急用
秀太から「練習に来られない」という旨の連絡がメールで届いたのは、練習当日の朝だった。
その日になって急にできたという用事が一体どんなものなのかは少し気になったものの、
先日の件で彼と顔を合わせることに少し気まずさを感じていた千尋にとって、その連絡を受けて少し気が楽になったというのも紛れもなく本音だ。
あの日の球技大会の練習は、結局谷岡と彰の2人にラケットの握り方を教えたところで時間になってしまった。
もっと早く自分が勇気を振り絞っていればと、体育が終わった後の授業中も千尋はずっと後悔していたが、それでも千尋の心中は晴れやかだ。
彰と会話できたのは、嬉しい。彼女とペアを組むことになってからというもの、ずっと悪い方向悪い方向へと考えていたから、良い意味で予想を裏切るこの成功には大きくガッツポーズをしたいくらいだった。
このまま、友達になれたら……。そう思いながらも実際にはその日学校が終わるまで何一つ行動に移せなかった自分にはため息が出る。
今度話すときは、この間のことをちゃんと謝ろう。「あの時は何も言わないまま逃げだしてごめん」って謝ろう。そしてその後は……何を言ったらいいのだろう?
千尋には、それが分からなかった。
「おはようございます、千尋ちゃん」
スタジオの重い扉を開けて、由香里が顔を出す。背中にはいつものキーボード。
おはようございます、と挨拶を交わして、今更ながら学年で言えば3つも下の自分に由香里はどうして敬語を使うのだろうかと不思議に思う。
気品あふれる彼女の振る舞いには自ずと綺麗な言葉遣いが付いてくるのかもしれない。
「私と千尋ちゃんの2人で練習するのは今日が初めてですね」
由香里はスタジオの中に入ると、背負っていたキーボードを「よいしょ」と下ろし、千尋の隣で準備を始めた。
「うん。秀太の用事って何だろう。しかも当日の朝になって急に」
千尋もスタンドを立てる手伝いをしながら、何の気なしに問う。
向かい合った状態で由香里は少し考えた様な顔をみせた後、今度は口元に笑みを浮かべた。
「やっぱり『デート』ですかね」
思ってもみなかったその発想に千尋は意表をつかれてはっと顔を上げ、作業を中断する。
「デート!? まっさかー!」
「いや、可能性は充分あると思いますよ。蒼井君なら相当モテるでしょうし、春からはもう3ヶ月近く経ちますもの。男の子の急な用事といえば何といってもガールフレンドじゃないですか?」
素っ頓狂な声を出した千尋とは対照的に、「ふふふ」と笑う由香里は至って冷静だ。
確かに、「イケメン」という形容はなんとなく彼には似合わないが、それでもあのルックスにあの性格。おまけに国立大生で頭も良いときたら、女性からの人気はかなりのものだろう。音痴だけれども。
しかし……。
「想像できないなぁ……」
「あ、やきもちですか?」
「え!? いや、違っ!」
「冗談ですよ」
「由香里さん……」
もちろん千尋は秀太に好意を寄せている。しかし、それは恋愛感情とは少し違うベクトルを持つもので、所謂ライクとラブの違いというやつだ。
恐らく最初の印象が「年下の女子中学生」という失礼極まりないものだったのも理由の1つであろう、出会ってからずっと彼は千尋の中で恋愛対象とは異なる次元にいた。
だから秀太が実際に今頃ガールフレンドとよろしくやっていたとしても、それはそれで本当に構わないのだけれど、千尋にはそんな彼の姿が全くイメージできなかった。
「まあ、冗談はこの辺にして。きっと蒼井君のことですから、何か断りきれない頼み事でも受けちゃったんでしょう」
「うーん、やっぱりそうだよね。……ってあれ? 冗談って最初から?」
由香里は床に置いてあったキーボードを両手で持ち上げ、立てたばかりのスタンドの上に乗せた後、千尋の顔を見て微笑みながら言った。
「ええ、もちろん。まあ、有り得なくは無いでしょうが……蒼井君の場合、ボーイフレンドの方が似合いますからねえ……」
「あー、うん……それは確かに」
本人のいないところでヒドイ言われようだが、2人は互いに顔を見合わせた後、声を上げて笑った。