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桜の木の下で

作者: ミカミスミ

暖かな陽光が、弱々しく広がる枝の間を縫って地面にうすい影を落としていた。僕は前髪に乗った桜の花びらをつまみ上げると、大きな桜の根元に座る彼女の正面に腰かけた。


「今年も桜が綺麗ですね」


言うと、彼女の薄ピンク色の唇が嬉しそうに緩められた。僕は彼女のこの表情が大好きだった。許されるなら、桜よりもあなたのことを綺麗だと言いたかったのに。

しかし、そんな僕の気も知らない彼女は、ただ、そうですね、とこたえるだけだった。すこし、歯がゆい思いが胸に染みた。


「……とても大きな木ですね」

「はい。町でもこんなに大きいのはこれくらいじゃないでしょうか」

「でもこの木、だいぶ弱ってきてはいませんか。枝の方に少しこぶが見えます」

「そうですね。なにか病気をしているようです。この木もいずれは枯れてしまうのですね」

「そうなれば、どうなるのですか」

「どうって?どうにもなりませんよ、ただ桜の木が一本減るだけです」


そういうことではない。そうじゃないんだ。また、僕は言えない言葉を呑み込んだ。



僕と彼女の出会いはちょうど5年前。この桜の木の下でだった。その日僕は、近所で猛犬の異名をとるドーベルマン・ラッシーに、なんの理由もなく追い回されていた。ギラリと鈍く光る牙から逃げること30分。僕はいつのまにやら知らない細道へと逃げ込んでしまっていた。僕は完全に迷子となったらしい。

考えても始まらず、適当にあっちへこっちへ曲がり、古びた木造家屋を抜けてみた。すると、さっきまでの窮屈な町並みとはうってかわり、開けた場所に出た。

僕は驚いた。たくさんの桜の花びらを纏った巨木がそびえたっていた。吸い込まれるようにその木に近づくと、鈴の音のような声が傍から聞こえてきた。


「どなたです」


僕はその時になって、ようやく彼女の存在を認めた。綺麗な人だった。大きな桜に寄りかかるその肢体は驚くほど華奢で、長く垂れる黒髪は絹糸のように滑らかだった。僕は俯いて何も言えなくなってしまった。


「綺麗でしょう?」

「え、」

「桜」


僕は真っ赤になって早口に言った。


「ええ、こんなに大きいものは見たことがありません。とても綺麗です」

「ふふふ。私の楽しみなんです。毎年ここの桜を見るのが」

「へぇ……そうなんですか」


一度桜の木を見上げて、それからまた彼女を見た。僕は図らずも、初対面の彼女にとんでもない申し出を口にした。


「これから見ませんか、僕と一緒に、この花を」


時間が止まったみたいだった。僕は自分の隠れた大胆さに驚きながらも、言ってしまった後悔と羞恥でまた真っ赤になった。彼女は少し考える素振りを見せて、それから、


「……そうですね。一人で見るのにも飽きてきたところですし、誰かとお花見をするのもいいですね」


と、言った。



それから僕達は、桜の季節になると毎日のようにこの場所でのどかな花見を繰り返した。雨の日も風の日も、僕は彼女を待ち続けた。この場所は僕の家からかなり離れていたが、彼女のためなら頑張れた。


なのに、桜は老いていく。桜がなくなってしまったら、この木に繋がれていた僕らの関係はどうなってしまうのだろうか。


僕は不安を抱えたまま彼女と別れ、家路についた。



それから数年の歳月が流れた。僕は大学に進学して、地元を離れることになった。けれど毎年の桜の季節は、無理を押して地元に帰ってきた。彼女との関係を失いたくなかったからだ。

桜は出会ったときに比べて、明らかに弱っていた。僕は、嫌でも別れの時を考えずにはいられなかった。そして、そのときは突然にやってきた。



彼女とあの桜の木の下で出会ってから、8年目のことだった。僕は彼女へ買った初めてのプレゼントを小脇に抱えて道を急いでいた。プレゼントは、桃色の花があしらわれた小さな簪だった。今年友達と旅行したときに買ったもので、儚げな雰囲気が彼女にぴったりだと思った。


小路を抜けて、例年のように満開になったと思われる桜のところに行くと、木の回りには今だかつてない人だかりができていた。嫌な予感がする。おそるおそる近寄ると、作業服を着た男たちの会話が耳に入ってきた。断片を聞く限り、どうやらこの木は切り倒されることになったらしい。僕は思いきり作業員に詰め寄った。しかし、僕の話は聞いてもらえず、腕を振り払われてしまった。作業員は煩わしそうに吐き捨てた。


「全く、どいつもこいつも。桜の木がなんだってんだ」


すっと目の前に暗闇が降りてきた。気づけば僕は乱暴に作業員に尋ねていた。彼曰く、僕の前にも桜を切ることに反対した人がいたらしい。


「髪の長い綺麗な女でな、まーしつこいんで班長がちょっと突き飛ばしちまったんだよ。怪我はたいしたことないと思うが血が出てねぇ、そりゃ泣いてたな」


次の日、大きな桜は跡形もなく伐採された。僕と彼女の関係も、ここで途絶えた。




「──と、こういう昔話もありましてね、俺がやったのは正義の鉄拳というか。これ以上樹木を減らすことで起こる悲劇を防ぐための抵抗と言いますか。とにかくこれは正当な攻撃でして」

「ほぅ……それが作業員7人を全員ボコボコにした犯人の弁明か」

「やっぱちょっと酔ってました」

「長ーんだよクソ!つれてけ!」

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