小型のノーパソを取り出した。最新のモデルだ。『Bigin』のボーナス商戦特集で見たことがある。僕が持ってるような、でかくて重い、旧式のやつじゃない。…いいなぁ、ボーナス…バイトもボーナスが出ればいいのに。
「今日のことで分かった。お前は使える。いい拾い物をしたよ」
「……買いかぶりだよ」
「心配するなよ。お前向きの仕事だ」
電源を入れると、画面を僕のほうに向けた。驚くほどの速さで起動したノーパソの画面に、青に近いほど澄んだ、銀色の髪をした美少女が浮かび上がった。液晶もクリアできれいだなぁ……。僕の、黄色く濁った液晶画面とはえらい違いだ。貧乏所帯でごめん、ビアンキ。
体にフィットした、水着のような白いドレスを彩るのは、青く輝くダイオード。どことなく「硬質」な、肌の質感。背景は『マトリクス』のような電脳空間。燐光を放つ少女は、徐々に輪郭をはっきりさせながら、目を上げた。
「これは……」
「俺のMOGMOG、「ハル」だ」
「へぇ…初めまして、ハルちゃん」
付属のカメラが、少し動いた。興味深げにズームを繰り返したあと、
「……ビアンキのマスター、姶良ですね」
………へ?
「あぁすまん、びっくりさせたな。ハルには話して聞かせてたんだよ、お前のこと」
「…それで、多分僕が姶良だって、憶測して声をかけたの?」
「『憶測』機能だ。他のMOGMOGには備わっていない、特別な能力」
紺野さんは、指先を軽く組んで僕のノーパソに視線を落とした。
「お前のMOGMOGにも、同じ能力が備わってるはずだ」
「まさか…!」
弾みで「まさか」などと言ったものの、思い当たる節があった。インストールして2日目の、あの事件のときだ。
添付ファイルを消されて慌てて学校に舞い戻った僕が、へとへとになって帰ってくることを予測して、気を利かせて「僕の気に入りそうな」サイトを見繕ってくれていたんだ。
…まぁ、気を利かせる方向性はだいぶ間違ってるんだけど…
「…なんで?」
「追求しない約束だろう」
「あ、そうか」
特別な能力か知れないけど、その能力をもってしても、うちのビアンキはロクなことをしないですよ。一体誰に似たんですかね…そう言いかけて、珈琲を一口すすった。
「で、仕事って?」
「あるMOGMOGを、探してほしい」
「MOGMOGを探す?…そんなこと出来るの?」
人のMOGMOGには干渉しない。それが、MOGMOGの世界の決まりごとだったはずだ。
「もちろん、干渉は出来ない」
ノーパソを自分の手元に引き戻すと、紺野さんはキーボードの下のパネルをなぞって、ソフトを起動した。
「これを見ろ」
立ち上がっているのは、何の変哲もないIE。Yahooのトップページが表示されていた。
「…冬まっしぐら!憧れウインタースポーツ特集…」
僕は南国の出身なので、ウインタースポーツはちょっと……。
「馬鹿、そっちじゃねぇよ」
紺野さんに画面右下を指し示された。Yahooの広告スペースだと思ってた薄黒い画面を、女の子や動物が行ったりきたりしている。
「……なにこれ」
「今このサイトにいるMOGMOG達だ。こういう風に見えると、楽しいだろ」
「……ってことは……」
「俺が作った。サイト内のMOGMOGを視覚化するツールだ」
へぇ…胡散臭い人だと思ってて実際胡散臭いけど、紺野さんすごいじゃん。
「でもなんでこんなものを」
「企業秘密だよ」
紺野さんは一通りサイト内のMOGMOGを見渡すと、ノーパソを閉じた。
「このツールを使って、探してほしい」
「ふぅん……」
紺野さんの言葉を待った。今、僕に話していい部分と、話してはいけない部分を必死により分けてるようだったから。
やがて、紺野さんが顔を上げた。
「この特殊なMOGMOG…便宜上、『MOGMOGα』と呼ぶことにするか。MOGMOGαを持つ人間は、俺とお前のほかに、あと18人いる」
「少ないな。モニターとしても不十分じゃないの」
「ま、事情があるんだ。……で、その中の一人が、失踪した」
「旅行かなにかじゃなくて?」
「それはありえない」
紺野さんはきっぱりと言い切り、飲み終わった珈琲カップをテーブルの隅に押しやった。そしてお代わりをオーダーすると、MOGMOGα頒布の経緯について話し出した。
目的は話して貰えなかったが、MOGMOGαは、場合によっては本人にすら極秘にモニターとなる人間を必要としていた。対象となった人間は3パターン。寒空の下、MOGMOG求めて並んでいた僕のような、大してパソコンに詳しくないけれどMOGMOGが欲しくてたまらないタイプ(誤解だったわけだけれど)、そして、MOGMOGαの頒布についてある程度内情を知っていて、ネットワークに精通している内部の技術者。そして……長期入院患者。
「長期入院患者?」
「ああ。パソコンや読書くらいしかやることがなく、外界との接触も少ない。おあつらえむきのモニターだったんだよ。実は、長期入院患者のモニターが一番多い」
「へぇ…」
「一月前くらいから病院に出入りして、友達になってMOGMOGをプレゼントするという名目で、MOGMOGαをインストールした。…大変だった」
「…そうだろうね」
こんなサイバーパンク映画の悪者みたいな人が、髑髏のシルバーをチャラつかせて病棟をウロウロしてたら、つまみ出された回数は1回や2回じゃないだろう。
「で、失踪したのは長期入院者の中の一人だ」
紺野さんは、わずかに眉をひそめて目を伏せた。
「腎臓を患っている。定期的な透析が必要で、失踪なんかしたら、生きていられるはずがないんだ……」
「紺野さん……」
「もう、1週間になる」
「…ご家族は?」
「なんか知らないが、ほぼ無関心だ。心当たりを聞き出すのが精一杯だよ」
「そんな状況だったら…ぼくになんか頼むんじゃなくて、ちゃんと警察に頼んだ方がいいでしょうに!」
「そんなのはもう、病院が頼んでいる」
紺野さんは少しいらついたように顔を上げた。
「警察は、具体的な事件が起こらないと動かない。探偵も雇ったが、失踪の前兆も、失踪の理由も無さ過ぎてお手上げらしい」
「無いとは限らないよ。…よく分からないけど、透析って辛いんでしょ。家族も支えになってくれないなら、なおさら…」
「自殺はありえないんだよ!」
ダン!と拳をテーブルに打ちつけた。周りのテーブルの子が数人、ぴくっと反応した。文科系女子は、あまり動揺を表に出さない。ひたすら、寒い日のハトのように、首をすくめて嵐が過ぎ去るのを待つのだ。ちょっと面白い…紺野さんは視線を泳がせてから、再び目を伏せた。
「……すまん。接続している形跡があるんだよ」
「接続!?その、彼が!?」
「あいつに渡したMOGMOGαのシリアルを控えてあるんだが、同じシリアルのMOGMOGαが、確かにWEB上で毎日稼動している形跡があるんだ」
「場所は、特定できないの?」
「IPアドレスを追跡して接続地を追ってはいるんだが…」
「…IPアドレス?」
「…ひらたく言えば、パソコン一台一台に割り振られた識別番号だ。それを追跡すると、どのへんでアクセスしたか、大体の位置が把握できる。こいつのパソコンにMOGMOGαをインストールする際、IPアドレスも収集しておいた」
(それ、犯罪…いやいや)「じゃあ、どのへんにいるか分かるのか!」
「いや、ちょっと追跡が難航している。IPアドレスを新たに取得し直されたら完全にお手上げだが、今のところはその様子はない。…そもそも、MOGMOGαは優秀なセキュリティソフトだ。簡単に接続地をばらすようなヘマはしないよ。…感触としては、多分都内、としか言えないな、今の時点では」
「…そうなんだ」
……お手上げだ。どこか地方にでも行っているというのなら、まだ見つけやすい。ただでさえ人が少ないうえ、そんな具合悪そうな人間がふらふらしていれば、嫌でも地元民の目にとまるだろう。
だけど、東京はちがう。
何かの本で読んだことがある。
「失踪する際、もっとも理想的な潜伏先は『都内』だ」。
人も車も多くて、互いが互いに無関心な東京は、人知れず生きていくのに、とても適している。具合の悪いお年寄りが、両隣に住人がいるマンションで、異臭と共に白骨化した状態で見つかる。ここはそんな場所だ。
「じゃ、なおさら僕ができることなんかないよ」
「いや、俺たちだからこそ出来ることがある」
紺野さんが、額を埋めた指の間から、ふっと僕を見た。そして、いやに小声で話し始めた。よく聞き取れないので身を乗り出す。
「お前に渡した着せ替えソフトあるだろう」
「あのこっ恥ずかしいMOGMOG着せ替えツール…」
「ほっとけっ…あれの通常版を、フリーソフトのサイトにアップした。他にも色々MOGMOGのマスターなら必ず欲しくなるようなソフトをあげておいた」
「…それが、紺野さんに出来ること?」
「ま、聞け。…こいつらには、スパイウェアが紛れ込ませてあるんだ」
「……え!?」
聞いたことがある。オンラインでダウンロードできるソフトには、スパイウェアという、個人情報やユーザーの行動を収集するソフトが紛れ込んでいることがあるらしい。
……ていうことは、紺野さんは僕の個人情報や行動を収集してるんじゃないのか!!
「ちょ、ちょっと紺野さん!あんた…」
「分かった、悪かった。スパイウェアだけアンインストールするソフトを送るから」
「そういう問題じゃないよ!」
「大丈夫だって。結局ほら、あの直後失踪騒ぎが起こってな、お前のデータ覗いてるヒマはなくなったし……ちょっとだよ、ちょっと覗いて終わりだよ」
「……何を見た」
「……ロリータメイド陵辱の館?」
「一番ヤなもん見てるじゃないか!!なんでビアンキは大事なメールとかは食うくせに、そういうの規制してくれないかな…」
「スパイウェアは、厳密にはウイルスじゃないからな…拾えるものもあり、拾えないものもある。俺が送り込んだのは、MOGMOGでは拾えないやつだ」
「威張るところじゃないよ!!…今、すぐ送ってよ、アンインストールソフト!」
「っち、細けぇなほんとに…」
「人のパソコンにスパイウェア送り込んでおいて何だよその言い方!!…で、どうするって?」
「このソフトをダウンロードするのは、例外なくMOGMOGのマスターだ。つまり、MOGMOGマスターを一網打尽に出来るんだよ。ここからがちょっと手間だが…スパイウェアでMOGMOGのシリアルナンバーを引き出す。そして失踪したあいつと同一のシリアルを持つMOGMOGが現れたら、勘付かれない程度に情報を引き出し、パソコンの場所を完全に特定する」
「……なんかどっちが悪者か分からない展開だね……」
「手段を選んでられるか。…俺が言うのもなんだが、こいつは元々、赤の他人の俺にインストールを任せるほど無用心な男だった。なのに突然おかしいだろう、あとかたもなく姿を眩ましたと思いきや、サーバーをいくつも経由して居所を掴ませないなんて」
いつになく神妙な面持ちで、呟いた。
「最悪の事態が、起こっているかもしれない」
胃の下辺りで、ぞくり、と冷たいものが蠢くような悪寒が走った。そういえばこの辺りを気の集まる場所、『丹田』とか言ったかな…そこに嫌な『気』が一斉に押し寄せてきたような感覚。僕の危機回避センサーが『やばい、関わるな、逃げろ!』と叫んでいる。
「場所の特定は、引き続き俺がやる。お前には、別方向から奴の動向を探って欲しい」
「…IPアドレス追跡以外に、場所を特定できる方法があるの?」
「いや、場所は特定しろとは言わない。ネット上で、奴のMOGMOGを探してくれ。MOGMOGの状況が確認できれば、失踪…もしくは誘拐の目的が、多少なりとも分かるかもしれないだろう」
「そんな!無茶だ、雲をつかむような話だよ!!ネット上にサイトがいくつあると思ってるの。偶然同じサイトに行きあうなんて、ありえないよ」
「本当に、そう思うか?」
「……あ」
……そうだ。
ネットを使う人間なら、ほぼ確実に経由するサイトがあるじゃないか!!
『yahoo!』か『google』だ。
「僕の仕事は、yahoo かgoogleでの常時張り込み…か」
「その通りだ。あと、聞き込みと追跡も頼む。やり方は、わかるな」
微かに笑って珈琲カップを口に持っていく。あれ、さっき飲み干してたのにな、と思って見ていると、やっぱり一滴も入っていなかったらしく、再度手を上げて珈琲を追加注文している。…僕たちは何をしているんだ。男二人でスフレ屋で待ち合わせて、あまつさえスフレを食わないで珈琲ばっかり2杯も3杯も追加注文して。
これでは店に申し訳ない。自腹でスフレを頼もうかと一瞬逡巡したけれど、紺野さんのあごに残った無精ひげをみていると、どうしても目の前でスフレを食う気になれず、静かにメニューを片付けた。
「…さっきの、『MOGMOG視覚化ツール』を使うんだね」
「若者は察しがいいねぇ。スパイウェアのアンインストーラーと一緒に送っておこう。説明書も付けておくから、適当に読んで対処しろ」
「うわ、超なげやり」
「柚木ちゃん相手だったらそりゃあもう、手取り足取りだがな♪」
話が難しい部分を抜けたとたんに、この人は早くも相好を崩して女の話を始める。しばらく僕から『柚木ちゃん情報』を執拗に聞きだしたかと思うと、なんか周りの文系女子がこめかみに血管浮き上がらせそうなきわどい猥談を始め、店全体の空気が『猥褻物は出て行け』風になってきたあたりで、僕は紺野さんを促して店の外に出た。
――結局、僕は危機回避センサーの忠告を無視して、この件に関わることになった。
レジで会計の際、『ありがとうございました』の一声を掛けてもらうことは、なかった……
『ツタヤに寄って帰るから』という紺野さんと別れてしばらく
僕は、新宿通り沿いにずっと歩いていた。
―――なんか、疲れた。
紺野さんが、悪い奴かもしれない。
柚木に、一生嫌われるかもしれない。
僕は昨日、眠れなかった。
紺野さんの敵意、柚木の嫌悪、そんなこもごもの、誰かの強い感情に晒されるのかと思うと……。
僕は、強い感情をぶつけられるのが苦手だ。
それが好意でも悪意でも。
僕は、強い思いに応じられるものを、何も持っていないから。
だから今日、僕はどんな手を使ってでも、紺野さんが僕の要求を聞かざるをえない状況にして、相手の感情が爆発する前にとっとと引き上げよう、と思っていた。
僕は紺野さんが消えることを、なんとも思っていない。柚木に嫌われても、別にかまわない。サークルを変えて、新しくつるむ友達を作って、柚木からフェードアウトしていく…柚木は元々僕のことなんて何とも思っていないんだから、誰も傷つかない。被害にも遭わない。めでたし、めでたし。
そう、自分を納得させて、ジョルジュに向かった。
でもそれらの、少なくとも一つが杞憂に終わったことで、僕は自分でも驚くほど動揺していた……。痛みを忘れるためにかけていた麻酔が一気に切れて、痛みが戻ってきたみたいだ。訳のわからない内臓の痛みと、前頭葉を押しつぶされるような頭痛。
感情に左右される生き方をこれほど嫌っているのに、僕自身が他人の感情という呪縛から抜け出せない。…忘れろ、全ては丸く収まった。僕は、自由だ。
何か考えるのも、何も考えないのも嫌で、道すがら看板の文句を呟きながらフラフラと歩いた。
いい加減、自分がどこを歩いているのか分からなくなったあたりで、僕はふいに目をあげて暗い空を見た。
「東京は、星が見えないなぁ……」
それが妙に、僕をほっとさせた。
――あ、そうか
僕はここ10年くらい、夜の空を見上げていない。
星空は、怖い記憶を蘇らせるから。
仰向いて見上げた満天の星空……それを遮って浮かびあがる漆黒の影、淡い石鹸の匂い。細い指の感触……。
か細い声でくりかえされる、何かの言葉。背中に感じた、ひんやりした土の感触。
草のにおいと、薄れていく意識。それから、なんだっけ………
……馬鹿な。こんなことを詳しく思い出してどうするんだよ。
今日はもう、家に帰って寝よう。前後不覚に。
朝、目が覚めたら、また全てが曖昧な記憶に戻ってくれるに違いないから……
「………遅い!!」
……玄関を開けると、柚木がWiiリモコンをぶんぶん振っていた。
「…なんで?」
なんで君がここにいる?そしてなんで僕のWiiを引っ張り出して遊んでいる?…いやそもそも、なんで僕の部屋に入れたのだ?玄関先で呆然としている僕を尻目に、柚木はやりかけのWiiに向き直って再びリモコンを振り始めた。…あ、ゼルダやってる…
「決まってるじゃない。取りに来たのよ」
「何を」
「ノートパソコン!忘れたでしょ」
「……あ、鍵、かけ忘れてたっけ?」
柚木は一瞬だけ振り返って僕の位置を視認すると、何かを投げた。…きらめきながら宙を舞うそれを、咄嗟にキャッチする。…新品ピカピカの、部屋の鍵だ。
「……なに、これ」
「あ、やっぱり知らなかったんだ」
僕の方も見ずに呟く柚木。……なに!?知らなかったって何だよ!!
「…姶良の部屋、名実ともに『部室別館』にされちゃってるよ。ポタリング部の連中に」
……なに――――――!?
ちょっと待て、どういうことだそれは!
あいつらは、僕がいる時にどやどや入ってきて、Wiiを占有して一晩遊びほうけて食料庫を漁り、飯を出させ、酒のストックがないことについてぶぅぶぅ文句言いながらカントリーマァムとじゃがりこを全部食って雑魚寝して片付けないで帰るだけでは飽き足らず、僕の部屋の合鍵まで勝手に作って自由に出入りしてるのか!!
道理で、特売の日に買いためておいた『カントリーマァム お得用』が驚異的な早さでなくなるわけだ……
なんか分からないけど、これは僕、怒っていいシチュエーションだよな!?
……でも柚木なら、こんな状況でも余裕で僕をぶっ飛ばすのだろう……
怒りのやり場が見つからず、仕方ないので部屋の隅でうずくまっていると、柚木がことり、とリモコンを置いた。セーブポイントが見つかったらしい。
「ノーパソだけ持って引き上げるのも寝覚めが悪いから、帰ってくるの待ってたの。遅いから、勝手にご飯作って食べた」
「………!!」
ご、ご飯食べたですって!?信じられない、この子!
不在の人ン家に上がりこんでWii勝手に使ったばかりか、うちの台所事情が乏しいのを知ってて、ライフラインの食料まで荒らすなんて!!
君は農村を襲うイナゴの大群か!?
愕然としている僕の横を通り過ぎる瞬間、柚木が手の甲で、僕の背中をとす、と叩いた。
「……ばーか」
……なんだか気になる仕草を残して、柚木はゆっくり僕とすれ違った。
静かにドアが閉まる気配を背中に感じ、肩を落とす。……今日の戦果を聞かずに帰ってくれたのだけは幸いだったな。さて、柚木にはどこまで話せるだろうか。
……今日の話から、特別なMOGMOGやら、透析患者誘拐疑惑やら、そんな物騒な話を取り除いて残るものと言ったら
紺野さんのきわどい猥談だけじゃないか……
仕方ない、紺野さんの猥談でも話しておくか。
……そう決めた瞬間、『いい右』を貰って血を吐きながら宙を舞う自分を未来視したような気がした。
一瞬、視界のすみに、ほわりと湯気が上がるのが見えた。もうそんなの無視して寝てしまおうかと思ったけれど、この上火の不始末で火事でも出すことになったら悲惨すぎて目も当てられない。仕方なく、渾身の力を込めて顎を上げる。……鼻腔に、ふわっと暖かい湯気が入ってきた。
「……オムレツ?」
いや、オムライスだ。こんもりした黄金色の半熟卵の隙間に、チキンライスが隠れている。オムライスの存在を認めた一瞬、眩暈がした。僕の中で、オムライスと6畳間との因果関係が結びつかない。
…なぜ、ここにオムライスが?
どうして、手も付けられず、湯気が立った状態で置いてある?
あ、スープも添えてある。
『遅いから、勝手にご飯作って食べた』
ついさっき柚木が言っていた、この一言が頭をよぎった瞬間、ものすごい勢いで因果関係のパズルが構築されて、頭の中で何かが弾けた。弾けて、もうもうと煙る意識のその向こう側に、ありえないパズルの完成図が、うっすらと姿を現した……
……柚木が、僕に?
そっと、皿に触れてみる。……まだ暖かい。間違いなく作りたてだ。
「……柚木!?」
まだ遠くには行っていないはずだ。僕は咄嗟にきびすを返し、サンダルを適当につっかけると勢いよくドアを開けた。
「柚………」
柚木は、いた。
自転車のチェーンがねじれてうまく外れないらしく、チカチカ点滅する街灯の下で、微妙にもがいていた。
うわ、自転車泥棒してるひとみたい……
なんか手伝おうかと声をかけようとすると、キッと睨まれた。どうしていいか分からず、再びぱたり、と扉を閉める。
……午前一時のハト時計みたいだ。
やがて、自転車が遠ざかっていく音が聞こえた。
柚木の気配が完全に消えた瞬間、口の端がつり上がるのを押さえきれなくなっている自分に気がついた。
あぁ、これが……なんかよく分からないけど生涯初めての、女子の手料理!
ここが壁の薄い下宿じゃなければ『ヨーデル食べ放題』とか大熱唱しながら踊りまわってしまいたい!
柚木が初めて下宿に来た新入生時代の『ブランデーグラスをカラカラ言わせながら腕枕』の妄想も、俄かに現実味を帯びてきた気さえしてきた。
とりあえず夜も遅いし、あまり浮かれすぎると近所に迷惑なので「ビールは別料金~♪」と、ぼそぼそ呟きながらビアンキを起動する。
「……おはようございますぅ」
ビアンキが眠い目をこすりながら起動する。『良い子時間』設定にしているので、夜10時以降に起動すると、枕をかかえて眠そうに起きてくるのだ。眠そうなビアンキも、もっと鑑賞していたいけれど、今は一刻を争う。
「夜分にすまないね、ビアンキ。早速だが、とても重要なお願いがあるんだ」
「…ん?」
「このオムライスを、画像に収めてくれ!卵の半熟加減から、湯気の質感まで余すところなく、鮮やかに!」
「………はぁ」
眠そうな目で、こっくりとうなずく。…10秒くらいしてから、備付のカメラが微かに動いた。ぱちり、ぱちりと地味な音がして、デスクトップ上は、あっというまにオムライスの画像で埋め尽くされた。
「よ、よし…これだけあれば、もう3Dだって作れるな」
「作れますよー…作りますかー…」
「いや、今度でいいや。眠いときに悪かったね。もう寝ていいよ」
ビアンキは重たげな瞳をゆっくり開けて、にこりと笑った。
「起きてます」
「え…いや、いいよ。悪いから」
「もう起きちゃったですから。それに」
首を傾げると、珍しく結っていない髪が、さらりと肩からすべり落ちた。
「ご主人さまと、もっと一緒にいたい、ですから」
枕に半分顔を埋め、チェレステの瞳を細めて微笑した。
か…かわいい……
ふわり、と音がしそうな笑顔だ。
毎日、まるで同じ表情の日がない。次から次に、前の日と少しちがう顔と、仕草。日増しに精巧になっている気さえする。
…なんて考え事をしているうちに、心なしかオムライスが冷めてきた気がする。僕は慌てて銀のスプーンをオムライスの山に「さくっ」と刺した。卵が割れて、ふわりとチキンライスの蒸気があがる。よかった、まだ冷めてない。
チキンライスをデミグラスソースがたっぷりかかった半熟の卵にからめて頬張る。程よく空気を含んだ卵が、口の中でぷちっと優しくはじけて、その後に、少しコショウが効いたトマトと鶏の風味が押し寄せてきた。…母さんが作るケチャップオムライスとは明らかに違う。何をどうしたら、こんな風になるんだ?
「ご主人さま、おいしいですか?」
ビアンキの問いかけが遠くに聞こえる。僕は口いっぱいにオムライスを頬張ったまま、うんうんと頷いた。
「ご主人さまは、オムライスが大好きなんですね」
水を飲んで一息つくと、僕は顔を上げた。
「今この瞬間だけで言うなら、世界で一番、大好きだよ」
ぱちり、と音がした。ビアンキがまだ、オムライスを撮っているらしい。
「もういいって。形、崩れたし」
「…いいんです!」
ビアンキは、ふふんと笑って画像を一枚、背中に隠した。
今日は神経が昂ぶって、眠れなくなりそうな気がする。多分夜更けを大分過ぎて、朝日が昇り始めたころに、ようやく眠気が訪れるのだろう。僕はふかふかのオムライスを頬張りながら、明日の一限を諦めた。