学生の本業(3)
次は千尋がその「ヘンなの」に教えてもらう番だ。
卓也は休憩している間、ずっと「もう疲れた」と連呼していたが、由香里に声をかけられると、大人しく後に付いて行った。
千尋も秀太と共に自室に向かう。扉を開けて、家族以外の異性を自分の部屋に入れるのはこれが初めてだな、と乙女チックな考えが頭に浮かびかかるが、自分と大して変わらない体格の秀太を見てそんなものはすぐに消え去る。
千尋は勉強が基本的に得意ではないが、中でも数学は特に苦手であり、何より嫌いだった。
だいたい、四則演算位ならともかく、今回のテスト範囲の『ベクトル』なんて知っていて何の役に立つのだろうと、
物理学を学ぶ秀太の前ではとても言えたものじゃない不満を、常日頃心に抱いていた。
「数学の先生は去年と同じ?」
その質問が、全く予想していなかった角度からのものだったので、返事が少し遅れた。
「え?あ、うん。一緒一緒」
「問題用紙とか、とってあったりする?」
「あー、えーっと……」
もれなく捨てていた。返答に詰まる千尋に、秀太は苦笑いをして話を続ける。
「……なるほどなるほど。たぶん、学校の定期テストだったら指定の問題集とか教科書の章末問題からちょっといじった程度の問題だと思うから、最悪丸覚えで何とかなるはず。だけどまあ好きじゃない物は覚えにくいから、今日は理解した上で覚えられるように頑張りましょう」
「数学も暗記でいけるもんなの?」
千尋には疑問だった。第一、これまで単純な記憶で乗り越えられなかったからこそ、数学というものに散々苦しめられてきたのだ。
「うん、まぁ。日本史とかみたいな暗記とは少し違うけどね。意外と数学も記憶が武器になるもんだよ。解き方のパターンを覚えるの」
「パターン?」
「そうそう。『こういう問題はこうやって解く!』っていう解き方のパターン。応用問題だって結局は複数の基本問題のパターンが混ざってるだけだし。まあパターンだけで難しい問題が全部解けるわけじゃないけど、少なくとも学校の試験の問題だったら大丈夫」
「ふーん……」
あまり信じられない話だ。そもそも、頭の造りが秀太とは違うのだから。不信の色を浮かべる千尋を尻目に、秀太はどんどん先へと進む。
「それじゃ、覚えていこう。もちろん、ちゃんと理解した上でね」
普段通りの愛らしい顔から発せられた言葉を聞き、先ほどの疲れ果てた弟の姿を思い出した。何だか嫌な予感がする。
「う、うん。ゆっくりね。ゆっくり」
リビングに戻ると、先に終えて由香里と緊張しながら会話をしていた卓也が安心と同情に満ちた顔で迎えてくれた。
「千尋、あんたも頑張ったわねえ」
夕飯の支度をする母が台所から言う。
「うん……まあ、ね」
返事をしながらソファに倒れこんだ。頭が痛い。頭を突っつく千尋を見て「筋肉痛じゃない?」と言った卓也を叩いた後、ひとつ深呼吸をする。疲れ切った脳に酸素が気持ちいい。卓也はさっき程は疲れていないようだった。
「お疲れ様でした」
由香里が労いをくれる。「ありがとう」と何とかお礼の言葉を口から絞り出した。
本当に疲れた。普段滅多に使わない脳みその、理解する部分と記憶する部分を同時に、しかも嫌いな数学に使ったこの1時間、千尋は体力と気力を大いに消耗した。心なしか、少し痩せたような気さえする。千尋の前に卓也にも教えていたはずの秀太が、どうしてあんなにピンピンしているのか理解できない。
「2人とも、少しは解ったの?」
家事を終えた母もリビングにやってきた。
「もちろん」
卓也が先に答える。遅れて千尋も「大丈夫」と小さく返す。
「本当に今日はありがとうございました」
母は今度は秀太と由香里に向って深々とお礼をした。2人が返事を返す前に母の言葉は長々と続き、普段マイペースな2人もさすがに少し困惑していた。
「お母さん、2人とも困ってるから」
そんな様子を見かねて千尋が割って入る。
「あら、御免なさいね。ホントに年をとると話が長くなっていけないわ……。お茶でも飲んで、ゆっくりして下さいね。ほら、千尋」
母に促され「はーい」と腰を上げる。
「そんな、お構いなく」と遠慮していた秀太だったが、その後母が持ってきたケーキを見ると誰よりも1番に顔を輝かせた。