学生の本業(2)
由香里と2人きりになるのは初めてだったので、最初は少し緊張した。
小学校入学を機に買ってもらい、その後本来の用途を一切為していない学習机に千尋が座り、その横に由香里が立つ。
「とりあえずテストの出題範囲を見せてもらえますか」
「あ、うん」
由香里に言われて千尋はリーディングとライティングの教科書をカバンの中から取り出す。
教科書がカバンの中に入ったままだという時点で、少なくとも前日は勉強しなかった事がバレてしまった。
それでもテスト範囲だけはきちんと教科書に書き込んではいた。由香里はその雑な走り書きを読み、
「リーディングの方は本文から出題みたいなので、対策が取りやすいと思います。まあその辺はきっと蒼井君が得意だと思うので、彼に任せちゃいましょう。
私は一応英文学科なので文法、ライティングの方を教えますね。それで時間が余ったらリーディングもしましょう」
と提案した。
千尋は英語を中学校で学び始めてから、アルファベット、三人称単数、過去形、現在進行形くらいまでは、他の科目に比べてもなかなか順調だったが、
現在完了が現れたあたりから雲行きが怪しくなり、不定詞が出てきた頃には完全に詰んでいた。
それからは勉強する気さえ起きず、「解らない所が解らない」という究極の状態。
毎回答案を受け取るたびに「自分は日本人だから」と、英語が出来ない学生お得意の言い訳を自分にしてきた。
そんな文法アレルギーな千尋だったから、由香里の説明が面白いように頭に入ってきた事に非常に驚いた。秀太といるうちに自分まで頭が良くなったのではないかと錯覚する程だった。
実際には由香里の説明が上手なのと、普段の学校での授業と比べて抜群に集中しているからという、ただそれだけの事であるが。
「このページの問題も全部合っています。千尋ちゃん、出来るじゃないですか!」
褒められて伸びる、とはこういう事なんだろうなと千尋は思う。
「ライティングはとりあえずこの辺にしておきましょうか。ええと、残りの時間は……微妙なところですね」
時計をみると、勉強を初めておそよ45分が経ったところだった。
「ちょうど授業1限分だし、リーディングは丸暗記でなんとかなるから、ちょっと早いけどもう休憩入っちゃおうか。
たぶん弟も、もうとっくに鉛筆投げだしてると思うし」
卓也が30分以上机に向かうことなど、千尋には考えられなかった。自分も言えた様な口ではないが。
由香里は「うーん」と少し考えた後、
「そうですね。それじゃあ休憩しながら口頭で単語テストでもして待ちましょうか」
と千尋に同意した。
「あ、そういえば!」
椅子から立ち上がりかけた千尋の言葉に由香里がはてなを浮かべる。
「ずっと訊こうと思ってたんだけど、由香里さん、なんで私たちを選んだの?
秀太が言ってたようにもっと上手な人と組んでどんどん発表の場で演奏すれば良かったのに」
由香里は一瞬困ったような顔をしたが、すぐにほほ笑んで語り始めた。
「前に言ったとおりですよ。ピーンときたんです。千尋ちゃん達を見て、演奏を聞いて。この人たちと一緒に音楽をしたいなって。
音楽って単純に技術だけじゃ駄目なんですよ。歌を歌う人や楽器を弾く人の心が大切なんです。千尋ちゃんや蒼井君にはそれがあったから」
千尋は由香里の言葉を聞いて、「そっか」と頷いた。納得出来たような出来なかったような、変な感じだった。
このやり取りの後、少し間が空いてしまったので、千尋は慌てて口を開いた。
「2人とも、もう下に降りてるかもね。あ、由香里さんありがとう。英語が分かったの初めてかも」
由香里はふふふ、と笑った。
リビングに降りると、思いのほかそこに秀太と卓也の姿は無かった。
「へぇええー!卓也まだ頑張ってるんだ!?奇跡だね!」
千尋が驚くと、母も、
「そうなのよー。明日熱でも出るんじゃないかしら」
と真面目な顔でそう言った。由香里はそんな2人の会話を聞いて「ヒドいですよ」と苦笑していた。
結局2人が降りてきたのは、それから15分後だった。即ち卓也は1時間キッチリ机に向かって勉強したということになる。
リビングのドアを開けた卓也は、フルマラソンでも走って来たかのように疲労していた。
「あ、姉ちゃん、早いね」
「う、うん。卓也……がんばったね」
茶化そうと思っていた千尋だったが、卓也の疲れ切ったその顔には、労いの言葉をかける他になかった。
30分程したらまた1時間勉強することになっているのだが、大丈夫だろうか。
卓也は千尋の横、ソファの端っこに倒れ込むように座った。
一方秀太はと言うと、そんな卓也とは正反対にピンピンしていた。
「中学の勉強は教えられるか不安だったけど、何とかなったよ。理科がちょうど物理分野で助かった」
そう言って卓也とは逆の端っこ、由香里の隣の位置に腰かける。
「まだ頭の中で数字がぐるぐる回ってる……」
隣で卓也が唸っている。秀太はどんな教え方なんだろうかと、次に控える千尋が少し不安になる。
「それとさ……姉ちゃん……」
卓也が秀太の方をチラっと見て、口ごもる。秀太は由香里と話をしている。
「なに?」
千尋が尋ねると、卓也が小さな声でポツリ、と言った。
「俺……変態じゃないよなあ……」
楽しそうにおしゃべりをしている秀太のほうをひとつ眺めた後、千尋は弟に向かって優しく声をかける。
「大丈夫。ヘンなのはあっちだから」
そんな失礼な言葉に気がつきもせず、秀太は向こうで笑っていた。
別に聞かれてても大丈夫、千尋にはそんな思いがあった。