月下の古城と赤き淑女④
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
セレナ
種族:メデューサ
アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。
ヴァネッサ
種族:ヴァンパイア
とある古城に独り住んでいる。幻術を得意とする。
アルヴァ
種族:人間
奴隷市場を取り仕切るリーダー。転移能力を使う。
斬りつけてきた男の刃を弾き、最後の見張りを拳で地に沈めた。
胸が荒く上下し、喉は熱を持っている。
額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、俺は息を吐いた。
(これで……一通り、片付いたか)
こんなにも人を殴ったのは初めてだ。
肩から腕にかけて、妙な疲労がじわじわと押し寄せてくる。
けれど、ここで立ち止まっていられない。
周囲を見渡した、そのとき――
霧の奥に、構え合う三つの影が見えた。
リリアとセレナ。
そしてその向かいに立つ、上半身裸の巨漢。
筋肉の塊が、大斧を肩に担ぎながら、獣のような気配を放っていた。
「――っ!」
無意識に、足が動いた。加勢しようと、そちらに向かおうとした、その刹那――
空気が凍るように張り詰めた。
肌に冷たい風が這った。
背後に、“何か”が現れた気配。
「……随分と暴れてくれたな」
反射的に振り返る。
そこに、いつの間にか“男”が立っていた。
くたびれた黒革のジャケット。
後ろで無造作に束ねた黒髪と、整えられた口髭と顎髭。
そして、片目に走る鋭い傷痕。
その男は、俺を射抜くような視線で見下ろしていた。
「せっかく“品物”を運び出す準備が整ったというのに……これは大きな損失だ」
「お前が……この事件の黒幕か」
声に出した瞬間、背中を冷や汗が伝った。
言葉にできない感覚が、心臓の奥を締めつけていた。
本能が、目の前の男を“ただ者じゃない”と叫んでいた。
男はわずかに肩をすくめ、口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「黒幕? そんな仰々しいもんじゃないさ。ただの“元・被害者”さ」
その言葉の意味を問う暇もなかった。
次の瞬間――
男の体が“空間ごと”揺れた。
周囲の空気が軋み、光の屈折が起きるように視界が歪んだかと思うと……
気づけば、目の前にいた。
「悪いがな、坊主――お前に構ってる暇はねぇんだ」
反射的に拳を繰り出す。
だが、拳は空を切った。
男の姿がぼやけて見え、視界の外へと滑り抜けたかと思うと――
「ッ……ぐぅっ!!」
みぞおちに、鋭い衝撃。
空気が肺から一気に抜け、膝が崩れる。
吐き気が、喉まで競り上がってくる。
「ふん、素人だな」
頭上から、俺を嘲る声。
「てめぇ……ッ」
痛みに顔を歪めながら、俺は歯を食いしばって立ち上がる。
闇の力が、内部から脈打つように流れてくる。
立ち上がる勢いそのままに、再び拳を振るう――
だがまたもや、男の姿は消えていた。
「後ろだ」
声に反応して振り向いた――その直後。
頬に衝撃。
さらに、間髪入れずに腹を貫くような拳。
「っ……ぅ゛……!」
胃の中のものが逆流し、その場に膝をついて吐き出した。
「あーあ、汚ねぇな。魔物娘達がいるってのに、みっともねぇ」
男は、うんざりしたように肩を竦めた。
「おっと、自己紹介がまだだったな。アルヴァ。ここの組織のリーダーをしている」
その態度は、まるで喧嘩慣れした路地裏の悪党と同じ――
だが、根っこから違う。
こいつは……戦い慣れている。
息をするように、相手を潰す手段を知っている。
やべぇ。相手にしているのは、“本物”だ。
(このままじゃ、やられる……)
肋骨の下に重たい鈍痛が残る。息が整わない。
けれど――ここで倒れるわけにはいかない。
リリアも、セレナも、そして助けた人達も。
みんなが命を懸けて戦ってる。
俺一人が、ここで立ち止まっていいはずがない。
闇の力を右腕に集中させる。
拳から黒い炎のようなオーラが微かに揺れた。
「……なるほど。諦めは悪いタイプか」
アルヴァが皮肉めいた笑みを浮かべる。
「だが、“速さ”は“強さ”に勝る。その身で学べ」
空間がゆらりと揺れる。
また――来る!
視界からアルヴァの姿が消えた。
そして――右後ろ!
「ッ……!」
振り向きざまに、拳を思い切り振るった。
硬い何かにぶつかった。
アルヴァの肩口にあったプロテクターが宙を舞う。
無闇に振ったわけじゃない。
転移の瞬間に発生する空気の揺らぎ、立ち位置、死角からの攻撃。
それら全部を、闇の力で研ぎ澄まされた感覚で読み取った。
「……ほう。よくわかったな」
息を切らせながらも、俺は口角をわずかに上げて答える。
「さっきと……同じ所から来ると思ったからな」
拳の一撃は浅い。
だけど、“読める”と気づいた瞬間の手応えは、何よりも大きい。
アルヴァは目を細め、無言で片手を懐に差し入れた。
次に取り出されたのは――鈍く光る一本のナイフ。
鋭く、重い。
近距離で使えば殺意の塊そのものだ。
「遊びはここまでだ。終わりにしよう」
その声色に、先ほどまでの余裕はない。
ナイフの切っ先が、俺に向けられる。
視線がぶつかる。
空気が張り詰め、肌を刺すような冷気が背筋を這った。
俺は、拳を握り直した。
「ああ、上等だ……来いよ」
闇が、体の奥で脈打つ。拳に熱が走り、皮膚がじりじりと焼けるようだった。
刃も、魔法も必要ない――俺は、拳ひとつでこいつを叩き潰す。
息を切らせながらも、俺はアルヴァから視線を逸らさなかった。
拳を握りしめる。力はまだ残っている。
アルヴァは肩口をちらりと見て、苦笑するように肩をすくめた。
「いい読みだったよ。だが、それはさっきまでの話だ」
次の瞬間、アルヴァの気配が霧のように消えた。
空間が歪む気配。読んだつもりだった。だが。
右上――いや、上空!?
咄嗟に跳び退いた。が、その軌道の先に――
「遅ぇよ」
下から突き上げるように、アルヴァの拳が腹を抉った。
「……ッ!」
空気が抜けた。
背中が宙を舞い、地面に叩きつけられる。
意識が、一瞬遠のいた。
(クソ……!見えねぇ、読めねぇ……)
前の動きとは全く違う。上下左右、三次元の軌道。
しかも、フェイントすら混ざってる。
全身が悲鳴を上げていた。拳を握り直すたびに、痺れが走る。
それでも俺は、立ち上がった。
「どうした? 目ぇ回ってんのか?」
アルヴァの声が、ゆっくりと距離を詰めながら響く。
「拳一つでここまでやるとは思わなかったが……調子に乗るなよ」
空間がまた、揺れる。
次だ。来る――だが、もう体が追いつかない。
焦点の合わない視界。呼吸がうまくできない。
腕が、足が、反応してくれない。
(……やられる)
アルヴァの持つナイフが銀色に光る。
殺意が、肌を焼くように伝わってくる。
「終わりだ」
空間が歪み、アルヴァの姿が滲む。
もう、間に合わない――
刃がこちらへと突き出される瞬間――
「そこまでにしてもらおうか」
その声は、闇の中でもよく通る、静かで美しい響きだった。
次の瞬間、黒い影が飛び込んでくる。
マントを翻し、ナイフの軌道に指先をそっと滑らせる。
それだけで、刃はあっさりと逸らされ、彼方へと消えた。
「……お前は、吸血鬼。人間を庇うとはな」
アルヴァが舌打ち混じりに言い捨てる。
「ふふ。紳士に対しては手荒な真似は好かんのでね」
黒のドレスに身を包んだヴァネッサが、微笑を浮かべたままこちらに背を向けて立っていた。
その背筋はどこまでも優雅で、どこまでも強かった。
アルヴァが空間を裂いて間合いを詰める。
大振りな拳が、容赦なく彼女の顔面を狙って突き出される。
だが――
ヴァネッサは身体を半歩だけ回転させ、拳の軌道を外す。
そのまま手首を取り、力の流れを利用してアルヴァを受け流す。
まるで踊るような一連の動き。日本で言う合気道のような技か。
アルヴァは体勢を崩し、そのまま転倒する。
「その程度では、余のドレス一つ揺らせないな」
「チッ……このっ……!」
アルヴァが苛立ち、立ち上がって再度転移を織り交ぜたフェイントや死角からの攻撃を繰り出す。
だが、ヴァネッサはその全てを淡々と受け流し、制している。
(……すごい。完璧に捌いてる……)
けれどそれは“防ぐ”だけ。決定打にはならない。
――だったら。
(俺が、やるしかない!)
アルヴァがバランスを崩した一瞬――その“隙”が、目の前に現れる。
闇が、拳に脈打つように集まってくる。
ヴァネッサが作ったこの一瞬の崩れ。そこに――
「オオオオオッ!!」
咆哮とともに、俺は拳を振り抜いた。
闇の力が拳にまとわりつき、衝撃波のような一撃がアルヴァの脇腹を捉える。
「ぐっ……ぉあああッ!!」
鈍い音が響き、アルヴァの身体が後方へ吹き飛ばされ。
アルヴァは呻き声をあげ、膝をつく。
「てめぇ……ッ、やりやがったな……」
その目が、殺意の色を濃くする。
次の瞬間、空間がぐにゃりと歪み、アルヴァの姿は消えていた。
視界の端、檻の陰にいた小さな少女のそばに、黒い影が立っていた。
アルヴァは、血の滲んだ手で少女の腕を掴み、回収したナイフをその首元へ押し当てる。
「しまった!!」
「近づくな。来たら……こいつの喉を裂く」
肩で息をしながら、血に濡れた目でこちらを睨んでいた。
俺も、ヴァネッサも、動けない。
一歩でも動けば、ナイフが少女の喉を裂く――そう分かっていた。
そのとき。
「おや、気づいていなかったようだね。もう――手遅れだよ」
ヴァネッサが、微笑を浮かべて囁いた。
「……何?」
アルヴァの目が一瞬揺れた、次の瞬間。
彼の視界の中で、少女の姿が“何か”に変わった。
黒い鱗に覆われ、口を裂き、無数の眼を持つ異形。
にたりと笑いながら、アルヴァの首に手を伸ばしてくる――
「う、うわああああっ!!」
アルヴァは悲鳴を上げて少女を突き飛ばし、後ずさった。
その一瞬を――
「逃がすかぁッ!!」
俺は迷わず飛び出す。拳が唸りを上げ、闇の力が腕を走った。
アルヴァが幻覚から覚めたとき、拳はすでに目前に迫っていた。
(誰も、お前なんかに傷つけさせない――!)
ドゴッ!!
最初の一撃がアルヴァの腹部を抉った。肋骨が砕けたような感触が拳に残る。
だが――俺は止まらなかった。
「オオオォォッ!!」
右、左、さらに右。拳が連打を繰り返し、アルヴァの身体を叩きつける。
顔面に、腹に、胸に――闇の力が拳に宿り、骨と肉が軋む感触が腕に伝わってきた。
それでも、アルヴァは必死に歯を食いしばり、後ずさりながらも耐えている。
「……ぐ、ぅ……坊主が、調子に……乗りやがって……!」
その言葉に、さらに一発を叩き込む。
最後に渾身の拳が鳩尾を貫き、アルヴァの膝が崩れた。
アルヴァは地面に膝をつき、荒い息を吐いていた。それでも、なお、にやりと笑っていた。
「……やるじゃねぇか、坊主」
だが、すぐにその笑みは歪む。
「だがよォ……闇は終わらねぇ。俺が消えても、また別の場所で、誰かが、必ず――」
その言葉が終わる前に、アルヴァの体から黒い靄が噴き出した。
「ぐ……っ、が……あああッ……!」
苦悶の声とともに、身体が崩れはじめる。
まるで人の形を保てなくなったかのように、肉体が黒い霧へと変わり、風に溶けていく。
俺は黙ってその様子を見ていた。そして――静かに、息を吐く。
アルヴァの消滅と共に、地面に黒い光がぽつんと残された。
球体のような、結晶のような形。脈動する黒い光。
「……これ、前にも……」
魔術学院でのリース戦。その時にも、これと似たものが残った。
光に手を伸ばそうとした、その瞬間――
「待て」
後ろから、ヴァネッサの声が響いた。
振り返ると、彼女は珍しく険しい表情を浮かべていた。
微笑みは、すでに消えていた。
「その“核”……それは、ただの力じゃない」
「わかってる。でも――これは、俺にしか扱えない気がする」
一拍の沈黙。ヴァネッサは目を細めたまま、ただ頷いた。
「……なら、せめて、闇に飲み込まれないようにな」
「ああ。気をつけるよ」
そして、俺は手を伸ばす。
指先が光に触れた瞬間、意識の奥が黒く染まるような感覚が身体を駆け巡った。
熱い。苦しい。けれど――嫌じゃなかった。
闇の力が、また一つ、俺の中に刻まれていく。
ヴァネッサはそれを見守っていた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で、呟いた。
「……君も、いつか抗えなくなる日が来るかもしれない」
黒い光が収まり、静寂が戻った。
肩で息をしながら、俺はふと後ろを振り返る。
少し離れた場所に、リリアとセレナの姿があった。
二人とも、すでに対峙していた大男を片付けたようで、こちらに余裕の表情を向けている。
「まったく……リリアが無茶するから、ひやひやしちゃったわ」
小走りで近づいてきたセレナは、わざとらしく呆れたようにため息をつく。
「……少しは反省しなさいよ、ほんと」
リリアはにこりと笑いながら隣に並んだ。
「でも、燃えたでしょう? スリルがある方が、私は好きよ」
「そーいうところが危ないって言ってんのよ!」
セレナがリリアに詰め寄るが、リリアは肩をすくめるだけ。
そのやりとりに思わず笑みがこぼれた。
少し遅れて、ヴァネッサが姿を見せる。
黒いマントをなびかせ、変わらぬ優雅な足取りでこちらへと歩いてくる。
「ヴァネッサ、助かったよ。ありがとう」
「礼には及ばない。……が、もっと余を称えてもよいのだぞ?」
「はい、はい」
その場が、少し和やかになる。
背後からは、囚われていた人々のかすかな声。
泣き声、感謝の言葉、再会の安堵――
俺達は静かに、アジトの外へと歩き出した。
外の空気は澄んでいて、ひんやりとしていた。
東の空がわずかに白みはじめている。
ヴァネッサが空を見上げて呟いた。
「……余は朝を好まぬが、こうして迎える夜明けも悪くない」
その言葉を合図にしたように、俺達は無言のまま前を向いた。
新しい朝が、もうすぐやってくるのだ。
◇ ◇ ◇
村に戻った俺達を出迎えたのは、怯えと安堵、そして――罪。
闇市と繋がっていた一部の村人達は、噂を聞きつけた時点で荷物をまとめて逃げ出していた。
だが、その大半は、すぐに捕まった。
「私は知らなかった……!」「ただ、家族を守りたくて……」
そんな言い訳が飛び交う中で、
リリアが静かにその名を読み上げ、セレナの魔眼がすべてを暴いていく。
村の奥に巣くっていた“腐った闇”は、ようやく陽の下へと引きずり出された。
長い夜が、ようやく終わったのだ。
翌朝、俺達は村を後にした。
少しひんやりとした朝の空気が、肌を撫でる。
セレナがふと振り返り、吐き捨てるように言う。
「あんな場所、さっさと出て正解ね。気分が悪いったらない」
その隣で、リリアがふわりと笑う。
「でも、夜明けって好きよ。少しだけ、明るい未来を信じられるから」
俺は無言で頷いた。だが、どこか引っかかる。
そうだ――
「……あれ? ヴァネッサは?」
リリアとセレナも視線を交わす。先ほどまで確かに一緒にいたはずの彼女の姿が、どこにも見当たらない。
「いない……? まさか、黙って帰っちゃった?」
「まさか。挨拶くらいあってもよさそうだけど……」
その時、俺の胸元で微かな重みを感じた。
「……ん?」
胸ポケットを覗くと、そこに一匹の小さなコウモリが丸くなって眠っていた。
「……おいおい」
小さく苦笑すると、コウモリが目を覚まし、羽をばたつかせて宙に舞う。
空中でふわりと旋回すると、次の瞬間――黒と紅のドレスを纏った女が姿を現した。
「……勝手についてきたとは言わせぬぞ?」
気だるげにそう言って、ヴァネッサはうっすら笑った。
リリアがため息交じりに笑う。
「まったく……ほんと、自由な人ね」
「それで、旅に同行してくれるってことでいいのかしら?」
セレナの問いに、ヴァネッサはわずかに視線を外す。
「……気まぐれだ。興味があるだけ。君達がどこまで“愚か”か、見てみたくなっただけだ」
けれど、その声はどこか柔らかかった。
俺は肩をすくめながらも、微笑む。
「歓迎するよ。きっと、退屈しない旅になる」
三人と一人、そして一匹――いや、四人となった一行は、朝の光の中、再び旅路を歩き出した。
どこかでまた誰かが泣いているなら、その手を掴めるように。
心の中に灯った、小さな希望の火を胸に抱いて――