縁
「良い子達ね」
台所で洗い物をしながら母が言う。
ソファーに座って卓也と一緒にテレビを観ていた千尋は、その声に「ん?」と振り返った。
「蒼井君と大江さん」
「あ、うん。すごく良い人達でしょ。ねえ、卓也」
向かいに座る卓也に同意を求めて千尋は想う。
彼らは本当に優しい。他人とコミュニケーションをとるのが極端に苦手な千尋でも、2人に対してならまるで家族の様に安心して接することができる。
それを可能にしているのは、彼らの優しく温厚な人柄だ。彼らのおかげで、千尋は楽しい時間が過ごせる。
けれども、2人の気持ちはどうなのだろう?秀太や由香里は、自分と一緒に居て、話をして、本当に楽しいと思えているのだろうか?
彼らと出逢った時から生まれ、その後はずっと心の奥へ奥へと隠し込んでいたひとつの疑問が、その扉を開けて千尋の頭に流れ込む。今まで生じたことさえ気がつかないふりをしていたその疑問。もしかしたら2人は……。
「……ちょっと姉ちゃん、聞いてる?」
卓也の声で、目の前に広がる光景がリビングへと戻る。『ああ、危ない所だった』と千尋は秘かに胸を撫で下ろした。
「ごめん、なんかボーっとしてた。何?」
「何って、姉ちゃんから話を振ってきたんじゃん。今日の2人の事だよ」
「ああ、そうだったね」と呟くように返事をした千尋の様子が気にかかったのか、卓也の声のトーンがさっきまでと少し変わった。
「2人とも、優しかったよ。あんなに続けて勉強出来たことなんて今までなかったし。蒼井さんは……最初見たとき驚いたけど」
「うん」
千尋がうなずく。その後少し間があった後、卓也が思い切ったように口を開いた。
「……姉ちゃん、なんかあった?」
「え?いや、何にもないよ。ちょっと考え事してただけ」
「ふーん」
それっきり、再びリビングにはテレビと流し台を流れる水の音だけになった。テレビはコマーシャルに入り、連続ドラマでよく見かける若手俳優が新商品のお菓子を手に微笑んでいる。
この沈黙を破ったのは千尋だった。
「2人は……」
「え?」
「2人は私と居て、楽しいのかなぁ……なんて」
「はぁ?」
思いがけない千尋の言葉に驚いた卓也が、思いがけない大きな声を出して千尋が驚く。
「楽しくなかったら毎週毎週休みの日に朝からわざわざ出掛けて一緒に会う訳ないじゃんか。蒼井さんとは平日だって会ってるみたいだし。それに大江さんも言ってたぜ、姉ちゃんには感謝してるって」
「……うん」
千尋のつれない反応に業を煮やした卓也は絨毯の上に寝っ転がって言った。
「そんなくだらないこと考えてるヒマがあったら、もう1時間勉強した方がいいんじゃないの?解き方のパターン」
「あ、やっぱり卓也もそうやって教わったんだ!今日はもうイヤ、お終い」
笑い声がようやく聞けて満足したのか、卓也はそれっきり肘枕に頭を置いたままテレビに向かい、何も言ってはこなかった。
洗い物を終えた母がソファーに着く。さっきまで卓也が座っていた場所ではなく、千尋の隣の位置に腰を下ろした。
「あの子達と付き合いだしてから、千尋少し変わったわよ」
「変わった?私が?」
「ええ。最初大学生と遊ぶなんて母さん内心反対してたけど、あんたどんどん表情が明るくなっていったから。高校に入ってあまり楽しそうじゃなくって、心配してたのよ?何も言わなかったけど。それでずっと、どんな子たちか気になってて、今日会ってみて納得したわ。本当に良い子達だった。縁は授かりものなんだから、大切になさいよ。そうすれば、向こうだって大切にしてくれるんだから。逆にいえばそうならない縁なんて神様は寄越さないわ。神様は千尋に蒼井君や大江さんを選んだのと同じように、2人に対して他の誰でもなく千尋を選んだのよ」
母の言葉に「分かった」とひとつ返事をして、この気まずさから逃れようと、真ん前にある机に目をやると、ホワイトカラーの携帯電話のLEDライトが点灯していた。赤色の光はメール着信の合図。千尋はそれを手に取って開いた。届いたメールは2件。
『今日は試験勉強お疲れ様でした。来週はテスト頑張ってください。テストが終わったら、卓也君も誘って4人でお疲れ様パーティしましょうね。次回の練習楽しみにしています』
『こんばんは。蒼井です。今日はお疲れ様。中間試験も頑張って。弟君にも伝えておいてください。来週中もたぶん木村さんのところで練習しているから、解らない所があったら何時でも訊きに来てください』
弟の言うとおり、『くだらないこと』を考えているばかりで、思えば礼のメールも送っていなかった自分を恥じ、千尋は未だ雫が伝わる指で携帯電話のボタンを押し始めた。