握手
その後も彰と谷岡は長打を連発、猛打賞を記録した。
それでも初心者にありがちな空振りがほとんどないのは、2人とも目や勘が良いからなのだろう。
暴走球の度に谷岡は謝り、それを毎回千尋と永野で慰めていたが、それでも回を重ねるごとに彼は明らかに沈んでいった。
一方その永野はと言うと、最初の方にホームランを2回ほど打ったものの2人に比べればかなり安定している。フォアハンドのみならず、有る程度慣れが必要なバックハンドでまでコート内にボールを打ちこんでくる彼には千尋も正直驚いた。
しかし、それ以上に意外だったのが彰の反応だ。
上手くいかないことに苛立って彼女が不機嫌になってしまうのではないかと、当初から千尋は内心気が気でなかったが、その心配とは裏腹に彰も谷岡と同様ボールを吹っ飛ばしてはその都度小さな声で「ごめん」と謝り、相変わらない険しい表情からは読み取りにくいものの、確かに少なからず落ち込んでいるようだった。
「あーっ! くそっ、まただ!」
今度も谷岡の打った球が千尋の頭上を飛んでいく。
千尋は「気にしないで」という風にラケットを持っていない左手を上げて見せ、ボールを拾いに行った。
「何回もごめんよ……。あ~あ、思ってたよりかなり難しいなあ。全然上手く打てない」
「タニはヒットを狙うから駄目なんだって、俺みたいに内野安打で稼ぐ気持ちでやってみ」
永野のよくわからないアドバイスを背中で聞きながら、
千尋はラケットですくい上げたボールを左手に移した。
それを掌の上で転がしたまま、心の中である葛藤と対峙する。
――どうしよう。言わなくちゃ。でも踏ん切りがつかない。だってちゃんと言えるかわかんない。……恐い。
ひとり1回の発言が義務付けられた、中学校の人権学習の授業中なかなか手を上げられなかったあの時と、同じだ。
学年が上がって、新しいクラスの新しい席に座って、周りの新しい顔ぶれに自分から話しかけようと思っても結局話しかけられない、あの時と。
けれどもそれらは何時だって、いざ口に出してしまえばなんてことないことなのだ。
他人は自分が思っているほど、自分に興味はない。自分がどれほど流暢に話そうが、反対に何度も口ごもってしまおうが、彼らの人生においてそんなことは何の意味もなさない。他人の失敗など、1週間も経てば記憶のゴミ箱に捨てられてそれでお終いだ。
しかし、そんな頭での理解に身体はいつも置き去りにされる。本当に笑ってしまうくらい、行動に移せない。
今だって、やっぱりそうだ。ボールを握った左手が震えた。
「……神崎?」
彰の声に名前を呼ばれ、ふっと我にかえる。
「どうした? 気分でも悪いか?」
「ううん、大丈夫。なんともない」
「そうか? でも顔色悪いぞ?」
本気で体調を気遣ってくれる彰に驚きと感謝の念を込めて、千尋は笑顔で答えて見せた。
「ホントに大丈夫だよ。ありがと」
「そう……それならいいんだけど」
一瞬ひるんだその隙を、千尋は見逃さなかった。言い出すのなら、今しかない。
優しく微笑む女顔の大学生の姿を心に思い浮かべて、千尋は遂に口火を切った。
「あ、あの、五十嵐さん。ちょっとこっちに……」
そう言われ顔にはてなマークを浮かべたままの彰を連れて千尋はネット際まで歩き、今度は彰と同じように不思議そうな顔をして立っている2人の男子の名前を呼んだ。
「永野君、谷岡君、ちょっと……」
「ん? どうかした?」
呼ばれて駆け寄ってくる2人を見て一安心した後、続いて背の高い谷岡に声をかける。
「ええっと、谷岡君、ラケット1回貸して」
「ラケット? はい」
谷岡はグリップの方を千尋に向けて言われたとおりにラケットを差し出した。
谷岡からラケットを受け取った千尋は、そのまま先程の彼と同じようにヘッド側を自分の方に、グリップ側を谷岡の方に向けた。
「右手で、このラケットと握手する感じで握ってみて」
再び言われるがまま、谷岡はおずおずとラケットを握る。そんなに緊張されると、こちらまでますます緊張してしまうのでやめて欲しい。
「これが、基本の持ち方だから」
「え? あ、うん」
目を丸くする谷岡と永野に、彰が代わって説明をした。
「元テニス部だってさ」
その言葉を聞いて、2人は大きな声を上げる。
「ウソ!? マジで!?」
「へ~!? だから上手だったのか~」
2人の大げさなリアクションに、千尋は慌てて口を開く。変な期待を持たれても大変だ。
「いや、でもあれだよ? そんなに上手い訳じゃ……」
「まあ第一、ペアのあたしが素人だしね」
思わぬ助け船がありがたい。
「それでも経験者がいるのはデカいなー。俺らルールすらよく分かんないもん」
「あっちの2人も?」
千尋は相変わらず技の名前が飛び交う隣のコートに目線を移した。
「林と青木? ああ、あの2人もやったこと無いって言ってた」
「そ、そうなんだ」
漫画やアニメの知識も捨てたものじゃないかもしれない。
千尋はそんな雑念を捨て、次に彰に対しても同様のやりとりをした。
差し出されたラケットのグリップに、彰は少し困ったようにも見える表情でゆっくりと手を伸ばす。
「そう、そのまま普通に握手するみたいに」
「あ、ああ」
ラケットをしっかりと握った彰は、その後俯き気味に小さな声で「サンキュ」と呟いた。
その言葉を聞いて、電源を入れたばかりの炬燵の温もりのように、暖かさを伴う嬉しさが千尋の胸にゆっくりとこみ上げてきた。