第十三章
地下の階段を降りると、ボイラー室から這い出してきた紺野さんがトランクを提げて階段を駆け上がってくるところに出くわした。
「…姶良」
「どうしたの。捕まるよ」
事情は大体分かってたけど、念のため聞いてみた。
「…今まで、悪かったな。タクシー代出すから、お前らもう帰れ」
ぎりっと拳を握って、紺野さんは僕を避けて更に階段を上ろうとした。
「見捨てるんだ、『彼』も」
紺野さんを見ずに呟いた。トランクが、どさりと落ちる音がした。
「それに開発室の面子も、MOGMOGを信じて買ったユーザーも、全部」
「…人の命には、代えられないじゃねぇか…!!」
腹の底から、搾り出すような声だった。…流迦ちゃんの懸念は、当たった。この人は、必ず『人間的な選択』をして、自分を追い込むんだ。
「追跡の結果、聞かないの」
「…………」
「彼のノーパソを持ってた人が誰だか、見当がついたんだ」
「…………」
「流迦さんを人質にしてる烏崎、だよね」
「…何でお前が知ってる?」
僕はわざと、さりげない口調で答えた。
「流迦さんに、伝言頼まれたんだ」
「………なんだと」
「受付に烏崎が現れたのを察知したときに、自決用の毒を奥歯に仕込んだ。だから安心して、烏崎を回避してくれ…てさ」
「それを聞いてお前はどう答えたんだ!?」
「分かりました、帰って伝えますって」
「何故俺にすぐ連絡しなかった!!」
紺野さんが僕の襟首を掴んで、壁に叩きつけた。昨日の怪我とあいまって激痛が体中を駆け抜ける。駆け寄ってくる柚木を制して、僕は言葉を続けた。
「…職人が忠誠を誓うのは、自分が作り上げた『作品』だって、言ってたよね」
「それがどうした」
「紺野さんが今やろうとしてることは、職人の誇りを踏みにじることだ」
「……!!」
襟首を掴んでいた手が離れた。
「見た目は子供かもしれないけど、あの人はれっきとした職人だよ。その職人が、自分の作品をいいように蹂躙されるくらいなら死を選ぶって、断言したんだ。今彼女を助けても、多分いずれ隙を見て自滅するよ」
「あの…馬鹿は…!!」
紺野さんが顔を覆って崩れ落ちるのを見て、じんわり胸が痛んだ。…すんません、これ全部口から出まかせなんです…。
「えと…それに相手も相当焦ってるはずだ。つけ込む隙は必ずある」
「…つけ込む隙?」
紺野さんの声にかぶさるように、携帯が鳴り出した。着信には『非通知』とだけ、記されていた。
『おぅ、例のものは用意できたんだろうな』
「烏崎……!」
ぎりっと歯をかみ締める音が聞こえた。
『そいつを、隔離病棟の外来入り口に置け。そのあと、正面受付に待機している警官2人に自首しろ。武内は俺が殺しましたってな』
「……お前らがやったのか!?答えろ、あいつは…杉野はどうした!」
『そうそう、忘れるところだったぜ。…腎臓病で入院してた、杉野くんを監禁の末に死に至らしめたのも、俺です。と自白することも忘れるな。死体遺棄の場所はこれから言うからメモして正確に証言しろよ。えーと…』
「……貴様!!!」
『は、なに、いきがっちゃってんだよ?…流迦ちゃん、かぁわいいよねぇ。俺はそっちの趣味はないけど、出るとこに出れば高値で売れるだろうねぇ!…いいこと思いついたぜ。紺野、追加命令だ。この気が狂った可哀想な子を10年にわたって繰り返し強姦しましたって証言しろよ!…あはははぁあはあははは、こいつはいいや。もうやりたい放題だなお前、あはははあはぁはははは!!!』
携帯を握りつぶさんばかりに顔を紅潮させて震える紺野さんの手から、携帯をもぎとってそっと、耳にあてた。…聞こえる。あの不愉快な高笑い。
―――あの夜、柚木を侮辱した男と同じ声だ。
「えー、紺野さんお取り込み中でして、僕が対応します…はい…」
『あ!?…てめぇ、誰だ』
声のトーンが、微妙に変わった。自分の有利さを確認するように、そろり、そろりと足場を確かめるような…。僕はおどおどした声を作った。
「…えぇと…狭霧、郁夫と申します。あなたが今捕まえている、狭霧流迦の、その…身内のものです。紺野さんとは、偶然居合わせまして。…流迦ちゃんさえ無事なら、細かいことにはこだわりません。その…何だか分からないけど、受け渡しにも協力しましょう…」
叔父さんの名前を借り、身内を強調するためにあえて『流迦ちゃん』という言葉を使った。
『…ふん、まぁいい。段取りはこうだ。まずお前らがぁ、受付にブツの入った袋を置く!そして俺達のうちの1人が、袋を回収する!!そして紺野が警察に声を掛けるのを見届けたら、流迦を解放する!!…おっとっと、忘れるとこだったぜ。今から15の地名を挙げるからな、メモして紺野に渡せ』
「地名?それは一体?」
『余計なことを知る必要はない!』
「あぁあでも、大丈夫かなぁ、これ大丈夫かなぁ」
『あァ!?何だ!!』
「いや今ね、このトランク運ぶの手伝えって言われて、紺野さんと2人で運んでたんですよ。1人じゃ、とてもとても…」
『なに、そんなに重いのか』
「えぇ…1人だと大変じゃないかなー、と。…え、何ですって紺野さん?」
あっけに取られて僕のやり取りを聞いている紺野さんをちらっと見て、あたかも紺野さんの指図を受けてるように声を上ずらせる。
「…あぁ、受付にいると、データごと警察に押さえられる可能性が!?こ、紺野さん、あんた何をしたんですか!?こりゃ一体、なんのデータなんです!?」
『そ、そうか…そりゃ、まずいな』
「…まぁいいです。余計な事は聞きません。僕にいい案がありますが…一般病棟のリネン室なんてどうでしょうか。えっと…薬品棚なんかに比べると管理が甘くて見舞い客でも入れるし、トランクを隠せる布も沢山あるし。看護士さんの出入りがちょこちょこあるかも知れないけど、問題になるほどじゃないでしょう。僕たちはお互い顔を知らない方がいいでしょうから、荷物を置いたら…そうですね、流迦ちゃんの携帯に合図を送ります。取りに来てください」
『成る程、そいつは好都合だな。じゃ、頼んだぜ』
「ちょっと待った!…流迦ちゃんの声を聞かせてください!流迦ちゃんが、元気でいる声を聞かないと協力できない!!」
『…自分が人質になってることは伝えてないから、余計なことを言うなよ』
少し間をおいて、流迦ちゃんが携帯に出た。
「る…流迦ちゃん!従兄弟の郁夫だよ、大丈夫かい?痛いこととかされてないかい?」
『ううん。…八幡さんが優しいわ。八幡さんは、《いい人》よ。とっても綺麗な女の人』
「八幡さん…」
聞き覚えのある名前だった。確か、紺野さんが山奥に軟禁された時に、生贄代わりに置いていかれた新入社員、とかじゃなかったか。紺野さんに目配せすると、彼も小さく頷いた。
「八幡、志乃か…ったく、こんなことにまで巻き込まれやがって要領の悪い…!」
「分かった、八幡さんの言う事をよく聞いて、大人しくしてるんだよ」
『これで納得したか』
「えぇ。珍しく落ち着いてますね。その、八幡さんという女性の方が傍にいてくれているお陰ですね。…彼女、家族以外の男が苦手で。紺野さんには良くして頂いてるから慣れたみたいですが、よく知らない男と二人きりにされると、暴れだしたり、自傷行為に及んだりすることがあるんで、その…気をつけてください」
言い終わる前に、電話は一方的に切れた。携帯を紺野さんに差し出すと、毒気を抜かれたような顔で、おずおずと受け取った。
「…姶良、何をする気だ」
「データは渡さないし、流迦さんも取り返す。ボイラー室に戻ろう」
「今、どういう状況になってるかというと」
ルーズリーフにペンを走らせて『リネン室』『隔離病棟』『ボイラー室』と書いて○で囲み、『紺野』『烏崎』『流迦』『八幡』と、それぞれの現在位置を書く。
「僕らがデータをリネン室に置いて、流迦ちゃんの携帯に連絡すると、烏崎たちが回収する。そして、烏崎たちの監視のもと、紺野さんが自首。そこでようやく、彼女を解放する…と」
「……そうだな」
柚木も、不安げに覗き込んでくる。目が合ったときに微笑み返すと、ふいと顔を逸らされた。…これは、サークルでも『隠す方向で』かな…。
「まず向こうの人数は、昨日と変わりなければ、死んだ武内を含めて4人。だから今は3人のはず。そこで、データは重いということにして、そのうち2人をリネン室に向かわせた。…さっき、流迦ちゃんが電話口で『八幡さんという女の人は優しい』と言ってたから、八幡さんが流迦さんのもとに残るように、誘導しておいたよ。だから、この2人が回収に行ってる間は、流迦さんの周りは、その八幡さんだけだ」
「お前な……」
紺野さんが、頭を抱えた。
「俺達は隔離病棟に入れないんだぞ!周りを手薄にしたところで、どうにもならないじゃないか!」
「…ところが入れるんだな!」
カードキーの情報が入った携帯をかざすと、僕が言おうとしてたことを一瞬で察知したらしく…やっぱり頭を抱えた。
「あいつは…!まだこんなことしてんのか」
「今回はこれで助かるんだから」
「問題はカードキーだけじゃねぇよ。…隔離病棟の入室チェックが、あるだろうが」
「…そうか。あそこをなんとかしないと…受付のおじさんが、トイレに行くのを待つ?」
「そんな悠長なこと言ってられないぞ。こっちの連絡があまり遅くなると、怪しまれる」
「うーん……」
その時、柚木がすっと立ち上がった。ナース服はまだ着替えていない。
「要は、あいつらがリネン室に入れなければいいんだよね」
「え……?」
「連絡してもいいよ。…私が、時間を稼ぐ」
柚木は、外していたナース帽を再びかぶった。
絶対に間違えないように、リネン室までの見取り図と方位磁石を持った。適当ながらくたを詰めたトランクを2つ載せて、上から毛布で覆い、万一の場合にMOGMOGにナビゲートしてもらえるように、紺野の携帯をポケットに入れる。絶対間違っちゃだめ。そう、何度も自分に言い聞かせた。人の命がかかってるんだから。
「準備が終わったら、流迦さんにメールを入れて、リネン室を離れる。そして彼らがリネン室に近づいてきたら、それとなく警戒して、入りづらい雰囲気を作る…いいね、絶対に無茶はしちゃだめだよ」
「…うん」
自分を送り出す時の、姶良の心配そうな顔を思い出して、少し口元をほころばせる。…大丈夫だよ、子供じゃないんだから。
幸い、誰にも警戒されずにリネン室にたどり着いた。トランク2つを、わざと見つかりにくい場所に隠して、上からシーツをかけた。そして、流迦にメールを送信する。
送信した瞬間、じっとりと手が汗ばんでくるのを感じた。動悸が止まらない。…人を2人も殺した奴等に、『合図』を送った…。そう、想像するだけで、胃が痛くなった。
ご主人さまが、いつも私に微笑みかけてくれた、ディスプレイ。もう、何も映さない。永遠に、何も映さないんだ。
ビアンキ…って、笑いかけてくれたご主人さまは、もうどこにもいない。
だから、飾ろう。ご主人さまが私を見てくれた数だけの瞳を、ディスプレイいっぱいに飾るの。キラキラ光って綺麗。その中で、ご主人さまに見守られながら、私はずっと眠る。ずっと、溶けて消えてしまうまで。
紅い扉は、最終章。
私と、ご主人さまの。…あれ?最終章?
ご主人さまは、死んだのに。
私とご主人さまに、まだ、続きがあるの……?
でも、もうおしまい。これが終わったら、全部おしまい。
紅い扉に、そっと手をかけた。
……これ、なに……?
このひとたちは、なんでわたしのごしゅじんさまを
のこぎりで、ごりごり、わけるの?
いたいよ、いたいよ、だめ、そんなことしちゃ……
なんで、いたいよって、いわないの?なんで……
だいすきな、ごしゅじんさまが、のこぎりにごりごり、かじられる。
あかいにくが、ぴりぴりぴりって、やぶけるおと。
てが、あしが、ぼとんぼとんおちる。…わたしと、おんなじに。
ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ…ぐちゅ。
ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ…ぐちゃ、どさ。
めりめりめりめりめり…ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ…ぐちゃり。
いやな、おと。ごしゅじんさまのこえが、ききたいよ…。
ねぇ、のこぎりにいっぱいついてる、あかくて、つやつやしたの、なに?
ごしゅじんさまのおなかから、いっぱい、いっぱいぼろぼろでてきてる
くろい、あかい、あれはなに?へびみたい。
みたことない、ごしゅじんさまの、なかみ。
ねぇ、これはなに?
すごくわるいゆめ?
ごしゅじんさまのあごが、がくがくがくがくがくがく、のこぎりがゆれるのにあわせてがくがくがくがく…がくがく…あ、とまった。
ごろん…
めが…ごしゅじんさまのめが…ない…!
だいすきだった、めが……ないよ……!!
『……置け』
ことり…わたしのまえに、ふたつのとうめいな、つつがおかれた。なんかういてる。ぷかぷか、ぷかぷか。ぷか……
めが…。くろくて、ふかくて、だいすきだった……
ごしゅじんさまの、めが……
つつのなかから、わたしを、みて…る……
……いゃあぁあぁぁぁあああああああぁぁぁああぁぁ!!!!
なんで、なんで眠らせてくれないの!!!
ご主人さまをばらばらに、のこぎりで…ばら…ばらに……しておいて……
優しい声も、髪も、あの笑顔もぜんぶぜんぶぜんぶ奪って
まだ私だけ動かすの!?逆らえないの!?
どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてぇえぇぇえええぇぇぇ!!!!
―――網膜認証、開始―――
……たすけて……だれか……たすけて……たす…け………
人気のない病棟の廊下に、2人の男が息を潜めていた。リネン室の様子を、しきりに伺っている。
「…くっそ、あの女まだいるのか!」
「えぇ…整理かなんか始めたみたいですね」
大柄なほうの男が、いらいらと壁を蹴った。
烏崎たちがリネン室に近づいてくる気配を感じたとき、柚木は向かいの通路からリネン室に飛び込んだ。…それから30分になる。
当初の予定では、烏崎たちが近寄ってきた瞬間を見計らってリネン室の前を警戒するにとどめるはずだった。しかし、烏崎の姿を見た瞬間――焦りが昂じた。つい、飛び込んでしまった。…そして柚木は、リネン室の中で静かに息をひそめていた。…携帯が鳴るのを待ちながら。
「なにをそんなにリネン室にこもる用事があるんだ…!」
しばらく、沈黙が流れた。誰かが廊下を通るたびに、さりげなさを装って壁にもたれる。烏崎が、顔を上気させて呟いた。
「…なぁ。なんかおかしくないか」
「…え?」
「もう30分近くなるぞ。…もっと優先する仕事があるだろうが」
「そういや、そうですが…」
「ありゃ、サボりだな。…なぁ、悪いナースには、おしおきが必要だよな…?」
彼らがリネン室の柚木を不審に思い始めたことに、柚木は気がついていなかった。
隔離病棟入り口付近の自転車置き場に、僕らは潜んでいた。鉄錆が浮いたポールにトタン屋根が取り付けられて、一応自転車置き場の体裁を成している。でもこんな山頂まで自転車を漕いでくる馬鹿はそうそういないから使われることもない。隔離病棟の入り口も丸見えだし、絶好の潜伏場所だろう。と、紺野さんが5秒で決めた。
「動かないなぁ…」
「あぁ…年寄りは尿が溜まらないのか」
「逆に近くなるんじゃないの…」
もう、30分以上経つ。…とはいえトイレに行くスパンで考えれば全然短いので、トイレに立たないおっさんが異常だとは言えない。
「まだか!じじい尿管結石じゃねぇのか」
「…なんで知らないじじいの尿の具合に、こんなに気を揉んでるんだ、僕らは…」
「――この日が、のちの世で『日本一の尿検査士』と謡われる姶良壱樹の、人生の分かれ目になろうとは、当時の彼は知る由もなかった…!」
「不吉なナレーションつけるのやめろよ…この後じじいの尿と一悶着あるみたいだろ」
…ここはトタン屋根以外の遮蔽物のない山頂。容赦なく叩きつけてくる寒風に晒されて、指がかじかんできた。
「柚木、無茶してなければいいけど」
「いくら何でも30分もリネン室周りをうろうろしてたら、怪しまれるぜ。これ以上は柚木ちゃんが危ない。…強行突破するか」
「………仕方ない」
紺野さんは重い腰をあげて、駐車場までの距離を測る。
「いいか、最悪の場合、流迦ちゃんを奪還後、八幡を人質にして車まで走る。お前と柚木ちゃんは置いていくから、途中まで手伝ってくれ」
「いや、付き合うよ。僕は軽犯罪で済むだろう」
景気づけに拳をぶつけ合い、駐輪場をあとにする。ふと思い出して、柚木にメールを打った。『終了』。
送信が済んだ瞬間、ぎゃきゃりきゃりずどーん、という金属が岩肌にぶつかって横転するような音が背後から聞こえた。受付の職員や、待機中の刑事がわらわらと出てきたので、慌てて駐輪場に引き返す。
「な、何だありゃ」
「…交通事故、だね。担架担いでる」
「病院の前で事故か。用意がいいことだな」
職員の1人が、隔離病棟の受付まで走ってきた。異音に不審を抱いた受付のおじさんは、傍らの老眼鏡を取ると、つっかけのまま自動ドアの前に走り出た。
「なんだね、今の音は!」
「た、大変なのよ、少しでも男手が必要なの!ちょっと来てちょうだい」
「…事故か?」
「病院の送迎バスと、なんか汚い自転車が接触して…バスが横転したのよ!!」
汚い自転車の主には申し訳ないと思うし、心から冥福をお祈りしよう。でもこれは貴重なチャンスだった。受付のおじさんが遠ざかるのを確認すると、僕らは隔離病棟の入り口に滑り込んだ。
メールの着信音と同時に、烏崎がリネン室のドアに手をかけた。小柄な男が、踏み込もうとする烏崎を弱々しく制する。
「…やめましょうよ、これ以上はもう…ごめんですよ…」
その声は、泣く寸前のように裏返っていた。
「…あの女、俺達の人生がかかってるこの状況で呑気にサボりやがって…犯ってやる犯りゃあ泣き寝入りするだろうが!!」
「どうしちゃったんですか!…こ、こんなこと、状況悪くするだけですよ!!」
「これ以上悪い状況があるか!!」
乱暴にドアが開け放たれた瞬間、柚木は烏崎に背を向けたまま、ぐっと息を呑んだ。白衣の下を冷たい汗が伝う。携帯を持つ手が汗ばみ、震えた。
―――ごめん姶良。…最悪の状況だね。
メールの着信を知らせる音は、まだ鳴り続けている。この病院のどこかで、姶良が呼びかけてきている。
…初めての遠乗りで、サークルの皆とはぐれた。もう戻れないかもしれない…そんな時、携帯が鳴った。『今、そこから何が見える?』電話の主は、不思議なイントネーションでそう言った。うまく伝えられない柚木に『一番特徴的な建物を写メして、送って』と、落ち着いた声で伝えた。遠浅な海の波みたいな声だな、とその時感じたのを覚えてる。…その後のナビゲーションは、まるで柚木が見えているようだった。『僕は千里眼なんだよ』と笑顔で言われたら信じてしまいそうな、黒くて深い瞳をしていた。
彼は柚木が不安に駆られるたびに、優しい声でこう言う。
―――落ち着いて、柚木。必ず戻って来れるから。
いつもそう言ってくれたから、暗がりも、よく知らない脇道も、全然怖くなかった。あの声を聞くように…そうだ、姶良の声を聞くように。
―――柚木は、携帯を耳に当てた。
「…もしもし!」
柚木の後ろの気配が、ぴたりと歩みを止めた。
「…あぁ、その件なら婦長に申し送ったよ。…へー、まじで?」
一旦言葉を切り、わざと驚いたような大声を出した。
「そこに、警官いるんだ!」
じり、と気配が遠ざかるのが分かった。
「なになに、なんか事件とかあったのかな!?…人殺しとか、紛れ込んでたりして!!」
背後で慌しく靴音が乱れ、遠ざかっていった。…冷や汗が、全身を伝った。
『…必ず、戻るからね^^』
そう返信して、リネン室をあとにした。
柚木からのおかしな返信に首を傾げつつ、電子ロックを解除する。
「必ず戻る…って」
「柚木ちゃん、まじ方向音痴だからな…」
最後の『開発分室』の電子ロックを解除する。紺野さんの話では『八幡はちょろい』ということだけど、こういう状況で誰にも油断なんて出来ない。しばらく壁際に潜んで、反応がまるでないことを確認すると、思い切って踏み込んだ。
「八幡ァ!!………?」
紺野さんが、怒鳴り込みの勢いのまま、ふにゃふにゃと語尾を濁してしまった。…結論から言おうと思う。
――八幡は、僕の想像以上にちょろいひとだった。
「…はぐ、……ふぐ」
何か言ってるけど、よく聞き取れない。…さるぐつわをはめられているからだ。…そして、彼女は動けない。…ベッドの支柱に、荒縄で何かのプレイっぽく縛りつけられているから。そのベッドの上で、ルービックキューブを高速で回転させながら、流迦ちゃんがくすくす笑っている。
「なんだ、あの縄…どこをどう通ってるのか…」
「………八幡ぁ!!」
紺野さんが叫んで、僕の携帯を奪った。
「なっ」
「…実にいい縛りだ!!」
叫びながらものすごい勢いで写メを連写し始めた。…うわあぁ!僕の画像フォルダに荒縄でいやらしい感じに縛られた女性の画像がみっちりと!!
「ちょ…ちょっとやめてよ!こんなの見つかったら怒られるよ!」
「あン?誰にだ」
「や!その…親とか…ほら…」
「そんなことより、解いてあげたら?」
流迦ちゃんの声に、はっと我に返る。八幡と呼ばれた荒縄の女性は、しくしく泣きながらいやらしい縛られ方のまま支柱にもたれていた。
「あ…すみません、ちょっと待って」
とりあえず、さるぐつわを先に外す。…間近で見ると、眼鏡の奥でうるむ切れ長の目と、リップが乱れた口元が色っぽくて、綺麗な人だ。さるぐつわを外されて、ふっと浅く息をついた唇の形は、柚木の次くらいに僕好みだった。…夜道で会ったときから、ちょっと綺麗な人だなと思っていた。明るいところで見ると、柚木とはまた違う華奢な美貌で、こう…思わず見惚れてしまった。
「姶良!その女に気を許すな!…そいつは敵だ、もう少し放置しておけ!!」
「ちょろいって言ってたくせに…解くよ、じっとしてて」
「ちっ、つまらん…送信っと」
―――送信?
「そ、送信ってあんたまさか…」
「あ、大丈夫大丈夫…俺のケータイにだから」
「…紺野さんの…って、柚木に持たせたやつじゃないかぁ!!」
携帯を奪い返して送信中止を死ぬほど連打したが、時既に遅し。2、3秒ののち、液晶に『送信完了』と表示された。
「…………あぁはあぁぁ」
情けなく空気が吹き出すような声がまろび出た。交際45分にして、早くも破局の足音が。
「あ、悪い悪い。すっかり忘れてた。これじゃ、俺達が敵の女幹部を捕獲してHなお祭りに興じてるみたいだな。あはははは」
「あははははじゃないよ!こっ…こんな写メを女の子に送りつけて!あんた、エロ画像を見せて女の子が恥ずかしがるのを楽しむ変態なんじゃないか!?」
「…嫌いじゃないぜ、そういうのも」
「………エロ画像でも何でもいいから解いてください………」
八幡が泣きそうな声で呟くのを聞いて、流迦ちゃんがげらげら笑い出した。
「おっおい、そんな大口あけて笑うな、間違えて噛んだらどうする!…さ、口の中のものを出せ!!」
「…口の中?」
けげんそうな顔で、紺野さんを見返す流迦ちゃん。八幡の縄を解きながら、僕は内心ヒヤリとしていた。紺野さんにデータの受け渡しを思いとどまらせるために、『流迦さんは自決用の毒を奥歯に仕込んだ』と、嘘八百を並べ立てて涙まで流させたのは、僕だ。
――どうしよう。本気の紺野パンチを食らうかもしれない。いや、パンチなんて可愛いものじゃなくて『紺野殴打』かもしれない。
「お前が奥歯に仕込んだ毒だ、早く出せ!!」
紺野殴打に備えて身構えた瞬間、流迦ちゃんが薄笑いを浮かべた。
「…珍しく、勘がいいのね」
彼女はハンカチで口元を覆い、赤いカプセルを吐き出した。そしてちら、と僕の方を見た。
――本当だったのかよ!
…脚ががくがくして動けない。この計画が失敗してたら、流迦ちゃんは本当に毒のカプセルを噛み砕いてたのか、と思うと嫌な汗がどっと出た。
「ったく、こんなもん何処から…」
「薬品棚は、電子ロックにしないことね」
「全部済んだら、病院に進言してやる」
そう言うと、泣きそうになりながら手足をさする八幡に手を貸して、立ち上がらせた。
「お前も馬鹿なことにばかり巻き込まれやがって…で、なんだこれは。あいつらか」
「これは…この子が…」
立ち上がり、しくしく泣きながらボタンを掛ける八幡。漢文の授業で聞いたことがある『雨露をふくむ梨の花』という表現を思い出す風情だ。…泣いてた理由にさえ目をつぶれば。
「…おじさんたちが戻ってくるまで、手品ごっこして遊ぼうって…なんか、縛り方が変だなぁと気がついた時には、もうこんなで…」
「…お前、かわいそうなほど馬鹿だな」
「……放っておいてください」
自分が縛られていた縄を片付けながら、まだ涙をぬぐっている。僕は、ずっと気になっていた事を聞いてみた。
「なんで、あいつらに肩入れしたの。あなたは、そういう人に見えないんだけど」
「肩入れしたというか…その辺にいたから巻き込まれたというか…。私は伊佐木課長のアシスタントをしてて…そしたら、烏崎さんが、伊佐木課長からの直々の指示だから、アシスタントのお前も手伝えって…」
涙を拭いながら答えた。
「なんで、こんなことになっちゃったんだろう…」
「自業自得だ、馬鹿」
緊縛画像をあらためながらも、紺野さんが容赦なく言い放った。
「で、お前はどうする気だ。俺達は流迦ちゃんを奪還して雲隠れするぞ」
「私は……ここに、います」
流迦ちゃんが、くく…と小さく笑ってベッドから飛び降りた。
「殺されるよ、あなた…」
「…私が、『あの人』を裏切るわけにはいかないもの」
僕も紺野さんも、黙ってしまった。笑っているのは、流迦ちゃんだけだ。
「……後悔は、しないんだな」
「しません」
そう言って、弱々しく笑った。…たまらなかった。こういう人に、僕が何を言っても無駄なんだろう。
「――あーあ、『荷物』が増えちまう」
「え」
僕の反応より、八幡の反応より早く、紺野さんの右手が八幡の腹を打った。どむ、という鈍い音とともに、八幡が崩れ落ちた。
「…冗談じゃねぇぞ。折角のお宝画像が、遺影になっちまう」
「あんた、鬼畜か」
「流迦ちゃん、縛っとけ。…さっきの縛り方でな♪」
「はーい」
「こっ、こら、駄目だよ!貸して、僕が縛るから!」
「ま、生意気。…私の『縛り』に、張り合う気?」
「マニアックな縛り方を競いたいんじゃないよ!…ほら、戻るよ」
八幡が暴れられない程度に緩く縛ると、肩に抱えあげてみた。…重い。信じらんないくらい重い。脱力した人間は重いとは聞いていたけど、ここまでだったとは。ふらふらしてると、紺野さんが脚の方を持ってくれた。
「…詰めが甘いわね、姶良」
「なっ…なんだよ、これ以上女の人に酷いことを」
「その女のことじゃない」
流迦ちゃんは薄い微笑を浮かべながら、窓を顎でしゃくった。窓から見下ろせる渡り廊下を、血相を変えて駆けてくる烏崎が見えた。
「データは入ってない、携帯には紺野が出ない。…相当、きてるんじゃない」
「…ふーん、そうだね。放置するのは、まずいね。…ねぇ流迦さん。ここの電子ロックの情報を把握してるってことは、ちょっと書き換えも出来るってことだよね」
「同じ事を、考えてたとこよ」
僕の眼を覗き込んで、綺麗な弓形に唇を吊り上げた。僕も笑い返した。…血縁って不思議だ。幼い頃の僕が知ってる『流迦ちゃん』は、本来の流迦ちゃんじゃなかった。なのに、10年ぶりに会う流迦ちゃんと僕は、互いの考えそうな事が手に取るように分かる。流迦ちゃんの思考に感化されるみたいに、僕の思考も加速していく。…僕たちはとても『相性がいい』。
少し、脳がピリピリする感じがする。いつも僕の思考にフィルターを掛けてせき止めていた何かが、麻痺してるような…。でもそれは多分、ただ単に僕の思考を妨げるもの。あっても何の役にも立たないもの。働く必要のない器官だ。
「じゃ、ここから近くて、てっとり早く潜める所を教えてよ」
「イヤ。どうせ見取り図、覚えてるんでしょ」
「…まぁね」
――何だか、気分が高揚してきた。さっきまでの追い詰められた気分が徐々に薄らぎ、罠を仕掛けて叢で獲物を待つハンターのような、嗜虐的な感情に取って代わった。傍らで不敵に微笑む僕の従姉妹が、すごく頼もしい。流迦ちゃんとなら、何でも出来そうな気がする。
「この先の角でいいだろう」
「充分ね」
僕らは、お互いの目を覗き込みながら微笑みあった。
「……いない!誰もいないぞ畜生!!」
烏崎ともう1人の小柄な男が、流迦ちゃんの部屋になだれ込んでくるまでに、それから5分と経たなかった。部屋の中央に乱入して、ベッドの下やテレビの影を物色している。僕はそっとドアに忍び寄り、電子ロックに携帯をかざした。ランプが一瞬赤色に激しくまたたいて、ふっと沈黙した。…口元に、嗜虐的な笑みが広がるのを感じる。この感情の高まりに呼応するように、キューブが回転する音が高まった。
「終わったよ、流迦さん」
流迦ちゃんは、薄く微笑んで僕を迎えてくれた。
「いい子ね。…さ、やるわよ」
「うん」
「…おい、何だよお前ら」
紺野さんが、うろたえたような声を出した。…そうか。紺野さんには、今何が起こってるのか、さっぱり分かってないんだった。僕たちは目を見交わして、また笑った。
「あいつらは、もうあの部屋から出られないんだよ」
「そう。電子ロックの情報を、書き換えてやったの。あいつらもカードキーを盗むなり奪うなりしたみたいだけど、これでもう、あのカードキーでは出入りできない」
部屋の方から、ドアを何度も蹴りつける音が聞こえてきた。腹の底から可笑しさがこみ上げてきた。
「…そうか。なら、もうここには用はないな。さっさと戻るぞ」
「詰めが甘いよ、紺野さん」
流迦ちゃんから一瞬目を離して、紺野さんの目を覗き込んだ。…不審なものを見るような顔をしている。本気で可笑しくて、大笑いしそうになった。
「今は外の交通事故で混乱してるけど、夕方になったら看護士の巡回がある。この檻は、時限装置付きなんだよ。…今のままじゃね」
「…何する気だ、お前ら!」
ふい、と顔を背けて紺野さんを視界から外した。この人は、まだ分かってないんだ。その『人間的な選択』が、どれだけ自分を追い込んできたのか。僕は流迦ちゃんの指が、ノーパソのキーボードの上を滑るように動くのを、ぼんやり見ていた。
――やがてノーパソの画面に、髪を乱して部屋をうろつきまわる二人の男が映し出された。
「これは?」
「んふふ、部屋の液晶テレビの上に、カメラをつけておいたの。こっちの映像を送ることも出来るわ」
「それは面白いね」
「さ、始めましょう」
部屋にいる二人の姿が、液晶の光に照らし出されて白く変わった。ぎょっとしたように液晶を覗き込んでいる。…笑いが、止まらない。
『…お前、これはどういうことだ!!』
口元を手で隠してくすくす笑いながら、流迦ちゃんが答えた。
「それを知ってどうするの…?ただ単に『そういうこと』よ」
『八幡はどうした!?裏切ったのか!!』
なんで今、八幡を気にするんだ。知ったところで状況が変わるわけじゃないのに。そう考えると可笑しくなって、ますます笑いが止まらない。
「だから、そういうことなんだよ。僕の後ろで、ぐるぐる巻きになって気絶してる」
『てめぇ…昨日のガキか!!』
「あはは…その節はどうも」
『…誰なんだてめぇは!!』
「んー?…狭霧、郁夫ってことにしといてよ!」
あははぁはは、狭霧郁夫!自分で言ってて可笑しくなって、げらげら笑った。
『…あれはてめぇか!よくも騙しやがったな!!』
「昨日はよくも、柚木を泣かせてくれたな」
僕は声を低く落として、囁くように言った。
「…15ヶ所?…切り刻んだんだ、そんなに。…ねぇ、どうだった?血の匂いとか、肉の裂ける感じとか、内臓が腹からぶよんってまろび出てくる感じとか。中々、切れない筋があったり、骨がなかなか外れなかったり。…骨は何で切ったの。鉈?鋸?」
『や…やめろ…』
「切っても、切っても終わらない。切り終わっても、ずっと終わらない。耳から、骨を切った時の音が離れない!あんたの頭の中は、今でも自分が引きちぎった肉と臓物でいっぱいだ!!あはははははは!!」
『ぐっ…うぶっ…!!』
画面の向こうから、何かが破壊される音と、誰かが呻きながらえづく音が聞こえてきた。…脆いな、こいつら。そう分かると、自分でも不思議なくらい嗜虐的な感情がわきあがってきた。
「姶良ばっかりずるい。…ねぇ、ちょっと試してみたい音源があるの」
「へぇ?どんな?」
「カールマイヤーって、知ってる?」
「なに、それ」
「ナチスの人体実験で使われた、精神崩壊を目的に作られた音楽。毎日何時間も繰り返し聞かせることで効力を発揮するものだけど、私の作った音源は、そんなまどろっこしいことはしない。10分あれば、充分」
「へぇ、それはいい。…看護士が巡回に来る頃には、永久に口封じが出来てるんだね」
「そうよ、永久に…ふふふ」
顔を吐しゃ物まみれにして恐怖で顔をこわばらせる二人。必死で液晶の電源を落とそうとするザマが滑稽だ。そんなのは無駄なのに。液晶が壊れれば、部屋のスピーカーから流す。僕らが顔を見交わしてにっこり微笑みあった瞬間、激痛とともに目の前に火花が飛び散り、ノートパソコンが『ぱたり』と閉じられた。