闇の誘い、過去が紡ぐ絆③
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年。
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
――そして、時は流れて。
ついに六龍の会合の日が訪れた。
白龍の守り人に導かれ、俺達は街を離れ、森を抜け、やがて人の営みから隔絶された山間へと辿り着いた。
そこに聳え立っていたのは、純白の大理石で築かれた荘厳な神殿。
その気配はただ立ち尽くすだけで息を呑むほど厳かで、人の手で築かれたものとは思えない“理の空間”だった。
だが、その門をくぐれる者は限られていた。
守り人に告げられたのは――神殿に入れるのは俺とリリアだけ、ということ。
「なっ、どうしてだよ!」
ライアが声を荒げたが、白龍の守り人は冷静に答える。
「これは龍と龍、そして選ばれし者のみが立ち会う場。外の者は待機していただきます」
仲間達は渋々頷きつつも、不安そうな眼差しを俺に向けてきた。
その視線を背に受けながら、俺とリリアは並んで神殿の奥へと足を踏み入れた。
重苦しい扉が軋みを立てて閉ざされると同時に、外界との繋がりが断たれる。
神殿の奥――広大な円形の広間。
白亜の柱が天へと伸び、壁に刻まれた古の紋様が淡い光を放っていた。
広間には六つの席が円を描くように配置され、そのうち五つに人型の龍が座していた。
紅蓮を纏う赤龍、深海の静謐を漂わせる青龍、
堅牢な大地を思わせる黄龍、翠の風を纏う緑龍、そして雪のごとき気配を放つ白龍。
それぞれの傍らには守り人が静かに立ち、主を護る影のように寄り添っている。
ただ一つ、黒龍の席だけが空いていた。
守り人の姿すらなく、その空白は円陣の調和を欠き、場を一層重苦しくしていた。
そして俺とリリアは――白龍の守り人の隣に立たされていた。
龍と守り人の完全な組み合わせの中で、ただ二人だけ異質な存在として。
注がれる視線の重みは、まるで肉体をも押し潰すかのようだった。
「おい、白龍!これは何の真似だ!」
烈火のような声が広間に響き、静けさを切り裂いた。
円座に座す龍達の中でもひときわ気性の激しい赤龍が、椅子から半ば立ち上がる。
紅蓮の髪が揺らめき、その身から噴き出す熱が空気を歪ませていた。
白龍は微動だにせず、ただ黄金の瞳を細める。
「何のことでしょう」
「とぼけるな!この会合に人間と、魔物娘を同席させるなんて、前代未聞だぞ!」
赤龍の怒声が再び炸裂する。
周囲の守り人たちも一瞬、警戒するように姿勢を正した。
その圧に、思わず息を詰める。
俺とリリアは白龍の守り人の傍らに立っていたが、燃え盛る赤龍の視線が突き刺さるように鋭く、
ただ立っているだけで心臓を鷲掴みにされたかのように鼓動が早まる。
それでも白龍は穏やかな声を保ち、言葉を返した。
「彼らは、私が招きました。これは必要あってのことです」
「ふざけんな!とっととつまみ出せ!」
火焔を吐きそうな勢いで怒鳴りつける姿は、激情そのものだった。
広間の空気が熱を帯し、張り詰めていく。
その中で、白龍は静かに赤龍を見据える。
その瞳は、燃え盛る炎をも凍らせるように揺らぎなく澄んでいた。
「赤龍――私が信用できないのですか?」
「……っ」
赤龍の口が詰まる。激情と理が真正面からぶつかり合い、広間の空気は凍り付いたように動きを止める。
白龍はすぐさま言葉を重ねた。
「彼らの存在は無意味ではありません。私が保証します」
周囲の龍達が息を潜める中、その言葉は理として場に刻み込まれた。
赤龍は舌打ちを響かせ、荒々しく腰を下ろす。
「チッ……好きにしろよ」
再び静寂が広間を覆う。
だが、その静けさは安らぎではなく、嵐の前に張り詰めた緊張に満ちていた。
ややあって、青龍が小さく吐息をつく。
「…相変わらず短気ね。場を焦がしても、理は揺らがないのに」
その声音は静かで冷ややかだが、わずかに皮肉が滲んでいた。
黄龍は腕を組み、低く唸るように言葉を漏らす。
「人間をここに連れてくるなど…確かに尋常ではない。だが、白龍がそこまで言うなら、耳を傾ける価値はあるか」
重く響く声には慎重さと責任感が宿っていた。
緑龍は小さく笑みを浮かべ、視線をこちらに向ける。
「面白いじゃない。龍の座に人が並ぶなんて、めったに見られない光景だもの」
その声音には柔らかさと好奇の入り混じった色があった。
三者三様の反応が飛び交い、再び沈黙が広間を覆う。
緊張の空気が落ち着いたところで、俺は一歩前に出て口を開いた。
「…白龍様、本当に黒龍は来るんでしょうか」
声に出した瞬間、自分でもわずかに震えが混じっているのに気づいた。
黒龍――その存在の不気味さが、この場に影を落としている。
白龍は静かに俺へと視線を移す。その瞳は、炎にも氷にも揺るがない確信を宿していた。
「確かに、黒龍はこれまで会合を避け続けてきました」
広間に一拍の沈黙が落ちる。
白龍は言葉を区切り、わずかに瞼を閉じると、淡く揺れる声で続けた。
「しかし今回は違います。あなたの存在があるから」
「……俺の?」
「そう。カケル、あなたの内にある“闇”を黒龍はすでに感じ取っている。その力に惹かれ、必ずやこの場に現れるでしょう」
広間の空気が張り詰め、周囲の守り人たちが無言で姿勢を正した。
赤龍の紅の瞳が険しさを増し、青龍は沈黙のまま鋭い視線をこちらに投げる。
黄龍は重々しく目を伏せ、緑龍だけが興味深げに口元に笑みを浮かべていた。
白龍は一呼吸置き、広間をゆっくりと見渡した。
「……さて、本来の議題に移りましょう」
その声音は穏やかでありながらも、全員の耳を確かに打つ響きを持っていた。
「我ら六龍が集う理由――それは、人と龍の在り方を改めて議するためです」
「言うまでもねぇ。人間と関わりすぎれば、いずれ龍は堕落する。距離を保つべきだ」
赤龍は椅子に背を預け、苛立たしげに腕を組んだ。
「それは短絡的ね。互いに隔て続けてどうするの?理解を深め合わなければ共存は望めない」
すかさず青龍が瞳を細めて言葉を返す。
「共存だと?人は脆弱で移ろいやすい。我らが寄り添えば寄り添うほど、均衡が乱れるだけだ」
黄龍は低く唸りながら、重々しい声を広間に響かせる。
「けれど、互いに歩み寄る姿は美しいわ。森も人の手が加わることで息を吹き返すことがあるもの」
緑龍は柔らかな微笑を浮かべ、ひらひらと手を広げてみせる。
言葉が交わされるたびに、広間の空気が波立っていく。
炎と水、大地と緑――それぞれの理がぶつかり合い、円形の広間に見えない火花が散る。
俺とリリアはただ黙ってその議論を見守るしかなかった。
けれど心の奥では、これが単なる言葉の応酬ではなく、世界の行く末を決める重みを持っていることを痛感していた。
議論はしばし続いた。
赤龍は拳を打ち鳴らし、青龍は冷ややかに反駁し、
黄龍は重い沈黙の中で慎重さを崩さず、緑龍は柔らかな言葉で宥めるように応じる。
やがて白龍が片手を軽く掲げると、広間に静けさが戻った。
「――皆の意見、確かに聞き届けました」
その声音は理を宿し、熱をも冷たさをも打ち消す響きだった。
白龍は視線をこちらへと向ける。
「ですが…今回の会合には、もうひとつ大きな意味があります」
龍達の注目が一斉に俺とリリアへ注がれる。
背筋に冷たいものが走り、思わず拳を握りしめた。
「彼――カケルを、ここに紹介しましょう。人の身でありながら、闇を宿し、龍にも拮抗し得る力を持つ者」
ざわめきが広間を駆け抜ける。
赤龍は椅子を軋ませ、黄龍は重く眉をひそめ、青龍と緑龍は興味深げに瞳を光らせた。
白龍の瞳が、静かに彼らの反応を受け止める。
「黒龍の存在は、もはや座して見過ごすことのできぬ脅威です。だからこそ彼の力を借り、あの闇を封じねばなりません」
広間の空気が一層張り詰める。
赤龍の紅の瞳がギラつき、低く吠えるような声が響いた。
「白龍…てめぇ、本気で言ってんのか?」
赤龍の声はすぐに爆ぜる炎のような怒気に変わる。
「ふざけるな!人間を頼るだと?俺達六龍の力で事足りるはずだ!そんな真似、我らの誇りを汚す行為だろうが!」
その言葉は炎のように荒々しく、広間の空気を灼き尽くすかのようだった。
黄龍は腕を組んだまま、重く口を開いた。
「…白龍の言葉も理解できる。だが、軽々しく賭けに出る話ではない。黒龍の闇は計り知れぬ。人間一人を巻き込めば、その命が潰える可能性すらある」
声には激情ではなく、岩のような慎重さと警戒がにじんでいた。
青龍は鋭い瞳で俺を射抜き、薄く唇を歪めた。
「…人間にそこまでの力があるのか、まだ疑わしいわね。ただ興味はある。黒龍に挑む覚悟が本物かどうか、確かめる価値はあるわ」
冷ややかな声音には理と試すような好奇が入り混じっていた。
緑龍は静かに笑みを浮かべ、頬杖をつきながら俺を見つめていた。
「面白い…。人と龍が並び立ち、闇を退けるなんて、まるで物語みたいじゃない。私は賛成よ。少なくとも、この目で見てみたいわ」
その声音は柔らかくも、根底には純粋な探究心が滲んでいた。
四者四様の反応が交錯し、広間は再び熱と緊張に包まれる。
俺はただその視線を一身に浴び、喉の奥が乾くのを必死に押し殺していた。
四方から注がれる龍達の視線が、刃よりも鋭く俺を貫いてくる。
思わず息を詰めたその瞬間――隣に立つリリアの指先が、そっと俺の袖を掴んだ。
振り向かなくても伝わる。
彼女の指先はわずかに震え、その握りは強張っていた。
龍達の言葉に、不安が募っているのは明らかだった。
「…カケル、大丈夫?」
声は囁きに近く、けれど切実さが滲んでいた。
「心配するな。俺は大丈夫だ」
俺はわざと笑みを作り、肩をすくめる。
それでもリリアは視線を落としたまま、小さく首を振った。
その横顔には、誰よりも俺のことを案じる気持ちが露わに浮かんでいた。
俺はほんの一瞬だけ拳を握りしめる。
――この戦い、俺一人のものじゃない。
リリアが隣にいる、そのことだけが胸の奥を支えていた。
議論の余韻がまだ空気に残る中――突如、広間を満たす空気が変わった。
冷たい闇の気配が、静かに、けれど確実に忍び寄る。
燭台の炎が小さく揺れ、淡い光が掻き消されるようにしぼんでいく。
「……来ましたね」
白龍が静かに告げた瞬間、広間の空気が震えた。
円卓に並ぶ椅子のうち、ひとつだけ空いていた席――そこに、突如として闇の波動が渦を巻き始める。
黒い霧が立ち昇り、燭台の灯火を覆い隠すかのように広がった。
やがて、その闇の中から二つの影が現れる。
ひとりは、漆黒のドレスを纏った無邪気な微笑みの少女。
もうひとりは、白銀の髪をなびかせ、鋭いレイピアを腰に佩いた守り人。
俺は思わず息を呑んだ。あの横顔を、俺は知っている。
夕暮れの街で、ほんの一瞬視線を交わし、『その力…何者?』と呟いた女だ。
間違いない。あの時、群衆に紛れて姿を消したのも、この女――黒龍の守り人だったのか。
胸の奥がざわつき、背筋を冷たいものが走る。
彼女の瞳が再び俺に注がれている気がして、思わず視線を逸らした。
そして俺は黒龍そのものに目を向ける。
年若く見える体躯に、夜そのものを編んだような黒衣のドレスをまとい、漆黒の髪は肩先で揺れ、光を吸い込むかのように艶めいている。
その額には優美な曲線を描く黒い角が伸び、腰のあたりからは艶やかな黒い尻尾が覗き、しなやかに揺れていた。
顔立ちは幼さを残しているはずなのに、微笑む唇の曲線には年齢を超えた妖艶さがちらついていた。
背にはうっすらと影のような翼が広がり、白い肌との対比が不気味なほど美しい。
赤く染まったような深紅の瞳を宿し、視線を交わしただけで、心の奥を覗かれているような錯覚に陥る。
――まるで、無垢な少女と魔性の女を一つの器に閉じ込めたかのよう。
その二律背反の気配が、広間に漂う空気を凍りつかせていた。
その無邪気な笑みの奥に潜むものは、形容しがたい不快感だった。
闇の淀みのように、触れるだけで心を蝕まれそうな気配。
見ているだけで、胸の奥に黒い靄が染み込んでいくようで――嫌な寒気が全身を這い上がってきた。
広間が一瞬にしてざわついた。
「まさか…本当に姿を現すとは」
青龍が静かに呟き、その蒼の瞳が鋭さを増す。
「気まぐれにも程がある…何を企んでいる」
黄龍は顔をしかめ、低く吐き捨てる。
緑龍はわずかに眉を寄せつつも、観察するように黙し、鋭い眼差しだけを黒龍へと注いでいた。
赤龍は立ち上がり、怒りを隠そうともせず声を張り上げる。
「黒龍!テメェが会合に顔を出すなんて、何百年ぶりだ!」
龍達の声が交錯し、荘厳だった広間は一気に騒然とした空気に変わる。
だが当の黒龍は気にも留めず、楽しげに椅子の肘掛けに頬杖をつき、ただ無邪気に笑っている。
「…相変わらずですね、黒龍」
白龍の澄んだ声が、騒然とした空気を静かに切り裂いた。
その声音には怒りも動揺もなく、ただ冷ややかな観察が宿っていた。
黒龍はちらりと白龍に目を向けると、面白そうに口角を上げた。
「ふふ、白龍。あなたも相変わらず“つまらない”わね」
広間のざわめきが一瞬だけ収まり、緊張が張りつめる。
そして――紅の瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いた。
その視線は広間の喧噪を一瞬で消し去り、俺の心臓を氷の手で鷲掴みにする。
「…ふふ。貴方が“力”を持つ人間ね?」
「俺を…知っているのか?」
ぞわりと背筋に冷たいものが走る。
「ええ。私の守り人の目を通して――はっきりと、ね」
黒龍は楽しげに唇を歪め、ちらりと隣の白銀の守り人へと視線を流した。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に夕暮れの光景が甦る。
やはり、あれは偶然ではなかったんだ。
「ねぇカケル…あなた、私の守り人になりなさい」
黒龍の甘く響く声が広間に落ちた瞬間、場が一気にざわめきに包まれた。
「…なんだって?」
俺は思わず息を詰める。
……何を言ってるんだ、彼女は。
ここにいるのは彼女を弱らせ、封印するため。
白龍に頼まれて、それを承知でこの場に立っている。
なのに――よりにもよって当の本人に守り人として誘われるなんて。
「黒龍…自分が何を言っているかおわかりですか?」
白龍の瞳が鋭く光り、冷然と問いただす。
だが黒龍は椅子の肘掛けに頬杖をついたまま、無邪気に笑った。
「あなたこそ、わかってないのね?私はこの子を――勧誘してるの~」
「勧誘だと…!?なぜこんな人間を!理由を言え!」
赤龍が身を乗り出し、炎のような気迫で声を荒げる。
「も~、みんな鈍いのね」
黒龍は愉快そうに肩をすくめ、わざと一語ずつ区切って言葉を落とした。
「この子に流れている――チ・カ・ラ」
彼女の瞳には心臓を掴まれるような圧が込められている。
全身が冷たい汗に包まれた。
「“力”を持った彼が、私の守り人になったら…素敵じゃない?」
黒龍は椅子に身を預け、指先で頬をつつきながら無邪気に笑った。
「黒龍様!それでは、私との契約はどうなるのですか!?」
白銀の守り人が声を張り上げる。その顔は蒼白で、必死に縋るような眼差しだった。
「え~?それはもちろんなくなるでしょうね~」
黒龍は悪びれもせず、歌うように答える。
「そ、そんな…!なぜですか!?」
声が震え、守り人の手が腰のレイピアを握りしめる。
「だって~。貴女より、あの子の方が――ぜーったい強いもん」
「そんなはずありません!どうかお考え直してください!お願いですから!」
守り人の叫びは必死で、その声には切実な恐怖すらにじんでいた。
「あ~あ、もうめんどくさいわねぇアンナロッテ」
黒龍は軽く手を振り、退屈そうに肩をすくめる。
「だったらこの場で戦ったらいいじゃない!あの子に勝てたら、守り人を続けていいから」
広間の空気が一瞬で凍りついた。
挑発とも裁定ともつかぬ黒龍の言葉に、誰もが息を呑む。
「待て、黒龍!ここは六龍の会合の場だぞ!人間を巻き込むなど――!」
赤龍が席を蹴って立ち上がり、卓を叩くように声を張り上げた。
「…赤龍、静まりなさい」
白龍の冷ややかな声が割って入り、場のざわめきを鎮めていく。
「…黒龍がこの場でそう言うのならば、私から否を唱える理由はありません」
白龍はゆるやかに顎を上げ、黒龍を正面から見据えた。
黄金の瞳と紅の瞳が空中で交錯する。
互いに一歩も退かぬ視線のぶつかり合い。
だが白龍の眼差しはあくまで冷ややかで、理の衣をまとったまま揺らぐことはない。
「守り人としての在り方を示すのは、契約を結んだ者の責務。この場で証明できるのなら、それもまた理に適うでしょう」
白龍はそう告げると、ふと視線を俺に移した。
冷静さの奥底に、確かな光――期待と信頼がわずかに宿っているのを、俺は見逃さなかった。
その眼差しに応えるように、俺は小さく頷いた。
円卓から身を離し、静かに前へ進み出る。
右手をかざすと、闇が渦巻き、馴染んだ感触が掌に集まっていく。
やがて黒い刃が形を成し、闇の剣が俺の手に収まった。
対するアンナロッテも、鋭い眼光で俺を睨み据えた。
腰のレイピアを一閃、鋼の音を立てて抜き放つ。
そして俺と一直線に向かい合う位置に立つと、その瞳に決死の光を宿す。
「黒龍様……!必ず証明してみせます!」
彼女の声が響いた瞬間、広間の空気が張り詰めた。
「はぁぁっ!」
床を蹴る硬質な音が響いた。
アンナロッテが矢のように間合いを詰め、レイピアの切っ先が閃光となって迫る。
「っ――!」
俺はとっさに闇の剣で受けるが、細剣の鋭さは想像以上だった。
鋭い連撃が畳みかけるように押し寄せ、刃が頬をかすめる。
熱い痛みが走り、血の匂いが鼻に広がった。
すかさず二撃目、三撃目――肩、腕へと切り裂くように襲いかかる。
必死に身を捻って避けるも、浅い傷が増えていくばかりだった。
「ちっ…速いな。――けど」
焦燥の中で、ふと脳裏に浮かぶのはライアとの剣戟。
あの時の重みのある一撃一撃に比べ、今の細剣はより速く、鋭い。
だが、だからこそ軌道を読む手掛かりもある。
「死ねええええええ!」
アンナロッテの叫びと共に、渾身の突きが迫る。
刃が閃光のように迫り、俺は紙一重で回避、懐へ潜り込んだ。
(…力を抑えなくちゃ)
拳に闇が集まっていく感覚に、胸がざわつく。
一瞬でも気を抜けば、暴走の兆しが牙を剥く恐怖が頭をよぎった。
「はぁっ!」
闇を纏った拳がアンナロッテの腹部を撃ち抜いた。
「うぐっ…!」
鈍い衝撃と共に彼女の身体が吹き飛び、床を転がる。
腹を押さえ、嗚咽を漏らしながら、それでも必死に立ち上がろうと震える姿に、俺は息を呑んだ。
「きったなぁ~い。貴女、私の顔に泥を塗る気なの~?」
黒龍が無慈悲なまでにくすくすと笑う。
その声音は楽しげでありながら、アンナロッテを突き放す冷たさしか宿していなかった。
床に倒れ込み、苦痛に顔を歪めながらも、アンナロッテは腹を押さえたまま震える腕で地を突いた。
「……まだよ!」
吐き出す声は苦痛に濁っているはずなのに、そこには狂おしい熱が混じっていた。
血に濡れた唇を吊り上げ、よろめきながらも立ち上がる。
その瞳が俺ではなく――黒龍を真っ直ぐに捉えている。
「黒龍様の隣に立てるのは…この私だけ…」
呟きは祈りというよりも、執着に塗れた宣告。
「誰にも渡さない…決して、奪わせはしない…!」
震える腕でレイピアを再び構え、その切っ先を俺に向ける。
だが突き刺すような視線の奥に宿っているのは、俺への憎悪ではなく、黒龍との繋がりを失うことへの狂気そのものだった。
アンナロッテはレイピアをこちらに向けて構えると、ふいに全身を黒い瘴気が包み始めた。
ぞわり、と背筋を這い上がる悪寒。
瘴気は剣にまとわりつき、刃の輪郭を揺らめかせる。
(……来る!)
俺は身構えた。間合いを詰めて斬り込んでくる――そう思った。
だが、彼女はその場に立ったまま、レイピアを突き出した。
「――っ!」
咄嗟に身を捻って回避した…はずだった。
直後、鋭い衝撃が右肩を貫く。
「ぐっ……!」
焼けつくような痛みが走り、思わず膝をつきかけた。
視線を走らせると、俺と彼女の間には確かに距離がある。
剣先は届くはずもないのに何故、貫かれた?
その答えは、剣から迸る黒い瘴気にあった。
それは闇の光線となって空間を裂き、俺の肩へと突き刺さっていたのだ。
しかも、俺が避けた方向と逆に、光線が曲がって伸びている。
軌道そのものが瘴気によって歪められ、直前まで予測できないようになっていた。
「……くそっ、これじゃ!」
理不尽なほどの追尾に、背筋を冷たいものが走る。
「殺す!殺すッ!」
アンナロッテが絶叫し、黒い瘴気を纏ったレイピアを振るう。
光線の雨が空間を裂き、逃げ場を削り取る。
「ぐっ――!」
肩、脚、脇腹…次々と突き刺さる痛みに、息が詰まった。
致命傷だけは必死に防いでいるが、このままでは削り殺される。
(…賭けるしかない!)
血に濡れた身体を引きずるように、意識を闇へと沈める。
次の瞬間、俺の姿は霧のように掻き消えた。
「――なっ!?」
アンナロッテの瞳が驚愕に見開かれる。
振り返った時には、すでに俺は目の前にいた。
「これで…終わりだッ!」
闇を纏わせた拳をみぞおちに叩き込む。
「――ぐっ…黒龍、さま…っ」
彼女は嗚咽を漏らし、大きく仰け反ると、そのまま力なく崩れ落ちた。




