第13話 海軍
口をふさがれた宇海がもがもがしていると、にわかに酒場の入口付近がざわざわと——ずっとざわざわしていたが、それとは別の、あまりいい感じではないざわざわ——しだした。
ピカネートが唇に人差し指を当て、みんなに(特に宇海に)静かにするよう伝えた。宇海がこくこくと頷くと、やっと口をふさいでいた手をどかしてくれた。ぜえ、はあ、と呼吸を繰り返す。呼吸が落ち着いたところで、宇海は入口で繰り広げられている会話に耳をそばだててみた。
「おいおい、ここに何の用だ? 酒飲みに来たってわけじゃなさそうだな」
「旦那、困りますぜ。うちはきちんと、真面目に営業しているんですから」
「はっ。こいつらにゃ真面目かどうかなんてどうでもいいんだ。気に入るか気に入らないかなんだよ」
どんな人と話しているのかはわからないが、なんだかよくない雰囲気だ。宇海は段々と不安になってきて、ピカネートならこういう時に何か声をかけてくれそうな気がしてちらっと彼女のほうを振り返ろうとした。しかし〝ちらっと〟どころではなく体ごと後ろを向くことになった。なぜかピカネートは入口に背を向けて座り込んで、アーレフと共に何かごそごそとやっていたのだ。
なにしてるの? と聞こうとしたが、ココに両肩をがっしりと掴まれてまた入口の方を向かされた。
「ごめんウミちゃん。今ちょっと取り込み中だから、前向いて、壁になってて」
そう小声で言われ、宇海は何がなんだかよくわからなかったが小さく頷いた。
「静粛に!」
突然大声が聞こえた。入口の方からだ。その一言で、さっきまでのざわめきがウソのように静かになった。宇海は今度は緊張してきて思わず拳を握りしめた。ちょっと汗ばんでじっとりしてる。
大声で叫んだ人が、よく通る声で喋り始めた。
「我々がここに来たのは、諸君らを逮捕するためではない。我々は、さる高貴なるお方を探しにはせ参じたのだ。今回はそのお方に免じて諸君らの愚行を見て見ぬふりをしているにすぎん。諸君らを逮捕することなど、赤子の手をひねるよりも容易い」
最後にその人がふんと鼻で笑うと、酒場にいる人たちが「なんだと⁉」と怒りの声を上げ始めた。酒場全体が怖い空気に包まれてきて、宇海はこの場から消えてしまいたくなってきた。テストで悪い点を取ったときくらいひどい気分だ。
周囲の声なんてまるで耳にも入っていないかのように、さっきの人がまた喋りだした。
「ただいまより、見分を行う。諸君らはその場で待機するように。妙な真似をすればどうなるか……。まぁ、言う必要もないな」
また最後に鼻で笑った。嫌な喋り方をする人だなぁ。お母さんの方がまだマシかもしれない。そう思ったところで、宇海は少し後ろめたい気持ちになった。わたしって今、家だとどうなっているんだろう。家から消えちゃったのかな。だってわたしはここにいるんだもん。いなくなったわたしを、心配して……。
(ううん。そんな心配をしている場合じゃない。考えても、どうしようもないんだから)
無駄な考えを追い払うように、宇海はふるふると軽く首を横に振った。今は〝今〟のことを考えよう。
「ねぇ、ココちゃん。あの人って、海軍の人なのかな」
宇海は少しだけ頭を動かして、ココに小声で尋ねてみた。ココは宇海にだけ聞こえるように、そっと耳打ちする。
「きっとね。だから油断しちゃダメだよ」
「うん」
宇海は頷いて、海軍らしき人を目で追った。その人は今、数人の仲間を連れてゆっくりと店内を歩き、じろじろと周りの人を見ている。
(どうかこっちに来ませんように……!)
無駄な願いだとはわかっていても、宇海はそう祈らずにいられなかった。〝高貴なるお方〟を探していると言っていたが、そんなのきっとでまかせだ。あの人が本当に探しているのは、ピカネートたちなんだ。きっと怪しまれないためにあんなことを言ったんだ。……怒りは買っているようだけれど。
「やあ、ごめん。待たせたね」
宇海が不安な気持ちでいっぱいになっていると、後ろから声をかけられた。やっとピカネートとアーレフがなにかやっていたのを終わらせたんだと思って振り返ると、びっくりして一瞬にして不安な気持ちがどこかへ行ってしまった。
「え、えと……ピカ、ネート……?」
振り返ればそこに立っているのはピカネートとアーレフ……のはずなのだが、なんだか違和感がある。変装したからかもしれないが、それだけではない。さっきまでとは何か、服装以外のものも違う気がする。宇海はぱちくりとまばたきして、二人を交互に見る。なんだろう。この難しい間違い探しに出会ったときみたいな感覚。
「これは大成功かねぇ」
「そうね……じゃなくて、そうだな」
ピカネートとアーレフの二人が、なにやら悪だくみでもしていそうな顔をして頷いた。なにが? どういうこと? と宇海が首をかしげていると、ココが「もうすぐこっちに来るよ」と注意をうながした。宇海は慌てて前を向き、緊張しながら気をつけの姿勢をした。ああ、やっぱり来ちゃうんだ。
こちらに近づいてきた海軍らしき人たちは、みんな紺色の軍服を着て、帽子をかぶっていた。先頭を歩く人は飾りが多くて、一目でこの中で一番偉い人なのだとわかった。きっとこの人がさっき喋っていた人だろう。
一番偉い人が宇海たちの前で立ち止まると、後ろの仲間——部下たちも少し驚いたような顔をしながら立ち止まった。中にはそわそわした様子で腰に下げた剣に手を添える人もいる。
「海軍サマがオレたちになんの用だい? ここにはこの通り、男ばかりで、アンタたちの探しているような高貴なお方なんていやしないよ」
(男ばかり……?)
宇海はなんでそんなことを言ったのか聞き返したかったが、ぐっと我慢した。当のピカネートはなんでもない風にラム酒を飲んで、皿に盛られたリンゴをかじっている。偉い人はそんな彼女をじろじろと疑うような目付きで見た。
「フン。奴隷を連れているというのに、私たちを前に堂々としていることだけは評価してやろう」
偉い人がそう言うと、ピカネートはムッとしたように言い返した。
「今の言葉、取り消しな。オレの仲間に奴隷はいない。コイツも立派な船の一員だ」
そう言って宇海の肩を掴む。わたしって、この海軍の人から奴隷だと思われていたの?
すると海軍のお偉いさんが、宇海を見下しながら言った。
「ほう? ボロボロのマントの下に見慣れない服を着ているものだから、てっきり見知らぬ島から連れ去ってきたのかと思ってしまったよ。これはすまないことを言ったね。悪かったよ」
全然悪く思ってなさそう。そう宇海が思うが早いか、その人は宇海の頭に手を乗せて、宇海と同じ目の高さまでしゃがんできた。宇海はびくりと体を震わせる。いかにもアニメや映画の悪役として登場しそうな、人を馬鹿にしたような顔をしているのだ。しかも頭に乗せた手はただ乗せているのではなく、掴むような力を加えている。
(怖い……)
宇海が目を合わせないように下を向いていると、偉い人がさも自分は優しい人間であるかのような、ねっとりとした声色で話しかけてきた。
「悪かった、少年。君を奴隷などと呼んでしまって。しかし、君をこんな格好のままでいさせる彼らも悪いと思わないか。ん? どうだ。私と共に来ないかね。きれいな服と美味しい食べ物を与えてやろう。海軍に入れば何不自由なく暮らせるぞ。乱暴な奴らにこき使われ続けることもない。報酬だってたっぷりもらえるぞ」
「……」
ほら。と偉い人は懐から一枚の金貨を出して宇海の顔の前に出した。宇海は下を向いたまま、奥歯を噛んで、怖くて泣き出したい気持ちをぐっとこらえていた。こんな人の下で働いて何不自由なく暮らせるなんて信じられないし、お母さんに怒られるよりもずっと怖い。お母さんのあの視線の方がまだ耐えられると思う日が来るなんて!
ふと、頭にのしかかっていた重圧から解放された。何だろうとようやく頭を上げると、ピカネートが偉い人の手を掴んで宇海の頭から離していた。
「勧誘はやめてくれないかい。オレたちがこの島に来たのはコイツの服の材料を買うためでもあるし、コイツをこき使ってもいない。これ以上侮辱するのは許さないよ」
ピカネートが偉い人を睨みつけた。しかし彼は怯みもせずに嫌味な笑顔をピカネートに向ける。
「勧誘? 違うな、これは保護だ。いたいけな少年を薄汚い海賊のいいように使われるのは労働資源の浪費だ。船に乗って働きたいのであれば、海軍に入るのが一番なのだからな。それにこの少年には見込みがありそうだ。子供のうちから手取り足取り教え込ませれば成長も著しい」
そう言って彼は舌なめずりをした。何だかすごく気持ち悪い。ピカネートもそう感じたのか「この……ッ」と何か言おうとしたが、舌打ちするだけにとどめた。
「子供の前でよかったな。部下の前で恥をかかずにすんだぜ。とにかく、コイツはオレの仲間だ。アンタに〝保護〟させる気はない。ウミ、アンタもオレたちと一緒がいいよな」
「うん……あ、はい! 船長!」
急に話を振られた宇海はテンパりながら敬礼した。どうかこれでこの人が諦めてどこかへ行ってくれますように!
すると宇海の願いが届いたのか、偉い人はピカネートの手を振りほどき、興味をなくしたような顔をした。ああ、よかった……!
「まぁいい。うるさい野犬がいては時間を浪費するだけで進展が見込めない。だが少年、海軍に入りたければいつでも歓迎しよう。オールクスル海軍基地に行き、この私、クリスナー大尉の名前を出せば丁重にもてなすよう通達しておこう」
そう言って偉い人——クリスナー大尉は、最後に宇海の頭をひと撫ですると(これがまた気持ち悪いやら怖いやらで宇海はまた泣きそうになった)、部下を連れてまた歩き始めた。
……が。
「ああ、そうそう」
少し歩くと、また足を止めた。
「なぜ君は〝男ばかり〟であると言ったのかね。〝薄汚い男ばかり〟であれば実にその通りだから気にもとめなかったのだが、そうではない。男であることを強調した。まるで我々の探し人の性別を知っているかのようだ。おやおかしいなぁ〝さる高貴なるお方〟としか言っていないはずだが」
そう言ってクリスナー大尉は腰の剣を抜き、くるりと振り返ってピカネートにその切っ先を向けた。
「貴様、ピカネート・エタリップだな」




