月下の古城と赤き淑女②
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
セレナ
種族:メデューサ
アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。
ヴァネッサ
種族:ヴァンパイア
とある古城に独り住んでいる。幻術を得意とする。
俺達はヴァネッサに案内され、古びた客間のような部屋へ通された。
壁には色褪せた肖像画、天井から垂れるシャンデリアはほこりをまとい、
かつての栄華の残滓がそこかしこに残っている。
重たい扉が閉じられる音が響いた後、ヴァネッサは窓辺に立ち、外の暗闇に視線を投げた。
沈黙が落ちる。誰も言葉を発しないまま、ただ彼女の口が開くのを待っていた。
「……神隠しのことだろう?」
低く、静かな声だった。だが、その一言で俺達はすぐに身を乗り出した。
「やっぱり、あれはあなたの仕業じゃなかったのね」
リリアの声に、ヴァネッサはかすかに目を細めた。
「当然だ。余がそのような真似をして、何の得がある?」
「血を吸う為か?」
「くだらん問いを投げるでない。であればわざわざ幻覚を見せる必要もあるまい」
確かにそうだ。城に籠もり、人との接触を避けるように生きる彼女が、
わざわざ人を攫う理由などない。
「それに、血を吸うのは余が相応しいと見込んだ者のみだ」
じゃあ、犯人は――。
「犯人は、外にいた。だが……中にもいた」
その言葉に、部屋の空気がぴんと張りつめる。
「一部の村人と、犯罪組織の人間達。彼らは人身売買のために、村の人間を“集めて”いた」
ヴァネッサは視線をこちらに戻し、冷たく言い放った。
「…そんなっ!」
セレナの声が震えた。あまりの内容に、思わず言葉を漏らしたのだろう。
拳を握りしめたまま、彼女はヴァネッサを睨みつける。
その表情には、怒りと戸惑い、そして哀しみが入り混じっていた。
「どうして……村の人達は何も言わなかったんだ?」
俺もたまらず問いかけた。何故彼女一人に、全てを背負わせたのだろう。
「言わなかったのではない。気づいていながら、目を背けたのだ」
ヴァネッサの声は冷たく、そして淡々としていた。
怒りよりも、もう感情を持つことさえ放棄したかのような、そんな声音だった。
「……どういうこと?」
リリアが声を落とした。その表情には困惑と、信じたくないという感情が滲んでいた。
「真実を見るのは、恐ろしいことだ。だから彼らは“都合のいい怪物”を作った。――私を、ね」
皮肉を帯びた言葉が、ヴァネッサの口から静かに落ちた。
その言葉には怒気も悲しみもなかった。ただ――静かな軽蔑と、乾いたあきらめだけがあった。
それが逆に、彼女の中に積もった年月の重さを物語っていた。
俺は思わず拳を握りしめた。
この人は、ずっと一人で、こんな理不尽と向き合ってきたのか――そう思うと、胸の奥がひどくざわついた。
「…信じられない。あなたを悪者にすれば、安心できたってこと?」
「そうとも。外の者を悪に仕立て上げれば、自分達の中にある“闇”を見なくて済む。人間とは、そういうものだ」
「…じゃあ、なんで今まで黙ってたんだよ」
これは俺の問いというよりも、叫びに近かったかもしれない。
ヴァネッサは、わずかに肩を揺らして笑った。
「言っただろう。“まっすぐな瞳”はもう絶えたと。
…人間の醜さを、私は知っている。だからこそ、私はもう、人間を信じていない」
「だが――」
ヴァネッサが俺を一瞥して言葉を続ける。
「あの幻に抗えた君の目だけは、少しだけ違って見えたよ。
気まぐれかもしれないが…少しくらいは、話してもいいと思った」
俺は扉へと向かって歩き出した。
重たく沈んだ空気を背に受けながら、一歩ずつ確かめるように――このまま何もせず立ち去るなんて、俺にはできなかった。
「どこへゆく」
背後から、冷えた声が響く。
「……真実を暴くんだ」
振り返らずに答えた。胸に灯る怒りと悔しさ、それを言葉に凝縮して。
「黒幕を懲らしめてやるのね」
リリアが微笑むような口調で、俺の隣に並ぶ。
その声には怒りはなかった。ただ、俺の選んだ道に迷いなく歩調を合わせる、静かな覚悟があった。
「そうね、こんな事許していい訳ない」
セレナは感情を隠さず、まっすぐな瞳で言い切る。
震える拳を握りしめたまま、彼女の中にある怒りと優しさが拮抗していた。
「誰かが動かなきゃ……。誰かが止めなきゃ、また犠牲が出る。私はそれを見過ごせない」
そんな二人の言葉を受けて、俺は一歩前へ出た。
「待て」
ヴァネッサの冷静な声に、場の空気が止まる。
振り返ると、彼女は相変わらず窓辺に立ち、夜の帳を背に、こちらを見つめていた。
「そんなことをして、君に何の得があるというのだ?」
「余計な正義感を振りかざして、高揚感を得たいというのか?」
「それとも、余に情けをかけるつもりか?不要だ。もともと人間に好まれる存在ではないのだからな」
淡々と告げる声は、まるで試すようだった。
誰もが彼女を見返す中、俺はゆっくりと口を開いた。
「どれも違うよ」
「正義とか、そんな立派なものじゃない。アンタのためでもない」
「けど、このまま見過ごしたら――きっと後悔する。俺は、それが嫌なんだ」
「…君とて、人間の愚かさや醜さは知っているだろうに」
その声には、静かな諦めがにじんでいた。
「知ってるさ」
俺は、まっすぐに彼女を見つめ返す。
「だからこそ、見なかったことにはしたくない」
言葉にしてみると、胸の奥にあったもやが少しだけ晴れる気がした。
リリアは一歩だけ進み、ヴァネッサを見つめた。
その声は穏やかで、けれど芯のある静けさを湛えていた。
「貴女は、本当に……独りで、ここにいたのね」
それは問いではなく、感想のようだった。
「永い時間孤独に過ごしてきた貴女が、こうして話している。それだけで、少し救われてると思わない?」
ヴァネッサはその言葉に反応を示さなかった。けれど、その指先がわずかに動いたのを、俺は見逃さなかった。
セレナが言葉を継ぐ。
「……私、あの村で見た人達の顔を忘れない」
「怖がってた。怯えてた。でも、本当に怯えていたのは“真実”の方だったのよね」
「私は、そんな人達に、少しでも勇気を見せたいの。――自分が何を信じて、どう動くのかって」
俺達の言葉を聞いたヴァネッサは窓の外にある月を眺めて、わずかにまぶたを伏せた。
誰にも気づかれないように。だが、俺にはわかった。――彼女の心が、確かに揺れていた。
しばしの沈黙ののち、ヴァネッサはため息のように吐息を漏らした。
「……まったく。君達は、本当に愚かだな」
その言葉は、どこか遠くを見るような、あきれにも似た声色だった。けれど、その奥に――微かな温度があった。
「そのまっすぐな瞳に応えてやるのも……まあ、一興かもしれぬな」
その瞬間、俺の胸に小さな火が灯ったような気がした。
「勘違いするな。これはただの退屈しのぎだ」
彼女は静かに踵を返し、ゆっくりとこちらへと歩みを進める。
「余は、余の流儀で動く。口出しも命令も受けぬ。それで構わぬか?」
彼女の声は、まるで礼儀の確認のように響いた。
「もちろん。それで十分だ」
俺が頷くと、ヴァネッサは小さく鼻を鳴らし、わずかに微笑んだ。
「ふん、では行こうか。愚か者達よ」
◇ ◇ ◇
村の近くまで戻ってきた俺達は、田舎道を静かに歩いていた。
道というには心許ない――獣道のような小道を、俺達は足音を殺しながら進んでいく。
先頭を歩くのはヴァネッサ。
地図も灯りも持たず、まるで長年染みついた記憶をなぞるかのように、迷いのない足取りだった。
「…本当に、こっちで合ってるの?」
セレナが小声で問いかける。その声には、わずかに警戒の色が混じっていた。
「信用できないのかね?ならば帰るか?」
ヴァネッサは振り返らず、冷ややかな皮肉を返す。
「…そういう意味じゃないわ」
むっとしたようにセレナが答えると、すかさずリリアが微笑みながら口を挟んだ。
「ほら、喧嘩しないの」
穏やかな声が、不思議と緊張を和らげる。
「ヴァネッサは真剣よ。今は、それを信じて進みましょ」
俺は二人のやり取りに目をやりながらも、気が抜けなかった。
空気は張りつめている。でも、それは悪い意味ではない。
むしろ、これから何かが起きる――そう直感しているからこその緊張だった。
「この先に、小さな教会がある」
不意にヴァネッサが口を開いた。
「今は廃墟に見えるが、それは表向き。地下に、新たな施設が造られている。
……確たる証拠はないが、連中の常套手段だ」
「人を“売る”場所が、教会だなんて……皮肉にも程があるわね」
セレナは唇を噛む。
「皮肉ではない」
ヴァネッサは低く答える。
「“信じる者が集まる場所”は、操る者にとって都合が良い。それだけのことだ」
「罠の可能性は?」
俺が問いかける。
「あって当然だ。だが、連中にとっては今も利益を生む“巣”だ。そうそう簡単に捨てるものではない」
確かに、捕らえた人間を移送中に逃がすリスクは大きい。
それに、隠れた施設ほど“動かしにくい”という弱点もある。
「敵の数は?」
「十や二十では済まぬだろう。……最悪、客である貴族や学者の護衛部隊もいるかもしれん」
俺は無意識に拳を握った。謎の“闇の力”を持っていても、無敵ではない。
俺自身、どこまで太刀打ちできるか。
「なに、心配は無用だ」
ヴァネッサが歩みを止めずに言った。
「余がいれば、人間など恐るるに足らん」
「ふん、大した自信ね」
セレナが呆れたように肩をすくめたが、その声にどこか安堵の色が混じっていたのを、俺は聞き逃さなかった。
「……あそこだ」
ヴァネッサが足を止め、前方を指さした。
視線の先には、崩れかけた古びた教会。
歪んだ屋根、苔むした壁。ひと目には、ただの廃墟にしか見えない。だが――
その地下では秘かに人身売買が行われているんだ。
それを確かめるために、俺達はここまで来たんだ。
廃墟の周りには見張りらしき敵の姿は見当たらなかった。
こんな場所に人の姿があればその時点で怪しまれるだろう。
地下に続く道が、どこかにあるはずだ。俺達は物音を立てずに教会の中に入った。
中にも人の気配は一切なく、静寂に包まれている。
「入り口はどこにあるんだ?」
俺達は手分けして地下の入り口を探した。
すると祭壇の奥にいたリリアが無言で皆に手招きをする。どうやら見つけたようだ。
皆がその場に向かい、地面を覗き込む。そこにはちょうど祭壇の机に隠れるように取っ手のようなものがあった。
「どうする?このまま入るか?」
「強硬突破は得策じゃないわよ」
どうするか思案している俺達を前に、冷静にヴァネッサが制止する。
「余が先陣を切ろうではないか」
「何か策があるの?」
「まぁ見ていればよい」
その瞳に、揺らぎはなかった。
黒いマントを翻し、指先で宙に紋を描いた彼女。
「それは?」
「幻術の応用だよ。音と気配を殺したのさ」
そう一言返すと彼女は祭壇の下へと続く闇に、ひとり――足音もなく降りていった。
◇ ◇ ◇
余は幻術を纏い、ゆるやかな足取りで階段を下る。まるで舞踏会の帰り道のように。
敵の目も耳も、この空間では意味をなさないのだ。
余の存在は、影と同じ――気づかれたときには、すべてが終わっているのだから。
地下の空気は湿っているけれど、不快ではない。
過去に何度も、血の香りとともに嗅いだ匂いだ。
松明の明かりがちらつく通路を進むと、見張りの男が一人、退屈そうに立っていた。
余は歩みを止めない。ただ、そのまま真っすぐ背後に近づいていく。
気づかれないまま、男の耳元でささやくように吐息を漏らす。
「…痛みは、一瞬だけだよ」
余は男の顎先に指を添え、中指を折り曲げ、一気に伸ばして男の顎をはじく。
男は自分の身に何が起きたかも把握できず、ただ地面に崩れ落ちる。
一人目。静かに、優雅に、確実に。
余はマントの裾を軽く払って再び歩き出す。足音など、もちろん残さない。
ただ、気まぐれに歩を進めるだけ。
角を曲がった先に二人の男。談笑しているのか、気が緩んでいるのが声色でわかる。
余は通路の壁に手を当て、軽く指を鳴らした。
ぱちん――わずかに光が揺らぎ、二人の視線が余の“誘い”に吸い寄せられる。
「ん?なんだ今の……?」
ふふ、愚かだね。その好奇心が、命取りになるとも知らずに。
一人の横にぬるりと立ち、顎をはじく。
すぐさまもう一人の前に歩み出て、その驚きに満ちた目を見つめてから、同様に気絶させる。
美しく、静かに、穢れなく。
「もうよいぞ。こちらへ」
通路の奥へ進みながら、余はそっと手を掲げた。影の揺らぎが仲間達への合図となる。
さぁ、宴の幕は、これから始まるのだ。