微熱
千尋の目の前には五十嵐彰の姿があった。
高い身長と、いつもの不機嫌そうな顔が威圧感を与える。
今までどうして彼女に気がつかなかったのだろうと、頭をめぐらしていると、視線の更に先で彼女のものと思われるスクールバックが目に入った。
屋上と校内を繋ぐ階段室を裏に回ったところに、それは無造作に置かれていた。
不覚だった。
突如現れたのは彼女ではなく千尋の方だったのだ。千尋は背後にまで気をまわさなかった自分を責めた。
「独り言? 何しに来たの?」
彼女は千尋の無言を、先の問いかけを聞き取れなかったものと判断したようで、質問を繰り返した。
その口調は決して友好的なものではなく、むしろ千尋を警戒し、責めるような敵対心が感じ取られる。
この屋上をあたかも自分の所有地のように言う彼女に少し反感を抱いたが、それを口に出せる千尋ではない。
「あっ……えっと……」
極度の緊張と、彼女の出す高圧的なオーラで頭の中が真っ白になる。手のひらに汗がにじんだ。動悸は激しくなり、言葉を上手く発することができない。
パニックになった頭の片隅で、もう1人の千尋が冷たくひとつ、溜息をつく。「またか」と。
「……どうかした?」
彼女は再び問いかける。
「なんでもない。お弁当を食べに来ただけだから」そんな簡単な言葉が喉の奥につっかえたまま、どうしても口から外へ出せない。
そのまま何も言えずにただモジモジしている千尋を見て、その後彼女は諦めたように溜息をつき、後ろに向き直って言った。
「言いたいことは、はっきりしろよな。あたしウジウジしてる奴、大嫌いだ」
その言葉が耳に入った瞬間、目に見えない何かが千尋の心臓を掴んで強く握りしめた。胸が苦しい、息が出来ない。
心の奥で生まれた鋭く尖った微熱が数秒かけて全身に巡り、千尋は無言のまま階段室に向かって駈け出した。
母が作った弁当が大きく上下に揺れる。それでも構わない。一刻も早く千尋はこの場から消え去りたかった。
後ろを向いたままの彼女を追い越していった時、頬を涙が伝った。千尋はそれを気付かれないように下を向いて走る。直後、背後で「おい!」という声が聞こえたが、千尋は無視して扉を開け階段室に駆け込んだ。
涙を拭いながら階段を降りる中、もう1人の千尋が繰り返す。
「悪いのはお前だ」「みんなに嫌われて当然」「お前は本当に駄目な奴だ」
今は自分に対してさえ、否定することができなかった。