小鳥よ小鳥、戻っておいで
踊り狂う炎が、建物を燃やし屍を焼き、夜空を焦がしていた。
怒号、悲鳴、銃声、砲声。混沌とした轟音が耳を劈く。
戦場となったのは、旧ネフシュ王都ネフシュタ。そこに潜伏していた敗残兵が集結、暴徒化したのである。
ノウラン総帥バロウは、ネフシュ侵略の立役者であるノウラン軍大佐ヴェッテルに、暴動の鎮圧を命じた。
ヴェッテル率いる鎮圧軍は、侵略戦争によって荒廃した旧ネフシュにて暴徒と交戦、圧倒した。
旗色が悪いと見た暴徒は後退、さびれた倉庫に逃げ込んだ。壁には罅が入り、鉄製の扉は錆びつき、半ば崩れ落ちている。
鎮圧軍は廃墟を包囲した。これで、暴徒は袋の鼠だ。ヴェッテルは部下に命じた。
「籠城戦ごっこに付き合ってやるよしみはない。火を放ち、耐えかねて飛び出したところを狙い撃て」
立ちのぼる煙の向こう側、人影が現れては消える。最早これまでと、覚悟を決めたのか。亡国に忠誠と魂を捧げた敗残兵が、一人また一人と、燃え盛る倉庫を飛び出し、決死の突撃を試みては、自軍の兵に銃殺されてゆく。
ばたばたと倒れてゆく敗残兵を、ヴェッテルは冷ややかに眺めていた。
「我が祖国に、永久の栄光あれ!」
敗残兵がそう叫び、ヴェッテルに向かって駆けて来る。握り締めた銃剣の切っ先がヴェッテルに届くことはなく、敗残兵は蜂の巣のようになって倒れた。
血の海の中に積み重なる屍の山を、ヴェッテルは冷かに眺めた。
祖国を守れず、死に損ない、生き恥を晒した敗残兵にとって、これが唯一の、名誉の死を遂げる方法であったのだろう。すくなくとも、本人達は大真面目に、考えて考えて考え抜いて、暴動を起こす決断をしたのだろう。勝ち目がないと知りながら、ただ、誇り高く死ぬ為に。
その精神性は、ヴェッテルには理解不能だった。生き延びれば雌伏の先に、形勢逆転の可能性もあっただろうに。これでは、まさしく犬死ではないか。
炎は猛然と燃え上がり、建物の構造をどんどん飲み込んでいく。金属の梁が悲鳴のような音を立てて曲がり始める。ガラスの破片が砕け散る音が、煙と灰が舞い踊る空気に響き渡る。
崩壊寸前となった倉庫から、最後に出て来たのは、若い女だった。
赤々と燃え盛る炎を背に、女は堂々と立っていた。長い金髪は熱風に弄ばれながら、その一本一本が炎の輝きを反射して、光り輝いているように見えた。
無数の銃口が女に狙いを定める。誰も発砲しない。ヴェッテルがそのように命じた。
その女が非戦闘員であることは、誰の目にも明らかだった。
女の右足首には足枷が嵌められており、断ち切られた鎖を引き摺っている。煤だらけの襤褸を身に纏い、露出している肌は痣と傷に埋め尽くされている。
女は足元に転がる敗残兵の屍を見下ろす。腫れ上がった瞼に埋もれた碧眼が、冷ややかに細められた。
「馬っ鹿みたい」
それは紛れもなく嘲笑であった。痩せ細り、傷付き、疲弊した女は、敗残兵の犬死を嘲笑っていた。
「戦場に栄光なんてない。何もない。何もかも、燃え尽きるだけ」
「此奴らは、お前の仲間か?」
ヴェッテルは女に問い掛けた。我ながら、馬鹿馬鹿しい問い掛けであった。
金髪碧眼は、北の地に住まう少数民族のみが持ち得る色彩だと言われている。金髪碧眼の美しい女は奴隷市場において、高値で取引されている。ネフシュを含む南国において、金髪碧眼の女奴隷は特に、需要があると聞く。それに、女の身体には虐待の痕跡がある。この女は十中八九、人攫いに拐われ、ネフシュに連れて来られた奴隷であろう。
わかりきったことを、敢えて問い掛けた。ヴェッテルは答えを求めてはいない。ただ、女の冷たい目をもっと見たい、冷たい声をもっと聞きたいと、ヴェッテルは渇望していた。
女はヴェッテルに目を向ける。女の冷笑は、茹だるような暑さを忘れさせる。まるで、凍える吹雪のような。
「そうだと言ったら? 仲間のところに送ってくれるのかしら? ご親切にどうも」
女はそう言い放ち、背を覆う長い髪を左手でかきあげた。
ノウランの淑女は、決して人前で髪に触れない。淑女の鑑と名高い母、社交界の花と持て囃される姉、見合い相手として紹介されるご令嬢、忠実な使用人、兄に連れられて行った高級娼館の娼婦でさえ。ヴェッテルの前でこのような、はしたない真似はしなかった。
滝のように流れる髪の繊細さを見せつけるような、細い首筋が描く甘い曲線を見せつけるような、はしたない真似は。
ヴェッテル困惑を余所に、女は嫣然と微笑み、言った。
「どっち道、殺すんでしょ? 願ってもないわ。さっさと撃って」
ヴェッテルは目を瞠る。自他ともに認める鉄仮面に罅が入ったことを、はっきりと自覚する。
女はちょっと顎を上げて、まるでヴェッテルを見下ろすかのようにして、わざとらしく小首を傾げた。
「なに、どうしたの? あんた、あの悪名高い、ヴェッテル大佐でしょ? こんな、何の取り柄もない小娘を殺すくらい、朝飯前でしょ? まさか今更、怖じ気付いたなんて言わないでしょうね?」
生憎、見え透いた挑発に腹を立ててやる律儀さも、可愛げも、ヴェッテルは持ち合わせていない。そもそも、ヴェッテルは感情の数が少なく、量も少ないようだった。
幼少期はそれで、母と乳母に心配をかけた。ヴェッテルの健全な情緒を涵養するべく、母は幼いヴェッテルに山吹色の雛鳥を与え、愛玩するように勧めた。
ヴェッテルは母の言いつけに従った。雛鳥の世話をするうちに、雛鳥はヴェッテルに懐いた。そうなると、愛着も湧いてくる。
このか弱い生き物は自分が守り、育てなければ、生きていけない。ヴェッテルはそう確信していた。雛鳥はすくすく成長した。飛べるようになった小鳥はヴェッテルの手を離れ、窓の外へ飛び立ち、二度と帰って来なかった。
母は愛玩動物を失ったヴェッテルを憐れみ、新しい小鳥を与えようとしたが、ヴェッテルはそれを断った。
母の創意工夫も虚しく、ヴェッテルの情緒はあまり育たなかった。長じで軍人になると、その感情の希薄さは却ってヴェッテルの強みとなったので、何も問題は無いのだが。
女はヴェッテルの返答を待っているようだ。ヴェッテルが黙して語らず、ただ女を見つめた。しばらくして、女はため息をついた。
「さっさと撃ち殺せば良い。そして、私の頭が破裂するところを、その濁った両目に焼き付けるのよ。こいつらがこうなったように、貴方もいずれ必ず、そうなるから」
そう言うと、女は目を伏せた。女の金髪が炎に照らされ、きらきらと光る。天高く舞い上がる山吹色の小鳥が、陽の光を浴びてきらきらと光っていたように。
あの時、ヴェッテルは小鳥の名を呼んだ。喉が枯れるまで、小鳥の名を呼んだ。しかし、小鳥はヴェッテルの許へ戻らなかった。
ヴェッテルは後悔した。何故、窓を開けたまま小鳥を鳥籠から出したのか。何故、小鳥を繋がなかったのか。何故、風切羽を切らなかったのか。
何故、小鳥はヴェッテルの許を離れないと思い込んでしまったのか。何故、小鳥を信じてしまったのか。
小鳥がどうなったのか、ヴェッテルにはわからないが、予想はつく。餌を採れずに飢え死にしたか、捕食者に捕らわれ、食い殺されたか。そんなものだろう。小鳥はヴェッテルがいなければ、何も出来ないのだから。
このままでは、この女は死ぬ。誰もこの女を救えない。この女を救えるとしたら、それは、この戦場を任されたヴェッテル、唯一人だけ。
沈思黙考の末、ヴェッテルは口を開いた。
「安寧とした余生を何不自由なく過ごすには、多くの苦労が必要だ。身を粉にして額に汗して、働かねばならん。それしても、ここ最近は働きすぎた。最後に二時間以上の睡眠をとったのはいつだったか、全く思い出せん。少しくらい、良い思いをしても良い筈だ」
女が眉を顰める。突然、何を言い出すのかと、訝しんでいる。部下達もそうなのだろう。ヴェッテルは構わずに続ける。
「敗残兵は全員、始末した。お前はもう、誰にも必要とされていないし、誰もお前の生死にこだわらない。であるからして、俺がお前を貰い受けても、誰も構うまい」
女は目を見開いた。氷の瞳が揺れている。
「なんで、そんな」
女の問いに答える必要性を感じなかった。一刻も早く、雛鳥を鳥籠に籠めなければならないと、そればかりに気を取られていた。
※※※
ヴェッテルは、雛鳥をノウラン王都に所有する屋敷に連れ帰り、自室で飼育を始めた。すると、それはあっという間に、家族の耳に入った。使用人が告げ口したようだった。人の口に戸は立てられぬとは、よく言ったものである。
母は嘆き、姉は憤った。奴隷女を囲うなど、放蕩者のすることだと詰られた。兄が執り成してくれなければ、母は泣き出しただろうし、姉は癇癪を起こして、ヴェッテルに扇子を投げつけたかもしれない。
兄は母と姉を宥めすかして、それから、ヴェッテルと向き合った。
「ヴェッティ、お前の好きにすると良い。母上とヴェラのことは、私に任せなさい」
そう言って、兄は笑った。
「お前の暮らしには彩りが欠けている。お前の毎日は灰色で、楽しみが無いんじゃないかと、心配していたんだ。あの奴隷がお前の暮らしを華やかにしてくれるならば、願ってもないことだ。なぁ、ヴェッティ。ただし、ちゃんと医者に診せるんだぞ。妙な病気をお前に伝染さないようにな」
「お心遣い、痛み入ります。仰る通りに致します……ところで、ヴェッティと呼ぶのは、そろそろ、おやめ頂けませんか。それは、子供の頃の愛称です」
「うん? そう言うな、ヴェッティ。寂しいじゃないか」
そう言って、兄はまた笑った。冷酷非道の上級大将と恐れられる兄はバロウ総帥のお気に入りで、総帥がヴェッテルを重用するのも、兄の威光があってのことだと、ヴェッテルは弁えていた。
そもそも、三十年前、戦死した父に代わり、立派に家長を務めてきた兄は、父の顔を覚えていないヴェッテルにとっては兄であり父でもある。
だから、ヴェッテルは兄に頭が上がらないのだ。
兄の口添えもあり、ヴェッテルはロウラン北部に別邸を構えることになった。ヴェッテルは雛鳥を連れてそこに移り住み、一年の殆どをその別邸で過ごすようになった。
ヴェッテルと雛鳥は、そこで三年を共に過ごした。
三年間、ヴェッテルは真心を込めて雛鳥の世話をした。雛鳥はヴェッテルに懐かなかったが、ヴェッテルはそれでも構わなかった。ヴェッテルの目的は、雛鳥を懐柔することではない。雛鳥を手許に留め、愛でることだった。
そして。
その日は珍しく、雛鳥がヴェッテルを噛まなかった。髪を撫でる手を振り払わなかった。たったそれだけのことだった。懐かれたなんて、思い上がったり、油断したりしない。ヴェッテルはそんなに愚かではない。
言うなれば、ほんの出来心だった。窓をほんの少し開けておいたら、この雛鳥はどうするか。それを、確かめてみたくなった。
その結果が、これだ。
ヴェッテルは雪原を進んでいる。道標は、純白の雪原を駆け抜ける小さな足跡と、それに寄り添うように点々と落ちる深紅の血痕だ。
急ぐ必要はない。風切羽は切り落としてやった。あの足ではそう遠くは行けないだろうし雛鳥に救いの手を差し伸べる者は、何処にもいない。雛鳥の命がある内に追いつけば、それだけで、全ては事足りる。
程なくして、ヴェッテルは雛鳥を追い詰めた。ヴェッテルの大きな影が、雪に埋もれるようにして蹲る雛鳥に覆い被さる。項で震える後れ毛を、ヴェッテルは見つめた。かつてのように手は伸ばすことはしなかった。
黒い外套を着込み佇む大男と、白いワンピースを着て蹲る華奢な女。
その構図はまるで、親鳥が雛鳥を足の間に抱え込み、守っているかのようだった。
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守っていたのだ。ヴェッテルにとって守ることとは、逃げられないように囲い込むことだった。雛鳥が自由を求め、ヴェッテルの庇護を拒絶した瞬間、ヴェッテルの関心は「守ること」「育むこと」から「壊すこと」に向けられた。
そうだ。あの時だって、そうだった。もしあの時、ヴェッテルの手許に銃があったなら、ヴェッテルは小鳥を撃ち落とした。そうすれば、ヴェッテルは小鳥のことなど忘れてしまえた筈だった。
ヴェッテルは雛鳥の後姿を見つめた。風切羽を切り落としても、雛鳥はこうしてまた、ヴェッテルに背を向ける。決して、ヴェッテルを振り返らない。
喉が枯れるまで、その名前を呼んだとしても、決して振り返らず飛んで行く。そして、ヴェッテルの目の届かない、ヴェッテルの知らない場所で、いつのまにか、あっさりと死んでしまうのだ。
でも、或いは、もしかしたら。もう一度だけ、その名前を呼んだら。雛鳥は、ヴェッテルの許に戻ってくるかもしれない。
ヴェッテルは雛鳥の名前を呼ぼうとした。口を開き、喉を震わせ、そして、言葉を失った。
ヴェッテルは、この雛鳥の名前を知らなかった。そのことに、今の今まで、思い至らなかった。
雛鳥の小さな背を覆うの金髪が、雪風に靡いている。
肌を埋め尽くす痣と傷が癒えても、真雪の肌が艶を取り戻しても、痩せこけた肉体が蠱惑的な丸みを取り戻しても。
彼女は変わらない。炎を背に凛として立つ、気高く強い女だ。あの日のまま、何も変わらない。今も、ずっと。
ヴェッテルはすっと目を細めた。雛鳥の体温を思い出す。求め、拒まれ、そして、失ったもの。
ヴェッテルは気が付いた。彼が求める「壊すこと」は、その失われたものを回収する行為なのだと。
ヴェッテルは腰に提げたホルスターに手を伸ばした。冷たい金属の感触を確かめる。
雛鳥は自由にはばたくことを望んだ。もう二度と、鳥籠には戻らない。あの時と同じだ。
ーーならば、今度こそ、この手で撃ち落とす
ヴェッテルは決断した。それは覆らない決断だった。
雛鳥の後頭部に銃口を突き付ける。雛鳥はびくりと震えた。ヴェッテルは失笑した。あの日、撃てと啖呵を切った癖に。あれは虚勢でしかなかったのか。今になって、死を恐れるのか。
ならば、どうして、ヴェッテルを拒むのか。
「後悔しているかね?」
ヴェッテルは雛鳥の背に語りかける。雛鳥は答えない。震える吐息だけが聞こえる。それが答えだろうか。ヴェッテルは更に言葉を重ねる。
「一縷の望みを賭けて、命乞いをしてみてはどうだ? ……私を愛しているのなら、殺さないで。とでも」
愛している。言葉にしてみれば、なんと空虚な響きだろう。それでも、ヴェッテルが雛鳥を大切に想う気持ち名前をつけるとしたら、それは愛の他に思い浮かばなかった。
雛鳥が息を詰める。ヴェッテルは雛鳥を凝視した。
彼女がヴェッテルに縋りつき、命乞いをしようものなら。奴隷として虐げられ、死の淵に立たされながら、気高くあり続けた彼女が、そんな無様を晒そうものなら。
ーー引鉄を引き、そして、この女の存在を、記憶の中から跡形もなく消し去る
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女はヴェッテルを振り仰ぐ。ヴェッテルの目を真っ直ぐに見つめ、そして、微笑んだ。
「どっち道、殺すんでしょ? 願ってもないわ。さっさと撃って」
ヴェッテルは引き金を引いた。女の頭は柘榴のように張り裂ける瞬間を、ヴェッテルは永遠のように感じた。
そして、女は死んだ。
ヴェッテルは物言わぬ骸と化した女を見下ろした。
鳥を撃ち落とした。鳥が自由に空を翔けることはない、もう二度とない。
それでも、グロテスクな死骸を見下ろすヴェッテルの心は、ちっとも満たされてはいなかった。
深々と降りしきる雪花の中、ヴェッテルは、雪に抱かれ、血溜まりに沈む女の屍を、食い入るように見つめていた。
(終)