月下の古城と赤き淑女③
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
セレナ
種族:メデューサ
アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。
ヴァネッサ
種族:ヴァンパイア
とある古城に独り住んでいる。幻術を得意とする。
ヴァネッサの「こっちだ」という声が、微かに闇の奥から響いた。
それだけで、空気の温度が少し下がったように感じた。
俺達は一人ずつ、息を潜めるようにして階段を降りていく。
古びた石段は狭くて、足元の感触も妙に湿っている。
靴裏にまとわりつく冷たさが、心の奥まで染み込んでくる気がした。
リリアも、セレナも何も言わない。ただ無言のまま、ただひたすらに。
この先に何があるのか、想像したくなかったのかもしれない――俺自身もそうだった。
やがて、視界の先にヴァネッサのシルエットが浮かぶ。
静かに佇むその姿は、どこか異質で、まるでこの場だけ時間が止まっているようだった。
彼女は振り返り、声を落とす。
「ここから先は……覚悟した方がいい」
彼女の目には、感情はなかった。冷たいというよりも、慣れすぎている――そんな目だった。
俺は、うなずくことしかできなかった。
何を見せられるのか、わかっていたから。
再び足を進める。通路は少しずつ下り坂になっていて、空気が重く、息苦しくなっていく。
そして――ある瞬間、明らかに「何か」が変わった。
空気の匂い。それまでの土と湿気の臭いに混じって、妙な香のようなものが鼻につく。
生臭いような甘ったるさ。それに混じって、ぼそぼそとした男達の声、笑い声、すすり泣き。
そして、かすかに聞こえる金属が軋む音。
胸がざわついた。
この奥に、何かとんでもないものがある。直感で、そう思った。
俺達は通路脇の岩の裂け目に身を潜める。
そこから下を覗いた瞬間――
言葉を、失った。
広い地下空間。まるで舞台のように広がるその中心に、一段高い木製の台が設けられている。
その上には、縄で縛られた少女が無表情で立たされていた。目には光がなく、ただ空虚に前を見つめている。
「私は五百だそう」
「ならば私は七百!」
「ほう、なかなかの美人じゃないか。こりゃ高くつくぞ」
仮面をつけた男達が、客席のような段にずらりと並び、値を競っている。
声には興奮の色すら混じっていた。まるで、いい肉でも選んでいるかのように。
息が詰まりそうだった。目の前に広がっていたのは、紛れもない――悪意の巣窟だった。
「……最低ね」
セレナがぽつりと呟いた。
その声は静かだったけれど、手は震えていた。
拳を握る手が、白くなるほど力が入っている。
「今すぐ、止めなきゃ……っ。こんな――っ!」
「待て、セレナ」
俺は小声で制した。気持ちは、痛いほどわかる。
でも、今飛び出しても、誰かを救える保証はない。
むしろ最悪の結果になるかもしれない。
「でも……ッ!」
「焦っちゃダメよ。まずは、ここの構造を見極めましょう」
リリアの声は静かで、それでいて強かった。
彼女の視線は冷静に空間全体をなぞるように動いていた。
広間の中央には見世台。その見世台の裏には檻のような鉄格子が並び、身を寄せ合うように人影がある。
その前に、棒を持った見張りが一人。まるで物でも見張るような、無感情な目をしていた。
「見張りの数……ステージ周辺に四人。巡回が四人。交代しながら動いてるみたい」
「出入り口は三つ。正面が観客用。右手の通用口。左は……荷物搬入口ね。鍵付きみたい」
どれも、ただの舞台じゃない。これは仕組まれた「売買の場」だ。
そして壇上近く、ひときわ目立つ仮面をつけた男が、帳簿を広げる人物と何かを話していた。
「……アイツがボスか?」
無意識に呟いた言葉に、違和感があった。
違う。あれはただの“回し役”だ。
その奥に、もっと深い何かがある――そんな気がした。
「こっちから檻までは距離があるわ。正面突破は人質が危ない。
分散して、二手に分かれて動く必要があるわね」
「奴らが見てるのはステージだけだ。俺が中央に出て、注意を引く。リリアとセレナは……」
俺が言いかけたところで、リリアが静かに頷いた。
「わかったわ。私達は捕らえられてる人達の解放と、出入り口の確保ね。ヴァネッサは?」
「ならば余は愚かな人間共を惑わそうではないか。カケル、君の雄姿、見届けさせてもらうよ」
軽く笑うその声にも、どこか張り詰めたものがあった。
静かに、でも確実に。俺達は今、目の前の“巣窟”に踏み込もうとしていた。
「――さぁ、開幕だ」
ヴァネッサが静かに囁いた。
まるで劇場の幕を引くような、余裕すら感じる口調。
彼女が指をひと振りすると、空気の密度が変わった気がした。
どこからともなく現れた、夜霧のような薄紫の靄が、会場の隅々まで静かに広がっていく。
観客は違和感に鼻をひくつかせ、見張りは視界の霞みに顔をしかめる。
「……おい、お前。あの檻、さっきまで空だったか?」
観客席にいた男が隣の男に声をかけた。
しかしその男はゆっくりと仮面を外し、異様な顔をさらけ出す。
化け物のように歪んだ顔――いや、幻だ。だが、それは本人にとっては現実だった。
「うわあああああ!誰だ、お前は――!?」
椅子を蹴って立ち上がる男。
「ち、血が……俺の足が、腐ってる……!」
別の男が絶叫し、必死に足を叩きながらのたうち回る。
だが、俺の目には普通の足にしか見えなかった。
一方で、見張りの何人かは武器を落とし、叫び、暴れ出す。
「やめろ! 俺じゃない、俺はやってないんだ……!!」
誰かの顔が虫に食われている幻覚に、吐き気を催してしゃがみ込む奴もいれば、
手にした剣を蛇と錯覚して叫びながら叩き落とす奴もいる。
会場全体が、狂気と混沌の坩堝と化していた。
音楽も、拍手も、談笑もすべて霧に飲まれ、恐怖だけが支配していた。
……今だ。
「行くぞッ!!」
俺は叫びと同時に足を蹴り出した。高台から一気に飛び降り、暗い霧を切り裂くように駆ける。
「止めろッ! そいつを――!」
誰かが叫ぶが、混乱した見張り達の動きはバラバラで、互いにぶつかっている。
一人が剣を振り上げる――が、その手を別の仲間が掴み、揉み合いになる。
……幻術が効いている。敵の連携が取れていない。
チャンスだ。
俺は一人の見張りの懐に入り、迷いなく拳を突き出す。
ズドン、と重い感触。
相手はまるで人形のように吹き飛び、壁に叩きつけられて動かなくなった。
「……っ、俺、今……」
普通に殴っただけなのに。
肩から肘にかけて、皮膚の下で脈打つように“闇”がざわめいた気がした。
リースとの戦いの後に手に入れた力――これが、その一端なのか。
腕だけじゃない。脚も、体幹も、全てが以前より軽く、鋭く、強い。
明らかに“強化”されているのを感じる。
けれど、同時に怖くもあった。
このままじゃ、力の加減が分からない。
下手すれば、殴った相手が死ぬかもしれない。
でも、迷ってる暇はなかった。
「リリア、セレナ――今だッ!!」
幻術の仮面舞踏会の中、俺達の本当の目的が、静かに動き出す。
◇ ◇ ◇
「ごめんあそばせ?」
私の鋭い蹴りが、檻の傍にいた見張りの顔面を美しく捉えた。
鈍く重い音が響き、男は呆気なくその場に崩れ落ちる。
すぐさまセレナがその懐から鍵束を抜き取った。ふふ、頼もしいこと。
「これね……!」
緊張を滲ませた声と共に、セレナは檻の錠に鍵を差し込む。
カチリ、と乾いた音。
そしてゆっくりと鉄の扉が開いていく。
扉の奥にいたのは、怯えた眼差しの人々――まるで闇に囚われた小鳥達。
その中に、小さな布にくるまった少女がいた。
膝を抱え、じっとこちらを見つめるその姿に、思わず息をのんでしまったわ。
あまりに、痛々しくて……。
「…怖くないわ、大丈夫。もう、あなたを一人にはさせない」
しゃがみ込み、できる限り柔らかな声で語りかける。
けれど、少女は小さく首を横に振った。
「…だって、だって…前に、助けてくれるって言った人が…いなくなっちゃったの」
震える声が、私の胸に突き刺さる。
ああ、この子も、大切な誰かを――。
「私は、どこにも行かないよ。ちゃんと外まで一緒に行くから。……ね?」
言葉と共に、小さな手を包み込む。
冷たい…こんなにも冷たい手を、どうして放っておけるというの?
しばらくして、少女は涙を流しながら、かすかに頷いてくれた。
その様子を見ていた他の囚人達の中から、ぽつりと声が漏れる。
「……本当に、助かるの?」
私は振り返り、力強く笑ってみせたわ。
「ええ、約束するわ」
ほんのわずかに、空気が変わる。
希望という名の光が、檻の中に差し込んだのを私は感じた。
微笑みを見せながら少女の頭をそっと撫で、次の檻へと駆け出した。
一方、セレナは炎の魔力を宿した指先で、囚人の鎖を焼き切っていた。
静かに、でも確かな意志を持って。
ジュウッという音を立て、焼けた鉄が鈍く崩れ落ちる。
やがて一人のやつれた女性の前に近づき、声をかける彼女の背中が、
どこか私に似ていて、ほんの少し微笑んでしまったわ。
「もう動けるはずよ。今なら逃げられる」
セレナが静かに声をかけるも、女性は動こうとしなかった。
「……無理よ。外に出たって、どうせまた捕まる。誰も、私のことなんか……」
セレナの手が、ぴたりと止まる。
「諦めちゃダメ」
セレナは目を逸らさず、まっすぐに言い切る。
まるで自分自身の過去を断ち切るように、女性へと言い切ったわ。
その声には――そうね、あの子なりの決意が宿っていた。
もう迷わない、っていう強い意志。それが痛いほど伝わってきたの。
数秒の沈黙のあと、女性は小さく、それでも確かに頷いた。
その光景を見ていた囚人たちが、ざわ…と空気を揺らす。
「あの魔物娘達…本当に助けてくれるの…?」
「行こう…俺も、行く…!」
小さな波が、ゆっくりと檻の中に広がっていくのを、私は感じていた。
絶望で凝り固まった人の心が、少しずつ動き出す。
その瞬間って、こんなにも尊いのね。
セレナは微笑み、女性の手を取る。
「迷わないで。今度こそ、本当に“外”に出るんだから」
ええ、その通りよ。
今回は私たちがちゃんと、“出口”まで連れて行ってあげるわ。
そう心の中で囁いて、私は他の鍵も手早く開けていった。
やがてすべての檻が開き、最後の少女を外へと送り出したとき、
……空気が、変わった。
肌を撫でる風が重く、どこか濁っている。ぞわり、と背筋に何かが走った。
「っ……」
セレナが振り向いた瞬間、檻の出口に立つ“それ”の姿が視界に入った。
灰色の霧を背に現れたのは、筋肉質で上半身をはだけた大男だった。
背丈は二メートルを超え、全身に無数の傷跡と戦いの勲章のような古傷が走っている。
腰には巨大な鉄の籠手と、片手で持つには不釣り合いな大斧を携えていた。
でも、何より厄介なのはその佇まい。
言葉はないのに、空気そのものが重くなる。
沈黙すら、武器にしている男って、ほんと困るわね。
男は一歩、こちらに踏み出す。
ズン……と石畳が沈んだような音。
まるで地面まで怯えているみたいだったわ。
「これ以上、勝手な真似を続けるようなら――潰す」
低く、喉を震わせるような声。
まるで岩が擦れ合う音にも似ていて、聞くだけでゾクリとする。
私はすぐに、少女達の前へ出た。
セレナも同じように、女性達を庇うように立っていた。
視線が交錯する。あら、もう戦うつもりでいるのね…その目、いいわ。
私は、くすっと微笑んで、わざと男に聞こえるように言ってやったの。
「ふふっ…どうやら話の通じる相手じゃなさそうね」
軽く唇を上げて、挑発の意味を込めた笑みを浮かべる。
「なら、遠慮はいらないわ。 叩きのめしてやりましょ!」
セレナはすでに指先に炎を灯し、男の動きに備えるように構えていた。
男は無言のまま、大斧の柄を握る。
空気が震えた――そして次の瞬間、戦いの幕が静かに上がったの。