自答
結局昼食をとらないまま午後を迎えたのにも関わらず、終始空腹どころか一切の食欲を感じなかった。
どうして自分はみんなと同じように会話が上手にできないのだろう。
クラスメイトの大半が机に顔を伏せ、眠っている7限目の家庭科の授業中、
千尋はその問いの答えを探すように過去の記憶の中を巡っていた。
小学校までは多少の人見知りはあったものの、特別問題は無かった。
互いの家で楽しく遊ぶ友人だって沢山いた。同級生であれば、自分から相手に声をかけるのも苦にならなかった。
しかし中学校に上がってからだ。人と接することが妙に苦手になった。
それは他人からどう見られているのかが気になり始めたからだと、当時自分で思っていた。ただ漠然と、これが思春期なのだろう、と。
だからもう少し時間が経てば、そんな時期も抜け出して、以前の様に容易に初対面の人とも話せるようになるはずだと。
けれどもそんな期待とは裏腹に、学年が上がるにつれ、千尋はますます他人とのコミュニケーションが苦手になっていった。
初めて顔を合わせるような相手とはもちろん、同じ小学校から上がってきた顔見知りとさえ、次第に会話を恐れるようになった。
結局中学校生活が終わる頃には、千尋が校内で交流を持てていたのは予てからの友人数名になっていた。
コミュニケーションや会話、人間そのものに対して恐怖を抱いていたわけではない。
千尋が恐れていたのは、何よりそのようなことを通じて、傷つき傷つけられることだった。
そして、そうなるきっかけが中学時代の部活動中のひとつの出来事にあることを、千尋は知っていた。--千尋は問題の答えを、知ってて知らない振りをしていた。
夕焼けがかった帰り道、千尋は母の作った弁当のことを考えていた。一口も手をつけていない理由を、どう繕うか。
体の具合が悪かったことにしようか、それとも何か集会があったとかで食べる時間が無かったとか……いや、それならその集会も考えないと--そんな言い訳を考えているうちに、再び涙が溢れそうになった。
母はどんな気持ちで毎朝弁当を作っているのだろう。自分の娘が、いつもそれを独りで食べることや、ましてわざわざ人目につかない場所を探しているなんて、想像すらしていないだろう。
申し訳ない想いで胸がいっぱいだった。せめて今から、どこか公園にでも寄って食べてしまおうか、そう考えて肩を落とす。駄目だ。まだ、何も口にする気が起きない。
夕日が照らされて光る電線を見上げ、屋上でのあのやり取りを思い返す。
--悪いのは、自分だ。訊かれたことにちゃんと答えられなかった自分が、彼女を呆れさせ、更には怒らせてしまった。
だからそれで自分が傷つくのは、自業自得なのだ。千尋はそう、何度も心に言い聞かせる。
それでも……。
「嫌いだ」
彼女に言われたあの言葉が、どうしても頭から離れない。
幼い日々の友達同士の喧嘩を除けば、女子という性質上、千尋はこれまで誰かに直接そのように言われたことは無かった。
一時期あまりに無視が酷い時があり、その時は「面と向かって悪口を言われた方がまだマシだ」なんて思っていた。
だが、いざ言われてみると、それは間違いだったと千尋は思う。
直接否定される方がよっぽど辛い。
道に落ちていた小石を右足で蹴る。蹴られた小石は思ったよりも遠くまで飛び、転がった先で排水溝の中に落ちた。
千尋はわざわざ遠回りをして、商店街へ続く道を選んだ。
足取りを重たくさせているのは、うしろめたいという思いだろう。
これは……甘えだ。弁当を食べないで母に合わせる顔がないという、甘え。--そして何より、「誰か」にこの気持ちを慰めてもらいたいという甘え。
もちろんそのことを千尋は知っていたし、その「誰か」が誰であるかも分かっていた。
これは甘えなのだ。非難されるべき甘え。自己責任の欠如。
しかし、それを承知の上で千尋はこの道を選んだ。
今後、このことで誰かに責められても構わない。今、この今、誰かに頼らなければ心が折れてしまいそうだった。
木村楽器店のガラス扉の前まで来て、足を止める。
この場所で、こんなにも緊張しているのはあの日以来だと、千尋はひとり、ふっと笑った。
年下の少女に見えたのが、待ち合わせ相手の男子大学生だったあの日。
そんな失礼な勘違いにも笑って応えてくれた彼は、おそらく今回も笑って迎えてくれるだろう。
そしてこの日あったことを全て話したなら、彼はきっと慰めてくれるはずだ。
--だけど、それではいけない。彼の優しさに付け込んで、利用して、頼りきって……彼を困らせるわけにはいかない。
普段通りに彼と接して、普段通りに練習して、普段通りに帰る。
そしてその中でこっそりと元気をもらえればいい。
だから決して、彼の前で弱音は吐かない。
千尋はそう心に決めて、重いガラス扉に手を伸ばした。