ことだま
2時間ばかりの合同練習を終え、スタジオ内の後片づけをしている時のこと。千尋は思い切って由香里に尋ねてみた。
「由香里さん、ちょっといい?」
パイプ椅子を立てかけていた由香里は、千尋の問いかけにくるりと振り返る。
「ん? なんです?」
「由香里さんは、誰かと友達になる時最初どんなことを話しますか?」
そのようなことを訊かれるなんて全く予想だにしていなかった、というふうに由香里は目をぱちくりさせた。
「え? 友人をつくるときですか? うーん……あまり考えたことがないです。友人と初対面の時何を話したかも曖昧ですし。たしか、千尋ちゃんと蒼井君に出会ったときは普通に自己紹介でしたよね」
あの時のことは、千尋も覚えている。
高級車から降りてきた由香里の姿に、秀太と2人で目を丸くしたものだ。簡単な自己紹介の後は、そのまま練習スタジオに向かった。
道中の会話は秀太と由香里が中心で、真中に挟まれた千尋は基本的にそれをただ聞いているだけだったが、それでも時々秀太が話を振ってくれたので、彼に乗っかる形で由香里とも話ができるようになったのだ。
「その後は――あ! 思い出した、蒼井君に失礼なことを言ってしまいました。でも、どうしてまた急にそんなことを?」
「今度、学校の球技大会でソフトテニスに出るんだけど、ほとんど話したこともない子とペアになっちゃって……。それで、仲良くなる為には何を話したらいいのかなって」
「球技大会ですか、懐かしい……。って主題はそこじゃなかったですね。初めて話をする子と何を話したらいいか……」
そう言ったっきり由香里は首を大きくかしげて思案を始めた。真剣に考えてくれる彼女の姿勢が嬉しい。
そのまま少し沈黙が続いたあと、由香里はゆっくりと口を開いた。
「やっぱり、そう深く考えることないと思いますよ。千尋ちゃんがその時々で話したいことを話せばいいんです。前の日に観たテレビ番組のことでも、その日にあったラッキーなことでも失敗してしまったことでも、何でも」
「うん……。だけど、さ。なんかそれがすごく難しいっていうか、怖いっていうか……」
「怖い?」
千尋の言葉に、由香里は不思議そうな表情をみせた。
「私だけなのかな……。初対面の人とか、あまり話したことの無い人とかを相手に喋るのが怖いの。自分の話す内容が相手にとってつまらないものだったらどうしようとか、上手く話せなくってヘンな奴だと思われたら嫌だなとか、私の何気ない言葉がもしかしたら聞く人を悲しい気持ちにさせちゃったりするんじゃないかって」
スタジオ内が静寂に包まれる。左腕に巻いた腕時計の秒針音が千尋にはやけに大きく聞こえ、心音との拍子ズレが厭わしい。
まるで時が止まってしまったのではないかと錯覚する程の長い沈黙。
その長い沈黙を由香里が破ったのは、彼女の後ろで壁に掛けられたパイプ椅子が音を立てて倒れた直後だった。
響き渡った大きな音に千尋が驚かなかったのは、目の前にいる由香里が今までに見せたことのない表情をしていたからだ。
「千尋ちゃんは……優しすぎます。それに第一、特別話が面白い必要なんて無いですし。友達というのは話の内容よりも、話をしているその時間や空間を楽しむものですから。緊張して上手く話せない姿を笑うような人となんて仲良くなる必要はありません」
由香里は真剣な眼差しのまま話を続ける。
「確かに、口から発した言葉が自分の意に反したところで誰かを傷つけてしまうことも時にはあると思います。だけどそれは、ほんの些細な傷です。放っておいても治ってしまうような、そんな傷です。もちろん、その人の傷をいつも無視しとけばいいということではないですよ。気がついた時にきちんと処置した方が、傷口は早く綺麗に治ります。そうすれば怪我する前よりその箇所が丈夫になることだってあります。そのためには簡単なこと」
胸の前でパンっと両手を合わせた由香里の表情は、いつも通り優しく穏やかなものに戻っていた。
「謝ったらいいんです。相手を笑って許せるようになるために人間は誰しも似たような失敗を積み重ねるんですから。それに、真心が欠けた言葉では誰かを救えないのと一緒で、言葉は人を傷つけるための悪意を伴って初めて鋭利な凶器になるものだと私は思っています。包丁で刺されたらすごく痛いし、傷跡もずっと残ってしまいますけど、段ボールで作ったナイフがぶつかったところで精々赤くなる程度です。千尋ちゃんもそうは思いませんか?」
優しく投げかけられたその言葉に対して何も答えられずにいる千尋を見て、由香里は大きく一歩近づき高い身長を千尋に合わせるように少し屈んだ体勢で正に顔を合わせて言った。
「さっきだって」
「……さっき?」
「私たちは蒼井君に意地悪なことを言いました」
「あっ……」
「もし、さっきの会話を文字に起こして蒼井君がそれを読んだなら、蒼井君は傷ついてしまうかもしれません。でも、会話を録音したテープやビデオだったら多分蒼井君は笑って許してくれるでしょう。それは私も千尋ちゃんも蒼井君が好きだからです。あ、ここでの『好き』っていうはもちろん恋愛感情の『好き』とは違いますから、そんなに照れなくても大丈夫ですよ」
「照れてないっ!」
千尋の素早い反応に、由香里は満足したように笑った。
「あまりに深刻な表情をしていたので、つい。えっとなんでしたっけ――そうそう、私も千尋ちゃんも蒼井君を大切に想っているので蒼井君に対する言葉には自然と愛情が込められてしまうんです。人間は自分が思っているよりもずっと人の感情に機敏ですから、意識しなくても言葉の裏に込められた想いを汲み取ることができるものです。世の中には、愛ある悪口というのもあるじゃないですか。反対に、文面上はものすごく丁寧でも、悪意が潜んだ人を傷つける言葉だって。以前千尋ちゃんに、音楽には技術だけじゃなくて気持ちも大切だって言いましたよね? 言葉だってそれと同じです。だから、心配しなくてもこんなに優しい千尋ちゃんなら、大丈夫。だからほら、もう笑顔を見せてください」
由香里の細く白い指が、千尋の目元をそっと拭った。