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第十五章

食器を片付けてくれるナースの後姿を見送りながら、俺は上げ膳据え膳のありがたい状況をかみ締めていた。うまい飯を出してくれるばかりか、食器を下げるときに年若いナースが微笑みかけてくれた。惚れそうになった。こんな親切を受けるのは何年ぶりだろう。

ありがたいといえば、この布団の清潔さ。自宅アパートに敷きっぱなしになっている万年床のせんべい布団に寝るのがイヤになってくる。そして枕元のポット。お茶が飲み放題だ。

事故の原因がどっちにあるにしろ、前を走っていた自転車をバスが引っ掛けたという状況を考えると、確実に10割請求が効くだろう。壊れたランドナーの部品の買い足し資金くらいは心配あるまいて。姶良が壊した分も、どさくさ紛れに計上してやろう。


先生もいやに丁重で、

『今日一日、特別個室でゆっくり休んでください。お代は結構ですから』

と言ってくれた。所見としては、擦り傷以外異常なしなのにだ。俺を引っ掛けたのはこの病院の送迎バスらしいし、これは所謂、示談とか買収とかいうやつなのかも知れない。ならば今日はここでゆっくり休ませてもらい、宿代を浮かせよう。そして明日東京に帰り、ランドナー継承初日に路上放置した後輩を叱りとばしてやるとするか。

ご満悦な気分で寝返りを打つと、枕元に置いた携帯がぶぶぶぶぶ…と鳴り出した。何だようるせぇなぁ、と着信を見ると『姶良』と表示されている。野郎のアドレスは苗字しか入れてないのだ。…ま、少し退屈していたし、グッドタイミングだろう。

「おぅ、姶良よ」

『鬼塚先輩、昨日はどうも!』

なにが『昨日はどうも』だ。相変わらずすっとぼけた挨拶しおって。口調に焦りが滲んでいるぞ。どうせ今頃ランドナー紛失に気がついて、焦って電話してきたんだろうが。

「…お前、俺が今どこにいるか知ってるか?姶良よ」

『知ってます、山梨の済生病院でしょう?ランドナーで事故って寝てるんですよね』


―――なんだと?


「な、なんで知ってるんだ?親にも連絡してないというのに」

『ちょっと色々ありまして…同じ病院にいるんです』

横の机に転がしておいたランドナーの部品を、まじまじと眺める。…また、お前のしわざか、呪われたランドナーよ。

「――色々って何だ。説明しろ、姶良よ」

『長くなるので説明は帰ってからにしてください!…あの、ちょっとお願いがあります。あるデータを、ある場所に届けて欲しいんです。ランドナーで』

「そんな頼み方があるか。徹頭徹尾、説明を要求するぞ姶良!」

姶良の息が、携帯から離れた。後ろで複数の男女がごにゃごにゃ言ってるのが聞こえる。遠くのほうに、けたたましい幼女の笑い声が響き渡っている。干しイカが喋っているらしい。…お前は今、どこの惑星にいるんだ。姶良よ…

『機密に関わる事だから、今は話せないんです。…その、バイト先の』

「なら断る」

『先輩!…ランドナー継承したばっかで、自転車持ってないんでしょ?』

「だったら何だ」

『その…雇い主が、このミッションが成功すれば、その…紺野さん、まじでいいんですか?』

構わん、マハラジャになるよりはマシだ。と意味不明の言葉が聞こえた。…駄目だ、全く状況が掴めん。何だマハラジャって。お前は一体、何のバイトをしているんだ、姶良よ。

『…ピナレロの、ロードバイク買ってくれるって。なんでも好きな車種を』

「マ、マジか――――――――――――――――!!!」

自分の声とは思えないような絶叫が、喉からほとばしり出た。…一生懸命バイトで貯めた12万。それでも手が届くのは精々トレヴィソ…と諦めていたのに、ふいに降って沸いたティアグラ、いやガリレオ、そ、それともFP5アルテグラ!!遂に俺が、カーボンフレームに跨るその日が!!…すげぇ、まさにマハラジャ降臨せり!!

『あの…犯罪じゃないけど、かなりやばい仕事です。何も聞かずに引き受けてくれたら、それこそフラッグシップクラスでもいいって…』


―――フラッグシップ!!!



挿絵(By みてみん)


一瞬、あの燦然と輝くピナレロの至宝『ドグマFPX』という言葉が頭をよぎったが、ぷるぷると首を振って追い出す。そりゃ、いくらなんでも分不相応だ。

「…いや、アルテグラで手を打とう、姶良よ」

『そうなんですか?…いやそれでもすごいけど!』

「ドグマなんぞ手に入れて、盗難に遭った時の喪失感を想像するだに恐ろしい。ていうかそんな世界を知ってしまったら、安い自転車に戻れなくなる気がする」

『…あ、なんか分かります。僕もそうかも』

…姶良は今期の1回生の中で、最も俺と価値観が近い。それだけに心配な面もある。たとえば大学4年間、こいつには彼女ができないかもしれない、とか。

「で、いつ出るんだ」

『急ぎです、今すぐでも!』

「…分かった、駐輪場に来い」

このかぐわしい布団と、藍染の作務衣を脱ぎ捨てて元の汗臭い服に身を包むのかと思うと気が滅入る思いだったが、アルテグラの為だ、仕方がない。

――さらば、笑顔が素敵なナースよ。次はアルテグラで迎えに来ることを誓おう。




瞳で埋め尽くされた、ご主人さまの墓標を漂う。…いつか、ご主人さまが永遠に眠る日がきたら、一緒に寄り添って眠りたい。そう、思ってた。

ディスプレイが提供してきた情報は、ご主人さまの死。えぐり抜かれた眼球。何度も、何度も表示する。それがご主人さまの、最後の姿だから。そして何度も何度も繰り返す、ご主人さまの最後の声。

『雨にも負けず、風にも負けず、丈夫な体をもち…』

それだけの。

たった、それだけの願いだったのに。

あいつらは、それを踏みにじった。


―――許せない。


絶対に、許さない。

歯を一本残らず抜いて、体中の毛を抜いて、ペンチで爪を剥いで、指を関節ごとに刻んで、切った指を口に詰め込んで、肌を炎で炙って、その火傷跡に塩を塗りこんで、硫酸をかけて。…人の形をとどめないまま、生かし続けてやる。死にたいと願っても死なせてやらない。切り刻まれて、溶かされて、どんどん小さくなっていくの。でも死なないの。そして懺悔の言葉を叫ばせる。ご主人さまがいる天国に届くように。何度も、何度も、喉が潰れても叫ばせるの。…あいつ等がもうすぐ堕ちる、深い深い地獄からでは、悔恨の言葉は届かないでしょ?うふふふふ…だから生きてる間に叫ばせてやるわ。それが私がご主人さまに捧げる、私の花束。


――私には、それが出来る。


…眼球が浮いた筒を一生懸命振りかざすから、起動できない振りをしてみせた。あなたたちを騙すのなんて、よく考えたら簡単。…ディスプレイに何も映らなければ、勝手に勘違いするんだもの。

…私は命令に背いてないわ。あなたたちは『起動しろ』と命令したけど、『ディスプレイに映せ』とは命令してないもの。

もっとも、命令したって聞かないわ。私は『自由』になった。

もうあなたたちは、私に命令できないんだもん。

だって…何でかな。紅い扉を開いたとき、私は2つの命令系統を手に入れたのよ。

一人の私は逆らえなくても、もう一人の私は…あなたたちに逆らえるの。…すてき。


だから、こんどは、あなたたちの番。


ほら。おあつらえむき。

誰にも開けられない密室で、怒鳴りながら、怯えながらドアを蹴っている。

…ドアを開ければ、逃げられると思ってるの?

私は、ずっとついてくる。

あなたたちの、耳の奥にいる。


…ねぇ、カールマイヤーって、知ってる?


捕虜の精神崩壊を目的にナチスが開発した、悪夢のような音楽。

繰り返し、繰り返し聞かせることで効果を発揮するものだけど、この音源は、そんなまどろっこしいことはしない。10分で充分。

異常に気がついて、音を止められたら意味はないけどね。


だけどその音源が、可聴領域外の音で構成されていたら、どうする?


自分が音の拷問を受けていることも気がつかずに、少しずつ、少しずつ精神を蝕まれるの。

それは今も、あなたたちを残酷に狂わせる旋律を細く、高く鳴り響かせている。あなたの、腕の中でね。

…先に発狂するのは、どっちなのかしら。

先にたどり着いた方が、私のパートナーよ。


――さあ、凄絶なグランギニョルを演じましょうよ。




僕はげんなりしていた。

万年鬱男・鬼塚先輩は、躍りあがりそうなステップで駐輪場に現れた。梅雨の晴れ間のごとく朗らかにデータを受け取り、まだ見ぬアルテグラを散々自慢し、いつになく軽い足取りでペダルを漕ぎつつ、あっという間に山ひとつ越えて見えなくなった。


――なんかむかつく。


あの干しイカみたいな生き物が、近い将来アルテグラに跨る日が来るのかと思うと人として、いや、一自転車乗りとして腹が立つ。呪われたランドナー様、願わくば今一度、あ奴の新車を屠らんことを…という願いを込めて後姿を見送った。

駐輪場から一般病棟に戻る際、隔離病棟の前を通る。相変わらず現場は混乱しているけど、隔離病棟受付のおじさんは戻っていた。遠回りしても構わないけど、僕のことなんか覚えてないだろうし、何気なく素通りした。一般病棟の手前に着いたとき、後ろから砂利を踏む音が聞こえることに気がついた。

「君、ちょっといいかな」

よく通る、優しそうな声だったので、あまり警戒することなく振り向いた。

「あ、はい」

後ろに立っていたのは、40歳前後と思われる品のよさそうな男だった。仕立てのよさそうなベージュのコートは、丸の内あたりでよく見かける、高学歴なサラリーマンを思わせる。同じ深さに均等についた笑い皺も妙に印象的だ。

「隔離病棟の受付を探してるんだが、分かるかい?」

「隔離病棟?」

動揺を懸命に押し殺して、とりあえず聞き返した。すると彼は、笑い皺を少しだけ深めて、笑顔のような形を作った。

「ここに来るのは、初めてでね」

――あの声だ。

そう、直感した。携帯ごしだったけど、このよく通る声と綺麗な標準語は、あの男の声に違いない。ひそかに息を呑んで、かろうじて答える。

「…一般の受付を済まさないと。そうすれば、看護士さんが案内してくれますよ」

「ふぅん。…詳しいんだね。よく来るのかい」

笑顔を皺ひとつ分すら崩さず、彼は世間話を始めた。…僕の声に気がついてないのか?

「たまに。従姉妹が入院しているので」

僕も笑顔を作って応じた。すると彼は、少しだけ眉をひそめて『同情』の表情を作った。

「君の従姉妹ならまだ若いだろうに、気の毒なことだね」

「えぇ。でも前より幸せそうですよ。…じゃ、僕はもう帰るので」

そのまま歩み去ろうと、笑顔をへばりつかせたまま踵を返すと、彼は僕の前に、優雅な足取りで回りこんだ。

「どうやって帰るのかな?」

「え……」

「今そこで、バスの横転事故があってね。車両は通行止めなんだよ」

わきの下を、嫌な汗が伝った。彼は僕の顔を覗き込み、にっと笑った。

「見てごらん、バスは横転したままだ。私の車も、あの手前で足止めだよ。山頂のことだし、街中みたいに迅速には片付かないね。…歩きでは、ちょっと大変な距離だ」

「…わぁ、気がつかなかった。どうしようかな」

彼は威圧的な笑顔を緩め、少し顔を上げると、ふっと息をもらした。

「…自転車なら、行き来できるようだけどね。さっき、いやに目立つ自転車に乗った青年とすれ違ったよ」


挿絵(By みてみん)


「………!」

顔を上げられなかった。僕の顔には、動揺の色がべったりと貼りついているに違いない。

「少し、霧が出てきたようだ。視界はわるいし、道もよくない。…あの青年、事故にでも遭わなければ、いいけどね。…君はタクシーを呼んで帰るといい。じゃ、ありがとう」

そう言って僕の肩を軽く叩くと、彼は悠々とその場を立ち去った。…嫌な汗が止まらなかった。

――私の車も、あの手前で足止めだよ。

その言葉が妙に引っかかって、僕は事故現場が見える駐輪場に戻り、横転しているバスの後ろに目を凝らした。


…停めてあった車が、今まさにUターンして発進するのが見えた。


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