ふたりの春休み
学校が始まるまでの数日間、
千尋と秀太は毎日のように木村楽器店のスタジオで音を合わせた。
そんな2人に木村はいつもご機嫌顔で場所を提供してくれた。
練習していたのは、あの日歌った井上陽水の『少年時代』と、
秀太が好きだという槇原敬之の『どんなときも。』という曲だった。
2曲とも弾き語りでは定番の曲のようで、楽譜は簡単に手に入った。
秀太のギターは日を追うごとに上達していき、
春休みが終わる頃にはピック弾きだけでなく、
指で弾くアルペジオの技法も身につけていた。
その間千尋も負けてはいられないと、
軽音楽部を辞めてからもう何ヶ月もしていなかったボイストレーニングを再開した。
部活で教わったメニューだけでなく、本屋に立ち寄って指導書を買ったり、インターネット上のアドバイスを試したりもした。
何かに対して、ここまで一生懸命になれるのは久しぶりだった。
秀太のおかげで、この春休みは当初予定していたより遥かに充実したものとなった。
あの日、勇気を振り絞って本当に良かったと千尋は心から思う。
時間を共にする間に秀太について分かったことがいくつかある。
ひとつは彼が今年から大学に入り専攻する学問が物理学だということ。
彼が理系だったのは少し意外だった。
「算数」の時代から数式と相性が非常に悪かった千尋にとっては、
全く縁の無い世界だ。高校の科目選択では迷わず生物をとった。
いつの日か秀太はとても楽しそうに物理や数学の魅力を語ってくれたことがあったが、
千尋にはさっぱり理解できなかった。
地方出身で下宿生だということも聞いた。
こっちに来て、人の多さや電車の便利さに驚いたそうだ。
彼の地元では電車は1時間に1本来るか来ないかで、高校も徒歩通だったため、それまでにほとんど電車に乗ったことが無いという話を聞いた時、今度は千尋が驚く番だった。
他にも、身長が女子の中でも小柄な千尋と5cm程度しか変わらないこと(ついでに体重もほとんど変わらなかったが黙っておいた)や、
クセ毛が目立たないように髪を長めにしていること、
茶色がかったその髪は千尋と同じく地毛であること、
さらには主食が菓子パンであること(なんで太らないのだろう?)なども知った。
そして何より、秀太は本当に優しく暖かい人だった。
女性的な外見の通り、粗暴さというものが欠片も無かった。
一緒にいるだけで笑顔になれる、まわりの空気や人間をも優しくするような彼の雰囲気は正に天性のものだ。
必要以上に人付き合いに緊張し、つい壁をつくり距離をとってしまう千尋でさえ、
それまでの人生が嘘のように彼とはすぐに打ち解けられた。
本当に不思議な気分だった。
次回は明日7月16日(土)投稿予定です_(._.)_