血戦の果てに顕つ闇④
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年。
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
セレナ
種族:メデューサ
アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。
ヴァネッサ
種族:ヴァンパイア
とある古城に独り住んでいた。幻術・護身術を得意とする。
ライア
種族:リザードマン
流浪の剣士。エルザとは幼馴染。
エルザ
種族:サイクロプス
鍛冶職人。ライアとは幼馴染。
エリシア
種族:エルフ
精霊と心を通わせたり、精霊の力を行使できる。
トーラ
種族:ミノタウロス
ヴァルハールの町の自警団に所属。肉弾戦が得意。
「……っ!」
森を抜けた瞬間、胸を貫くような焦げ臭さが鼻を突いた。
誰かの息が詰まる音が耳に届く。
集落が見えてきたが、先程までの穏やかな景色は、そこにはもうなかった。
茜色に燃え広がる炎。屋根を突き破り、空へと黒煙を吐き上げる家々。
悲鳴と怒号が交じり合い、地を揺らす。
「ルミナ…!」
思わず口から飛び出した声に、自分でも驚く。足が止まらない。
仲間達も表情を変え、怒りと緊張が走る。
ライアはすでに剣を構え、トーラは牙を剥いて走り出そうとしていた。
リリアの瞳には恐怖よりも必死な光が宿り、セレナの蛇髪は怒りでざわめいていた。
燃え落ちる家屋の中からは獣人達の叫び、そして人間達の嘲り声が混じって響いてくる。
「くそっ……間に合わなかった……!」
俺は拳を握り締める。けれど、立ち尽くしている暇はない。今は一人でも多く助けなければ。
燃え盛る炎の熱気が、肌を焦がすように迫ってきた。
俺達は迷う間もなく、混乱の渦中へ駆け込んだ。
「いたぞ!殺せ!」
剣を振りかざし迫る男を正面から迎え撃つ。
俺は転移で一瞬死角に潜り込み、闇を纏った拳を叩き込んだ。
「ぐあッ!」
拳がみぞおちにめり込み、男は血を吐きながら炎の向こうへ吹き飛んだ。
「はぁぁッ!」
トーラの咆哮と共に拳が炸裂し、複数の敵兵が宙を舞った。
「邪魔だ、どけええ!」
ライアの剣閃は獣のごとく鋭く、燃え落ちる梁の下から現れた敵を一瞬で切り伏せる。
「これ以上好き勝手はさせないわ!」
セレナの詠唱が終わると同時に雷撃が炸裂し、複数の敵兵が悲鳴を上げて地に倒れ込んだ。
「ちょろちょろ動くなッ!」
その隙を狙い飛び出した敵兵の剣を、俺は再び拳で迎え撃つ。
闇の拳が奴の顎を打ち抜き、骨が砕ける感触が拳を通じて響いた。
だが…数を減らしても減らしても、次々と現れる。
「ちっ、どこからこんなに……!」
「気を抜かないで」
振り返れば、エルザの巨大なハンマーが火花を散らして地面を叩き割り、衝撃で敵兵をまとめて吹き飛ばしていた。
単眼の彼女の瞳は燃え盛る炎を映しながらも冷静で、戦場の混乱を切り裂くように確実に一撃を振るっている。
後方ではリリアが鋭い蹴りで敵を弾き飛ばし、ヴァネッサが音もなく背後から敵の首筋を極め地に沈めていた。
エリシアは必死に弓を引き絞り、炎に照らされる敵兵の姿を的確に射抜いていく。
「負けません……!どうか皆さんを――!」
彼女の声が揺れながらも、矢は一筋の光となって敵を貫いた。
だが、炎と悲鳴に包まれるこの光景は、勝利とは程遠い。
倒れ伏す獣人達の姿、助けを求める子供の泣き声が耳を貫く。
「……ルミナ!」
胸がざわつき、息が荒くなる。
彼女は……まだ無事なのか?
「カケル!」
リリアの声で我に返る。新たな敵が影のように迫ってきていた。
「くそっ……!」
俺は闇の拳を握り直し、炎の渦中へ再び身を投じた。
炎と叫び声が渦巻く中、俺は必死に周囲を見渡していた。
◇ ◇ ◇
「……ルミナ!」
胸の奥を締め付けるような焦燥が声となって漏れる。
白いうさ耳も、元気に駆け回っていた姿も、どこにも見当たらない。
その時、視界の端で二人の人影が敵に囲まれているのが見えた。
「やらせるか!」
転移で一気に距離を詰め、闇の拳を叩きつける。
「ぐあっ!」
敵兵は壁にめり込み、呻き声を上げて崩れ落ちた。
続く一人の剣も、振り上げる前に俺の拳が顎を打ち抜き、白目を剥いて倒れる。
「おい、大丈夫か!」
声をかけた先には、ルミナの両親――昼間、俺を温かく迎えてくれたあの二人の姿があった。
母親は怯えた様子で胸に手を当て、父親は必死に庇うように前に立っていたが、かろうじて二人とも怪我は浅いようだった。
「た、助かった…ありがとうございます!」
父親が荒い息の合間に頭を下げる。
「ルミナは!?娘はどこにいる!?」
思わず声を荒げた俺に、母親は泣きそうな顔で首を横に振った。
「さっきまで一緒だったんです…でも、混乱の中で…どこかに…!」
喉の奥が冷たく凍る。
ルミナがこの炎と血の渦の中で、ひとり迷っている。
「……わかった、心配するな。必ず見つけ出す!」
そう言い切り、俺は二人にもう一度頷くと、再び駆け出した。
熱と煙に目を細めながら、ただひとつの願いを胸に。
絶対にルミナを見つけ出す。どんなことがあっても。
◇ ◇ ◇
煙と炎に覆われた集落の中を、俺はただ必死に駆け回っていた。
「ルミナ……どこだ! 返事をしてくれ!」
闇の拳で目の前の敵を吹き飛ばしながら、焦燥で胸が張り裂けそうになる。
どれだけ倒しても、心の奥の恐怖は消えてくれなかった。
その時――。
「お父さぁん!お母さぁん!」
泣き声が、かすかに耳に届いた。
俺の心臓が跳ねた。間違いない、ルミナの声だ!
「ルミナっ!」
叫ぶと同時に、拳を突き出して迫る兵を殴り飛ばし、必死に声の方へ駆け寄る。
炎の合間に、小さな白いうさ耳が見えた。ルミナだ――!
彼女も俺に気付いたのだろう、涙に濡れた瞳がこちらを見開き、小さな足で一歩、俺へと踏み出した。
「お兄ちゃ――」
耳を裂くような弦の音が響き、視界を横切る影があった。
次いで、赤い線が彼女の胸を走った。
「――あ」
掠れた声とともに、ルミナの身体がぐらりと傾き、伸ばしかけた小さな手が空を掴み、そのまま地面に崩れ落ちた。
「ルミナッッ!!」
頭が真っ白になる。
目の前の人間に拳を叩き込み、吹き飛ばした勢いのまま、俺は彼女のもとへ駆け寄った。
まだ小さな胸に突き立った矢から、血がにじみ出し、服を濡らしていく。
「ルミナ!しっかりしろ!」
腕の中で、小さな身体がぐったりとしている。
血が矢の根元からじわじわと溢れ出し、俺の手を濡らしていく。
「……おにい、ちゃん……」
かすかな声が唇から漏れた。震える指先が俺の服を掴もうとして、けれど力なく空をかいた。
「大丈夫だ!なんとかするから!絶対助けるからな!」
必死に声を張り上げる。だがどうしていいかわからない。
矢を抜くべきか、それとも止血を…頭が真っ白になり、手が震えて動かない。
心臓が喉から飛び出しそうだ。
焦燥と恐怖で、まともに思考が働かない。
「ルミナ!聞こえるか!?頼む、目を開けてくれ!」
呼びかけても、返ってくるのは血の匂いと、かすれた吐息だけ。
やがて――。
彼女の赤い瞳から、ゆっくりと光が失われていった。
「……いやだ……やめろよ……」
俺は首を横に振り、何度も何度も呼びかける。だがその小さな胸は、二度と上下しなかった。
「ルミナ!おい!返事をしろ!……頼むから……!」
喉が裂けるほど叫んでも、腕の中の少女はもう応えなかった。
腕の中で、ルミナの体はあまりにも軽くて、小さくて、冷たい。
呼吸は浅く、胸の動きはほとんど感じられない。
「……嘘だろ、なぁ……」
必死に呼びかける。揺さぶる。だが、その瞳からは光が消えかけていた。
――死んだ?
……まさか。そんなはずない。
助けるはずだった。守るはずだった。
なのに……なんで?
なんでだ?
なんで、なんで、なんで……!
頭の中で同じ言葉が何度も繰り返される。
止まらない。
脳の奥で鐘が鳴り響くみたいに、ただ「なぜ」という音だけが反響する。
俺が、弱いからか?
あの時、もっと速く走れたら?もっと強く斬れたら?
もっと力があれば?もっと早く気づけていれば?
……違う。
違うだろ。悪いのは――あいつらだ。
矢を放った奴ら、集落を燃やした奴ら。
俺から大切なものを奪った奴らが、全部……悪い。
気づけば、別の声が混じり始めていた。
――奪われたのだ。
――ならば、奪え。
――壊せ。滅ぼせ。
――殺せ。
――全て、闇に沈めろ。
俺の声か、それとも……闇の声か。もうわからない。
ただ、胸の奥に黒い感情が膨れ上がっていく。
憎い。
許せない。
全部殺せばいい。
殺せば、もう誰も奪わない。
理性の壁が音を立てて崩れ、心の内を漆黒が満たしていく。
「……殺す」
吐き出したその言葉は、もはや俺のものではなかった。
闇が囁き、支配する。
その瞬間、俺は――俺ではなくなった。
◇ ◇ ◇
――あれは……カケル?
私の視界に飛び込んできたのは、地面に膝をつき、小さな身体を抱き締めているカケルの姿だった。
駆け寄ろうと足を踏み出す――けれど、ふとした違和感に胸がざわつき、思わずその場で立ち止まった。
何かが…おかしい。
背中から漂う気配が、これまでとはまるで違う。
冷たい。重い。底知れない暗闇が、その影にまとわりついているようで。
カケルは腕に抱いた小さな亡骸を、まるで宝物を扱うように丁寧に地面へ横たえた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
――カケル……?
声をかけようとした。けれど、声にならなかった。喉の奥で掠れて消えた。
彼の周囲にいた人間達がこちらに気づき、一斉に襲いかかろうとした。
「カケル!」
私は加勢しようと駆け出した。だが、その必要はなかった。
彼は転移で一瞬にして敵の懐に入り込み、闇の剣を振るった。
刃は容赦なく人間達を斬り伏せ、その身体を血飛沫と共に地へ沈めていく。
……止めを刺すことをためらう素振りすらない。
彼の瞳には、ただ「殺す」という衝動だけが宿っていた。
「……っ」
胸の奥が締め付けられる。
目の前のそれが確かにカケルであるのに、カケルではないように思えた。
「カケル!やめて!!」
声を振り絞った。けれど、その背に届くことはなかった。
カケルは次々と転移を繰り返し、闇の剣を振るって人間達を斬り伏せていく。
悲鳴と血飛沫が飛び交うたび、私の胸の奥で何かが壊れそうになる。
背を向けて逃げ出そうとした人間の背中すら、彼は容赦なく断ち切った。
そこに「守るため」でも「戦うため」でもない――ただ冷徹な“殺意”しか感じられなかった。
「リリア!」
炎に照らされた仲間達が駆け寄ってきた。
「カケル、どうしたのよ!」
セレナが鋭く問いかける。
「……様子がおかしいの。あれは、カケルじゃない……!」
私は震える唇で答えるしかなかった。
仲間達はそれぞれ武器を構え、必死に後を追おうとした。
けれど、彼の動きはあまりに速く、まるで影そのものが飛び回っているかのように姿が掴めない。
「くそっ、追いつけない!」
ライアの声が焦りに滲む。
「このままじゃ……!」
エリシアの悲痛な声が炎の渦に呑まれた。
赤く燃え盛る炎の中で、カケルの影はなおも跳び回り、やがて――
その姿はゆらめく火の帳に飲み込まれるようにして、私達の視界から消えた。
「……カケル……!」
伸ばした私の手は、虚しく夜空に向けられたまま、何も掴めなかった。
炎に包まれた集落を、私達は必死に走り回った。
「カケル…どこに…!」
焼け焦げた木材の崩れる音、泣き叫ぶ声、鉄と血の臭いが入り混じり、胸が潰されそうになる。
煙に咳き込みながらも目を凝らすと、瓦礫の影に獣のような咆哮と剣戟が響いていた。
そこにいたのはライガだった。
数人の人間達に囲まれ、武勇を誇る彼でさえ劣勢に追い詰められている。
牙を剥き、必死に立ち向かってはいるが、次第に押されているのが一目でわかった。
「ライガ!」
思わず叫んだその瞬間、影が閃いた。
カケルが転移で現れ、容赦なく人間達を切り裂いていく。
目にも止まらぬ速さ、反撃の隙すら与えず、一撃ごとに血飛沫が炎の光を照り返した。
数息のうちに、周囲は屍で埋まり、赤黒い惨状が広がる。
「カケル……!」
胸が締めつけられる。これはもう、彼が知っているカケルじゃない。
ライガは荒い息を吐きながら、呆然とした顔で私に問いかけてきた。
「おい……リリア!あいつ、どうしたんだ!?殺さないって言ってたじゃないか!」
その声は怒りでも非難でもなく、純粋な困惑と恐怖が滲んでいた。
私は答えを探す間もなく、はっと悟る。
――これは、闇の力が暴走している。彼の意思が押し潰され、残滓が表に出ているのだ。
「……恐らく、力に呑まれているのよ。このままじゃ……!」
震える唇を噛み締め、私はライガの肩を強く掴んだ。
「ライガ、もし生存者を見つけたら、あなたも避難して!」
「だが…集落をこのままにするわけには…!」
ライガは私を振り払わんばかりに声を荒げた。
「いいから!ここにいたら、あなたも危険よ!私は――カケルを止めなきゃ!」
思わず叫んでいた。
ライガの瞳に驚きと迷いが交錯する。けれど、もう振り返っている暇はなかった。
炎の中、暴走するカケルの背を追って、私達はただひた走った。
◇ ◇ ◇
炎と悲鳴の渦巻く集落の中を、私達は必死に駆け回っていた。
「……いた!」
仲間の誰かの声に顔を上げたその先――そこには、闇を纏ったカケルの姿があった。
彼は、一人取り残され命乞いをしている人間を前に、無表情に立っていた。
「た、助け――」
最後の言葉は続かなかった。
カケルの剣が振り下ろされ、男の命をあっけなく断ち切ったからだ。
血が飛び散り、赤黒い跡が地を汚す。
その冷酷な姿に、私の胸は凍りついた。
「……カケル!」
思わず声を張り上げる。
カケルは、振り下ろした剣をそのまま下げたまま、しばし動きを止める。
血に濡れた瞳が、ゆらりとこちらを向いた。
炎に照らされるその顔は、見慣れた彼のものなのに、どこか遠く、冷たい。
――届いて。私の声。
沈黙が落ちる。
仲間達も息を呑み、ただカケルの返答を待っていた。
だが次の瞬間。
影のように揺らいだかと思えば、カケルの姿が掻き消える。
気づいたときには、もう目の前に転移していた。
「――っ!」
振り下ろされる闇の刃。狙いは、私。
咄嗟に身を固めた瞬間、鋭い金属音が響いた。
「カケル!目を覚ませぇっ!!」
ライアが、目の前に飛び込み、剣でその一撃を受け止めていた。
闇の剣とライアの剣とが激しく火花を散らし、地面にまで衝撃が伝わる。
ライアの額に汗がにじみ、必死に歯を食いしばる姿がそこにあった。
私はただ、凍りつくような想いで、二人を見つめるしかなかった。
ライアとカケルの剣が激しくぶつかり合う。
刃と刃が火花を散らし、耳をつんざく音が響くたびに、私は胸の奥がざわめいた。
ライアは両手で必死に剣を振るっているのに、カケルは片手で軽々と受け止め、押し返していく。
「はぁっ!」
「くっ……!」
ライアの必死の声が、聞くに堪えないほどに苦しい。
次第に押し込まれていくのが目に見えてわかった。
「くっ……この力!」
ライアの呻きと共に、カケルの左手に黒い闇が集まっていくのが見えた。
「ライア、危ない!」
叫んだ瞬間にはもう遅かった。
「ぐああっ!」
闇を纏った拳がライアの腹に直撃し、鈍い衝撃音と共に彼女の身体が吹き飛んでいった。
「ライア!」
地面に転がるライアを見て、思わず声が出る。
その叫びを背に、エルザが大槌を振りかざして突進していった。
ガキィン!
なんとカケルはその巨槌を片手で受け止めた。
信じられない光景に、エルザの顔が強張る。
「……っ!?」
彼は笑うこともなく、淡々と闇の剣を振り上げた。
黒い刃が唸りを上げ、エルザへと振り下ろされようとした瞬間。
「――させるかぁっ!」
横から飛び込んだトーラが、全身をぶつけるようにタックルを仕掛けた。
角と筋力を活かした渾身の一撃。
「ふんぬぅぅっ!」
重い衝撃音が響き、カケルとトーラの巨体が地面を抉るように倒れ込む。
砂埃が舞い上がり、視界が一瞬白く曇った。
私は胸を押さえた。
――これが、本当にカケルなの?
目の前で暴れる彼の姿に、信じたくない現実が突き刺さってくる。
倒れ込んだカケルとトーラが、地面に土煙を上げながらもみ合っていた。
「目を覚ましやがれ!」
トーラは拳を振りかざし、カケルの正気を取り戻させるかのように殴りかかろうとした。
――ヒュッ。
闇を纏った手刀が鋭く閃き、トーラの喉元を抉るように突き刺さった。
「ぐぉっ……!」
獣のような呻きと共に、トーラは悶絶し、馬乗りの体勢を崩して地面に転がる。
その隙を逃さず、カケルはゆらりと立ち上がった。
闇がその身を這い、炎の光に照らされてなお、不気味に蠢いている。
「頭を冷やしなさい!――アイシクルランス!」
セレナの叫びと同時に、鋭利な氷槍がカケルへと飛ぶ。
空気が張り詰め、凍りついたような緊張感に胸が痛んだ。
けれど彼は無言で転移を繰り返す。
霧のように消えては現れ、氷の槍などなかったかのようにすり抜けていく。
ゆっくりと、けれど確実に、セレナへと迫っていた。
「くっ……!」
セレナの額に滲む汗。彼女の魔法が通じないなんて、信じられなかった。
「止まりなさい!」
セレナは必死に声を張り上げ、蛇髪がざわめいた。
黄金の魔眼が怪しく光を帯び、石化の力が解き放たれようとする。
けれど、彼の姿はまたも霧のように掻き消えた。
「――っ!後ろ!?」
セレナが振り返る間もなく、闇を纏った剣閃が背を裂かんと迫る。
「…光よ!」
エリシアの張り詰めた声が響いた。
放たれた矢は聖なる輝きを帯び、真っ直ぐに彼へと飛んでいく。
でも、カケルは片手でそれを掴み取り、易々と握り潰してしまった。
「そ、そんな……!」
蒼白になるエリシアの顔が視界に映る。
彼女の矢はまるで子供の遊び道具のように握り潰されていく。
カケルは首をぐるりとエリシアへ向けると、彼の手から闇の剣が投げ放たれた。
「きゃっ!」
咄嗟に身を伏せたエリシアの頭上を、黒き刃が唸りを上げて通り過ぎ、地面に突き立った。
そして彼は、振り返ったセレナへと襲いかかった。
闇を纏った蹴りが脇腹を打ち抜き、彼女の身体は無惨に地へ叩きつけられる。
「あぐっ……!」
セレナが苦痛の声を上げるのを、ただ見ているしかなかった。
カケルはさらに転移でエリシアの前に現れ、再び闇の剣を生み出す。
「カケル…さん…」
震える声で呼びかけるエリシア。だけど返事はない。そこにあるのは、冷たい光を宿した赤い瞳だけ。
怖い……。私だって、声が出ないほどに。
彼女の前に振り下ろされようとするその刃を、ただ見ているしか――。
「そこまでだ!」
ヴァネッサの鋭い声が割り込む。
彼女は影のように飛び込み、カケルの手首を掴んで剣を逸らす。
その動きは優雅で、強靭で、そして決然としていた。
「カケル…!我らを敵に回すつもりか」
私は唇を噛みしめた。止めなければ。なのに、どうして――声が、届かない。
ヴァネッサの動きはまるで舞のように滑らかだった。
鋭い剣筋を紙一重でいなし、細い腕で受け流す。
その姿は気高く、まるで優雅に獲物を弄ぶ黒豹のようだった。
「…ふん、やるではないか」
ヴァネッサの紅の瞳がわずかに細められる。
ゴッ、と空気を裂く音がした。
カケルの闇がふくらみ、常識を超えた膂力を纏った剣撃が放たれた。
「――ッ!」
ヴァネッサの身体が宙を舞う。
華奢な体が炎に照らされながら地面を転がり、土煙と共に咳き込んだ。
「くっ…これほどとは…」
私は思わず駆け出しそうになる。だが、足が震えた。
あのカケルが……ヴァネッサすらもこうして押し返してしまうなんて。
立ち上がろうとするヴァネッサの前に、闇を纏ったカケルが音もなく迫る。
その剣先は、今まさに彼女の喉を貫かんとして。
私は、気づけば走り出していた。
「――やめて!!」
燃え盛る炎の中、ただひたすらに腕を伸ばす。
カケルの剣先がヴァネッサの喉元に迫る、
その瞬間に、私は自らの身体を盾のように差し出した。
刃が私の眼前で止まる。
間近で見るカケルの瞳は、深い闇に呑まれていて、そこにあったはずの優しさの欠片すら見つけられない。
胸が痛い。息が詰まる。
「カケル…!お願い、目を覚まして!!」
必死の声は、炎の轟音にかき消されそうになりながらも、確かに彼に届いたはずだった。
一瞬、闇の中で何かが揺らいだ。
剣先がわずかに震え、彼の唇がかすかに動く。
「……リリア」
私は思わず息を呑んだ。
だが、次に響いたその声は、私の知っているカケルの声ではなかった。
低く、濁り、耳の奥をざらつかせるような、不気味な響き。
背筋に氷が這い上がる。
――これは、カケルじゃない。
違う何かが、彼の口を借りて、私の名を呼んでいる。
「余だ……」
ぞわりと空気が震える。
「余の名はヴァルギルス。かつて魔を統治していた、真なる魔王…」
目の前のカケルの瞳は、もはや彼自身のものではなかった。
紅い光が揺らぎ、深淵そのものの輝きが私を射抜く。
「カケル…?」
思わず名前を呼んでも、返ってきたのは冷酷な嗤いだった。
「ふふ…その名はもう虚ろな器にすぎぬ。リリアよ。余を覚えているか?」
耳の奥をざらつかせるような低い声が、燃え盛る炎の中に響いた。
カケルの口が動いているはずなのに、そこに彼の面影はどこにもなかった。
闇に呑まれた瞳が、紅い光を帯びて私を射抜く。
全身の血が凍るような錯覚に陥る。
「……忘れもしないわ。仕えていたもの」
唇が震えそうになるのを必死に抑え、私は睨み返した。
心臓は早鐘のように鳴り、握りしめた拳が白くなるほど強張っている。
過去に従った記憶、あの闇の王の姿が蘇り、吐き気にも似た恐怖が込み上げた。
「余への敬意は、忘れているようだがな」
その声は冷たく、重い枷のように胸にのしかかる。
言葉ひとつで、かつて自分が縛られていた日々の絶望が蘇る。
「今はアビス様に仕えているからね。それに……」
私は息を整え、燃えるような痛みを押し殺して吐き出す。
「あんたは、あの人の命を――」
「ああ、あの勇者か」
愉悦を含んだ声が、炎の轟きに重なり私を嘲弄する。
ヴァルギルスはわざとらしく口角を吊り上げ、嗤った。
「お前が愛したという、あの男のことだな」
胸の奥が強く締め付けられる。凍りつくような痛みが、心臓を鷲掴みにした。
「……知っていたの?」
「当然だ。愛ゆえに、お前は奴の命を奪えなかった」
ヴァルギルスの声は冷酷で、響くだけで心を削り取られるようだった。
「全く、下らん感情だ。おかげで余は奴に深手を負わされたのだから」
紅に染まった瞳が細まり、燃えさかる業火よりもなお濃い闇を宿す。
血の気が引いていく。胸が張り裂けそうになる。
カケルの顔を借りて、彼が私の最も大切な記憶を嘲笑する――それが何よりも耐え難かった。
「しかし、余は新たな肉体を手に入れたのだ!」
ヴァルギルスの声が炎の轟きに重なり、耳を貫いた。
闇に包まれたカケルの姿が、まるで別人のように見える。
あの温かな背中が、今は恐ろしく冷たい影に覆われていた。
「リリアよ。もう一度余に仕えぬか?この肉体なら、貴様も満足であろう?」
低く嗤う声とともに、紅の瞳が私を射抜く。
その目には、かつて私を縛り付けた圧倒的な支配と嘲笑があった。
そして、その口から吐かれる言葉は、あまりにも冒涜的だった。
「……お断りよ!カケルを――彼を返して!」
込み上げる恐怖を押し殺し、私は叫んだ。
胸の奥から溢れ出る叫び。
彼の名を呼ぶ声は震え、涙に滲んでいた。
けれどヴァルギルスは、愉快そうに嗤うばかりだった。
「はっはっは!それは出来ぬな!」
カケルの声色を借りながらも、そこに彼の優しさは欠片もない。
「この男の肉体と魂は余が支配した!もうこの男は戻っては来ぬ!」
その言葉が胸に突き刺さる。
「そんな……」
膝が崩れ落ちそうになる。心の奥底から冷たい闇が這い上がり、呼吸すら奪っていく。
信じたくなかった。愛した人が、もう戻らないだなんて。
けれど、目の前の“彼”は確かにそう告げていた。
「余に忠誠を誓えぬのなら、仕方あるまい。ここで死んでもらおう」
その声は深い奈落から響くようで、耳の奥を震わせた。
ヴァルギルスの手に握られた闇の剣が、ゆっくりと持ち上がる。
炎に照らされてなお光を拒むその刃は、漆黒に染まりきっていた。
その先端が私に向けられた瞬間、胸の奥に冷たい鉄の杭が打ち込まれたような感覚が走った。
――怖い。
心臓が潰れそうなくらい早鐘を打ち、喉の奥から声すら出ない。
逃げなければと思うのに、身体は凍りついたように動かない。
目の前にいるのは、愛しい人の顔をした“闇”。
その矛盾と絶望に、心は千々に乱れていた。
「その魂、余に捧げるが良い!」
宣告のような声と共に、剣が振り下ろされる。
迫りくる暗黒の輝きに、私は反射的に目を強く閉じた。
刃が身体を貫く感覚を覚悟し、ただ心臓の鼓動だけが世界を支配する。
「リリア!」
「リリアさん!」
ヴァネッサとエリシアの声が必死に届く。
けれど耳に入っても、私の足は動かない。
全身を絡め取るような恐怖が、命を燃やす意志すら奪っていた。
――死ぬ。ここで私は、終わる。
ギィィィンッ!
耳を劈く金属音が響いた。
衝撃波のような風が頬を打ち、炎の唸りをかき消す。
……痛みは、来ない。
恐る恐る瞼を開けると――そこにいたのは。
「……っ!」
炎の中、堂々と立ちはだかる一つの影。
漆黒の衣を翻し、絶対の威圧感を纏う背中。
その存在は、燃えさかる地獄の只中にあってなお、揺るぎなかった。
重厚な威厳と圧倒的な力の気配が空気を支配していく。
剣を構えたその姿は、決して折れぬ大樹のように荘厳で、同時に恐ろしくも美しかった。
「アビス……様……」
唇が震え、声にならないほどの衝撃が胸を突き抜けた。
絶望に沈みかけた私の世界を、ただ一人で支えるような存在。
そう、私の目の前に立っていたのは、魔王アビス様だった。
そして、振り返ることなく告げられたその一言が、世界を震わせた。
「――余の眷属に、指一本触れさせんぞ」




